国連憲章と国際的な武力行使に関する考察

2005.01.18

*この文章は、ある研究会で報告するたたき台として作ったものです。研究会では、国際的な武力行使に日本が積極的に参加するべきだという立場からの改憲論が勢いを強めている状況を踏まえ、平和憲法を活かす立場に立つ私たちが、国連が関わる武力行使に対してどういう観点を我がものにするべきかいうことを中心にして、私が問題提起することを求めました。

2004年12月に、国連事務総長の諮問委員会が「より安全な世界:我々の共有する責任」と題する国連事務総長に対する報告(副題:「脅威、挑戦及び変化に関するハイレベル・パネルの報告」)(以下「報告書」)を出しました。日本のマスメディアでは、安保理改革の箇所にだけ注目が集まりましたが、この報告書における安保理改革の位置付けはほんの一部分であり、全体の報告書を見ると、国連が国際的な武力行使にどのように関わるか、ということが中心的テーマだったことが分かります。そして重大なことは、報告書が国連安保理の決定する武力行使については無条件で支持する立場から報告をまとめていることです。

容易に推察できることは、日本政府(及びその後にいる保守政治)は、この報告書の武力行使を積極的に容認する内容を、日本の「軍事的国際貢献」を推進することに利用するであろうということです。つまり、安保理決議があるのであれば、「国連中心主義」の立場の日本としては、それに積極的に協力するべきである、という主張です。国連に「弱い」日本人の心情を考えますと、この報告書の内容が日本政府の主張を支持し、補強する役割を果たすことに利用されることが十分考えられるのです。多くの国民の間で信望の厚い緒方貞子氏がこの報告書の作成に加わっていることも、多くの日本人がこの報告書を批判的に読むことをむずかしくしていると思います。

しかし、以下に明らかにするように、この報告書には極めて重大な問題があります。とても無条件で受け入れられる代物ではありません。私は、この報告書を批判的に検討することによって、多くの日本人に共有されている「国連信仰」の危険性を指摘する必要性を感じました。私たちがよりどころにするべきは平和憲法であり、「国連信仰」ではありません。平和憲法を基準にして国連の行動(国連安保理が容認する武力行使)を冷静に判断する必要があると確信するのです。国連といえども、間違った行動を取る場合がある。そのときには、私たちは「国連は間違っている」とハッキリ言うべきなのです。

以下においてまとめたレジュメ的な文章は、以上の立場に立ってまとめたものです。私が研究会用にまとめたレジュメは、第一部として以下の内容を記し、第二部として日本の憲法状況との係わりに言及しました。第二部に当たる部分については、このコラムですでに扱った内容ですので、ここでは省略しました。少し専門的な内容になっていますので、読みづらいかも知れませんが、関心のある方にはそれなりに読み応えがある中身になっているのではないかと思います(2005年1月18日記)。

1.国際法における戦争違法化の流れ(省略)

2.今日の国際社会で許容される武力行使のケース

  • 〇個別的・集団的自衛権行使を掲げるケース
  • 〇集団的措置(国連憲章第7章)として認められるケース
  • 〇伝統的平和維持活動(「第6章半の行動」)
    • −紛争当事者の停戦合意・当事者によるPKO受入に関する同意・PKOの紛争当事者に対する中立性維持(以上の3条件が破れた場合には撤退)ということによる停戦維持活動
      *いわゆる第7章に基づく活動ではないと観念されてきた
    • −事務総長の要請に基づいてPKO派遣に応じる国家は、監視員の場合は丸腰、PKFの場合は自衛のための小火器の携行が原則(コンゴの場合のような例外あり)

