個人的体験としての戦後60年

2005.07.06

*この文章は、ある雑誌から求められた「私の戦後60年」をテーマにした寄稿原稿です。このテーマを与えられたとき、いろいろ考えたのですが、表題にしたように、個人的体験をまとめてみるのも一つの答えかな、と思って書いてみました。年を取るとともに、私にとっての父の存在はますます大きなものになっています。父の存在なくして今の私はない、と大げさではなく思います。そして台湾で今も活動する心の友(陳映眞)の存在。私が浮世に流されず、今日まであれたのは、この二人の存在を抜きにしては考えられません。そして私の目を肥やすことに客観的に役立った外務省での約25年間の経験。そんな思いを2000字前後という与えられた制限の下で書いてみました(2005年7月6日記)。

私は1941年生まれで、敗戦の年(1945年)にはまだ4歳だったこともあり、戦争の記憶はまったくない。しかし、小学校の校長を勤めていた父が、父なりの戦争責任の取り方として教育者を辞めたこと(私は成長するに従って、そういう父の生き様、こだわりを次第に理解するようになったのであって、父から直接聞かされたことはない)は、私の生き方、思想形成に少なからず影響を及ぼしたことを、今にして実感している。

過去の遺産の清算をしようとしない自民党政治に批判を隠さなかった父の感化を受けてか、私は早くから自民党支配に違和感を覚えていた。職業として外務省を選んだ後も、私の思考の中心軸が常に権力を離れて存在し続けたのも、父の存在が間違いなく大きい。

外務省に埋没しない私を可能にしたもう一つの要因があった。それは、外務省に入って語学研修に行った台湾における、祖国との統一に生命を賭す覚悟を持った同世代の青年との出会いである。彼は、人間の尊厳を全うする生き方とはどういうことかを、当時未熟を極めていた私に身をもって示してくれた。

私は、外務省に身を置く中で、「力による」平和観に基礎をおく日米安保体制(対米追随)至上主義で、「力によらない」平和観に立つ平和憲法を、解釈改憲の積み重ねにより空洞化することになんの痛痒も感じない自民党の権力政治の体質をいやというほど経験した。自民党政治は同時に、私の父が鋭く見抜いていたように、「国家を個人の上に置く」国家観に代表される、戦前のイデオロギーをそっくり温存し、「個人を国家の上に置く」国家観(人権・民主主義)を体現する平和憲法を邪魔者視してきた。この体質とイデオロギーが、平和憲法を常に「制約」としてとらえ、改憲志向を再生産し続けてきた根底にある。

自民党政治が戦前のイデオロギーに固執していることを、私が実感をもって確認したのは、1982年に起こった歴史教科書検定問題をめぐる中国、韓国との確執に際してであった。当時私は、在中国日本大使館政務参事官として、中国との交渉にかかわっていた。

詳細は省くが、結果として日本政府が行ったことは、歴史教科書の検定基準として「外交的配慮」を加えるということだった。有り体に言えば、中国や韓国がうるさいことを言うので、日中、日韓関係にかかわる部分に対しては検定に当たって手加減する、ということである。アジアに対する侵略戦争・植民地支配に正面から向き合って反省し、その反省を教科書の記述に反映させる、ということではないのだ。彼らの頑迷な歴史認識を如実に反映する「政治的」解決だった。

自民党政治の徹底した対米追随の歪みは、核廃絶問題にもっとも集中的に反映された。

第五福竜丸事件(1954年)を契機として巨大な国民的運動に成長したのが、核廃絶(原水爆禁止)を願う国民感情だった。自民党政治も、この国民感情を真っ向から否定してかかることはできなかった。「持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を掲げざるを得なくなったのは、その一つの表れだ。しかし、周知の通り、日米安保は核安保でもあった。自民党政治は、アメリカの核兵器持ち込みはないと表向きには言いながら、核搭載艦船の入港を黙認する二重基準で国民を欺いてきた。

核廃絶問題について、自民党政治はもう一つ重大な偽りを国民に対して行ってきた。1978年の第1回国連軍縮特別総会の時以来、日本政府は「究極的核廃絶」という言葉を編み出した。「究極的」というのは無限の彼方ということであり、その言葉を冠することにより、対米核抑止力依存政策と核廃絶との間の矛盾を隠したのだ(この「苦心」は、2000年のNPT再検討会議における新アジェンダ連合の提案が受け入れられることによって破綻するのだが、ここでは深入りしない)。

私の外務省での約25年間は、外交実務を通して日本の自民党政治の本質を見極める貴重な時間であった。その体験に基づく私なりの考察をまとめたのが、外務省から文部省に出向し、東大教養学部の教員になってまもなく世に問うた『日本外交 反省と転換』(岩波新書 1989年)である。

私が最終的に外務省を辞職(1990年)してから今日に至る15年間は、保守政治による反動攻勢の一貫したエスカレーション(国民の犠牲の上に立つ身売り的な対米追随へののめり込みと戦前のイデオロギーの復権強化を目指す全面的な布石)、そしてますます多くの国民の「既成事実への屈服」(丸山真男)の過程と特徴づけるしかない。この反動攻勢のすさまじさの一端を確認するためには、1990年におずおずと始まったカネによる軍事的国際貢献が、わずか15年後(2004年)には自衛隊の戦地・イラクへの派遣・駐留にまできたことを見るだけで十分だろう。

そして、武力攻撃事態対処法によって日米軍事同盟の再編強化が強力に進み、「国民保護法制」の下で国民動員体制が着々と現実になる事態になっている。保守政治にとっての最終目標は平和憲法に引導を渡すこと(改憲)に絞られている。敗戦60年の今、「既成事実への屈服」の屈辱から国民が覚醒して、保守政治の攻勢を阻止することができるか否か、この一点に日本の将来がかかっている。

自分が生きている間に世の中がこれほどきな臭いものになるとまでは、私もさすがに予想しなかった。蟷螂の斧と揶揄されようとも、私は国民の覚醒を期待し、私として可能な限りの働きかけをしていきたいと考えている。

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