シンポジウム・報告:
「核廃絶と憲法を守る運動のエネルギーを結合させて闘う意義」

2006.04.05

*2005年10月22日に名古屋で行われたシンポジウムで行った冒頭発言のテープ起こしの文章が送られてきましたので、記録の意味を含めて掲載します。コラム欄でこれまで述べてきたことと重なりますし、時間的には半年前のものですが、ご了承下さい(2006年4月5日記)。

私は4月から広島に赴任して、間もなく7カ月になります。これまで外から広島を見てきましたが、この7カ月近くの間、広島のなかでいろいろと感じることがありました。

そういうことで、冒頭発言としましては、三つのことを申し上げたいと思います。

一つは平和憲法を守る闘いと核廃絶運動を結びつける必要性という問題です。二番目は、いま、原爆体験の継承という問題が非常に深刻になっているということ。同時に、核廃絶という課題に対する国民的関心が、好きな言葉ではないのですが、いわゆる“風化”していくという問題もあります。こういう問題に私たちはどう対応しなければいけないのかということについて、考えているところを少し申し上げることにします。三番目の問題として、私たちは「核廃絶」「戦争のない世界」に向けて展望を持ちたいと思っているわけですが、そういう課題を考えるうえで、平和憲法はどういう意味を持っているのだろうか、ということです。

<平和憲法を守る闘いと核廃絶運動を結びつける必要性>

まず、平和憲法を守る闘いと核廃絶運動を結びつけるという課題についてお話しします。このテーマで今年(2005年)7月30日に行った広島平和研究所主催のシンポジウムでは、私もパネラーとして、「平和憲法と核廃絶運動をいかにして結びつけるか」ということで発言しました(注:このコラムで「広島の課題 −核廃絶と平和憲法を結びつける発想を−」と題して紹介したもの)。

私の問題意識は、平和憲法を守る闘いと核廃絶を目指す運動の担い手は、これまでかなり重なっていたにもかかわらず、平和憲法を守る闘いと核廃絶運動とを意識的に結びつける考え方が熟していない、むしろバラバラに行われてきたのではないかということでした。そうした気持ちをかねがね強く持っていたのですが、広島にきてからも、その問題意識がやはり的はずれではないということを再認識することになったものですから、それについて発言したわけです。

とくに平和憲法を守る側が、この核の問題を視野に収めていないのはなぜでしょう。日本はポツダム宣言を受け入れることによって敗戦したわけですが、その経緯を振り返ってみますと、トルーマン大統領によってポツダム宣言が出され、それに対して当時の首相、鈴木貫太郎が黙殺し、それを拒否と受け止めたアメリカが広島・長崎に原爆を投下した。その結果、万事休した昭和天皇がポツダム宣言受諾という遅すぎた決断をした。そして、そのポツダム宣言の対日要求に従って平和憲法が制定された。——このような流れを、私たちはもっと重く受け止めなければいけないのではないでしょうか。

平和憲法の基礎となったのは、明らかにポツダム宣言であったということ。そして、昭和天皇がすみやかにポツダム宣言受諾の決断を下していれば、広島・長崎への原爆投下は回避されていた可能性が非常に高い。ただし、最近のアメリカ側の文献によると、日本政府がこのポツダム宣言をあまり早く受け入れてしまうと原子爆弾を投下できないということで、これを遅らせるための工作が行われた、ということが明らかになっています。それはともかくとして、もし受け入れていれば広島・長崎に対する原爆投下はなかったということはいえると思うのです。原爆投下という途方もない対価を支払わされて、日本の支配層はようやく戦争継続の道をあきらめてポツダム宣言を受諾した。そしてそのことによって、平和憲法制定への道が開かれた、という因果関係が客観的にあるということですね。

ここを私たちはしっかりとらえなければいけないのではないか。つまり、原爆投下という代価のうえに平和憲法があるという意味を、私たちはしっかり考えなければいけないのではないかということです。

私は、平和憲法を守る側において、これまで原爆投下、ポツダム宣言受諾、平和憲法成立という三つの要素の間に存在する内在的な相互関連性を明確に意識して把握し、その意味を思想化する努力をしてこなかったのではないのかという反省があります。平和憲法、とくに第9条の改正が公然と叫ばれる今日、平和憲法を守る側に立つ者は平和憲法の原点に立ち戻り、原爆投下をも視野に収めた説得力ある思想を構築することが緊急に求められているという問題意識を、みなさんにもぜひ共有していただきたいと思っております。