3.米ソ冷戦終結後、国連(安保理)がかかわる武力行使に混乱を生みだした諸原因

(1)湾岸危機・戦争に際しての安保理決議678(1990年)
  • −「第7章の下において行動して」(前文)「加盟国が、クウェイト政府と協力して、…あらゆる必要な手段を行使する権限を与える」(第2項)
  • −アメリカが集団的自衛権を行使するという立場に基づいて行動したことを、安保理決議が「あらゆる必要な手段を行使する権限を与える」という表現で認可する結果になったこと
    • *問題点:集団的措置(集団安全保障)は集団的自衛権と両立し得るのかという問題についての議論がまったく行われないまま、集団的自衛権の行使としての武力行使が、第7章措置(つまり集団的措置)として「合法化」されたこと
    • *考察:第51条の次の規定ぶりに照らせば、集団的措置と自衛権の行使を混同することには明らかに無理がある:「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和と安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。(以下省略)」
      報告書は、ある国家が他国または国際秩序に対して脅威を構成する場合に関する「第7章の文言は本質的に十分に広義であり、かつ、十分に広義に解釈されてきているので、安保理が、『国際の平和と安全を維持し又は回復するために必要である』と見なすときには、その国家に対して軍事的行動を含めたいかなる強制的措置を認めることを許してきた。そのことは、脅威が現実に、切迫した未来に、あるいはより遠い将来において起こる場合において然りである。」(第193項)としており、1990年以来の安保理の行動にまったく無批判的である。
  • −安保理決議に内在する問題:法的決議成立に対する政治的要素の影響という問題
    • *アメリカが成立を目指した決議を葬らないために、米ソ冷戦終結を背景に対米姿勢を転換させたソ連(当時)が賛成し、また、天安門事件のハンディキャップを負っていた中国が、アメリカとの取引に応じて拒否権行使に回らなかった(棄権)ことによって、アメリカの集団的自衛権の行使としての武力行使が安保理決議という「合法性」を獲得した(安保理決議が政治的要素によって左右されるという問題が露呈された)
    • *この問題は、安保理が行政的機能と立法的機能(後には、後述する旧ユーゴやルワンダのケースのように、国際刑事法廷設立まで安保理が決定するという行為に出ることにより、司法的機能の領域まで踏み込むことになる)を担うという点で、国際社会における「法の支配」の原則、したがって国際民主主義を根底から突き崩す危険性をはらむものであるという点を直視するべきである。報告書は、その問題点を素通りにする形で、もっぱら安保理の機能強化に関心を集中させている点で、致命的な問題を含んでいる。
(2)ブトロス・ガリ事務総長「平和への課題」(1992年6月17日付)で提起された「予防展開」「平和強制」
(イ)予防外交の一環としての「予防展開」の位置付け

−国家間紛争の場合

  1. 国家間紛争に際して、両国国境に国連のプレゼンスがあることが紛争回避に望ましいと判断する場合
    • *「両当事者が合意する場合には、安保理が国連の予防的展開によって敵対状態が除去される可能性があると判断するときは、予防展開を行うべきである。国連のプレゼンスの構成については、遂行される任務の性格によって決められることになる。」(ガリ報告の一節)
    • *この場合は、それまでのPKOの枠内で理解される。
  2. 問題が生じるケース:ガリ報告は、1国が脅威を感じて、その国境沿いに国連のプレゼンスを要求する場合。安保理が要求国の同意のみに基づいてその国境沿いに国連のプレゼンスを決定するときは、予防展開を行うべきである、とした。
    • *この場合も、「状況の特殊性により、予防展開に必要な任務と人員が決定されることになる。」(ガリ報告の一節)
    • *この場合は、それまでのPKO3原則に矛盾する。なぜならば、紛争のもう一方の当事者の意思は無視されており、その出方如何によっては、予防展開される部隊の中立性が直ちに問題となるからだ。そのことは、武力衝突が起こった場合には、予防展開部隊は要求国の立場に立ってもう一方の当事国との間で敵対関係に立たざるを得なくなることを考えれば、容易に理解される。ガリ提案は、その問題点にまったく触れていない。
       予防展開のケースは、今日までマケドニアに関して実行されたのが唯一である。1992年2月に安保理は、旧ユーゴに国連保護軍(UNPROFOR)を派遣する決定を行っていたが、同年11月11日のマケドニアの要請に応じ、同年12月11日に安保理は、UNPROFORの一部であるUNPROFORマケドニア司令部として、700人(その後アメリカがさらに300人の兵士を追加提供)を上限とする部隊を、アルバニアと旧ユーゴとの国境沿いのマケドニア領に展開することを承認した。1995年3月31日に安保理は、UNPROFORを3つの別々のしかし相互関係を維持するPKOに分割するとともに、マケドニアに展開している部隊については、名称を国連予防展開部隊(UNPREDEP)と改名した。
       報告書は、マケドニアのケースを「明確に成功」であったと肯定的に評価し、「各国の指導者や紛争当事者が、予防展開という選択肢を積極的に活用することを奨励する」とまで述べている(第104項)。
       しかし、上述した問題は、これまでのところは現実になっていないが、PKOとして位置づけることには明らかに問題があることを無視してはならない。
  3. ガリ報告のさらなる問題点:「以上の両ケース(注:上記・及び・のケース)を通じて、国連のプレゼンスの権限及び構成については慎重に工夫され、すべての当事者に明確である必要がある。」(ガリ報告の一節)
    • *まったく性格が異なる両ケースを同等に扱おうとする点で、ガリ提案には重大な問題がある。特に・のケースについては、従来型のPKOとして位置づけることは、PKO3原則と抵触するから明らかに無理であり、仮に今後もそういう形の予防展開部隊を派遣することを安保理として決定する場合(そのこと自体の適否を別として)にも、憲章第7章の下の「国際の平和と安全に対する脅威」に対処する軍事行動としての位置付けが必要である。

