安倍首相の中国訪問

2006.10.10

10月8日、安倍首相は中国を公式訪問し、中国の3トップ(胡錦涛、温家宝、呉邦国)と相次いで会見・会談をしました。日中関係の改善で一致し、共通の戦略的利益を共有する「戦略的互恵関係の構築」で合意しました。

今回の訪中がこのような結果に終わったことをどのように評価することが求められるでしょうか。私の分析を紹介したいと思います。

1.安倍訪中の実現を可能にしたもの

私は、10月7日の朝日新聞が報道した日中首脳会談決定の舞台裏に関する記事が大きなヒントを与えていると思います。つまり、日中両外務省の谷内次官と戴秉国次官が9月下旬に行った総合政策対話において、安倍首相の訪中に関する「地ならし」が行われたと判断してほぼ間違いないでしょう。

中国側の日本との関係改善に関する基本的立場は、2005年3月15日の温家宝首相の発言及び同年4月23日の胡錦涛主席と小泉首相との会談における胡錦涛発言に明確にされています。温家宝発言では、「歴史を鑑とし、未来に向かう」ことと、「一つの中国」の原則の堅持をあげています。また胡錦涛発言では、「特に歴史問題、靖国神社参拝問題、台湾問題をうまく処理しなければならない」と指摘しています。小泉首相が靖国参拝にこだわったために、靖国が日中関係悪化の集中的表現となりましたが、日中関係の基調を支配するのは、両発言に共通しているように、歴史認識と台湾問題であることを、私たちは明確に確認しておかなければなりません。

谷地次官と戴次官との間では、靖国問題を含む歴史認識の問題で、双方が折り合いをつけられる着地点探しが行われたと思われます。その結果が10月5日の衆議院予算委員会で、安倍首相が村山首相談話や河野官房長官談話を引き継ぐことを明言することになったのだと考えられます。つまり、安倍首相は、歴史認識でのこれまでの持論を「封印」し、従来の政府見解を尊重することを明言することによって、中国側に対して誠意を示したのです。中国側からすれば、このように明確なかたちで従来の政府の歴史認識を踏襲するということは、「安倍首相が在任中に靖国神社に参拝することはない、と確信するに至った」(上掲朝日新聞が紹介した在京中国大使館の孔公使発言)と一方的に理解する余地を生みました。

しかし、以上の着地点は、決して盤石なものであるとは言えません。安倍首相は、中国側との会談においても、「靖国に行くか行かないかについては言わない」ことについて相手側に説明したと発言しており、中国側の一方的理解が現実になるという保証はまったくないからです。安倍首相は、かつて次のように発言しています。「一国のリーダーがその国のために殉じた方々の冥福を祈り、手を合わせ、尊崇の念を表する。これは当然の責務です。小泉総理もその責任を果たされているわけですが、次のリーダーも当然、果たさなければなりません。」(『安倍晋三対論集』26頁)安倍首相による靖国参拝に対しては、国民の半数以上がしないことを望んでいることも踏まえ、私たちは、安倍首相の実際の行動を注視していく必要があります。はっきりしていることは、安倍首相が靖国参拝をすれば、中国側の対安倍不信は一気に表面化するということです。今回の訪中の意味も一気に失われることが避けられないでしょう。

2.安倍訪中の意味

非常に印象的だったことは、少なくとも新聞での報道を読む限りでは、今回の安倍訪中においては、台湾問題が取り上げられた形跡がないことです。このことは、既に触れたように、中国側が日中関係において重視する最大の問題が、歴史認識と並んで台湾問題であることからいうと、不自然な気持ちさえ起こさせます。実は、安倍首相自身、台湾問題を含む日中関係の複雑性を認識している形跡があります。既に紹介した『安倍晋三対論集』で、彼は次の発言をしています。「中国に関していえば、さまざまなバックグラウンドがあり、すぐに解決する問題ではありません。その構造が変わらない限り、総理が靖国参拝をやめたからといって問題は大きく好転しない」(27頁)と発言している部分がそれです。安倍首相は、従来から親台湾派であることもよく知られています。彼の『美しい国へ』には、「日本がもっとアジアに開かれた国になるためには、東南アジア、…韓国、南西アジアはもとより、地域としての台湾も視野に入れる必要があるだろう」(157頁)という台湾に関する発言もあります。中国側が安倍首相の親台湾派としての傾向を知らないはずはないでしょう。台湾問題は、在日米軍再編計画とも密接な結びつきを持っています。中国側としては、安倍首相という人物を中国の最高指導部自らの目で確かめるという課題を重視し、台湾問題についてはことさらに取り上げないという選択をしたことが考えられます。

つまり、今回の安倍訪中を受け入れた中国側の最大の狙いは、安倍首相という人物をまずは知っておきたいということだったのではないか、と思われます。その目的のためには、歴史認識の点で上記のような「譲歩」を引き出したことをもってとりあえずよしとし、すべてはこれからの安倍首相の出方を見極めた上で考えていく、というのが中国指導部の考えだったのではないでしょうか。そうであるとするならば、今回の安倍訪中は成功であったとか、不成功であったとかいう評価を行うことは見当外れであり、中国側からしてみれば、日中関係を新たなスタート・ラインにおいた、ということで納得しているのだと考えられます。

ただし、北朝鮮の核実験が起こった現実を前にするとき、日中間で協議することができるようになったことの意味は決して小さくはありません。もっとも、安倍首相の口ぶりからは、日米主導の対北朝鮮強硬政策に中国が同調することへの期待感がにじんでいますが、物事はそれほど簡単ではないでしょう。もちろん中国が北朝鮮の核実験に対して極めて厳しい表現で非難したことは、私も素直に驚きました。しかしだからといって、中国が米日の描く強硬路線に簡単に引きずられていくとは考えにくいことです。米日の思惑どおりで事態が展開した場合に引き起こされかねない最悪のケースについては、中国は百も承知だと考えられますし、そのような結果が中国にもたらす厄災について、中国は万難を排して避けたいと考えていることは明らかだからです。むしろ中国としては、安倍訪中によって再び回復した日中間の外交のルートを通じて、日本が冷静かつ責任ある対応をとるように働きかけてくる可能性が大きいと思われます。安倍政権がアメリカ一辺倒になるのではなく、中国(及び韓国)の自制ある対応にどこまで耳を傾ける余裕があるのか(残念ながら、その可能性は限りなく小さい、と見ざるを得ませんが)によって、北朝鮮問題に関する展望が変わってくると見られます。

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