憲法第9条に関するシンポジウムでの発言

2005.10.01

*2005年10月1日に広島弁護士会が中心になって行った憲法第9条に関するシンポジウムにパネリストの一人として参加した際に発言した内容を紹介します。実際の発言は、コーディネーターの質問に応じて若干異なっていますが、基本的な部分に変わりはありません(2005年10月1日記)。

(冒頭発言)

「9条改憲は必要ではない」というより、「9条改憲はしてはならない」と考える。そのように考える理由として、5点に絞って私の考えを明らかにしたい。

1.国際法違反のアメリカの戦争に荷担するための9条改憲は許されないこと

今日の9条改憲への動きは、アメリカの先制攻撃戦略に日本を巻き込んで、日本を「戦争する国」に変えようという明確な目的の下に進められているが、アメリカの先制攻撃戦略に基づく戦争は、戦争を違法化した国連憲章に違反するものとして許されるものではなく、その国際法違反の戦争に加担することは、集団的自衛権行使として正当化されるものでは全くなく、日本自体が国際法違反を犯すことになる。

集団的自衛権とは、ある国家が他国の攻撃を受けたときに、もう一つ(以上)の国家が、自国は攻撃を受けていないにもかかわらず、当該ある国家に対する攻撃を自国に対する攻撃と見なして、当該ある国家と一緒に戦う権利、というのが国際的に確立した解釈である。アメリカの先制攻撃戦略による武力行使は、集団的自衛権を行使する前提条件を欠いており、日本がこの権利を援用してアメリカの不法な戦争に加担することは許されない。

2.国際の平和を破壊するアメリカの戦争に加担するための9条改憲は許されないこと

9条改憲を目指す動きは、テロリズム、ならず者国家・圧政国家(アジアでは北朝鮮、中国が該当するとされる)を脅威と見なし、これらを軍事的に押さえ込むことを狙うアメリカの世界戦略に呼応するものであるが、これに同調すること(9条改憲)は、テロリズムという本来治安の対象である犯罪行為を戦争と混同する点で本質的に誤っており、また、北朝鮮、中国と軍事的に対決する方針を追求することは、アジア・太平洋の平和と安全を根底から突き崩す危険きわまりないものである。

アメリカの対テロ戦争が国際の平和をもたらさず、逆に世界各地でテロの頻発を招いていることは客観的な事実である。アメリカの政策は誤っており、早急に改めるべく、国際社会がアメリカに対して働きかけを強めることこそが急務である。また、朝鮮半島の分断、台湾問題を抱える北東アジアにおいて求められるのは、あくまでも問題の平和解決であり、アメリカが先制攻撃戦略を発動しないことを確保することが緊要である。

3.過去を美化し、正当化する動きと結びついた9条改憲は許されてはならないこと

今日の日本国内における9条改憲を目指す動きは、現行憲法を「押し付け憲法」とし、自主憲法を制定しようとする1955年の保守合同(自民党成立)以来のものであるが、それは一貫して過去の侵略戦争を正当化しようとする動きと連動しており、そのこともまた、日本軍国主義の侵略・植民地支配によって甚大な被害を被った中国、朝鮮半島をはじめとする東アジア諸国の人々の日本に対する不安と警戒を招く最大の原因となっている。

「歴史を振り返らないものは、再びその歴史を繰り返す」とは、普遍的に承認された歴史に関する認識である。「過去を水に流す」ことをよしとする日本人の歴史に対する認識は、過去において犯した過ちを再び繰り返す危険性を秘めている。私たちは、正しい歴史認識を培って、近隣諸国の信頼を獲得することに努めなければならず、その意味からも、過去の反省に立脚する9条の改憲を許すことがあってはならない。

4.不測の事態に備えるための9条改憲という主張はむしろ戦争を招く可能性が高いこと

自衛措置を講じることは不測の事態に備えるために当然であり、そのためにも9条改憲が必要であるとする主張に関しては、過去において侵略戦争の前科がある日本が武装することによる近隣諸国との相互不信によって引き起こされる戦争の可能性の方が遙かに高いことを考えれば、極めて説得力に乏しい。