−国内危機の場合

  1. 「中央政府が要求しまたは全当事者が同意する場合(人道援助に関するガイドライン(原注:1991年12月19日の総会決議46/182付属のガイドラインの趣旨に従えば、この要求は国家主権の侵害に当たらないし、憲章第2条7項にも矛盾しないと見なされる)は、予防展開が被害を軽減し、暴力を制限・管理することに役立つ場合がある。」(ガリ報告の一節)
    • *この場合は、それまでのPKO3原則の枠内にとどまっている。
  2. 「公平に提供された人道的援助は、安全を維持し、生命を救い、交渉を行いうる安全な条件を作り出すという点で、極めて重要である。」(ガリ報告の一節)
    • *上記の人道援助に関するガイドラインにおいては、人道援助が人道性、中立性及び公平性の原則に従うこと、憲章に従って主権、領土保全及び国家的統一が完全に尊重されるべきこと、かつまた、人道援助は影響を受ける国家の同意及び、原則として、その国家の要請に基づいて提供されるべきことが定められている。
    • *人道的援助の「中立性及び公平性」原則、国家主権の尊重が明記されている点で、このガイドラインに従うことが意識されている限りにおいて、国連の活動は人道「援助」の次元で理解できるものであり、この段階ではなお、人道的「介入」の発想にはなっていないことに要注意。
(ロ)平和創造の一環としての「平和強制」の位置付け

−ガリ報告における問題意識の混乱性

  • *ガリ報告の「平和創造」に関する文章は、紛争防止と平和維持という任務の間に介在する国連の責任として、「敵対する当事者をして平和的手段によって合意をもたらす努力」があることを指摘し、「憲章第6章には、そうした紛争解決のための手段についての包括的なリストが規定されている」という指摘で始まっている。つまり、平和創造という考え方は、主として憲章第6章の範疇に属するものとして位置づけている。
     ところが報告は、この平和創造の項の中で、平和的手段が失敗した場合に言及し、「平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為」に対して国際の平和と安全を維持し、回復するために、安保理の決定に基づいて憲章第7章に規定する措置を用いるべきだという集団安全保障の考え方を取り上げ、安保理がそれまで第42条が予定する軍事力による強制的な措置を行使してこなかったことに言及し、湾岸戦争の際には、安保理が「加盟国が安保理に代わって措置をとることを認めるというやり方を選んだ」と指摘した上で、憲章が詳細なアプローチを定めていることに加盟国の注意喚起する。
  • *ガリ報告の平和創造に関する問題提起において基本的に最も問題なのは、本質的に第6章上の活動と自ら規定している平和創造の中に、第7章上の活動を安易に混入させている点にある。この第6章と第7章との境界を厳密に区別して扱う姿勢が欠落していることが、後述する「平和強制」活動の法的性格に致命的な曖昧さをもたらすことにつながる。
     ただしガリの名誉のために指摘しておく価値があることは、上記下線部分が示しているように、この報告の段階では、湾岸戦争方式が憲章の予定する集団的措置の範疇にはおさまらない例外的措置であったという認識が働いていることだ。ガリとしては、米ソ冷戦が終結し、安保理の機能が回復しつつある状況をにらんで、憲章が本来予定していた集団的措置を活性化させることを意図していたことが読み取れる。

