沖縄2紙の8月の報道に思うこと

2005.09.06

*私は、8月6日が終わってから、仙台への講演(8日)と、舞鶴でのシンポジウム(24日)、鹿児島での親子劇場でのお話(26日)、そしてその間の夏休み(9日〜22日)と、広島平和研究所に顔を出さず、29日以後になってやっと沖縄タイムスと琉球新報に目を通すことができるようになった。そしてその中身に深い印象を受けた。以下では、その中のいくつかについて紹介する(2005年9月6日記)。

1.8月6日の社説

沖縄2紙は、広島の原爆の日に長文の社説を出していた(すぐさま思ったのは、6月23日の沖縄戦の事実上の終結の日に中国新聞は社説を出していただろうか、ということだった。自分のスクラップを見る限りはない。記憶にもない)。とくに琉球新報は、秋葉市長の平和宣言が「被爆者の志を受け継ぎ、責任に目覚め、そして行動に移す決意を世界に表明する」と指摘しながら、「地獄のような地上戦があった沖縄に住むわたしたちは、そのことがよく理解できる。広島・長崎の方々の声を聞き、核廃絶のための運動を広げる使命がわたしたちにもある」と書いている。ここからは、広島・長崎との連帯心を力強く表明する沖縄の強い意思表示がある。広島もこの沖縄の連帯の心に学ぶ点が多いのではないだろうか。広島、長崎と沖縄はもっともっと連帯を強める必要があると改めて強く思う。

2.米軍の勝手を極める行動

米軍は、8月4日にキャンプ・ハンセン内の「レンジ4」の都市型戦闘訓練施設で実弾射撃訓練を再開した。実弾射撃訓練の強行に抗議し、約1万人が参加した県民集会後初めてだった。最初に行われた7月12日、13日と同様、政府や地元に具体的な訓練日の通告もなく再開されたという。しかも米軍は、8月15日にも再度訓練を強行した(16日にも5回目の訓練)。「終戦記念日に実弾を放つ無神経さ」(8月16日付琉球新報)に、県民の間には反発が広がったという。しかも米軍は8月17日には、日本の防衛施設庁長官に対して、射程約1100・のM24ライフルの使用について説明した。この射程距離には伊芸区の住宅地がすっぽり入るという。伊芸区民の間からは、「ライフル訓練が始まれば、軍車両を止めるしかない」と実力阻止の声も上がったそうだ。「不測の事態が起きれば無策のまま事態を放置した政府の責任が問われよう」(同日付琉球新報)という深刻さだ。

米軍の横暴さはこれに止まらない。8月17日には名護市辺野古沖で米海兵隊が水陸両用車の海上移動訓練を再開。23日には米海兵隊の大型車両が沖縄自動車道を往復する訓練で衝突事故。24日には、嘉手納基地で米空軍が有事に備えた即応訓練を嘉手納町の中止要請を無視して続行し、町役場などが大量の白煙に包まれた。「まさに米軍は『やりたい放題』である」(8月25日付琉球新報社説)。

嘉手納基地での即応訓練は、民間地域から2・の地点で地上爆発模擬装置を爆発させたという。「どういう結果を招くのか、常識で考えれば分かることである」のだが、その常識が通用しないということは、「訓練体制、住民に対する配慮に構想的な欠陥があることを米軍自らが証明した」(同)というのはその通りだろう。沖縄自動車道での運転訓練については、「自動車道は県民の生活道であり、そこで訓練を行う神経が理解できない」(同)というもっともな指摘がついている。

私は、この琉球新報の社説を読んだとき、その強い憤りに共感を覚えると同時に、非常に不吉な思いもさせられた。沖縄の現実は、これから本土でも常態化することの予兆なのではないか、と。「武力攻撃事態対処法」「国民保護法制」のもとで、沖縄に限らず、日本全土が米軍と自衛隊の演習・訓練に踏みにじられることになっている。そのうちなし崩し的に本土でも米軍、自衛隊が勝手気ままに動き始めることになることは目に見えている。琉球新報のこの社説は「県民無視はやめよ」という表題だが、本土の私たちが「沖縄は気の毒だ」というような第三者的な気持ちで事態を捉えているのであれば、「明日は我が身」になったときに臍をかむことになるのは私たち自身である。

こういう沖縄の状況を背景にして出された8月10日付の沖縄タイムス社説は、「解散総選挙:米国にもの言う政権を」と題されていた。最後ではこういっている。「自民党内の対立から発した解散総選挙だが、県民の立場からは選挙戦の何に判断基準を置くのか、見えてくるのがある。それは『米国にはっきりものを言う政権』を選択することだろう。」このまとめの発言は、米軍の勝手を極める行動になすすべもない日本政府に対する沖縄の人々(少なくとも一部)の声を代弁しているのではないかと思う。そして、沖縄の今日は本土の明日、という私の不吉な思いを共有する人たちであれば、今回の総選挙で「米国にもの言う政権を」は自分自身の投票での意思表示の重要な基準でなければならないことが理解されるはずである。

3.沖縄の本土に対する気持ち

沖縄国際大学構内で起きた米軍ヘリ墜落事故(2004年8月13日)から満1年を迎えて、沖縄2紙の取り組みも力が入っていたが、私がとくに注目したのは、「連続インタビュー 『ヘリ墜落』の記憶」(8月3日〜19日 7回もの)を組んだ沖縄タイムスの記事だった。とくに3人の人の話が印象に残る。