武装せず、近隣諸国に対して脅威とならない日本に対して、中国、北朝鮮が理由なく戦争を仕掛けてくるなどというシナリオは、あらゆる戦争シナリオを想定し、対抗手段を執らなければ気が済まないアメリカの戦争シナリオにも含まれていない事実は、自衛のためには9条改憲が必要とする主張が如何に根拠のないものであるかを示すものである。その点は、昨年12月10日に閣議決定された新防衛計画の大綱(「我が国を取り巻く安全保障環境を踏まえると、我が国に対する本格的な侵略事態生起の可能性は低下する一方、我が国としては地域の安全保障上の問題に加え、新たな脅威や多様な事態に対応することが求められている」)で、日本政府自身も認めている。

5.平和国家に徹すること(9条堅持)が最大の安全保障

日本が外国に侵略の気持ちを起こさせず、日本の平和を守る最大の保障は、過去に対する徹底した反省に立って「力によらない」平和観に徹することによって、近隣諸国の対日不安・警戒を招かないことにこそあるのであって、そのためのもっとも確かな保証は9条を堅持することである。

9条は、アジア侵略・第二次世界大戦を引き起こした日本軍国主義の過ちを二度と再び繰り返さないことを国際社会に対して約束した極めて厳粛な公約である。残念ながら過去60年を通して日本は、9条を誠実に履行してきておらず、とくに近年においてはアメリカの危険な軍事戦略にのめり込み、歴史を直視しない姿勢をますます顕著にすることにより、中国、朝鮮半島をはじめとする近隣諸国の不安と警戒を引き起こしている。相互不信こそは国際紛争・戦争の引き金である。日本は、今こそ9条を堅持することを内外に対して鮮明にすることによって、相互不信の種を取り除くことに全力を傾けなければならない。

(質問)護憲論も日本の安全を守る必要性は否定されません。改憲論が主張するように、いつか日本が武力紛争に巻き込まれることがあるので、将来に備えて9条を改正して自衛軍を持つ必要があるのではないか。

第二次世界大戦までの国際社会では、不戦条約の存在にもかかわらず、確かに国際紛争の解決手段としての戦争が広範に行われていたし、かつての日本が典型であったように、自衛を名目にした侵略戦争が横行していた。現行憲法審議の国会において、吉田首相(当時)が、「過去における戦争の多くは自衛の名のもとに戦われたのであり、自衛の戦争を認めることは有害」という趣旨の発言を行ったことは有名な事実である。

日本が武力紛争に巻き込まれる可能性に関しては、次の2点を指摘したい。まず、ありとあらゆる武力紛争の可能性を考えてそれへの備えを講じなければ気の済まないアメリカでさえ、他の国が日本を攻撃することによって始まる戦争の可能性をまったく考慮していない。また防衛庁も、日本に対する本格的侵攻の可能性は低いことを承認せざるを得なくなっている。ということは、他国からする武力侵攻に対する備えとして自衛軍を持つ必要性があるという議論は成り立たないことを意味している。

次に、日本が何らかの形で武力紛争に巻き込まれる場合があるか、ということだが、それは、アメリカが中国や北朝鮮に対して先制攻撃の戦争を仕掛ける場合に、アメリカの軍事同盟国であり、米軍に基地を提供し、アメリカの戦争に協力する日本がそれに加担する場合にのみ考えられるし、それが米日の戦争計画で考えられていることである。この場合は、先制攻撃を仕掛けるアメリカは国際法違反の戦争を行うわけであり、それに協力する日本も国際法違反を犯すことになる。このような戦争は、「相手からの攻撃に対して共同して自衛する」という意味での集団的自衛権の行使として正当化することはできない。

したがって日本として考えなければいけないことは、アメリカをして不法・不正な戦争をさせない(具体的には対米軍事協力を拒否する)ことである。日本が戦争協力を拒否すれば、アメリカは戦争を仕掛けられないわけだから、中国、北朝鮮としても日本に対して武力行使をする必要から解放される。したがって、日本としては武力紛争に巻き込まれる事態を考える必要はなく、自衛軍を持つ必要性もないということになる。

