北朝鮮のミサイル発射と日本外交

2006.07.27

*北朝鮮のミサイル発射に対する日本政府・与党の対応は、異常なものがありました。その点について雑誌『世界』から誘いがあったので、書いた文章が以下のものです。これまでにコラムで書いたものと若干重複する部分はありますが、日本外交の問題点に焦点を当てたものとして、掲載します(2006年7月27日)。

北朝鮮が7月5日に7発のミサイルを日本海に撃ち込んだことに対して、日本国内は再び「北朝鮮脅威」論一色に塗りつぶされ、マス・コミを中心にした感情的反応が支配することになった。しかし、北朝鮮の軍事的脅威を騒ぎ立てるマス・コミの対応は、別に今回に限ったことではない。1993年から94年にかけての朝鮮半島危機、1998年のテポドン発射事件、2001年末の東シナ海での北朝鮮の工作船撃沈事件など、枚挙にいとまがない。今回の事件において特に際だったのは、日本政府がとった北朝鮮に対する極めて攻撃的な外交的対応にある。まるで一触即発とでもいわんばかりの緊張ムードが演出され、先制攻撃論が飛び出すなど、北朝鮮を懲らしめるべしとする主張がまかり通る事態となった。

しかし、北朝鮮の今回のミサイル発射そのものが軍事的脅威とみなされるべき本質を備えているわけではないことは、小泉首相や麻生外相の発言に徴しても明白だった。

小泉首相は、6月にアメリカを訪問し、念願のプレスリー邸宅を訪問して大はしゃぎし、内外のひんしゅくを買った。その彼がミサイル発射直後の7月6日夜、「プレスリーの所にいるときに撃たれていたら格好が悪かった。帰ってきてから撃ってくれて、運が良かった」と危機感のかけらもない発言をしているのである(時事通信)。

また麻生外相は、7月8日の広島での講演において、「金正日に感謝しないといけないのかもしれません」と発言したという(9日付スポニチ。ちなみに、麻生外相のこの発言を報道したのはスポーツ紙だけであったという)。ここまで来ると、ミサイル発射を政治的に利用するという魂胆が透けて見えてくる。

以下においては、6月の小泉首相の訪米において発表された日米共同文書を手がかりに、戦略的視点を欠き、徹底した対米従属の日本の対アジア外交の実態を明らかにする。また、北朝鮮のミサイル発射に関して採択された国連安保理決議及びその採択を巡る日本外交の動きを素材にして、日本の対アジア外交の危うさを検証する。

この二つの問題を検討することによって、小泉政権の下での日本のアジア外交が如何に危機的な状況に陥っているか、またアメリカに無批判・無条件で付き従う主体性のない外交が如何に危ういものであるかが明らかになるだろう。そしてこの状況・危うさを打開することがポスト・小泉の日本外交にとって急務となっていることについても明確な視座が得られると考える。

1.日米共同文書に見る日本の対アジア外交

今回の北朝鮮のミサイル発射に対する日本政府の過激なまでの対応を理解するカギは二つある。一つは、安倍官房長官が陣頭指揮をとっているいわゆる拉致事件にかかわって議論される対北朝鮮制裁問題である。拉致被害者家族等が要求してきた対北朝鮮制裁発動の強硬措置を強く支持してきた安倍官房長官が、今回の事件を格好の口実として利用しようとしていることは明らかだ。しかし、この問題は外交上の問題というより国内政治的次元が強い問題であるので、ここではこれ以上深入りしない。

日本政府の過剰反応と言っても過言ではない今回の行動を理解する今ひとつの、そして日本の対アジア外交のあり方を考える上でのより本質的なカギは、アメリカ・ブッシュ政権が推進している、テロリズム、「圧政国家」などを対象とする先制攻撃を中核とする軍事戦略にある。ここでは、小泉訪米に際して発出された「新世紀の日米同盟」(6月29日。以下「共同文書」)と題する文書を材料にして考察する。なぜならば、共同文書は、ブッシュ・小泉の下での5年間の日米協力の成果を自画自賛するものであるので、額面どおり受けとめることはもちろんできないが、5年にわたる小泉政権における日本の対アジア外交の問題点を考える上で、極めて凝縮した形での素材を提供しているからである。

共同文書の最大のポイントは、日米安全保障協議委員会(「2+2」)において出された2005年2月及び10月そして本年5月の3文書による「共通戦略目標の策定」及び日米同盟の「変革」に向けた「画期的な諸合意」を、「アジア太平洋地域の平和と安定」と直結させてブッシュ・小泉関係における最大の成果と誇っている点にある。