また、核廃絶運動が、平和憲法擁護という視点を必ずしも我がものとしてこなかったということについても考えるべきことがあります。これは、日本の核廃絶運動の原点である原水爆禁止署名運動が、そもそもの出発点において「不偏不党」「非政治性」を強調していたということで、憲法問題を扱うことすら回避してきたという重い歴史があります。当時の状況においてはある程度必要だったという理解をするとしても、私たちがいま直面している改憲問題を前にしたときに、核廃絶運動が相変わらずこの憲法問題を自らの問題として取り上げないということは、自殺的行為ではないかと私は思います。

いま国際社会において、日本の核廃絶運動が説得力あるものとして認められている背景には、まさに「平和憲法の裏付けがある核廃絶運動だから」ということが間違いなくあると思うのです。平和憲法が改憲され、日本が戦争する国になったときに、私たちが核廃絶を唱え続けたとしても国際的な説得力に全く欠けてくることは、火を見るより明らかだと思うのです。ですから、そういう意味において、核廃絶運動が自らの課題として、そのなかに憲法を守る運動を不可欠の構成要素として持ち込むことが求められているのではないかと強く考えています。

そういう点についてもみなさんのご意見・ご批判をいただければありがたいと思っています。それが第一点であります。

<原爆体験を今日的な位置づけによって継承していく>

それから第二点は、いわゆる原爆体験の継承問題。これは、被爆者の高齢化が進んで、被爆体験の継承が難しくなっているという客観的な事実と、国民の間に広がる核の問題——核廃絶はおろか、核そのもの—に対する関心の極端な低下が見られるということです。

「広島は違うだろう」という強い期待があったのですけれども、この7カ月近くの体験からすると、広島においてもやはり、この核の意識の深刻な弱まりというのが見受けられるということを報告しなければなりません。もちろん一部の方は本当に頑張っておられます。広島市全体としても、8・6の前の1〜2カ月はそれなりに盛り上がったのですが、多くの市民にとっては、それが終わった途端に日常生活に戻ります。こういうとき私たちは、どうしたらこの核廃絶のエネルギーを高めることができるのか早急に解決策を見出さないと、このまま押し切られてしまうという非常に重大な危機に直面しているというのが、私の問題意識であります。

そうしたときに、ただ広島・長崎の被爆体験を継承するというだけでなく、もっと違った角度から、つまり広島・長崎をホロコーストのように人類共通の負の遺産として普遍化するための方法を探らなければいけないのではないかと思うのです。

広島・長崎の原爆が何を意味したかといえば、「大量無差別殺戮」という要素と、それから「被ばく」という要素との「二つの普遍性」というポイントがあります。この二つはともに国際人道法に違反する不法行為に直接関わる問題です。その二つの要素をあわせ持っているのが広島・長崎です。しかも大量無差別殺戮については、冷戦後の今日でもジェノサイドというかたちでいろいろなところで起こっている問題なのです。それから「被ばく」ということも、例えば明日の分科会で行われるように劣化ウラン弾の問題であるとか、チェルノブイリやセミパラチンスクといったところで、いま現に繰り返されている大きな問題なのです。

したがって私たちは、広島・長崎を、過去の体験として受け止めるだけではなく、現在に続く反人道的な行為であり、今日に続く問題の原点として、あるいはそのなかの最も大きな問題として位置づけることが求められています。そしてまた、現在起こっていることを通して、広島・長崎のものすごさを改めて想起するという想像力を私たちが身につけることによって、広島・長崎を普遍的な人類共通の負の遺産として構築していくということが求められているのではないか、ということを申し上げたいわけです。そのためには、いろいろなことが求められています。

例えば、ドイツで起こったホロコーストについては、人類共通の負の遺産ということで確立している。広島・長崎についてはそうなってはいない。なぜホロコーストが人類共通の負の遺産になり得たのか。ドイツでは国をあげての取り組みが行われてきたということが、非常に大きいと思います。それから、ドイツ以外の国々でも、ホロコーストは反人道の極みであるという認識が共有されるに至ったというところも非常に大きいわけです。