−ガリ報告における武力行使の位置付け

  • *ガリ報告においては、「安保理の容認する軍事行動」は、「平和的手段がすべて失敗した場合」において、「国際的安全の保証者としての信頼性にとって(安保理による軍事行動の)選択肢をもっていることは不可欠」という認識に立っている。そういう認識に立って報告は、第43条の活性化の必要性を説くのだが、ここで出てくる問題は、ガリの現実主義的感覚は、第43条の活性化が簡単でないことを踏まえて、それに変わる便法を提案していることだ。具体的には、現実主義者・ガリは、停戦が合意されても守られないケースが多く、停戦を回復・維持するための部隊を派遣する要請がある場合を指摘して、安保理が第40条に基づく暫定措置として平和強制部隊を利用することを考慮するように勧告する。
     つまり、平和強制部隊は、「そういう任務を志願する部隊から構成され、事務総長の指揮下におかれる」(ガリ報告の一節)点では、従来の平和維持部隊と同じ性格である。しかし、停戦が合意されても守られないケースのように、「平和維持部隊の任務や、平和維持部隊に兵力を提供する国々の期待を上回る」任務を果たすことが予定されている点で、明らかに平和維持部隊とは性格を異にする、武力行使をハッキリ視野に納めた軍事力として提起されている。
  • *以上から明らかなように、ガリ報告が提案していた「平和強制」と名付ける活動は、軍事手続的には平和維持と連続性をもつものであり、しかし法的には第7章の第40条を根拠とすることによって、平和維持では予定されていなかった積極的な武力行使の領域に踏み込むことを予定するものであった。
     ガリとしては、第40条に基づく暫定措置であると主張することによって、第42条以下の正規の手続きを踏んだ国連軍編成という困難を回避しつつ、従来の平和維持部隊編成の手続きに従う便法を考えて、実効ある武力行使を実現しようとした。しかしそういう便法は、PKO3原則を無視することによって、平和強制部隊を紛争の直接的当事者の立場に追い込む(派遣国としては、心ならずも紛争当事者の立場に追い込まれる)という重大な問題点をはらむ。ガリ報告は、そういう根本的問題を素通りした点で、重大な欠陥を抱えていた(しかし、そういう問題点が真剣に議論・検討されることのないままに、平和強制部隊の考え方は、ソマリア内戦において実行されてしまった)。

−「平和強制」としての武力行使の排除

  • *ソマリアにおける平和強制部隊展開(詳細は後述)の失敗(1992年12月の安保理決議794による多国籍軍の軍事介入は、1993年5月以後は国連(事務総長が責任を担う)の平和強制部隊となるが、1993年10月にアメリカ軍兵士虐殺を受けた米軍撤退を受けて、1994年2月の安保理決議897で活動を大幅に縮小、最終的に1994年11月の安保理決議954によって、1995年3月31日をもって終了)の経験もあり、現在の国連のHPにおける説明では、「平和創造とは、紛争当事者に敵対行為を止めることを説得し、紛争を平和的に解決するよう交渉する外交的手段の使用を意味する」とし、「平和創造には、敵対行為の終結を一方の当事者に強制するために武力を行使する、平和強制と称せられる行為を含まない」ことを明記(http://www.un.org/Depts/dpa/prev_dip/fr_peacemaking.htm)することによって、ガリ提案のこの部分(平和強制としての武力行使)については、もはや葬られたと見ることができる。
(3)憲章第7章と国家間紛争:報告書の立場(第193 ̄8項)と問題点
(イ)問題の所在

−21世紀の国際社会にとっての中心的課題

  • *国家の上に立つ立法・司法・行政を司る機関が存在しない「無政府社会」である国際社会が危機に瀕した場合あるいは秩序が破られた場合、一方で国際人道法の発展によってますます人間の尊厳を擁護することが求められている国際社会は、どのように対処することが求められるかということが、私たちが直面する中心的な課題であることについては、広範な認識がある。

−報告書の問題提起

  • *「平和的予防が失敗した場合には何が起こるか。いかなる予防的措置も戦争や混乱を阻止することができない場合にはどうするのか。脅威が切迫したものになるときはどうするのか。とりあえずは切迫していなかった脅威が非常に現実的なものになり、武力行使以外の措置では止められないと思われる場合にはどうするのか」(第3章 集団安全保障及び武力行使 53頁)。
     そのように報告書が考える際の集団安全保障の前提には、「今日の脅威は国家の境界がなく、相互に関連しあっており、国家レベルだけではなくグローバル及び地域的に対処しなければならない」という3つの特徴を持っている、という認識がある(15頁)。このような認識は、アメリカのブッシュ政権の脅威認識をほぼそのまま踏襲したものである、という点において、出発点ですでに重大な問題をはらんでいる。
     つまり、報告書の立脚点は、起こりうる脅威に如何に対決するかといういわば外科手術的発想であり、脅威とされるものの本質を踏まえ、その本質に即した根本的解決を目指すといういわば内科治療的発想でない点において、根本的に問題があるというべきである。