「2+2」の第一の文書に盛り込まれた「共通戦略目標の策定」における最大の注目点は、日米共同の文書としては初めて台湾海峡を日米共通の戦略的関心の対象として明示したことだった。そして、第2及び第3の文書に盛り込まれた日米同盟「変革」に向けた「画期的な諸合意」とは、アメリカの先制攻撃戦略に日本を深々と組み込むための在日米軍再編、日米軍事一体化、日本全土の軍事利用を指す。

アメリカの先制攻撃戦略のアジア太平洋における重要な対象が中国及び北朝鮮であることは公知の事実だ。アメリカが軍事的に中国及び北朝鮮をどう認識しているかを理解する上では、本年2月に発表されたアメリカ国防省の「4年ごとの防衛見直し」(QDR)が格好の材料を提供している。

まず中国に関しては、QDRは「中国の軍現代化は、台湾有事シナリオに対する軍事的な選択肢の幅を広げるという中国指導部の要求に応じて、1990年代中頃以後加速している。中国の軍事力増強は、既に地域の軍事バランスを危うくしている」と述べている。ここにいう「地域」とは、言うまでもなく台湾海峡のことである。その台湾海峡を日米の共通戦略目標と位置づけたということは、変質強化する日米軍事同盟が「(台湾海峡の)軍事バランスを危うくしている」中国の軍事力に対抗していくことを宣言したに等しい。

北朝鮮に関するQDRの記述としては、「アメリカは、…必要であれば軍事力を行使する。このため、国家や非国家主体の大量破壊兵器の能力や計画について、その所在を突き止め、…破壊する大量破壊兵器絶滅作戦が重要となる」というくだりが注目される。ここで言う「国家」には当然「北朝鮮」が含まれる。つまりアメリカは、北朝鮮の核・ミサイル計画を破壊するためには、先制攻撃の戦争を辞さないと言い放っているに等しい。北朝鮮にとっては身震いせざるをえない強圧的言辞が使われているのだ。

共同文書には、小泉政権の下での日本の対アジア外交を特徴づける他の記述もある。例えば、「豪州のような地域の友好国や同盟国との戦略的対話を増進する重要性を再確認した」としているところがそれである。名指しされた豪州のハワード首相は、小泉首相に負けず劣らずブッシュ政権との関係を重視してきた。その豪州では、アメリカとのANZUS条約の下で、台湾海峡有事の際に、豪州がアメリカとともに中国と軍事的に対決するかどうかが議論される状況がある。

共同文書の以上の記述の本質を理解する上では、安倍官房長官が、7月20日に出版された著書『美しい国へ』で述べていることが極めて示唆的である。彼は、「自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった普遍的価値」を共有する「日米印豪4カ国」が「戦略的観点から協議」することを提唱している(160頁。ちなみに、共同文書においても、普遍的価値観に基づく「アジアの…歴史的変革」に日米が支援していく意思を表明している)。ブッシュ政権は、中国を強く意識した日本、豪州、インドとの戦略的関係強化を重視してきた。共同文書の以上のくだりは、日本がアメリカのこの政策にぴったりより沿っていくことを示すものである。

更にまた、共同文書のこのくだりと、「両首脳は、テロとの闘いにおける最近の成功や、…不拡散面での幅広い地球的規模の活動に関し、両国の共同の取組みを改めて評価した」というくだりを併せ読めば、「拡散に対抗する安全保障イニシアティヴ」(PSI。1993年5月にブッシュ大統領がポーランドのクラコウでの演説で発表)が念頭にあることは間違いない。

PSIとは、ブッシュ政権が推進する対テロ・「圧政国家」戦略上の重要な布石の一つであり、大量破壊兵器又はその部品、ミサイル等を輸送中の航空機及び船舶を臨検し、該当物を捕獲することを目的とした、アメリカを中心にした有志連合による多国間の緩やかな取り決めである。PSIは、当然のことながら、「圧政国家」とされる北朝鮮を重要な取り締まりの対象としており、日本は当初から積極的に参加している(2004年10月には、「チーム・サムライ04」と称するPSI海上制止演習が日本、アメリカ、豪州及びフランスを中心に横須賀港において行われた)。

つまり共同文書は、ブッシュ・アメリカの対テロ・「圧政国家」戦略に緊密に協力する路線を選択した小泉・日本は、北朝鮮に対する国際的包囲網を綿密に作り上げることにも積極的に加担していくことを再確認し、北朝鮮に対する対決姿勢を鮮明にしたという意味を持っている。

共同文書はまた、こうした「強固な日米協力が、中国の活力を生かし、北東アジアの平和と安寧の維持に資する」と主張する。しかし、以上に述べたように、中国及び北朝鮮との軍事的対決路線を一つの特徴とする日米関係の強化が、中国の活力を生かすわけはなく、また、北東アジアの平和と安寧の維持に資するはずもない。ブッシュ・小泉の下で進められてきた5年間にわたる日米協力こそが、中国及び北朝鮮の警戒感を高める根本的原因になっていること、私たちが、日本のマス・コミの報道や日本政府の世論誘導によって、中国(軍事力現代化、日本近海での中国艦船の活動、ミサイル増強など)及び北朝鮮(今回のミサイル発射)の軍事的脅威の表れと受け止める諸々の行動が、実はアメリカ及び日本の攻撃的なアプローチに対する必死の防衛的行動であることを、私たちは正確に認識することが求められている。