もう1点付け加えておきたい。過去の戦争責任を反省しない日本が、主観的には「武力紛争に巻き込まれるときの備え」として軍事力を強化すると考えても、近隣諸国はそれを額面どおり受け止めることはない、ということである。つまり、日本の軍事力の強化は、近隣諸国の対日警戒心を増幅し、軍拡競争を引き起こす要因になっており、そのことはますます軍事的緊張を高めるだけである。戦争責任を清算していない日本が考えるべきことは、自らの行いを正し、近隣諸国の対日警戒・不安を除去することに努めることであり、その意味でも、軍事力強化に走るべきではない。

(質問)改憲論では、日本の安全が脅かされるおそれとして、北朝鮮・中国・テロリスト・大量破壊兵器と弾道ミサイルの拡散(平易な言葉で解説しながら)の脅威を挙げます。9.11は、戦争に等しい被害を及ぼしました。もし大量破壊兵器が使用されたら、想像を絶する結果になったと考えられる。護憲論は、これらの脅威には軍事力で対処すべきと考えないのでしょうか。現在の憲法でこれらの脅威に対してどのように有効に対処できるのでしょうか。

北朝鮮・中国の脅威とテロリストの脅威、さらには大量破壊兵器と弾道ミサイルの拡散の脅威は、それぞれ性質を異にするもので、ひとくくりで扱うことは適当ではない。

まず北朝鮮及び中国の脅威についてだが、これもひとくくりで扱うことができない。北朝鮮の場合、ノドンやテポドンなど日本を射程に収めるミサイルを持っているから脅威だとか、日本の原子力発電所を破壊する能力を持った特殊部隊(ゲリラ)を抱えているから脅威だとか、不審船事件、拉致事件などに示されるように、「何をしでかすか分からない相手」だから脅威だとか、いろいろなことがいわれている。しかし、脅威という概念は、相手を脅かす能力とその意思が備わった場合にのみ使われるものである。国力・軍事力で圧倒的に日本に劣る北朝鮮が、理由もなく日本に攻撃を仕掛けてきたら、米日にしては「飛んで火に入る夏の虫」であり、次の瞬間には北朝鮮は全滅する運命が待ち受けている。自分の政権維持こそが至上課題の金正日がそんな愚かなことを「するかも知れない」と考えるのは、私たち日本人ぐらいだろう。

中国については、戦争が起こる可能性があるのは台湾問題だけである。台湾問題に関しては、アメリカと日本が台湾独立を認めない立場を堅持する限り、中国が台湾を攻撃することはありえず、したがって中国との間に戦争が起こることもあり得ない。問題は、アメリカが台湾独立を支持して中国に戦争をふっかける場合だが、これは前にも述べたように、不法な戦争であり、日本はアメリカを支持することは許されない。私たちが全力を尽くすべきは、アメリカが中国に対して戦争を仕掛けることを止めさせることであり、そうすれば、中国が日本を攻撃するようなことにはならない。

テロリストの脅威については、まずテロリズムとは何かについてはっきりさせておく必要がある。テロリズムとは、政治的目的を持った無差別殺人・破壊ということであり、その本質は犯罪である。9・11事件が起こるまでの国際社会では、そういう認識のもとに、犯罪に対する刑事的対応ということで臨んできた。9・11事件を契機に、ブッシュ政権が「これは戦争だ」と叫んでしまってから、物事が混乱してしまったわけだが、私たちはまず、テロリズムに対しては、戦争に連なる脅威というとらえ方をする過ちを犯してはならず、あくまで犯罪として扱うことを確立する必要がある。現実に、スペイン、イギリスで起こった大規模テロに対して、両国政府はあくまで刑事事件として、警察を主体として処理した。

大量破壊兵器や弾道ミサイルについては、それらのものそのものが「脅威」となることはあり得ない(物質にすぎないものが攻撃する意思を持つはずがない)。それらのものを保有することになる国家あるいは非国家主体(例えばテロリスト)が「脅威」となるか否か、という形に整理して議論する必要がある。

