「ハウルの動く城」を観て(訂正版)

2005.01.09

*昨年12月27日と今年に入った1月4日に、宮崎駿監督の「ハウルの動く城」を観ました。最初に観たときは、画面の動きに追われてわけの分からないままに終わってしまった、というのが素直なところでした。しかし、どうしても引っかかる気持ちが残りました。「自分は何を観ていたのだろう」という気持ちが昂じて、もう一度観たのです。そして、引っかかる気持ちが残ったのは当然だったと納得しました。つまり、ようやく宮崎監督がこの作品に込めた思い・メッセージが、私なりに理解できたし、すごい作品だという実感と充足感を味わうことができたのです。正直に言いますと、まだまだ私はこの作品を完全には理解し切れていないし、個別的な点・場面に至っては、宮崎監督が込めた意図・メッセージを十分に受けとめ切れていないところが多々あると言わなければなりません。

しかし、私の理解したこの作品の重みとすばらしさについて、書き留めておきたいと思います。宮崎監督が仮にこの文章に目をとめられたら、見当はずれもいいところだと言われるかも知れませんが、この作品についてこのように受けとめた者があるということも、決してこの作品に対する侮辱にはならないでしょう(2005年1月9日記)。

私の講義を取ってくれていた学生が、このコラムの誤りを指摘してくれたので、そこを直すとともに、もう一度全部を読み直して、若干の修正を加えました(2005年1月21日記)。

1.「ハウルの動く城」の最重要のポイント

「ハウルの動く城」には、大きく言って、二つの大きな柱があると私は思いました。一つは、「戦争する国」に向かう(私流の表現を使えば「国家を個人の上におく」国家観を押しつけようとする)日本の支配層に対する警告と、これに立ち向かう(これまた私流の表現を使わせてもらえば、「個人を国家の上におく」国家観を我がものにしている)人々に対するエールです。もう一つは、保守政治支配層が日本を「戦争する国」にするべく突き進んでいるのに、そのことに気もつかず、「軍事的国際貢献」などの美辞麗句に踊らされている多くの日本人に対する警鐘です。

(1)権力(日本の支配層)に対する警告と「個」(人間の尊厳)をあくまで第一義的なものとする者へのエール

私がこの作品で、宮崎監督が権力(日本の支配層)に対する最大の警告を発していると感じたのは、ハウルの母親として王宮に乗り込んだソフィーが、王室つき魔法使いハリマンと対決した場面でした。ハリマンは、ハウルが国家の言うとおりに動くのであれば許すが、そうでなければハウルを荒れ地の魔女を無力な老婆(国家にとって無害な存在)にしたように、ハウルも無力な存在にすると宣告しました。この宣告を聞いたソフィーは、ハウルがなぜハリマンに従おうとしないのか(要するに、ハウルは国家という権力の言いなりになる存在にはなりたくない、国家の下僕になるのではなく、人間としての尊厳をあくまで第一義的に考えて行動したいと考え、国家のロボットではない人間であることに徹したいということ)が分かったと言い切り、そのハウルを守る(「個人を国家の上におく」国家観を貫く彼を守る)と宣言したのです。

また、最初は外見だけを気にする弱虫である一面を持った個人主義者のハウルが、ソフィーに対する愛情(ソフィーが戦争の犠牲になることから守りきる決意に結びつく)によって国家権力に正面から立ち向かうまでの強い存在にまで自らを高めていく過程を、この作品は見事に描き出していたと思います。また惰性的・無気力に生きていたソフィーは、荒れ地の魔女によって老婆にさせられてしまう(そのこと自体、無気力な生活を送っている者は、外見はいくら若々しく見えても、実は前途に希望を持てない老婆と変わらない、という宮崎監督の現代の若者に対する叱咤激励でしょう)のですが、ハウルに対する愛情を育むにつれて、生き生きと若返っていくのです。ハウルに対する愛情は、すでに述べたように、国家権力を代表するハリマンに対してハウルを守るという宣言にまで行きつくのですが、これはまさに「個人を国家の上におく」国家観の表明以外の何ものでもありません。

付け加えれば、ハウルに対する愛情が激発するとき(自分が老女であることを忘れてしまうとき)のソフィーは若々しい女性の姿に立ち返るという画面における変化も、本当に見事でした(そこまで細心の注意を払う宮崎監督の鋭い感性には舌を巻きます)。

私は、この作品に対して日本国内で酷評する向きが多いのは、「個」(人間の尊厳)を我がものにしていない日本人が多いためであると考えるしかありません。「個」を我がものにしていない人がこの作品を見ても、宮崎監督のメッセージを受けとめる素地があるわけがないのです。宮崎監督としては、何とか一人でも多くの日本人に「個」の大切さ、人間の尊厳という普遍的価値の重要さを分かってもらおうと努力したのではないかと推察しますが、もともとその素地を養うに至っていない多くの日本人には伝わるはずがないのです(私自身も、微力ながら、一人でも多くの日本人が「個」の大切さ、人間の尊厳という普遍的価値を自覚するようにずっと働きかけてきたという意識があるだけに、余計に宮崎監督のメッセージを切なく受けとめました)。

他方、この作品がイタリア(ベネチア映画祭)において上映され、大好評を博したのは、これまた当然だと思います。「個」が確立しており、個人の尊厳という普遍的価値があらゆる問題を考える上での価値基準となっている欧米の人々は、この作品の内容豊かなストーリー性と個人と国家との関係のあるべき姿に関する宮崎監督のメッセージをしっかりと受けとめたであろうからです。