−報告書における非軍事的措置の扱いと武力行使の位置付け

  • *もちろん報告書は、非軍事的措置の重要性をまったく無視しているわけではない。だが、上記の報告書の問題提起(及びその前提になる脅威認識)に端的に反映されているように、報告書全体の重点は、明らかに如何にして安保理の機能強化、特に軍事機能の強化、を実現するかにおかれていることは否定できない。
     また、武力行使を「最後の手段」として位置づける記述は、報告書においても見られる。しかし、・非軍事的措置をとことんまで追求するという姿勢や、・「最後の手段」としての武力行使が往々にして、武力行使を行う前の段階におけるよりも多くの問題を生み出すという問題に対しては、報告書はまったく目を向けようとしていない。さらに言えば、・未成熟である(無政府状態の)国際社会の現状を踏まえたとき、国際紛争の過酷な現実に対して感情的に対処する気持ちを抑え、そういう過酷な現実を生み出す原因を取り除くことに精力的にとり組む視点を確立することの方がより重要ではないか、という発想は報告書には希薄であると思われる。
(ロ)報告書が提起している具体的問題点の検討

−安保理に広範な権限を認めることは正当か

  • *報告書の立場:ある国家が他国または国際秩序に対して脅威を構成する場合に関する「第7章の文言は本質的に十分に広義であり、かつ、十分に広義に解釈されてきているので、安保理が、『国際の平和と安全を維持し又は回復するために必要である』と見なすときには、その国家に対して軍事的行動を含めたいかなる強制的措置を認めることを許してきた。そのことは、脅威が現実に、切迫した未来に、あるいはより遠い将来において起こる場合において然りである。」(第193項)
  • *国連憲章における「国際平和」の当初の考え方は、国家間における武力紛争がないことを意味していた。したがって、「国際平和に対する脅威」という伝統的な概念は、ある国家による他の国家に対する侵略の脅威という客観的な存在またはそれ以外の形による国際的な武力紛争の危険性ということを前提にしていた。つまり、国連憲章は主権国家からなる国際社会に基礎をおいているのであり、憲章の最大の目的は、国家間のいかなる武力行使をも不法にすることによる現状維持であった。集団安全保障の仕組みは、この現状維持に対する脅威及びその破壊に対応し、国家の主権を警護するために作られたものである。憲章の作成者にとって、国内紛争や人権侵害を国際平和に対する脅威と見なす意図はなかったことはしっかり確認しておくべきことである(デンマーク国際問題研究所(DUPI)メHumanitarian Intervention. Legal and political aspectsモ(1999) 62頁参照)。
  • *ここで問題となるのは、以上の憲章起草者の意図にかかわらず、「平和に対する脅威」という概念が本質的に曖昧であるというそれ自体は否定できない事実について、今日の私たちはいかなる立場で臨むべきか、ということである。
     報告書もDUPIも、その解釈は、安保理の裁量に委ねられているという立場を取っており、したがって、安保理が近年において武力行使を安易に容認・許可する傾向をおおむね肯定する立場を取る(ただし、DUPIは、国家間紛争についてではなく、国家内紛争に関してであるが、安保理決議という明確な手続きを踏まない人道的介入の合法性(道義性や正統性についてはともかく)については、むしろ消極的な立場で臨んでいる)。
     しかし、本来的に政治的機関である安保理に、「平和に対する脅威」についての包括的な法律的解釈権を認めることが、上記の如き国連憲章の本来の主旨に照らして妥当であるか、という基本的な問題があることに、私たちはもっと注意を向ける必要がある。特に、安保理に武力行使についての大幅な裁量権を認めることが、「国際の平和と安全」を確保するという目的に照らして妥当といえるかという問題については、もっと本格的な検討を行うべきではないだろうか(これは、国家間紛争に関してだけではなく、国内紛争に関してもいえること)。

−第7章の下での集団的措置として予防的武力行使を認めることが許されるか

  • *報告書の立場:21世紀においては、テロリスト、大量破壊兵器及び無責任な政府を結びつけた悪夢のシナリオに関心を持たざるを得ないため、潜在的な脅威が切迫したものになる前に、受け身的だけではなく予防的に武力を行使することが正当化される場合がある。問題は、そういう行動を取ることができるかどうかということではない。国際の平和と安全に対する脅威があると安保理が見なす場合は、安保理はそういう行動を取ることができる。安保理としては、こういうケースにおいては、より積極的に行動を取る用意があるようにする必要があり、過去におけるよりもより速やかにより決定的な行動を取るようにするべきである(第194項)。
  • *報告書が取る脅威認識は、本質において、アメリカ・ブッシュ政権の取っている脅威認識と軌を一にしている(前述)。そういう脅威に対して、安保理が予防的に武力行使を行うことができるし、積極的にそうするべきである、としていることの重大性は、以下に続く予防的武力行使の「正統性」「合法性」の問題に、報告書自身が言及しているからといって、看過できるものではない。
     たとえば、集団的措置としての安保理の武力行使(当然、多国籍軍による武力行使の可能性を含む)の一環として予防的武力行使を認めてしまえば、第51条により、集団的措置がとられる前の一時的措置としての個別的・集団的自衛権の行使として、予防的な自衛権行使を認めることにつながる可能性は極めて大きい(両者の間に厳密な境界線を引くことは不可能である)。