(質問)日米安保体制、日米同盟は日本の安全にはなくてはならないものであり、日米安保体制、日米同盟を維持強化するためには9条を改正して、アメリカとの集団的自衛権を行使できるようにしなければならない、という意見がある。この意見は90年代末からアメリカサイドから強く出されてきている。自民党、民主党の9条改正論の一番の本音の部分ではないかとも思われる。この意見についてお二人の意見を聞きたい。

この問題を議論するに当たってまず明確にしておかなければならないのは、「集団的自衛権」の意味である。集団的自衛権とは、自国が攻撃されたのではないにもかかわらず、自国の安全にとって密接な結びつきがある国家が他国から攻撃された場合に、その国家と一緒になってその他国と戦う権利、とされている。つまり、集団的自衛権を行使しうるための前提は、自国の安全に密接な関わりがある国家が他国から攻撃されている、ということがなければならない。

極めて遺憾なのは、日本におけるこれまでの議論では、このもっとも重要なポイントがことさらに無視されていることである。アメリカが日本に要求しているのは、アメリカがはじめる先制攻撃の戦争に対して、日本が全面的に協力するということであり、そのような場合には不法な戦争への加担ということであって、集団的自衛権の行使ということははじめから問題にならない。したがって、第9条に集団的自衛権に関する規定を設けたからといって、アメリカの先制攻撃による戦争に加担することを合法化することにはなり得ない。

ちなみに、国連の集団的措置(集団安全保障)としての武力の行使に対する参加を可能にするためにも、集団的自衛権に関する規定が必要だという主張があるが、この点についても法的な問題点をはっきりさせておく必要がある。国連憲章上の位置づけとして、集団的措置と集団的自衛権とは互いに法的にまったく独立した概念であって、両者を混同することには極めて問題がある。確かに湾岸戦争以来、安保理決議では、集団的自衛権を行使する多国籍軍の武力行使を集団的措置(集団安全保障)として認めるケースが増えているが、それは国連としてまとまった集団的措置をとり得ない現実を踏まえた便宜的な措置としてであって、国連憲章の趣旨に即した措置として肯定できるかどうかについては強い疑問がある。したがって、特に民主党の中に強い、集団的自衛権の規定をもって国連の承認する武力行使に参加する根拠とする考え方には強い疑問がある。

より本質的な問題として、国連(安保理)が認めた武力行使はすべて正しいのか、ということを考えなければならない。国連による、あるいは国連が承認した武力行使は往々にして問題解決に役立っていないのみならず、逆に紛争を拡大し、撤退を余儀なくされる場合がしばしばである。現在のイラク情勢はその端的な例だ。であるからこそ、国連のかかわる武力行使であっても、すべての国連加盟国が武力行使に参加するわけではなく、各国が自らの判断で参加するか否かを決めている。国連の武力行使には参加するべきだという短絡な主張がまかり通る日本の状況は極めて異常である。テ

国連憲章とのかかわりでもう1点指摘しておきたい。憲章第43条3項は、国連による武力行使に対して兵力を提供するかどうかについては、各国が憲法上の手続きに従って定める旨規定している。ということは、国連が武力行使を決定しても、それに参加するかどうかは各国が自主的に決めればいい、ということである。侵略戦争の前科のある日本としては、なおのこと海外派兵には慎重であるべきであり、だからこそ9条があるという重みをかみしめたい。

(質問)憲法前文は、国際協調主義を掲げ、国際貢献を積極的に推進している(憲法前文を引用する)。9条により国際貢献は非軍事的貢献とされている。現憲法で自衛隊を国際貢献で使う場合も、武力行使ができないとされている。他方、9条改憲は日本のこの立場が変わることになり、アジアでの警戒感が出ています。
 護憲論へ質問、グローバルに日本企業が進出している日本経済の現状と大国にふさわしい国際貢献が必要であるなら、憲法改正して軍事的貢献が必要ではないか。