「沖縄が抗議し続けても、日本政府はなめきっている。本土は知らないふりをしている。温度差なんてものではない。温度差なら必死に伝えようとすれば伝わるが、本質的なところで知らないふりをしている。本土の政治家たちの意見を変えるのは非常に難しい気がする。沖縄を植民地的な意識で見ている。だが、沖縄の声が届かないと日本は滅びてしまうと思う。」(佐喜真道夫氏)

「沖縄の人たちは犠牲になることに慣れ、怒ることを忘れてしまっている。基地収入に慣らされ、復帰前の島ぐるみ闘争の時のようなエネルギーはそがれてきている。沖縄の心、世界をまたにかけた琉球王国の精神哲学が、支配を受けた歴史の中で薄らいでいるような感じがする。」(宮里一郎氏)

「自分の子どもが隣の外国人に何かされたら、親はその人間に出て行けと言うだろう。政府がそう言わないのは、沖縄人は本当の日本人ではない、継子だと思っているからだ。ヤマトという『本当の子ども』の言うことしか聞かない。
 (普天間の辺野古沖移設も撤回されない、という記者の問いかけに対し)「小泉純一郎首相が『本土で反対が多い』と言ったのには本当に腹が立った。沖縄には押し付けておいて、ヤマトには押し付けられないのか。事故直後は国外移設だと思ったが、最近やっぱりヤマトに持っていくしかないと考えている。それは悲しいことだけど、事故があっても、政府もヤマトの人間も分からないんだから。」(石川真生氏)

米軍基地問題で追いつめられた沖縄の人々の心情が重く伝わってくる。無責任なのは日本政府だけではない。沖縄に犠牲を押し付けて「自分は平和だ」という意識に埋もれている私たちも本当に無責任を極めている。

同時に次のようなことも考える。佐喜真道夫氏が「だが、沖縄の声が届かないと日本は滅びてしまうと思う」と発言していることは、本当にその通りだと思う。9月2日に私は中国新聞の記者の取材を受けて、広島は総選挙の争点として憲法問題に対してどういう立場に立つべきかという質問に答えたことがよみがえったからだ。私は、「沖縄、広島、長崎の途方もない犠牲の上に平和憲法がある。そのことを重く感じて、3県の有権者が憲法問題で有権者としての判断を示したと言われるような投票行動を示してほしい、と心から願っている。また、3県の有権者がそういう明確な意思表示をすれば、そのことは必ず国政、とくに今後の憲法「改正」問題に対して、全国に有力なメッセージを送ることになるだろう」と述べた。佐喜真道夫氏の発言もおそらく私と同じ趣旨だろうと思う。

もう一つ考え込んだことがある。石川真生氏の「沖縄人は本当の日本人ではない、継子だと思っている」という発言だ。沖縄2紙を読んでいるものであれば、このような発言が石川氏に限られたものではないことにはすぐ気がつくだろう。確かに沖縄戦の歴史や、沖縄を犠牲にしての本土の独立回復、沖縄返還後の沖縄差別の実態等々を振り返れば、沖縄の人々がそういう気持ちに傾くことは理解できるし、私たちが本当に人間の尊厳を基準にして物事を判断することを当たり前のこととして身につけているのであれば、沖縄が差別されてきた歴史と現実に目を背けることは許されないことだと思う。優れて人間の尊厳という基準に立って物事を考える沖縄の人々にとって、本土の私たちに明らかな人間の尊厳に対する不感症は差別以外の何ものでもないだろう。本土の私たちが人間の尊厳という普遍的価値を我がものにし、沖縄に対する差別的事態を我がこととして捉え、これを解決するために正面から取り組むことは急務である。

その点をしっかりふまえた上で、私はさらに考えることがある。沖縄は差別されているが、本土でも厚木基地とか、横田基地とか、基地被害に悩まされ、その被害をなくすために戦ってきた人々はいる。しかし、それらの人々に対する日本政府の対応もまったく冷たいということである。要するに日本政府は、基地負担の犠牲になっている人々に対しては冷淡である、というのが根本にある。だから、日本政府は沖縄に対してだけ冷たい、継子扱いにしている、というだけでは、まだ物事の全体像を捉えきったことにはならないということかも知れない。

日本政府の考慮する最大の基準は、「何とかしてアメリカの要求を満たしたい」ということしかないだろう。アメリカの要求を満たすためには、私たち国民のことなど、ましてや人間の尊厳などどうでもいいのだ。しかし現実には、新しい基地受け入れに対しては猛烈な抵抗が起こる。そこで、何とか「諦めのいい」ところにしわ寄せを図る、ということになる。宮里一郎氏のいうように、「沖縄の人たちは犠牲になることに慣れ、怒ることを忘れてしまっている」から、日本政府はつけ込むのだ。

しかし、先ほども触れたように、武力攻撃事態法、国民保護法制ができてしまった日本では、今後国民・住民の意向を無視してでも米軍・自衛隊の思い通りにすることができる法的枠組みができてしまった。したがって、在日米軍再編強化の流れは、これから沖縄だけではなく本土においても、国民・住民の安全を犠牲にする形でどしどし強行されるようになると見ておかなければならないだろう。沖縄自動車道だけが例外という事態は早晩「解消」され、日本中の高速自動車道(いや一般道路すら)で米軍、自衛隊が我が物顔に走り回る事態を覚悟しなければならないだろう。そうなると、問題の本質は、沖縄に対する「差別」という次元だけではすまなくなくなる。

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