−予防的行動の正統性という問題

  • *報告書の立場:予防的行動を取るべきかどうかという分別、正統性という問題はある。特に問題になるのは、問題となる脅威が現実に存在するかどうかについて、信頼のおける証拠があるか、与えられた状況において軍事的対応のみが唯一の合理的なものであるか、という点である(第195項)。
  • *報告書は、以上に述べることによって、客観的に、予防的行動(武力行使)の正統性を客観的に証明することの難しさを認めているに等しい。「問題となる脅威が現実に存在するかどうか」という問題に関する事実認定の難しさは、アメリカがイラクに対してとった予防的武力行使の正統性が厳しく問われている事実に照らしても、直ちに明らかである。この難しさは、アメリカではなく安保理が武力行使の主体的当事者となったから変わるという性格のものではない。

−予防的行動の合法性という問題

  • *報告書の立場:国家によっては、自国民に対する責任を強調し、安保理の集団的手続による制約によって制約されないで、必要と見なすことを何でもすることができると考えるものもある。しかし、安保理が有効に機能していなかった冷戦時代であればともかく、状況が変わった今日においては、法的遵守に対する期待ははるかに高まっている(第196項)。
  • *報告書は、実は問題に答えていない。報告書が問題にしているのは、アメリカのイラクに対する武力行使の合法性に問題があるということを言外に指摘しているという意味では有意ではあるが、安保理自体が予防的武力行使を行うことが合法であるかどうか、という問題には一切触れていないからである。むしろ、「法的遵守に対する期待ははるかに高まっている」といわざるを得ないことによって、報告者は、安保理の集団的手続を踏まえるにせよ、予防的武力行使が合法性を取得することは困難であることを言外に認めざるを得ない、と見るべきである。

−安保理の権威性という問題

  • *報告書の立場:安保理を素通りしようとする傾向が生まれる一つの理由は、安保理の決定の権威及び客観性に対する確信が持てないことにある。確かに安保理の決定はしばしば一貫性を欠いてきたし、説得力不足で、国家及び人間の安全保障の要求に対して十分に答えてこなかった。しかしこの問題に対してあるべき回答は、安保理を無能なものとして切り捨てることではなく、内から改革するように働くことである(第197項)。
  • *報告書は、以上の立論に立って、安保理の改革問題に立ち入っていく。しかし、報告書が提案する2つの改革案の内容自体が、安保理がこれまで抱えてきた様々な問題(決定の権威性、合法性、正統性、一貫性)に対する回答として説得力を持っているとは判断できない(安保理理事国の数を5地域からそれぞれ6代表にするという点に関しては、安保理の民主化という観点からは一定の評価はできる)。なぜならば、問題の根幹に座っているのは、先にも述べたように、本質的に政治的機関である安保理が法的機能を営もうとすることに無理がある、という点にあり、その点に踏み込まないいかなる安保理改革の提案も説得力を持ち得ないからだ。

−安保理の可能性という問題

  • *報告書の立場:安保理は、国家にかかわるあらゆる範囲の安全保障上の脅威に立ち向かう十分な権限を、憲章第7章の下で備えている。したがって、私たちにとっての仕事は、権限の源泉として安保理に代わるものを見出すことではなく、安保理が従前以上に機能するようにすることである(第198項)。
  • *報告書は、憲章に定められた安保理のあり方が大国と中小国との間の妥協の産物であったという本質的な問題にまったく目を向けていない。それは、言い換えれば、民主的性格を重視するか、大国中心の機能性を重視するか、という問題であったことはよく知られている。その本質的問題は、報告書が提案する改革によって根本的に解決されるといえるにはほど遠い内容である。この問題を解決するためには、安保理の独走・暴走をチェックするための総会やICJの機能強化、経社理の再活性化などの取り組みを同時的に進めなければならない(報告書もある程度は言及している)。報告書の現状維持の姿勢には、根本的に問題がある。

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