まず明確にしておく必要があることは、グローバル化のもとで海外進出している日本企業の利権を守るために日本が海外で武力行使することは、戦争一般を禁止した国連憲章上認められておらず、また、武力行使される相手の国家からすれば明らかに侵略という違法な戦争であって、およそ国際貢献という範疇で語る余地のない問題ということである。

さらに言えば、海外における日本の権益を守るためには軍事力が必要とする主張は、限りない軍拡、圧倒的な攻撃的軍事力を前提にしてのみ成り立つものだ。世界においてそのような軍事力を持っているのはアメリカだけである。ということは、日本企業の海外進出と絡めて9条改憲の必要性を主張することは、日本が正真正銘の軍事大国になることを狙ってのものということになる。

しかし、仮に日本がアメリカに匹敵するだけの軍事力を持つことを本気で考えた場合、直ちに大きな問題にぶつかる。一つは、日本の経済力でそれだけの軍事力を持つことが可能かという問題だ。もう一つは、より深刻な問題として、そんな日本の存在をアメリカ自体が許容するはずがないということだ。今の程度の中国の国防力増強に対してでも、アメリカは大変過敏な反応を示している。ましてや日本が本気で軍拡に踏み出したら、アメリカの対日姿勢は一変することは間違いない。したがって、経済的動機に基づく軍拡論、9条改憲論は極めて非現実的だと言うほかない。

私は、日本がまぎれもない経済大国として、貧困の問題をはじめとして地球的規模の諸問題の解決に非軍事の分野で積極的に寄与することは、当然のことであり、やらなければならないことだと考えている。また、この非軍事の分野において大国・日本が果たしうる役割は非常に大きいものがあると考えている。また、そういう日本の生き方こそが、アジア諸国(のみならず国際社会全体)の信頼を揺るぎのないものにする確かな道だと考える。

軍国主義の過去を清算していない日本に対する近隣アジア諸国の警戒感は非常に大きい。最近の日本の歴史認識のあり方に対しては、アメリカの議会や言論界からも警戒感が表明されるようになっていることも、私たちとしては十分留意する必要がある。そういうアジア諸国に代表される対日警戒感を無視して、日本がアメリカ政府の命ずるままに軍事的国際貢献と称して海外における武力行使に突っ走ることは、日本をアジアにおいてますます孤立させるだけであり、また、アジアの平和と安定を損なうものとして、私たちとしては控えなければならないし、軍事的国際貢献を名目にした9条改憲の議論は非常に危険だ。

(質問)自民党改憲案は、「公益及び公の秩序」のため基本的人権を制約できるとする。「公益」とは国家の安全を含むとしている。そもそも憲法は、基本的人権を守るため国家権力を制約しようとする法的手段、これを立憲主義といって近代憲法の原則。自民党案は立憲主義を危うくさせる。現在有事法制で、「有事」には、国民の基本的人権が制約される仕組みがあるが、改憲により、更に国防の義務や徴兵制導入の糸口が作られるのではないかと危惧する。

護憲論は国家の安全と基本的人権の尊重とが矛盾する場合、この両者の価値をどのように考えるのか、自民党改憲案への批判を含め意見を述べられたい。

人間の尊厳の承認という基礎に立った基本的人権の尊重こそは、諸国の人々の多くの犠牲の上に、国家権力から戦いとった、人類の歴史が獲得したもっとも重要な成果であり、基本的人権は人類普遍の価値として確立している。この歴史の経緯から直ちに明らかであるように、基本的人権は優れて国家をはじめとする権力に対する人間の権利としての意味合いを持っている。そういうものとして基本的人権は、国家権力といえども、国家の安全などの如何なる理由をもってしてもその権利を奪いあげてはならないことは、先進民主主義諸国では広く承認されていることである。

確かに基本的人権が承認されている国家に対して、他の国家から侵略が行われるような極端な場合を考えれば、基本的人権を守るために国民が一丸となってその侵略に抵抗するということはあり得るし、そういう場合に「国家の安全を守るため」という言い方がされることはあるだろう。しかし、その場合であっても、基本的人権の尊重と国家の安全ということは深いところで結びついているのであって、両者が対立するという関係に立つわけではない。

