NPT再検討会議と核廃絶の課題

2005.05.29

*NPT再検討会議が失敗に終わったことについて思うこと、そして日本の核廃絶運動は、この厳しい結果を受けて今後どのような課題に直面することになるかについて考えることをまとめてみました。ある雑誌からの「平和」を主題にしたテーマでの原稿執筆の依頼があり、その依頼の用件(特に字数制限)を勘案しながら書いたということもあり、私の思いの丈を書き記すというにはほど遠いものにとどまっていますが、このコラムに載せるには適当な分量に収まっている、といえるかも知れません(2005年5月29日記)。

核不拡散条約(NPT)再検討会議が何らの成果も上げられないまま、5月27日に終了しました。私が予期していた範囲の中でも最悪のシナリオが現実のものになってしまった、というのが偽りのない実感です。

1995年の再検討会議はNPTの無期限延長を決め、2000年の再検討会議は核保有国の核廃絶実現の約束を取り付けるという、それなりの成果を上げました。今回の会議の失敗により、2000年の核保有国の核廃絶の約束は一体どうなってしまうのか、という疑問が直ちに起こります。それだけではありません。核軍縮・廃絶を取り扱う唯一の国際的枠組みであるNPT体制は今後どうなるのか、という根本的な問題にも直面しています。本当に深刻を極める事態になってしまいました。

今回の再検討会議が失敗に終わった原因は様々です。核開発疑惑のあるイランと北朝鮮の取り扱い、NPT上の権利として認められている非核保有国の原子力の平和利用に制限を加えることを主張するアメリカとそれに抵抗するイランの対立、事実上の核保有国であるイスラエルのNPT加入を要求するアラブ諸国に対するアメリカの抵抗、核保有国による核廃絶の約束履行を求める非核保有国と核保有国との間の確執、等など。

しかし、これらの問題に共通している最大の原因がアメリカ・ブッシュ政権の核政策にあることを、私たちは正確に見極めておくことが決定的に重要です。「診断を誤れば、処方箋も間違うし、治る病気も治らない」のです。

ブッシュ政権は、NPT再検討会議が成果を上げることを妨げた、二つの極めて重大な問題を抱え込んでいます。

一つは、1国主義といわれる国際協力に対する突き放した姿勢です。アメリカの利益にならないことには一切協力するつもりがないのです。この姿勢は核問題だけに限定されないことはよく知られています。

もう一つのより本質的な問題は、その核政策です。核兵器保有に固執する政策、自国の核開発の可能性を縛る動きには絶対に譲歩しない政策、友好国の核兵器開発・保有は黙認するが、アメリカに「楯突く」国の原子力の開発・保有(条約上認められている平和利用を含め)にはむき出しの敵対姿勢で臨む二重基準の政策、等など。

核兵器廃絶を展望するに当たっては、まず客観的・国際的条件として、ブッシュ政権が以上の政策を改める可能性はまずありえないことを認識してかかる必要があると私は思います。私たちが今後の核廃絶を目指す運動を進める上では、不退転の決意を持って目的意識をハッキリさせた取り組みを行う必要があるということです。

主体的・国内的条件に関しては、私たちの核廃絶の主張と運動をさらに説得力あるものに鍛え上げていくことの重要性を認識することが、以前にも増して緊要であると私は確信します。核廃絶をめぐる内外の厳しい情勢を打ち破るためには、私たちの主張と運動を総点検し、いかなる試練をも乗り切り、いかなる挑戦をも克服しうるだけの主張と運動を生み出す必要があるのではないでしょうか。

客観的・国際的条件について私たちが意識的に追求しなければならないこととして、ここでは、二つの課題を指摘したいと思います。

まず、ブッシュ政権及びその政策を生み出したアメリカのネオコン及びキリスト教原理主義勢力がアメリカ政治を支配する状況が改まらない限り、アメリカの暴走を押さえ込む条件は生まれません。アメリカ国民がネオコン及びキリスト教原理主義の政治支配の危険性を認識し、これと決別する選択を行う自覚的行動をとる(具体的にはブッシュ政治に不信任を突きつけ、1年後の議会中間選挙及び3年後の大統領選挙でアメリカの政治地図を塗り替える)ことを促す国際世論の高まりを作り出すために、ありとあらゆる可能性を追求しなければなりません。

