被爆・敗戦60周年に思うこと

2005.07.06

*以下の文章は、ある機関誌の依頼を受けて書いたものです。広島平和研究所は7月の終わりにシンポジウムを行い、平和憲法と核廃絶をテーマにして議論を行うことになっています。そのこともあって、いろいろ考えていることがあるのですが、そこで発言することをも考えながら、以下の文章をまとめてみました。2800字という制限があったので意を尽くしていませんが、基本的な考えは出していると思います。もちろん、これで終点というわけではなく、さらに思考を深めていく上での出発点という位置づけです。最近私は、平和憲法を原爆投下と結び付けて考え、思想化する必要性をますます強く感じていますが、この文章を読んでいただくことにより、皆さんが少しでも刺激を感じてくださったら、私としてはとても嬉しいです(2005年7月6日記)。

1.太平洋戦争と原爆開発・投下

太平洋戦争とアメリカの原爆開発の経過の歴史を振り返るとき、いわば同時並行的に物事が進んで広島・長崎で両者が交わった、という印象を免れることができない。もともと勝ち目のない無謀な戦争を仕掛けた日本に対して、圧倒的な国力を背景にしたアメリカは日本を防戦一方に追い込みつつ、4年弱の歳月をかけて原爆開発を進め、日本の息の根を止めるために原爆投下をためらうことがなかった。簡単に経緯を振り返っておく。

アメリカの原爆開発は、日米開戦に先立つ1941年10月9日に、ルーズベルト大統領が原爆製造は実現可能かどうかの研究調査強化を承認したことに始まり、翌年6月にはマンハッタン計画が始動することで本格化した。この年にはすでに米軍の反攻で日本は守勢に追い込まれ、1943年9月の段階で、昭和天皇は早くも「ニューギニアのスタンレー山脈を突破されてから、勝利の見込みを失った」(昭和天皇独白録)と白状している。ところが天皇は、「一度どこかで敵を叩いて速やかに講和の機会を得たいと思った」(同)という気持ちでずるずると継戦に傾き、沖縄戦が事実上終結(1945年6月23日)する前日になってやっと、終戦工作を指示(「思召」)する有様だった。しかしその際もなお、「国体護持」の条件闘争に固執していた。

原爆実験の成功(7月16日)を背景に出されたポツダム宣言(同月26日)では、「吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ」と予告し、鈴木貫太郎首相が「黙殺」すると述べたのを受けて、広島(8月6日)、長崎(8月9日)への原爆投下に至る。昭和天皇の「終戦の詔書」(8月14日)で、「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノヘシノ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ」と述べているように、原爆投下で万事休した日本は、無条件降伏のやむなきに至った。早々と戦争の前途に見込みがないことを認識しつつ、沖縄戦そして原爆投下を招いた天皇の責任は実に重大である、といわなければならない。

2.原爆投下・ポツダム宣言受諾と平和憲法

このように、日本が無条件降伏したのは、原爆投下で「もはやこれまで」という諦めからであって、軍国主義の所業に対する主体的な反省と悔悟に出るものではなかった。しかしポツダム宣言は、軍国主義の徹底した清算、戦争犯罪人の処罰、人権・民主国家への生まれ変わりを明確に日本に要求していた。憲法との関わりでいえば、軍国主義を生み出し、人権・民主主義を抑圧した明治憲法は、新しい憲法に席を譲ることが当然予定されていた。

ところが、ポツダム宣言の趣旨をまったく理解しなかった当時の日本側は、明治憲法の焼き直しにすぎない憲法案(松本委員会案)しか用意できなかった。そこでGHQは、同宣言の趣旨を体した憲法案文を用意して受入れを迫り、ここに平和憲法が成立した。

ここでしっかり確認しておく必要があるのは、平和憲法「押しつけ」論の当否である。「押しつけ」の形をとることになったのは、日本の支配層がポツダム宣言の対日要求(非軍事化、民主化)を受諾したことで生じた国際的約束を履行する意思と約束履行責任の自覚がまったく欠落していたからである。ポツダム宣言を前提とする限り、平和憲法は当然の産物であり、「押しつけ」という批判は、「木を見て森を見ず」の類でしかない。

さらにもう一点しっかり確認しておきたいことがある。それは、「ポツダム宣言発出→黙殺→原爆投下→同宣言受諾→平和憲法制定」という流れの重みである。あえて短絡的な言い方をすれば、原爆投下という途方もない代価の上に平和憲法があるということだ。この代価の重みを噛みしめる限り、平和憲法を改めるなどという安易な発想が出てくるのは異常というほかない。逆に言えば、平和憲法を亡きものにしようとする者は、原爆投下(被爆)という、私たちが思想化することが求められている人類的課題を根っこから消し去ることを意図しているに等しい。

平和憲法を守る側においても、これまで、原爆投下、ポツダム宣言受諾、平和憲法の成立という三つの要素の間に存在する内在的な相互関連性を明確に意識して把握し、その意味を思想化する努力をしてこなかったのではないか、という反省が私には強くある。もちろん、原爆投下と平和憲法をその相互関連性において認識することを妨げた客観的状況が存在していたことは無視できない。GHQは徹底した原爆投下に関する報道管制を敷き、日本政府もその一翼を担ったこともあり、被爆の実相を国民が知るのは、第1回原水爆禁止世界大会(1955年)以後のことだったからだ。しかし、平和憲法の「改正」が公然と叫ばれる今日、平和憲法の原点に立ち戻り、原爆投下をも視野に納めた説得力ある思想を構築することが緊急に求められていると考える。

3.平和憲法と核廃絶運動

日本の核廃絶(原水爆禁止)運動は、第五福竜丸事件(1954年)をきっかけとして急速に盛り上がった原水爆禁止署名運動を母体としている。それまでの平和運動が左翼主導であったという反省に立った核廃絶運動は、特に不偏不党、人道性、非政治性を強調し、核廃絶の1点で一致しうるあらゆる層を巻き込む国民運動としての性格を強調した。不偏不党、人道性、非政治性を強調するあまり、憲法問題を扱うことすら回避された。確かにこうした運動のあり方は、核廃絶の世論の裾野を広げる上ではそれなりに有効であった。

しかし、すでに述べたように、原爆投下と平和憲法の相互関連性が明らかである以上、核廃絶運動が、核廃絶の課題における不可分の構成要素として平和憲法を積極的に位置づける視点を欠いて出発したことは、致命的な欠陥を抱え込んでいたといわなければならない。この致命的な欠陥は、憲法問題が現実の政治課題とならない限りは意識されずにすんだ。しかし、平和憲法を「改正」する動きが勢いを増している今日の情勢においては、この欠陥を正すことは正に急務である。

平和憲法に関する視点を欠く核廃絶運動が如何に説得力を欠くものになるかということは、次の事態を想像するだけで容易に理解できるはずである。つまり、平和憲法が「改正」され、日本が正真正銘の「戦争する国」になったとき(その日本はさらに公然とアメリカ主導の核政策にのめり込むだろう)、そんな日本から発信される核廃絶の訴えに、誰が真剣に耳を傾けてくれるだろうか。

平和憲法の裏付けがあり、「戦争しない国」と信頼されているからこそ、日本の核廃絶運動は内外に対する説得力・指導力を発揮し得てきた。被爆60年の節目を迎える核廃絶運動が今後も説得力・指導力を発揮し得るためには、平和憲法を守りきる思想を運動の不可分の構成要素として確立しなければならない。

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