2005.07.31
*2005年7月30日に広島平和研究所が主催したシンポジウムでパネリストの一人として発言したものを紹介します。すでにこのコラムで、「被爆・敗戦60周年に思うこと」と題する短文を載せていますが、ここで紹介する文章は、その短文を基礎にしながら、さらに肉付けを行ったものという位置づけになります。シンポジウムでは、時間の制約もあったので一部を削る形で報告しましたが、ここには原文を載せます。ただし、趣旨は変わっていません(2005年7月31日記)。
太平洋戦争とアメリカの原爆開発の経過の歴史を振り返るとき、いわば同時並行的に物事が進んで広島・長崎で両者が交わった、という印象を免れることができない。もともとアジアでの侵略戦争・植民地支配で兵站がのびきっており、半ば自暴自棄で勝ち目のない戦争を仕掛けた日本1に対して、圧倒的な国力を背景にしたアメリカは日本を防戦一方に追い込みつつ、4年弱の歳月をかけて原爆開発を進め、日本の息の根を止めるために原爆投下をためらうことがなかった。簡単に経緯を振り返っておく。
アメリカの原爆開発は、日米開戦に先立つ1941年10月9日に、ルーズベルト大統領が原爆製造は実現可能かどうかの研究調査強化を承認したことに始まり2、翌年6月には同大統領が原爆製造計画を陸軍技術部に移し3、陸軍がマンハッタン計画を始動することで本格化した。日米戦争に関しては、開戦直後は日本軍が周到に準備した作戦が順調に進み、開戦半年間で「東はインドネシア諸島から西はビルマにおよぶ広大な地域に進出する」4という成果を収めた。しかし日本軍は、早くもこの年の6月のミッドウェー海戦で大敗を喫し、攻勢は挫折し、米軍の反攻が日本側の予想以上に早く開始されることになった5。
その後の日本は一方的に守勢に追い込まれ、1943年9月の段階で、昭和天皇は早くも「ニューギニアのスタンレー山脈を突破されてから、勝利の見込を失った」6と後になって回顧している。ところが天皇は、「一度どこかで敵を叩いて速やかに講和の機会を得たいと思った」7という気持ちでずるずると継戦に傾き、沖縄戦が事実上終結(1945年6月23日)する前日(6月22日)になってやっと、「先般の御前会議決定8に依り飽く迄戦争を継続すべきは尤ものことなるも亦一面時局収拾につき考慮することも必要なるべし」9と終戦工作を指示する有様だった。しかしその後も敗戦間際まで、「国体護持」の条件闘争に執着していた10。
トルーマン大統領が、原爆実験の成功(7月16日)を背景にポツダム会議(7月17日〜8月2日)に臨んだことはよく知られている。ここで出された米英中3国による日本降伏の条件を明らかにしたポツダム宣言(同月26日)では、「吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ」と、原爆投下を含んだ徹底した攻撃を警告した。これに対して、原爆をアメリカが開発したことを知るすべもない鈴木貫太郎首相は、閣議ではノ−・コメントで宣言を日本国民に対して発表することが了解されたにもかかわらず、軍部の強硬派の圧力のもと、7月28日に「(宣言について)政府としては何ら重大な価値あるとは考えない、ただ黙殺するだけである」と述べた11。
この発言は、アメリカからすれば、ポツダム宣言に対する拒絶そのものと受け止められ、その結果、広島(8月6日)、長崎(8月9日)への原爆投下に至った。「天皇がポツダム宣言受諾のために断乎として介入することだけが、日本の状況を変えていただろう」12という指摘は正しいと思われる。しかし、時すでに遅く、原爆投下で万事休した日本は無条件降伏のやむなきに至った、という経緯をたどる。昭和天皇は、「終戦の詔書」(8月14日)で、「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノヘシノ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ」13と述べている。国体護持に汲々として、沖縄戦さらには広島、長崎に対する原爆投下を招いた天皇以下の日本の指導層の責任は実に重大である、といわなければならない。
以上から明らかなように、天皇以下の日本の支配層が降伏したのは、原爆投下で「もはやこれまで」という諦めからであって、ポツダム宣言に盛り込まれていた対日要求の内容を納得した上でのことではなく、ましてや軍国主義の所業に対する真摯な反省と悔悟に出るものではなかった14。しかしポツダム宣言は、軍国主義の徹底した清算、戦争犯罪人の処罰、人権・民主国家への生まれ変わりを明確に日本に要求していた15。憲法との関わりでいえば、軍国主義を生み出し、人権・民主主義を抑圧した明治憲法は、新しい憲法で代わられるべきことが当然予定されていた16。
ところが、ポツダム宣言の趣旨をまったく理解しなかった当時の日本政府は、国体護持にしか関心がなく、明治憲法の焼き直しにすぎない憲法案(松本委員会案)しか用意できなかったこともよく知られているところである。そこでGHQは、同宣言の趣旨を体した憲法案文を用意して日本側に受入れを迫り、ここに平和憲法が成立した17。
