善意の改憲論者との対話

2005.10.05

*2005年10月1日に広島で行われた憲法第9条に関するシンポでの私の発言については、このコラムで紹介しましたが、改憲論の方とは直接やり取りができないままで終わりましたので、その方の主張に対する私の考えを記しておきたくなって、以下の文章をまとめました。ちなみに、この文章は琉球新報のコラムの文章として書いたものです(2005年10月5日記)。

あるシンポジウムで、憲法9条の改定(以下「9条改憲」)の是非をめぐり、改憲論者と意見を交わす機会があった(私は護憲論の立場で見解を表明した)。司会者の質問に対してそれぞれが見解を表明する形式だったので、改憲論者と直接議論することにはならなかったが、永田町から聞こえてくる「勇ましい」改憲論と違い、その改憲論者は誠実に物事を考えた上で改憲論の立場に立っていることがよく理解できたので、私も彼の主張に謙虚に耳を傾けた。彼の三つの論点に対して、このコラムを借りて擬似的な対話を行ってみたい。

改憲論者の議論の出発点は、日本をめぐる情勢は平和からはほど遠いという認識にある。彼はその論拠として、東シナ海での中国の軍事活動、不審船事件、尖閣、竹島、北方領土という領土問題の存在、拉致問題、中国によるチベットに対する弾圧、中国が全体主義の国家であることなどを挙げた。

私はこう反論したと思う。東シナ海での中国の軍事活動というが、それは精々偵察活動の域を超えるものではない。そこから中国の日本に対する敵意の存在を即断するのは飛躍がある。偵察活動は、米日の軍事力に対して圧倒的劣勢にある中国の警戒感の表れである。不審船事件は、北朝鮮の対日挑発を意図したものと見るのは短絡的すぎる。むしろ日本のとった行動の方が、国際法的には過度な軍事的反応を示したものとして問題がある。領土問題に関しては、ずっと以前からの問題であり、その問題を契機に武力衝突が起こると決めつける方がおかしい。拉致問題については、金正日がその存在を認めたということは、二度と繰り返さないと誓った点に意味があるのであり、むしろ北朝鮮の真剣な対応としてそれなりに評価するべきことだ。チベット問題や中国の体制の問題は、中国内部のことであり、日本に対する脅威という問題とは直結しない。このように、一つ一つ丁寧に吟味すれば、日本をめぐる情勢は平和からはほど遠いとする改憲論者の現状認識には問題がある。

改憲論者は次に、外交は力を背景にして行われるのであり、その力とは経済力のほかに軍事力があり、軍事力がすべていけないということではない、と主張する。護憲論の私は次のことを言いたい。このような発想は第二次世界大戦までの伝統的な権力政治の時代の遺物である。今日軍事力を背景に外交をする姿勢をとっているのはアメリカしかない。世界の大多数の国々にとって、軍事力はもはや外交の支えという受け止め方はされていない。改憲論の主張は、そういう時代状況の変化をふまえない議論ではないか。

善意の改憲論者はまた、専守防衛という国是を守ることは重要であり、保有する軍事力は最小限にする努力をするべきだとした上で、しかし医療事故が避けられないように、国際関係における紛争の生起も避けることができないのだから、やはり国を守る自衛力は保持するべきだ、と主張する。

私はやはり次の点を指摘するだろう。善意の改憲論者は、前段の議論を永田町の「勇ましい」改憲論者に力を込めて訴えてほしい。彼らは、アメリカと一緒になって、世界を軍事的に支配することまで考えた上での改憲論なのだから。後段の医療事故を国際問題になぞらえることはそもそもおかしい。医療事故は避けられないだろうが、国際紛争は避けようとすれば避けることができる種類のものだ。 さて、読者はどう判断されるだろうか。

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