「人間の安全保障」について考えること

2006.07.02

*ある集会で「人間の安全保障」という概念についてのお話をする機会がありました。会場からも有益な指摘が行われ、私もお答えしながら考えを深めることができました。正直言って、「人間の安全保障」という概念について違和感を覚えていた私です。この機会に、集会でお話しした内容と、会場からの問題提起に対してお答えしたことをまとめておこうと思います(2006年7月2日記)。

1.「人間の安全保障」概念の提起とその後の経緯

「人間の安全保障」という概念が本格的に提起されたのは、1994年の国連開発計画(UNDP)の「人間開発報告」においてでありました。報告は、それまでの開発理論が経済成長に力点を置きすぎ、その結果、国家間及び一国内において貧困問題、食糧危機、健康条件悪化、環境劣悪化、肉体的暴力、伝統的共同体破壊、基本的人権侵害など深刻な事態を生み出したという認識に立って、「世界的な経済的可能性・責任をより公平に分かち合うことによって、人類を一つにする開発協力の新しい枠組みを探求する」という問題意識を、翌1995年に開かれることになっていた国連社会開発サミット(於コペンハーゲン)に提起することを目的としていました。UNDPの提起した「人間の安全保障」という概念は、IMF、世界銀行等の国際機関、INGOに注目されることになりました。

国家として「人間の安全保障」に飛びついた(?)のは日本でした(この間の経緯については、私は詳しく知りません)。1999年3月、日本政府からの5億円の拠出を得て、国連に「人間の安全保障基金」が設立されました。日本政府の熱の入れ方を示すものとして、外務省のHPに載っている「「人間の安全保障」に関するクロノロジー」と題するものがありますので、参考までにこの文章の末尾に載せておきます。2001年1月には、日本政府とアナン国連事務総長のイニシアティヴにより、「人間の安全保障委員会」が、緒方貞子前国連難民高等弁務官およびアマルティア・セン・ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ学長(ノーベル経済学賞受賞者)を共同議長として創設され、同委員会は、2003年2月に報告書を作成し、アナン事務総長に提出しています。

2.「人間の安全保障」という概念の積極面と問題点

「人間の安全保障」という概念そのものについては、次のような積極的要素があることは認める必要があると、私は思います。

①冷戦終結と国際的相互依存の高まりという国際環境の肯定的変化を受けて、国家の枠組みにとらわれない人権の積極的実現という視座(二つの柱として「欠乏からの自由」及び「恐怖からの自由」を挙げる)を提起していること。
  「欠乏からの自由」及び「恐怖からの自由」を二つの柱として提起していることは、日本国憲法前文(「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」)との思想的一致性を感じさせます。

②伝統的安全保障理論・政策が国家のみに視点を限定していたのに対し、国家よりも個人に視点を据えた安全保障理論・政策の必要性を提起したこと。
  この提起は、個人対国家の関係における個人の優位性を客観的に承認する前提に立っているものであり、人権重視の歩みに沿うものと評価することが可能です。

③人間性を無視する市場至上主義の新自由主義が人間の尊厳を最重視する人権・民主主義と根本的に相容れないことを客観的に提起したこと。
 UNDPの報告に関して言えば、新自由主義及びその具体化としてのグローバリゼーションに対する真っ向からの挑戦・批判を展開しているわけではありませんが、少なくともそういう含意があることは認めて良いのであろうと思われます。

④国家の専管事項とされてきた安全保障の領域に、個人を含む非国家主体が積極的に関与する理論的・政策的根拠を提供したこと。
  国家の安全保障に関して非国家主体が発言する余地はなかったわけですが、「人間の安全保障」を前面に押し立てることによって、非国家主体が積極的に発言し、行動することにたいして、国家としても無視することができないという状況を生んでいることも、肯定的に評価することができると思います。

しかしながら、「人間の安全保障」概念の以上の積極面は、以下のような問題点に直面していることを指摘しないわけにはいきません。

まず、国家の枠組みにとらわれないで人権の積極的実現を構想する上での、「人間の安全保障」という概念そのものの曖昧さ、という点です。つまり、「人権」(human rights)と区別して「人間の安全保障」(human security)という概念をことさらに設ける積極的理由があるのか、という根本問題について、UNDP報告書にせよ、2003年の報告書にせよ、説得力ある解明を行っているとは言えません。

