浮島丸事件と舞鶴

2005.08.25

8月24日に舞鶴市で浮島丸殉難者追悼式典と浮島丸殉難60周年企画としての東アジア国際シンポジウムがあり、私も参加する機会に恵まれました。

1.浮島丸事件とは

浮島丸事件といっても、あまり知られていないと思います。シンポジウムについてのパンフレットでの紹介と、浮島丸殉難者を追悼する会の事務局長である須永安郎さんがシンポジウムにパネラーとして参加され、お話になった内容が簡潔で要を得ていると思いますので、シンポのコーディネーターとしてそのお話の要点を書き留めた私の記録に基づいて紹介します。

浮島丸事件について、パンフレットでは次のように紹介されています。

「終戦直後の1945年8月24日、舞鶴湾内で、海軍輸送船・浮島丸は突然の爆発によって沈没しました。浮島丸は戦争中に青森地方で土木労働を強いられていた朝鮮人労働者とその家族数千人を乗せ、故郷朝鮮に帰国途中でした。この爆沈によって朝鮮人524人、日本人乗組員25人が死亡しました。」

若干補足すれば、「土木労働を強いられていた朝鮮人労働者」の多くは、強制連行で日本に連れてこられた人々だったのです。

なぜ「事件」と呼ばれることになったのかについて、須永さんは5つの疑問点を挙げておられました。

  1. 浮島丸は、大湊を出向して釜山に向かうはずだったのに、なぜ舞鶴に入港しようとしたのかが明らかになっていないこと
  2. 乗船者数は、後に政府側が発表したところでは3735人であるが、実際には5〜6000人以上だったという説もあり、正確なところは不明であること
  3. 爆発原因について、政府側は米軍が蒔いた機雷に触れたためという蝕雷説をとっているが、釜山に向かうことを嫌がった日本人乗組員による自爆であるという説が早くから流れており、真相は不明のままであること
  4. 死亡者数について、政府側発表では549人となっているが、もし乗船者数が政府発表を大きく上回るものであれば、当然犠牲者数ももっと増えるはずであること
  5. 政府は当初浮島丸の沈没について発表せず、浮島丸沈没に際して生存した人が朝鮮に帰国してからこのことについて噂が広がり、その噂を聞いた日本人引き揚げ者が1945年10月6日に舞鶴で話した翌日の10月7日になってようやく舞鶴鎮守府が発表するという経緯をとったこと

要するに、この事件にはあまりにも多くの謎が含まれているのです。しかも日本政府は、記録が残っていない、の一点張りで、真相究明に対して一貫して消極的な姿勢を取ってきたために、60年目のいまになっても真相は闇のままです。

2.殉難者に対する国の補償について

浮島丸で遭難した遺族や生存者は、日本国を相手に謝罪と損害賠償を求める訴訟を起こしました。2001年8月23日の京都地裁の判決では、国の公式謝罪を求める訴えは認めなかったものの、国の安全配慮義務違反を認め、生存者に慰謝料を払うことを命じる判決を下しました(同日付京都新聞夕刊参照)。しかし、2003年5月30日に大阪高裁は、地裁判決を覆し、原告の請求を棄却しました(2003年5月31日付京都新聞参照)。

3.舞鶴市民の取り組み

舞鶴の人々は、浮島丸が沈没したとき、少しでも多くの人命を救助しようと尽力しました。そして1954年には、京都の著名人の呼びかけで第1回の犠牲者慰霊祭が行われました。このことがきっかけで多くの市民が事件の存在を知ることになったということであり、慰霊祭を市民が行うようになったのだそうです。

須永さんによれば、この慰霊・追悼を市民の手で行うに当たっての基本的考え方は、国家の加害責任の犠牲になった朝鮮人の人たちを日本人自らの責任で行うということであり、政党党派、宗教宗派に偏らないということであったそうです。そして、事件を風化させないために1978年には慰霊碑を建て、戦後50年で一区切りかと思ったこともあるそうですが、正にその戦後50周年の機会に浮島丸事件を扱う映画「エイジアン・ブルー」の製作が行われることによって、再び追悼事業が活性化して、今日に至っているということでした。

4.今後の課題

須永さんは、浮島丸追悼事業にかかわってきたことを踏まえた思いとして、次ぎのように述べられました。

第一に、事件の真相究明の必要性です。

第二は、明治以後の日本の対外膨張政策と侵略・加害の歴史を明確に記憶することの必要性です。(須永さんは、自分自身がそういう認識に至ったのは戦後になってからのことだと述懐しておられました。)

第三は、日本は二度と戦争しないということを誓ったことによって国際社会に復帰したということが、抑えるべきポイントであるということです。だから憲法第9条を大切にしなければならない、ということにどうしてもなるということです。

第四は、過去を忘れることによってその過ちを繰り返すことになってしまうということです。だから浮島丸事件を忘れてはいけないのだということです。

5.コーディネーターとして私が申し上げたこと

私は、浮島丸事件に対して、日本人としての加害責任を明確に自覚する立場に立って、長年にわたり追悼事業を行ってきた舞鶴市民の取り組みは、日本国内において、他に例を見ない特筆するべき画期的なことであることを、感銘の気持ちを込めながら指摘しました。今日の日本では、過去の日本の加害責任をもみ消し、更には過去を美化する動きが強まっています。そういう流れの上に、過去への反省に立って作られた平和憲法を変えてしまおうとする動きが強まっているのです。そうした現実に対して、舞鶴市民の取り組みは、加害責任を直視し、歴史認識を正すことを基礎にするものであり、したがって、間違った方向に向かおうとする日本に対する重要な批判・警告の意味を持っています。したがって、追悼事業60周年で一区切りとするという発想ではなく、70周年、80周年、90周年をも視野においてこの追悼事業を発展させていっていただきたい、と私はお願いしました。そういう舞鶴市民の粘り強い取り組みと歴史認識が日本国民の共通認識になるとき、日本政治は大きく変わることが期待できるからです。

(広島に帰る列車の中で、私は一つ言い忘れたことに気がつきました。日本人の歴史認識が舞鶴市民のそれと一緒になるとき、そして日本政治が根本から変わるときには、間違いなく国家を挙げて加害責任に向き合うことになります。そうなれば、舞鶴市民の追悼事業は日本全体にとっての先駆的事業としての位置づけを与えられることになるはずですし、全国的に注目され、支持されることになることも間違いない、ということです。そうなる日が一日も早く現実になるといいな、と心から願い、気持ちが高ぶりました。)

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