核廃絶と平和憲法の結びつきを考える前提として、しっかり確認しておく必要があるのは、平和憲法「押しつけ」論の当否である。日本の支配層がポツダム宣言の対日要求(非軍事化、民主化)を受諾したことで生じた国際的約束を履行する意思と約束履行責任の認識があったのであれば、宣言の趣旨を体した新憲法案を用意することができたはずである。ところが、その国際的約束を履行する意思と約束履行責任の認識がまったく欠落していたが故に、「押しつけ」の形をとることにならざるを得なかったというのが真実であった。ポツダム宣言を前提とする限り(いうまでもなく、前提としない立場は必然的に、今日猖獗を極める新自由主義史観に埋没するしかない)、平和憲法はポツダム宣言受諾の当然の産物であり、「押しつけ」という批判は、「木を見て森を見ず」の類でしかない18。
私の報告の中心部分を構成することとして、次のことを強く指摘しておきたい。それは、「ポツダム宣言発出→(鈴木首相による)黙殺発言→原爆投下→同宣言受諾→平和憲法制定」という流れの重みである。
平和憲法の基礎となったのは、繰り返しになるが、明らかにポツダム宣言であった。昭和天皇が速やかに宣言受諾の「聖断」を下していれば、広島及び長崎に対する原爆投下は回避されていた可能性は大きい。しかし「聖断」は下されず、原爆が投下され、そこでたまらず宣言受諾による降伏となった。つまり、原爆投下という途方もない代価を支払わされて、天皇以下の日本の支配層はようやく、国民に犠牲を強いる戦争継続(徹底抗戦)の道を諦め、ポツダム宣言を受諾した(従って平和憲法制定への道を客観的に開いた)のである。しかしそれは単に「諦め」から受諾したのであって、彼らは敗戦の意味を主体的に消化し、認識することができなかった19し、ましてや「臣民」にしか過ぎない国民に謝罪するなどということは思いもしないことであったに違いない20。そんな彼らにとって、明治憲法を「改正」し、平和憲法を制定するなどということは予想もし得ないことであったに違いない。
原爆投下という代価を支払わされた広島及び長崎の人々は、昭和天皇以下の支配層から完全に無視された。それだけではない。原爆投下に至る上記の状況を知るよしもない広島の人々は、原爆投下の責任を負うべき昭和天皇を熱狂的に出迎えるということにもなった21。さらに目を広げれば、日本国内にも、原爆によって戦争は終結し、軍国主義から解放されたという感慨さえ存在していたという事実がある22。そうである以上、当時の日本社会としては、GHQによるポツダム宣言の対日要求の実現に向けた日本政府に対する強い働きかけというステップを経て、ようやく平和憲法を手にした、というのが実態であった。
したがって、1946年2月13日にGHQの新憲法草案が日本側に渡されてから、3月6日に幣原内閣が「帝国憲法改正草案要綱」として新憲法草案を発表するまでの間に、原爆投下を含む日本の支配層の戦争責任が問い直された形跡はまったく見あたらない。特に原爆投下については、アメリカ自体がプレス・コードによって厳しい言論規制をかけたこともあって、国民的な意識に上ることすら妨げられたのが実情である23。
しかし、私たちとしては、原爆投下という代価の上に平和憲法があるという重みを噛みしめることは極めて重要である。この重みを噛みしめる限り、平和憲法を改めるなどという安易な発想が出てくるはずがない。逆に言えば、平和憲法をなきものにしようとする者は、原爆投下(被爆)という、私たちが思想化することが求められている人類的課題を根っこから消し去ることを意図しているに等しい、と言わなければならない。
平和憲法を守る側においても、これまで、原爆投下、ポツダム宣言受諾、平和憲法の成立という三つの要素の間に存在する内在的な相互関連性を明確に意識して把握し、その意味を思想化する努力をしてこなかったのではないか、という反省が求められているのではないだろうか。もちろん、原爆投下と平和憲法をその相互関連性において認識することを妨げた客観的状況が存在していたことは、以上に述べたように、無視できないことである。しかし、平和憲法、特にその第9条の「改正」が公然と叫ばれる今日、平和憲法を守る側に立つものは、平和憲法の原点に立ち戻り、原爆投下をも視野に納めた説得力ある思想を構築することが緊急に求められていると考える。
日本の核廃絶(原水爆禁止)運動は、第五福竜丸事件(1954年)をきっかけとして急速に盛り上がった原水爆禁止署名運動を母体としている。それまでの平和運動が左翼主導であったという反省に立った核廃絶運動は、特に不偏不党、人道性、非政治性を強調し、核廃絶の1点で一致しうるあらゆる層を巻き込む国民運動としての性格を力説した24。不偏不党、人道性、非政治性を強調するあまり、憲法問題を扱うことすら回避された25。確かにこうした運動のあり方は、少なくとも当時の状況においては、核廃絶の世論の裾野を広げる上ではそれなりに有効であったことは認める必要があるだろう26。
