日本人は何故政治的煽動に弱いのか
−再び北朝鮮のミサイル発射について思うこと−

2006.07.17

丸山眞男集第5巻及び第6巻では、民主主義国家においてファシズムが興る原因について扱った文章が目立ちます。それらの文章は、今回の北朝鮮によるミサイル発射に対して多くの日本人が示した感情的な反応及びそれを利用した政治指導者の対応を考える上で、実に示唆に富む内容でした。丸山自身がこれらの文章を書いた直接的動機は、1950年代前半のマッカシー旋風に見舞われたアメリカでしたが、その中での指摘は日本政治をも視野に収めたものであり、今日の日本の政治状況を考える上でも極めて新鮮なものです。私が念頭においているのは、「ファシズムの諸問題」、「ファシズムの現代的状況」(以上第5巻)、「現代文明と政治の動向」、「政治学事典執筆項目 政治的無関心」、「ナショナリズム・軍国主義・ファシズム」(以上第6巻)の諸文章です。

以下においては、丸山の指摘を私流に消化した上でのささやかな議論を展開してみます(2006年7月17日記)。

1.民主主義国家において民主主義の自己否定現象が起こる土壌の存在

ナチスがワイマール憲法の民主主義・ドイツにおいて民主主義を否定する政治的運動として立ち現れたように、反共のマッカシー旋風は民主主義の本家本元を自認するアメリカで起こった。両者に共通するのは、民主主義の自覚的担い手であるはずの国民が政治的煽動に踊らされる群衆(マス)とさせられてしまったことである。

ここでは、ナチス・ドイツのケースよりも今日の日本の状況を考える上で直接的な類似点が多いアメリカについて考える。アメリカにおいて、民主主義の自覚的担い手であることが予定されている国民が政治的煽動に踊らされる群衆(マス)に化してしまうのには、実は内在的な原因があった。

一つは、資本主義に由来する問題である。資本主義企業の本質は極めて反民主主義的であるということだ。企業戦士という高度成長期の日本ではやった言葉は、実は資本主義企業の体質を見事に言い表している。企業の追求するのは利潤であり、民主的な企業運営ではない。企業戦士である企業に属する人間に求められるのは、企業に対する献身的奉仕であって、企業が社会に対して民主的に責任感をもって行動することを確保するために最前線に立って行動することではあり得ない。そういう企業倫理は、企業に属する人間の思考を民主主義とは無縁な方向に誘導する。そこでの人間は、企業において極めて限定的な歯車的役割を遂行することだけを求められる群衆(マス)としての位置づけしか与えられない。

今ひとつは、資本主義社会で高度に発達したマス・コミュニケーションによる人間の群衆(マス)化という問題である。マス・コミは、コマギレ化した情報を大量に氾濫させる。このコマギレ化した情報に接する人間は、次から次へとめまぐるしく与えられる情報を吸収するだけで精一杯であり、そのことに慣らされることによって主体的・自立的に思考する能力を奪われ、ここでも群衆(マス)化を余儀なくされることになる。

しかし、群衆(マス)化させられた人間は、何事にも従順に従うロボット・奴隷というわけではない。彼らのエネルギーは沈殿し、何らかのきっかけに爆発的に流出する。そのきっかけとなるのは、往々にして国家権力が演出する政治的危機であり、それに積極的に呼応するマス・コミの煽動的報道である。

2.日本についての特殊事情

日本に関しては更に特殊な事情が加わる。そもそも日本においては国民の間に民主主義が定着するに至っていない。「仕方なしデモクラシー」と揶揄されたように、戦後デモクラシーは「上から」与えられたものとして、制度としては存在するが、多くの国民が民主主義を実践する政治的自覚を我がものにするには至っていないことは、否めない事実である。

かつて天皇制ナショナリズムの狂熱に動員された日本国民は、敗戦とともにその狂熱を企業への忠誠、自民党後援会への自己一体化、更には労働組合運動への埋没等という形で分散させた。そうした形での帰属意識は、戦後の日本社会を安定させる要因として働いて来たことは否めないが、その帰属意識は日本国民の政治的自覚、民主主義の自覚的担い手としての意識を育むことを妨げる要因としても働いてきた。

しかし小泉「改革」は、そういう日本の安定要因を「ぶっ壊す」ことを呼号した。そのことによって、帰属意識を奪われた日本国民の群衆(マス)化が圧倒的な勢いで進行した。しかも、群衆(マス)化した多くの国民は、それまでの安定はしていた戦後体制の行き詰まりを感じていたために、小泉「改革」を熱烈に支持することとなった。小泉首相に対する支持率の高さは、こうした背景を理解する必要がある。

問題は、小泉「改革」の中身である。その実体は新自由主義を日本の社会のあらゆる分野に持ち込むということだ。新自由主義とは資本主義のいわば極限的自己主張であって、人権・民主主義を真っ向から否定するものである。小泉「改革」は、戦後政治における積極的要素(特に労働、社会保障の分野)をも踏みつぶすべく進行している。小泉「改革」を押しとどめなければ、日本社会の歪みは更に加速することになる。その痛みを実感することになる国民がいかなる反応を示すかは、今後の日本政治における注目点である。民主主義の担い手としての成熟がこの試練の中から成長してくるか、それとも痛みに耐えかねる憤懣が爆発して暴走することになるのか、日本政治は重大な岐路にさしかかっていると言っていいだろう。

3.北朝鮮のミサイル発射に対する国民の感情的反応について考えること

以上の分析を基礎にして、今回の北朝鮮のミサイル発射に対する日本のマス・コミ、日本国民の感情的反応、そしてそれに乗じた政府・自民党の高飛車かつ好戦的な政策を見るとき、日本の民主主義の脆弱さということを考えないではすまない。そこで見えてくるのは、もともと群衆(マス)化する土壌を備えていた日本政治に対して、小泉「改革」が群衆(マス)化を極限にまで推し進める役割を担い、極限までに群衆(マス)化した国民は、政府・自民党が巧みに演出し、煽動した北朝鮮のミサイル発射「事件」に対してものの見事に感情的に反応した、という構図である。

日本政治には未来がないのだろうか。私は楽観的ではないが、必ずしも悲観的でもない。確かに、戦後日本における民主主義の成長は理想からはほど遠い。しかし、すべての国民が群衆(マス)化させられているわけではない。私が訪れる集会においては、確実に民主主義を我がものにした市民の存在を実感することができる。最近では、米軍の基地機能移転問題をめぐって示された岩国の住民投票は、そうした政治的自覚を持つ市民の存在をなによりも雄弁に示している。「9条の会」の全国的な広がりも国民の政治的自覚を示すものである。

「非政治的市民の政治的行動」こそが民主主義の原点であり、また、その生命力の源でもある。日本政治においても着実に「非政治的市民の政治的行動」が成長しつつある。確かに日本民主主義の拠り所である日本国憲法をめぐる状況は厳しいものがある。しかし、群衆(マス)化することを拒否し、理性的な意志決定能力を我がものにする国民(市民)の力によって、日本が真の民主主義国家として屹立することに、私自身も確信を持った展望を持ちたいと思う。

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