保守支配の日本政治と問われる被爆2市の存在理由

2006.09.20

以下の文章は、長崎平和研究所の機関誌『長崎平和研究』に寄稿したものです。安倍晋三氏が自民党総裁になることを前提に書きました。安倍政権に対して被爆した広島、長崎はもちろん、日本に住む私たちすべてがどういう認識を持って臨むべきかが問われています。この原稿では、長崎、広島を強く意識して書きましたが、内容としては、被爆2市だけの問題ではないことを強調しておきたいと思います(2006年9月20日記)。

1.小泉政治の負の遺産

小泉政権の5年間は、「改革」という名の下における破壊があらゆる分野で進行した、戦後の日本政治の中でも最悪の時期として歴史的に位置づけられるときが来るに違いない、と私は確信している。 平和の問題についても例外ではない。小泉政権にわずかに先立って登場したアメリカのブッシュ政権が、9.11事件を契機に、対テロ長期戦を呼号し、先制攻撃戦略を打ち出し、世界規模の米軍再編を推し進め、アメリカ1国主義とこれを補強する有志連合方式による国際法・ルールを顧みない戦争政策に邁進する中で、小泉政権は、ブッシュ政権に全面的かつ無条件で付き従う政策を臆面もなく追求してきた。

その結果、憲法違反の疑いが濃厚な周辺事態法、対テロ特措法、対イラク特措法により、自衛隊の海外派兵の既成事実が積み重ねられた。また国内的にも、米軍再編の要石としての在日米軍再編計画が押しつけられようとしており、「北朝鮮脅威」論、「中国脅威」論が煽られることによって、武力攻撃事態対処法、対米軍支援法、国民保護法以下の有事法制が積み重ねられ、日本中を国民保護計画の網が覆い尽くす勢いであり、平和憲法の下にあるにもかかわらず、日本を「戦争する国」に変えてしまう体制が着々と整備されつつある事態になっている。

2.安倍政権における日本政治の更なる危険性

私は、安倍政権は小泉政権が誤らせてきた日本の進路を更に危険な方向に向かわせる可能性が大きいのではないかと憂慮する。そのように判断せざるを得ない理由としては、次の諸点が挙げられる。

第一、小泉政治には政治哲学・信条という名に値する内容は皆無であったのに対し、安倍政治は極めて右翼的イデオロギーが濃厚であること。

ワン・フレーズ・ポリティックスに代表されるように、小泉政治の本質は、国民のムード的心情に訴えることに長けていたということであり、ただそれに尽きていた。「丸投げ政治」に集中的に現れたように、小泉政治は、要するに定見のないポピュリストの政治であったということだ。私はこれを「愚」の小泉政治と形容する。国民がもっと批判力・判断力があったならば、小泉政治はとっくの昔に破産していたはずである(その意味では、小泉政治に専横を許した主権者である国民の責任は、極めて重いといわなければならない)。

これに対して安倍政治は、A級戦犯容疑者であり、安倍の祖父でもあった岸信介に対する尊敬の気持ちを隠さない本人の姿勢に端的に示されるように、自らの右翼的政治信条をもって国民を引っ張っていくことへの野心を隠さない確信犯的政治である。「愚」の小泉政治に対して、私は「狂」の安倍政治と形容する。小泉政治にいいようにあしらわれた苦い経験を持つ国民が、この安倍政治に対して健全な批判力を持って対応できないようなことになると、日本の先行きは極めて危ない。

第二、小泉には明確な歴史観の裏付けはなかったのに対し、安倍は靖国史観に傾斜する極めて反動的な歴史観に裏打ちされた認識を持っていること。

小泉の靖国参拝への固執をもって、彼が反動的な歴史観の持ち主だと判断することはできない。例えば小泉は、極東裁判の結果を受け入れることに躊躇いがない。また、平壌宣言に見られるように、かつての日本の植民地支配に対する「痛切な反省と心からの謝罪の意を表明」することにもこだわりがない。小泉が靖国参拝に固執したのは、それが彼の行った公約だったことと、中国、韓国などの強い反対に対する彼の感情的反発によるところが極めて大きい。