共同文書に端的に反映された小泉政権の下での対米のめりこみと言っても過言ではない対アジア外交には、致命的な問題がある。それは、日本の平和と安全の確保を最重視し、その視点から戦略的な外交を展開するという視点が欠落していることである。そのことの重大性を認識する上では、アメリカの対中政策及び韓国の対北朝鮮政策が参考になる。

アメリカは、台湾海峡有事に対する軍事的対応には万全を期している(そのために日本を全面的に巻き込むことに余念がない)が、基本的には中国との軍事的対決を回避し、対話に基づく戦略的関係を構築することを重視している。つまり超大国・アメリカといえども、中国との軍事衝突は最悪のシナリオであり、米中関係を良好に発展させていくことがアメリカの国益にかなうという冷静な判断が常にアメリカの対中政策を支配している。

アメリカの対中政策に対応するのが韓国の対北朝鮮政策である。米韓関係がしばしば緊張するのは、韓国がアメリカの対北朝鮮対決路線に同調できないからにほかならない。韓国には、北朝鮮がアメリカの圧力・軍事力行使によって崩壊することは自国の安全保障に直結するという危機感がある。韓国の平和と安全にとって、北朝鮮との軍事的対決はあり得ず、戦略的対話を通じた関係構築以外の選択肢は存在しない。韓国は、同様の理由で、アメリカと一緒になって対北朝鮮強硬路線を進めようとする日本外交に対しても批判の目を向けざるを得ない。

日本の対アジア外交の危険性・幼稚性は、アメリカが中国との間で、また、韓国が北朝鮮との間で進める、戦略的関係構築を重視する発想がまったく欠落していることにある。小泉政権下の日本の対アジア外交を支配するのは、伝統的なアジア蔑視感情に下支えされた(国家関係を対等平等なものとしてではなく、支配・被支配の関係としてしか観念できない)弱肉強食観である。そこから出てくるのは、中国は日本のアジアにおける支配的地位を脅かす存在として「脅威」、また、北朝鮮は日本がアメリカの先制攻撃戦略に協力することを国内的に正当化するための材料として「脅威」と位置づける、極めて短視眼的、対決的な対中観、対北朝鮮観しかない。

そこには、米中軍事対決のエスカレーションの結果起こる中国からの対日報復攻撃(国民保護計画が想定する「弾道ミサイル攻撃」とは、正にこの事態を想定している)、アメリカの北朝鮮に対する先制攻撃の戦争に対する北朝鮮の絶望的な対日報復作戦(国民保護計画が想定する「ゲリラ・特殊部隊の攻撃」とは、正にこの事態を想定している)が日本の平和と安全を根底から突き崩すことに対する危機感が見事(?)なまでに欠落している。そこで支配するのは、なんら根拠のない「だから日米軍事同盟」「だから有事法制」という無責任を極める、短絡した発想のみであり、如何にしてそうした最悪の事態を回避するかという、アメリカの対中政策及び韓国の対北朝鮮政策において健全に働いている戦争回避を最重視する戦略的思考がまったくない。

2.安保理決議1695と日本外交

北朝鮮のミサイル発射に対して、国連安保理は7月15日に決議1695を採択した。この決議に強制力を持たせるか否かを巡って、北朝鮮を追い詰める絶好のチャンスととらえ、国連憲章第7章に基づく制裁措置を盛り込もうとした日米と、そのような決議はアメリカ(及び日本)による北朝鮮に対する先制攻撃への布石となることを警戒した中ロとの間で激しい外交戦が展開された。日本の強硬路線を終始リードしたのは、対中国・対北朝鮮強硬派の安倍官房長官だった。

結果的には、中国とアメリカとの間で妥協が成立し、第7章に言及しない決議が成立した。しかしこの決議の内容を詳細に検討するとき、日本国内で注目されなかったいくつかの重要なポイントがあることに気づかされる。

第一に、決議は、北朝鮮のミサイル発射そのものが脅威であると認定(第7章発動のための前提要件)したわけでは必ずしもなく、「特に北朝鮮が核兵器を開発したと主張している下での発射」が地域及び域外の平和、安定及び安全を「脅かすものであることを確認する」という表現になっている点である。つまり、北朝鮮が核兵器開発を断念すれば、ミサイル発射自体の権利は損なわれないという含みを持たせている。この認識表明は、日本国内で喧伝された「ミサイル発射そのものが脅威」とする日本政府の主張を根本的に崩すものとなっている。

