「ハウルの動く城」についての新解釈

2005.12.07

*私の明治学院大学時代のゼミ卒業生が「ハウルの動く城」についての新解釈を寄せてくれました。今更、と思われるかも知れませんが、彼の解釈も成り立つと思いますし、それなりに見事で、私もうなずけましたので、ここに紹介したいと思います。ただ、彼に返事したときに言ったことですが、「ハウル」が外国でも高い評価を得たということは、私がかつてこのコラムで示したより普遍性を持つ解釈の方が妥当であるということなのではないか、という気持ちはあります。宮崎監督の解釈を聞きたいと思ったことでした(2005年12月7日記)。

  • 先生、ハウルは買いましたか?
    今日、ハウルを二回目見ましたが、今回はめちゃくちゃピンときちゃいました。
    「やられた!」と思うかもしれないので、ハウルを買って見た後に、読んだ方がいいかもしれませんよ(笑)
  • ハウル=日本人
  • マルクル=日本人の小手先技術力をうらやむ第三国
  • 城=ハリボテ・技術大国日本。技術に任せてどこにでも行ける。
  • カルシファー(星の子)=アメリカ(星)
  • ソフィー=民主主義・平和といった、いわゆる普遍的価値。
  • サルマン=天皇
  • サルマンの犬=無意識的右翼OR戦中を生きた天皇教の方々
  • かかし=アジアの隣国
  • 荒野の魔女=ニヒリズム・現実主義
  • めちゃくちゃぴったりきません?

ハウルの幼少期(戦後の日本)、ハウルはカルシファー(アメリカ)と契約を結びました。その時、ハウルの心臓(日本人の心)は、カルシファーに差し出されます。しかし、当時、一瞬、ソフィーという少女(未来であおう!という少女)に出会いました(平和・民主主義の実現への希望)。それを夢見ながらハウルとカルシファーは共に歩みますが・・・

ハウル(日本人)は心を与える代わりに、城(技術力)を動かす力(経済力)を身に着けました。しかし、心のない、孤独なまま成長し、城(日本)も醜く人から恐れられる物で、殺伐としたもの(社会)でした。

ハウルは世界での戦争の中、どちらにつくのでもなく、ただ飛び回り、傷つき帰って来るだけでしたが、荒野の魔女(ニヒリズム)におばあちゃんにされた(古いものとされた)ソフィー(普遍的価値)に(再び)会います。

サルマン(天皇)は、ハウル(日本人)に国の為に戦うように要求しますが、それに対してハウルが対決するのではなく、ソフィーがサルマンに対決するのもよくわかります。普遍的価値による天皇への決別です。そこからハウルは、自立をはじめソフィーを愛し自らそれを守るために戦う決意をしていきます。

しかしソフィー自身はその戦いを止めさせる為に行動します。

城(日本)のハリボテはぼろぼろに剥げ落ちていきますが、最後、ソフィー(普遍的価値)によって、ハウル(日本)の心とカルシファー(アメリカ)は分けられ(日米安保同盟の解消か?!)、ハウルは心を取り戻し、カルシファーもまた自由になります。

そのシーンのソフィーとカルシファーの会話は非常におもしろい!(ここにソフィーが水をかけてもカルシファーとハウルが死ななかった理由があります。普遍的価値は時に冷たいが、生かすもの。)

更に、ソフィー(普遍的価値)を通して、案山子(つまらなく見えるもの)を見たとき、実はただの案山子ではなく、隣国(アジア)の王子であることが分かるのです。

サルマンもその結果(ハウルの自立と自由と平和)には従わざるを得ませんが、決してそのシステムが無くなるわけではありません。存在はするのです。

カルシファーから自立し、自己の心を手に入れ、ソフィーと共に住むハウルの城(普遍的価値を自己のものとした日本)は自由に飛べる、暖かな家族(国家)であるのは当然の帰結となります。

劇中に出てくる「複雑にからまったのろい」とは、まさに戦後日本がまだ解かれていないのろいであり、丸山風にいうとまさに「古層」といえるかも知れません。

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