「人間の安全保障」における二つの柱とされる「欠乏からの自由」は経済的・社会的権利、「恐怖からの自由」は政治的・市民的権利にそれぞれ対応するものとも考えられますし、あるいは、これらの二つの権利が「新しい人権」を含めた様々な人権を総括していると見ることも無理ではないと思われます。

会場からは、殊更に「人間の安全保障」という概念を持ち込むことに日本政府が熱心であるのには、何か政治的意図があるのではないか、という問題提起が行われました。人権に関わる問題に安全保障という範疇を持ち込むことにより、人権を制約しようとする狙いがあるのではないか、という疑いです。また、別の人は、護憲派の学者の中には「人間の安全保障」を積極的に評価する人も少なくないが、この点をどのように理解すればいいのだろうか、という疑問を提起しました。

私は、最初の問題提起に対しては、安全保障という範疇の中に人権を取り込むことによって、人権を制約する方向に持っていく危険性は否定できないと思うと答えました。そのことは、有事法制に関する国会論戦において、政府側答弁が人権を極めて狭義に解し(「生命及び財産」と限定する答弁が目立った)、国益や国家の安全に対する考慮が優先するとする議論を展開していたことから裏づけることができます。

他方、これらの政府答弁においては、「人間の安全保障」に対する明示的言及は皆無であったことも事実です。会場からの発言でも紹介されたように、「人間の安全保障」を盛んに重視する外務省の実務担当者からも思想的な狙いがあるような言動は見られないということも、「人間の安全保障」が全政府的なテーマとして取り上げられるには至っていないことを示唆しています。ですから、現在の段階での結論としては、今後の政府の動きには警戒を怠らないようにするべきであるが、今のところ「人間の安全保障」を政治的に利用するという意図まではない、ということではないでしょうか。

会場からのもう一つの疑問については、私もその疑問を共有しています。そもそも、人間の尊厳の承認に基礎をおく人権にかかわる問題を、「人間の安全保障」という概念でとらえ直すという試みは、私には素直についていけません。人権保障を具体的に実現し、確保するという課題を、国家の安全保障と同次元で論じることは、根本的におかしいのではないか、と私は考えます。

さらに、上記②及び③の潜在的有意性が、その後の展開の中で無視ないし焦点をそらされる傾向があることも指摘しないわけにはいきません。すなわち、個人を国家よりも優位に置くという、「人間の安全保障」という考え方に客観的に潜んでいる積極面は、2003年の報告書に見られるように、「国家の安全保障」と「人間の安全保障」は互いに相互補完的関係にあるとする位置づけが強調されることによって打ち消されてしまっています。

新自由主義批判という潜在的積極性についても、例えば2003年の報告書は、人間開発理論が経済成長重視から「公正な成長」重視へとシフトしてきたとしつつ、その傾向に対して「人間の安全保障」という視点が貢献するという観点を強調しており、新自由主義に対する正面からの批判に踏み込まない姿勢が顕著です。

また、上記④の積極面は認めるとしても、各国・国際社会の取り組みは「人間の安全保障」概念の積極性を証明するにはほど遠いという厳しい現実があることも指摘せざるを得ません。例えば、「人間の安全保障」的アプローチの成功例としてあげられる東チモールのケースも、最近の事態の展開でもろくも崩れました。「人間の安全保障」という観点で理解される「人道的介入」の実態も、はなはだ疑問があります。日本政府は、「人間の安全保障」に積極的にかかわってきたわけですが、その日本政府は国内においては新自由主義「改革」を推し進めてきたという大矛盾を露呈しています。また、6月30日の日米首脳の共同文書で示されたように、日本の対外援助はいまや完全にアメリカの戦略援助の枠組みに組み込まれてしまっています。ということは、口先でなんと言おうと、日本の対外援助を導く理念は「人間の安全保障」ではないということです。皮肉を込めて言うならば、アメリカの対外援助との一体化を「人間の安全保障」の具体化であるというのであれば、そのような「人間の安全保障」には絶対に同意できません。

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