若干脇道にそれるが、当時の原水禁運動に関して一点だけ触れておく必要を感じることがある。原水爆禁止署名運動を強力に推進した地域の一つとして、東京・杉並区の取り組みがあったことはよく知られているが、そこでは当初「広島、長崎での被爆体験との結びつきは希薄であった」27ということである。広島、長崎への言及はあったが、「日本国民は三たびまで原水爆のひどい被害をうけました」というように、ビキニでの水爆禍までの時間的流れにおいて、「その被爆体験は専ら『過去』のものとしてとらえており、ヒロシマ、ナガサキを『現在』の相で捉える意識はない」28というのが実際であった。
当時の核廃絶運動に、広島及び長崎を現在の問題として位置づける、本来当然すぎる視点を持ち込んだのは、広島の人々の努力によるところが大きい。もちろん、広島における原水禁運動もビキニ事件をきっかけにして起こったのであるが、しかし広島の場合、「運動の当初より『原水爆禁止と被爆者援護が車の両輪』であった」29。その広島で第1回世界原水爆禁止世界大会が開催(1955年8月6〜8日)され、広島及び長崎の被爆者が訴えたことによって初めて、原爆体験が優れて現在の問題であるという認識が核廃絶運動の中に定着することになった。
ところで、その後の核廃絶運動はどのような足取りをたどったであろうか。確かに、再軍備を認める立場の人々の間でも、核廃絶は推進しなければならないという認識はあった30。だが、保守的な人々(その多くは、軍国主義・日本の過去に対するこだわりが比較的少なく、したがって、戦争責任をふまえて軍国主義と決別する、という決意の上に成立した平和憲法に対する愛着が少ないことに共通点がある)は次第に核廃絶運動から離脱していった。また、アメリカの核政策との矛盾が起こらない枠内で「核廃絶」を唱える可能性を模索した日本政府は、「究極的核廃絶」31という主張を核廃絶運動に持ち込んだ。このことにより、日本の核廃絶運動は、深刻なまでの曖昧さと不徹底性を抱え込むことになっている。
こうした事態の展開にもかかわらず、今日の核廃絶運動は総じてなお、不偏不党、非政治性の軛から抜け出せないでいる。しかし実はこの言い方は正確ではない。原爆投下と平和憲法の相互関連性が当初から明確に認識されていたのであれば、核廃絶運動は同時に平和憲法擁護を正面から打ち出していなければならなかったはずである。核廃絶運動が澎湃として起こった1950年代当時における国民の平和憲法に対する積極的な意識のありようからいっても、核廃絶運動が平和憲法擁護の主張を不可分の一部として内包していたとしても、「非政治性」はともかくとして、「不偏不党」とは矛盾するものではなかった。平和憲法を守る側が核廃絶の視点を欠いていたという問題点はすでに指摘したが、核廃絶運動を進める側においても同様に、核廃絶の課題における不可分の構成要素として、平和憲法を積極的に位置づける視点を欠いて出発したことは、致命的な問題を抱え込んでいた、と言わなければならないのではないだろうか。
この致命的な欠陥は、憲法問題が現実の政治課題とならない状況が続く限りにおいては、意識されずにすんだ。しかし、平和憲法をめぐる政治情勢は、1990年の湾岸危機を契機とする軍事的「国際貢献」論の台頭以後、年を追って厳しさを増してきている。特に2001年に改憲論を公然と口にする小泉首相が登場して以来、平和憲法を「改正」しようとする動きは、格段に勢いを増すことになった。
今日の平和憲法をめぐる情勢が厳しさを増す中においては、核廃絶運動が平和憲法を視野に納めないままでいることは、もはや到底見過ごすことができない、と言わなければならない。平和憲法に関する視点を欠く核廃絶運動が如何に説得力を欠くものになるかということは、次の事態を想像するだけで容易に理解できるはずである。つまり、平和憲法が「改正」され、日本が正真正銘の「戦争する国」になったとき(その日本はさらに公然とアメリカ主導の核政策にのめり込むだろう)、そんな日本から発信される核廃絶の訴えに、どれだけの説得力があり、また、誰が真剣に耳を傾けてくれるだろうか、ということだ。
今にして思えば、平和憲法の裏付けがあり、「戦争しない国」と信頼されているからこそ、日本の核廃絶運動は内外に対する説得力・指導力を発揮し得てきた、ということが納得されるのである。被爆60年の節目を迎える日本の核廃絶運動が今後も内外に対する説得力・指導力を発揮し得るためには、平和憲法を守りきる思想を運動の不可分の構成要素として確立しなければならない。
広島は、言うまでもなく、日本の核廃絶運動の拠点であり、最大の発信地である。核廃絶運動のあり方に関する私の以上の提言は、とりもなおさず広島に対する提言でもある。被爆60周年の節目を迎える広島が正面から見据えるべき課題は、核廃絶と平和憲法、特に第9条を結びつける思想の構築であり、その思想の内外に向けた発信であると確信する。
(脚注)