第二に、以上と関連するが、決議は、北朝鮮がミサイル発射を凍結する従来の約束を破ったことに対する「深刻な懸念」、事前の通知をしなかったことによって民間航空・通航に危険をもたらしたことに対する「懸念」、及び北朝鮮が近い将来に更なる発射を示唆したことに対する「重大な懸念」を示すという慎重な表現ぶりをとっている点である。この点を第一の点とあわせてみれば、決議が、国際法上は各国に認められているミサイル発射の権利そのものを北朝鮮から奪いあげようとするものとはなっていないことが明らかだ。

第三に、決議本文では、北朝鮮のミサイル発射を「非難」し、弾道ミサイル計画に関連するすべての活動を中止し、ミサイル発射凍結という従来の約束を復活させることを「要求」している点である。本文だけを読む限りでは、日米の強硬な主張が盛り込まれたとみることは可能である。しかし、第一及び第二の点で示された条件を北朝鮮がクリアすれば、本文における「非難」及び「要求」の根拠が崩れるという解釈が成り立つ余地は十分残されている。確かに北朝鮮はこの決議を受け入れることを拒否したが、中国としては、米日による北朝鮮に対する強硬路線への暴走の可能性をとりあえず制止したと判断して、決議に賛成したものと見られる。

第四に、決議が安保理決議1540(前述したPSIに法的根拠を提供するもの)を「再確認」し、本文最後では、引き続きこの問題を注視していくことを「決定」している点である。つまり、安保理決議1540がわざわざ引用されたことは、決議1695自体がアメリカの進める対テロ戦略の枠組みとの関連において位置づけられていることを示すものであり、今後も安保理が本件に関わっていくことを決定したこととあわせれば、アメリカにとっても評価できる内容となっている。このようなアメリカの対テロ戦略全体をふまえたアプローチは、北朝鮮に対して何がなんでも制裁をと、目先の成果を重視して突っ走った日本のアプローチとの食い違いを最終的に表面化させ、戦略的発想を欠く日本外交の幼稚性を際だたせる結果となった。

以上4点を通観してまとめれば、この決議の採択までの過程を通じて浮かび上がるのは、アメリカにのめり込む日本のアジア外交の危うさである。この点については、7月11日に共同通信が配信し、翌12日付の地方各紙が掲載した分析記事「表層深層」(神奈川新聞のタイトルは、「はしご外された強硬路線 米、日本にストップ」)及び7月17日付朝日新聞の分析記事「時々刻々」(タイトルは「7章外し 米が主導」)などが、かなり生々しくアメリカに振り回された日本外交の経過を描写している。

すでに日米共同文書にかかわって見たように、小泉政権下の日本のアジア外交は、対米関係重視のあまり、そして日本特有のアジア蔑視の故に、アメリカの対アジア戦略によって大きく規定されることになった。しかも、米中関係が軍事的緊張を戦略的対話によってバランスを維持することに成功しているのに対し、日中関係は、小泉首相の度重なる靖国神社参拝によって、1972年の国交正常化以来のどん底状態に陥っている。

北朝鮮に関しては、これまで日米間の連携が保たれてきた(唯一の例外は小泉首相の2度にわたる平壌訪問であったが、アメリカの圧力もあって、具体的な成果は望むべくもなかった)。しかし今回の安保理決議採択を巡って、対北朝鮮外交においても、日本はアメリカの対テロ戦略と対中戦略対話を重視するアプローチによって振り回されることになった。この安保理決議から日本の対アジア外交が学ぶべき教訓は、実に多いといわなければならない。

日本外交の幼稚さ及び危うさは、安保理決議採択までの過程で示された中国外交のしたたかさ、アメリカと互角に渡り合う力量との対比において、さらに鮮明に浮かび上がる。

中国は、確かに北朝鮮の反対にもかかわらず、安保理としての一体性確保を重視して、アメリカ等とのねばり強い交渉によって全会一致の決議採択を優先した。しかしすでに決議内容について詳しく見たように、中国が北朝鮮の基本的立場・権利を損なわないように周到に配慮したことが分かる。

(終わりに)

北朝鮮のミサイル発射事件から浮かび上がる日本外交の最大の問題は、「自国の安全のための最大限の自助努力…が必要なのはいうまでもないが、…米国の国際社会への影響力、経済力、そして最強の軍事力を考慮すれば、日米同盟はベストの選択なのである」(安倍官房長官『美しい国へ』129頁)とする、本末転倒の硬直した思考にある。ポスト小泉の日本外交の最大の課題は、日本の平和と安全を如何に確保するかを判断基準とし、日米関係も多くある選択肢の一つと位置づけて相対化する外交上の主体性・独立性を確立することにあると確信する。

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