アメリカの国内世論は、必ずしも国際世論に敏感に反応するわけではありませんが、対イラク占領支配を始め、世界を軍事支配しようとするブッシュ政治の破綻が明らかになるにつけ、国際世論とアメリカ国内世論を連動させることは不可能なことではありません。

もう一つの課題は、アメリカの核固執の戦略と諸政策を改めさせることです。核兵器の不法性・反人道性に関する国際的認識は確実に高まっています。それにもかかわらず、アメリカ国民の多くが核固執の戦略と政策を支持している現実があります。したがって、核抑止戦略は、冷戦後の国際社会において、軍事的に説得力を失い、9.11以来の新たな情勢に対応する上でも、核使用を含む諸政策は全く答えにならないことを理論的・政策的に証明することが、アメリカ世論の硬直姿勢の転換を導く上で決定的に重要だと確信します。

主体的・国内的条件に関しても、二つの課題に絞ってポイントを指摘します。

一つは、政府の欺まんを極める核政策にこれ以上曖昧な姿勢で臨むことは許されないという決意を国民的なものにしなければなりません。具体的には、「唯一の被爆国としての(究極的)核廃絶」を念仏のように唱えるだけで、本音では、対米盲従の一環として、アメリカの核政策に異議を唱えない保守政治の核政策の矛盾を徹底的に暴き出し、これを否定する国民的コンセンサスを作り上げるために総力を傾けるという課題です。

もう一つの課題は、私たちのこれまでの核廃絶運動のあり方に問題点が潜んでいないかどうかを冷静に再検討することです。問題があれば、タブー視することなく正面から取り組み、解決・克服することが求められます。

私自身としては、最低限の問題として、二つの問題を指摘したいと思います。

一つは、核廃絶の主張が普遍的説得力を持つようにするために、私たちはもっと切磋琢磨する必要があるのではないか、ということです。例えば、被爆体験と他の様々な人的被害とに共通する普遍的要素を結びつける努力が必要だと思います。また例えば、日本の侵略戦争・植民地支配で辛酸をなめた諸国民とヒロシマ・ナガサキとの間での原爆投下についての認識の共有化も、重要かつ避けて通れない課題だと思います。

もう一つは、これまで日本の核廃絶運動が国際的な運動で指導力を発揮し得てきたのは何ゆえか、という点を根本的に再検討する必要があるのではないか、ということです。被爆→ポツダム宣言受諾による無条件降伏→ポツダム宣言の対日要求を具現化した平和憲法→平和憲法に基づいた日本から発信された核廃絶の主張の国際的説得力、という歴史的な流れと平和憲法と核廃絶運動との切り離せない関係を、今後の日本の核廃絶運動を進めるに当たって、認識上の原点に据えるべきだと思います。

最後に、日本の今日的状況に引き寄せて強調しておきたいことがあります。

アメリカの対日要求に乗じて平和憲法を改悪しようとする動きが加速している日本国内において、核廃絶運動が憲法改悪に対して沈黙を守ることは許されない、と言わなければなりません。憲法改悪は、核に固執するアメリカに盲従して「戦争する国」になるということです。憲法改悪を阻止できない日本の核廃絶運動であるならば、今後も国際的なリーダーシップを担うことはまず考えられないことであるし、そもそも国際的核廃絶運動の側がそんな役割を日本に認めるはずがありません。平和憲法に土台をおく日本の核廃絶運動であればこそ、国際的な信頼と期待が集まってきたと私は考えるのです。平和憲法と核廃絶運動との不可分の関係を認識し、運動の正面に据えて始めて、日本の核廃絶運動は、直面する困難を打開する可能性につながることを、私は強調したいと思います。

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