(2)惰性に流される日本人に対する警鐘

日本はいま、「戦争する国」への道を突き進んでいます。その恐ろしいまでの事態は私たちの生活・命を巻き込まずにはすみません。しかし、余りにも多くの日本人がそのことに気がついていません。そして、「軍事的国際貢献」という美名(?)の下で、日本がどんどん戦争参加しているのに、その裏に潜む危険性にも気がつかず、他人事として傍観者に徹しています(スマトラ地震の直後に、1000名もの自衛隊がインドネシアに派遣され、海外では日本の「積極性」に大きな注目(警戒心がこもっている!)が寄せられましたが、日本国内では、共産党委員長の肯定発言(!?)も含め、なんらの反応も起きませんでした)。

私は、「ハウル」の全編を通じてしばしば戦争の場面が出てくるのに、画面に描かれる人々がまったく傍観者的に描かれていることの異様性が無性に気になりましたが、最初に観たときには、その深い意味がまったく掴めませんでした。しかし2回目に観たとき、「ああ、これは日本の今の姿だ」と直感的に感じました。

イラクは遠い他国のことだから、自分には関係がない。自衛隊が海外に行くことにはきな臭い気もするけれども、とりあえず自分には関係がない。多くの日本人はそう感じてやり過ごしています。しかし、このコラムの「国民の保護に関する基本指針(要旨)」でも書きましたように、政府は、すでに日本が核攻撃・核被害に遭遇することまで考えた戦争計画を立てています。考えたくもありませんが、多くの日本人は、訓練にかり出されるようになっても、「それも近所づきあいだから仕方ない」、「自分だけ抵抗しても仕方ない」で従っていってしまうでしょう。そして、現実にアメリカの先制攻撃に巻き込まれて核被害を受ける危険に直面しても、「今更騒いでも仕方がない」で、権力に従っていってしまうのではないでしょうか。ハウルで描き出されている人々は、まさに今の日本人そのものなのです。私には、宮崎監督が本当に切ない思いでこれら群衆の姿を描いているとしか思えませんでした。

2.作品についてのその他の感想

この作品に対する酷評の内容を見るとき、そのほとんどについては、コメントする気持ちにもなりません(キムタクはミスキャストだったとか、倍賞千恵子をソフィーに配したのは理解できないとかの類。ちなみに、ソフィーに倍賞千恵子を配した選択は、私には最高に納得できることでした。若い年から老年に至るまでの女性の声を演じきれる女優はそんなに多くなく、倍賞千恵子は正にうってつけでした。ちなみに、私は山田洋次監督の「寅さんシリーズ」が大好きで、倍賞千恵子が演ずるサクラには、その醸し出す暖かさにいつ見ても感じ入っています)。しかし、次のことは書いておきたいと思います。

(1)荒れ地の魔女

2回目に見たとき、魔女が民主党や公明党にダブって見えてしまいました。権力(自民党)に楯突いた行動を表面的に取るけれども、しょせんは同じ穴の狢(むじな)。権力に声をかけられれば、イソイソとすり寄ろうとするところは、両党に対するこの上もない痛烈な皮肉としか思えませんでした。

しかし、宮崎監督のしたたかさは、権力に邪魔な存在であると判断するときは、権力(自民党を中心とする政官財の権力層)は、魔女をただの老婆に変えてしまうことです。要するに「使い捨て」の対象にしかすぎないということです。ただの老婆に戻されてしまった(権力からハズされた)魔女が、ハウル、ソフィーのために気を遣う存在として描かれるようになったというストーリーの展開については、正直言っていまだに良く意味が分かりませんが、平和憲法を守ろうとする私たちとしては、民主党・公明党(創価学会)の支持層の中には善意の人々が少なくないことを考えて、排除の論理を取るべきではない、ということを、宮崎監督は言わんとしているのかも知れない、とも思います。そうだとすれば、私もまったく同感です。

(2)カブ

戦争相手の隣国の王子がやはり魔法でかかしに姿を変えられているという設定については、背景説明がないので、最後までよく分かりませんでしたし、今もなおこの作品における位置付けが私にはよく分かっていません。しかし、ソフィーに対する愛情が報われて呪いを解かれ、王子の姿にもどった彼が、戦争をやめさせるために国に戻るというストーリーは、若干安易すぎる感じが否めませんでしたが、宮崎監督のオプティミズムの表れとして素直に理解すればいいのでしょうか。

(3)疑問が解けていない点・まだ意味が分かっていない点

ハウルは、ペンドラゴンという名前も使っているのですが、これはソフィーの店の名前(ソフィーの姓?)でもあるという設定です。これには、どういう意味があるのでしょうか。ソフィーに対して、ハウルは前から好意を寄せていたということでしょうか?そんなハウルは、ソフィーが荒れ地の魔女によって老婆の姿に変えられてしまったことを知らないはずはなく(現に、ソフィーが知らないのに、彼女のポケットに魔女からハウルに対するメッセージの紙切れが入っていることを知っていて、何気にソフィーに見せるように促す画面があります)、ハウルのソフィーに対する強い気持ちを感じた私でした。

ハウルの弟子・マルクルについても、まだよく分かっていないところが多いです(私自身、言葉・音声が表示される場面を網羅したアニメ−全4巻で、今のところ2巻まで出ています−を見て、見逃した場面について研究(?)しています)。

まだいろいろありますが、この作品を見ていない人には余り意味がないでしょうから、この辺でやめておきます。しかし、とにかく本当にいろいろ考えることの多い作品です。まだ観ていない人は、是非映画館に足を運んで、自分で観られることをお勧めします。文句なしの佳作です。

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