これに対して安倍は、深々と反動的な歴史観にコミットしていることを隠さない。この歴史観の現実政治との関わりでの最大の危険性は、過去の戦争を正当なものとして肯定することから出てくるのだが、日本を再び「戦争する国」にすることに対する攻撃的なまでに積極的姿勢に直結することである(ちなみに、靖国参拝という具体的な問題によって中韓両国との関係を冷え込ませた小泉とは異なり、安倍の場合は、もっと本質的な次元で、また、次に述べるその権力政治的発想において、中国、韓国との関係を深刻化させる危険性が憂慮される)。

第三、小泉における対米一辺倒はブッシュとの個人的親交(ブッシュがそれに対応する感情を小泉に対して持っていたかどうかはここでの問題ではない)という感情的要素に裏打ちされていたのに対し、安倍の対米重視は世界一の超大国・アメリカに一目も二目も置くという権力政治の発想に基づいていること。

個人的親交という要素にのみ依拠した小泉政治においては、アメリカが要求することには何でも応じるという判断しか出てこなかった。そのことは、日本にとって最善なことかどうかというもっとも基本的な判断を放棄するという意味で、日米軍事一体化という名の下におけるアメリカによる対日軍事支配の徹底、経済・福祉・医療・労働等々における規制緩和という名の下における国民経済の身売りという深刻な結果を招くことになった。

安倍政治の場合、小泉政治の路線を基本的に踏襲するであろうが、その際、日本もアメリカと一緒になって国際的に権力政治を追求することが日本の国益にも合致するのだと強調することで、小泉政治との違いをにじみ出させようとすることは十分に予想される。その兆候は既に、北朝鮮のミサイル発射(7月5日)に対する安倍主導の対応において顕著に窺われた。つまり、大国主義、冒険主義の傾向が強まることが安倍政治の特徴になることが十分に予想されるのである。

3.問われる被爆2市の存在理由

私は、小泉政治の下で日本全体が「戦争する国」に向けての動きを加速化させてきた中で、長崎、広島の被爆2市が、沖縄戦を戦った歴史を持つ沖縄とともに、「戦争しない国」へのこだわりを持ち続ける、いわば陸の孤島的な存在になりつつあるという印象を深くしてきた。広島に居を移してから1年半がすぎようとする今、沖縄2紙を通じて沖縄にはなおそのこだわりが強いことを確認する一方、長崎及び広島については、そのこだわりが私の予想・期待をかなり下回っており、今や陸の孤島であり続けることすら危ぶまれる状況に追い込まれているのではないかという危機感を覚えるに至っている。安倍政権の登場は、この危機感をいやが上にも高めるものとなっている。

安倍政治を特徴づける三つのポイントに対して、被爆2市は内外に向けてその存在理由を示すことができるだろうか。

まず、右翼的イデオロギーを隠そうともしない安倍政治に対して、長崎、広島は如何なる姿勢をもって臨むのか。すでに長崎においては、平和推進協会による被爆者の語り部に対する文書発出事件があった。あれは単なる偶発的事件だったのか。それとも長崎における氷山の一角と位置づけるべきものなのか。

戦争責任を否定してかかる安倍の歴史観に対して、長崎、広島は戦争責任を踏まえた歴史観を対置させることができるだろうか。これまでとかく加害の視点が弱いとされてきた長崎、広島の歴史認識の真価が問われる。

そしてアメリカと一緒になって権力政治・「戦争する国」路線を追求するだろう安倍政権に対して、長崎、広島は、如何なる対応を示すのか。すでに市国民保護計画を作成する方向性を明らかにしている両市からは、反権力政治・「戦争しない国」への断固とした決意をくみ取ることはむずかしくなっている。

今正に問われているのは、長崎、広島が、「ノー・モア・ヒロシマ」「ノー・モア・ナガサキ」「ノー・モア・ウォー」の訴えに本気で取り組む強靱な意志を明確に示すことができるかどうか、という問題だと思う。その意志を明確に示すことができる長崎、広島であれば、沖縄とともに、日本の憂うるべき政治状況に巨石を投じることはなお不可能ではない。逆にその意志を示し得ない長崎、広島であるとすれば、日本は安倍政治の下で更に暗転していく危険性が大きい。長崎、広島は、陸の孤島としての存在理由すら失うことになるだろう。私たち一人ひとりの不退転の決意と行動が今ほど必要とされているときはないと思う。

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