「国家の安全と基本的人権の尊重とが矛盾する場合」という問題を考える上では、現在のアメリカの状況を見ることが非常に参考になる。ブッシュ大統領は、「国家の安全を守るため、アメリカの自由を守るため」と称して多くのアメリカ人をイラク戦争に駆り立てた。9・11事件の直後のアメリカでは、国家の安全と自由(基本的人権)を守るための戦いというブッシュの主張は、確かに圧倒的なアメリカ人によって支持された。しかし、ブッシュの掲げたイラク戦争の大義が崩れ、イラク戦争が泥沼に陥り、数多くのアメリカ兵が犠牲になっていることによって、今やアメリカ国内からブッシュの主張に対して強い批判の声が上がりつつある。その批判の最大のポイントは、「国家の安全」を口実としてアメリカ人の自由(基本的人権)を奪いあげることは許されないという点にある。

つまり、アメリカという国家の拠って立つ基盤と自他共に認めてきた自由(基本的人権)が、ブッシュ大統領のいう「国家の安全」の名の下において犠牲にされる構図が明らかになることを背景として、自由(基本的人権)の名において、ブッシュ大統領の「国家の安全」を優先する政策を批判し、反対することが、アメリカにおいては当然のこととして認められるのである。基本的人権といわゆる「国家の安全」が実際に矛盾するときに、現在アメリカにおいて起こりつつある事態ほど雄弁に基本的人権が「国家の安全」に優越するということを明らかにしている事例は少ないと思われる。

(質問)改憲論では、9条と現実の自衛隊の存在という規範と現実との乖離が大きいので、自衛隊を合憲化して憲法できちんと規制すべきであるという意見がある。改憲論が9条2項を削除し、集団的自衛権行使を認めるというのは、現状の自衛隊を憲法上追認するだけなのか、それとも自衛隊に今以上の軍事的役割を果たさせようとするのか。この意見について改憲論、護憲論はどのように考えるか。

1990年に内閣法制局長官が、憲法第9条第2項との関わりで、「自衛隊は戦力ではない」という建前を掲げていることの帰結として、・武力行使を目的とした海外派兵は許されない、・集団的自衛権は行使できない、・目的・任務に武力行使を伴う国連軍には参加できないと述べたことがある。現実にイラクに派遣されている自衛隊は、武力行使のできない「軍隊」として、その活動が武力行使という点において「制約」されているのは事実である。

改憲派が集団的自衛権行使を認める規定を第9条2項との関わりでおくことの目的は、上記・についての制約を取っ払うだけではなく、海外における武力行使に道をひらくことにある。それは決して、現状の自衛隊を憲法上追認するだけに留まるのではなく、自衛隊に今以上の軍事的機能を持たせようとしていることは明らかである。

ただし、すでに述べたとおり、集団的自衛権の概念は厳密に理解しなければならない。相手側から攻撃されてもいないのに、他の国々と一緒になって相手側に殴りかかるような武力行使は、仮に9条改憲されたとしても、集団的自衛権の行使として認めることはできない(アメリカによる先制攻撃の戦争への参加はあくまで許されない)、ということは明確に国民的認識として確立する必要がある。

第9条2項に集団的自衛権の行使を可能にする規定をおく場合、直ちに問題になるのは、例えば次のようなケースである。すなわち国連では、人道的介入と称して、集団的措置(集団的自衛権行使としての多国籍軍のケースを含む)の武力行使を積極的に認める立場をとっている。例えば、本年9月16日に採択された国連首脳会議成果文書では、「平和的手段では不十分で、(深刻な人道問題が起こっている)国家が住民を保護できない場合は、安保理を通じた集団行動をとる用意がある」としている。このようなケースでは日本の軍隊が海外での武力行使に参加することが可能とされることになる。このようなことは、現行憲法下では許されなかったものであり、明らかに改憲によって、現状の自衛隊を憲法上追認するだけに留まるのではなく、自衛隊に今以上の軍事的機能を持たせることになることはあきらかであり、その点は改憲派がまさに目指しているところである。