一方、広島・長崎は、国をあげての取り組みというにはほど遠い状況がある。例えば、日本は唯一の被爆国でありながら、そしてまた政府は「非核三原則」をいいながら、アメリカの核の抑止力に頼っている。あるいは「核廃絶」といいながら、その頭に「究極的」という言葉を冠して、要するに核廃絶の訴えを無意味なものにしている。そういう非常な妨げとなる行動をとっているのです。ですから、この被爆国の政府が広島・長崎に誠意を持って対応しなかったら、普遍化するためのエネルギーを持ち得ることができないのは、容易に理解できることです。

あるいは、国際的に視野を転ずれば、最大の問題は、アメリカであります。核兵器を肯定しているのですから、そのような状況下では、広島・長崎を普遍化するということに対して、国際的な障害が当然出てきます。

ですから私たちとしては、日本の国内政治や国際政治の問題を全部踏まえたうえで、それらをいかにして克服するかというところにポイントを置かないと、広島・長崎をホロコーストと同じような人類共通の負の遺産として確立することはとうていできないと思うのです。

それからもう一つは、広島・長崎ということで、核廃絶を他の戦争の問題と区別して扱う傾向があるようですが、それはおかしいと思います。やはり「戦争すべてを廃止する、禁止する」という方向性を持ち、そのなかの非常に重要な一部分として核廃絶を位置づけるという認識を持たないと、「核戦争はダメだけれど、他の戦争はいいのだ」というような議論に私たちは足下をすくわれてしまうのではないでしょうか。そして、その足下をすくう議論のなかには、結局「核廃絶」自身も何か特殊化した問題として扱うことになってしまう危険性も内在していると思うのです。そこを私たちは深く考えなければならないのではないでしょうか。

これらの問題を克服してはじめて、私たちは原爆体験を今日的な位置づけによって継承していくことが可能になります。核廃絶に対する国民的関心の低下ということについても、関心を持ち得ないでいる人たちに対して、想像力を喚起することによって新たな関心を持ってもらうということが展望できてくるのではないか。そしてそういう国民的なエネルギーが高まれば、保守政治に対する国民的な圧力も高めることができるし、アメリカに対する国際世論を喚起していくうえで、日本がリーダーシップを握ることもできるようになるのではないかと考えます。

<平和憲法の今日的意義 〜核廃絶と戦争のない世界に向けて〜>

最後の問題は、核廃絶と戦争のない世界に向けて、平和憲法はどういう位置を占めているかということです。日本国憲法は、侵略戦争に対する徹底した反省に立ってできたものです。それを二度と繰り返さないということであって、戦争一般がない世界を展望し、それに向かって日本は率先して進むというメッセージを、前文、9条によって国際社会に対して示したものであると思うのです。しかもその憲法は、原爆投下、ポツダム宣言受諾ということを経てできたものであるということは、核戦争は人類の生存そのものを猛烈な危機に陥れかねないものであるという性格を踏まえていたからこそ、日本は徹底した9条の規定を置いている。そういうものをなくそうという思想に裏付けられているということです。

この平和憲法は、1945年に広島・長崎に始まった「核の時代」に対する安全保障というのはどういうものでなければならないかということについて指針を示した、非常に先駆性を持った憲法であるということなのです。そういう意味を考えたときに、「この憲法は古くさい」とよく改憲側はいいますけれど、全くそうではなく、まさに核時代を先取りし、核に対してどのような平和観で立ち向かうのが正しいのかという道筋を示した憲法であるということについても、私たちは確信を高めなければいけないと思います。

そういう意味で、もうひと言だけ触れておきますと、憲法と国連憲章というのは決定的な違いがあります。それは、国連憲章は広島・長崎が起こる前にできたものだということです。国連憲章においては武力行使という可能性を否定していないのです。否定していないどころか公然と書き込んでいる。それに対して日本国憲法は、広島・長崎を踏まえて作られたがゆえに、「いかなる理由にせよ武力行使(戦争)はいけないのだ、それは人類破滅に通じるものなのだ」というメッセージを出しているという点で、非常に違いがあるということです。

私どものなかでも、国連というものを重視しようということがよくいわれる。それは、ある面で正しいとは思うのですが、理念的・思想的にいうと、国連憲章と平和憲法には決定的な違いがあります。それが何かといえば、広島・長崎の前に作られたものと後に作られたものとでは、平和・安全保障に関する認識における決定的な違いがあるということです。そういう意味において、平和憲法というのは国連憲章よりもはるかに数段先を行く憲法であるという誇りを私たちは持っていかなければならない。その誇りを国民に伝えていくということを考える必要があるのではないかと思っております。以上です。

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