「日本の行方と憲法——激動する世界の中で、日本は今」

2005.05.18

*以下の文章は、2005年2月にある集会でお話しした内容を主催者がテープ起こししたものに、私が若干手を加えたものです。これまでにこのコラムで紹介した内容と大幅に重複しますが、中には新しい指摘も入っていますので、全体の完結性を考え、全文をそのまま紹介します(2005年5月18日)。

浅井)
 まず、私たちが確認しておかなければならないのは、憲法第九条の「戦争放棄」というのが、私たちにとってどういう意味を持っているのかということです。
 「憲法九条を守れ」という人たちのなかにも、いまだに憲法第九条は、戦争絶対反対という反戦・平和の考え方を明らかにした条項であると理解している方が多いのですが、憲法第九条は、もちろんその意味は含んでおりますが、もっと積極的な国際社会に向けてのメッセージとしての意味をもっています。それはどういうことかと申しますと、憲法九条をつくる前提にあったのは、日本が戦争の敗北を受け入れ、無条件降伏して、ポツダム宣言を受け入れたということです。そのポツダム宣言では、敗戦国日本に対して、徹底的に過去、すなわち、軍国主義あるいは戦争する国と決別することを要求していたのであり、そこに憲法第九条の出発点があるということです。ポツダム宣言の当事国の中には中国が入っていますが、これは非常に大事なことです。日本の侵略戦争は、植民地支配を含めれば朝鮮半島から始まるわけですけれども、主戦場になったのは中国です。その中国がポツダム宣言に加わっているということは、ポツダム宣言が、日本が二度とアジアおよび世界に対して侵略する国とはならないことを誓うということを求めたものであるという意味を客観的に持っています。そういうことを背景としてできたのが憲法第九条です。その場合に、戦争放棄を国際社会に約束した主体=主人公は誰かというと、日本国民です。そのことは、憲法前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が、国民に存することを宣言する」といっていることからも明らかです。主人公が政府ではなくて国民であるという点が、決定的に重要だと思います。ですから、自民党、公明党、民主党などの改憲勢力が、国民不在のままで改憲を推し進めようとしていることは、本当に許し難い暴挙です。
 くり返しになりますが、憲法九条というのは、反戦・平和だけではなくて、国際社会に対して日本が二度と戦争をする国にはなりませんという誓いです。ただし、口先で誓っただけでは、国際社会は信用してくれない可能性が十分あるわけですから、その点を担保するために第九条第二項で、戦力を持たないということまで立ち入って約束したのです。その点が、憲法第九条のもっとも積極的な国際社会との関わりにおけるメッセージであるということです。ですから、その第2項を変えてしまおうとしているいまの改憲勢力というのは、過去を顧みないもの、ポツダム宣言を受け入れて、敗戦を受け入れた日本を、放り投げようとする許せない行為に手を染めているということを、まずは確認しておく必要があると思います。
(小見出し)第九条は、どうして保守勢力によって目の敵にされてきたのか?
浅井)
 次に申し上げたいことは、レジュメの二頁の「(3)第九条は、どうして保守勢力によって目の敵にされてきたのでしょうか」というところです。
 ここで申し上げたい最大の問題は、保守勢力がポツダム宣言を受け入れたのは、「原爆投下で、もはやこれまで」という諦めからであって、自分たちが侵略戦争という悪いことをやったと反省したからではなかったという点です。これがいま、彼らが、改憲をめざし、教育基本法もあらためて、歴史教科書の改悪を推し進めようとする思想的根拠にもなっています。自分たちが悪いことをやったと反省していないことは、ほとんど注目されていないのですが、昭和天皇の「終戦の詔書」にはっきりとあらわれています。そこでは、次のようにいっています。
 「米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵ス如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス」
 「庶幾スル」というのは「願う」ということですが、帝国の存立と東亜の安定を願ったために戦争をしたんだ、と。したがって、他国の主権を排したり、領土を侵すというのは、もともと私の志ではないと主張しているのです。まあ、よくもここまで厚かましく言えるものだという感じがしますが、そういうふうに、彼らが敗戦を受け入れたのは、ポツダム宣言が日本に対して求めたように、徹底して過去を清算するということを受け入れたということではなくて、天皇自身の言葉がいっているように、まったくやむをえない、これ以上戦ったらさらに原爆を落とされるかもしれないということで、進退窮まってここでやめたというにすぎない。要するに、自分たちが悪いことをやったと認めていないわけです。そこが決定的に重要なことで、したがって、アメリカに首根っこを押さえつけられている間は、そういう過去については、なるべくふれないようにする。しかし、近年において台頭してきている「新しい歴史教科書をつくる会」に集中的にあらわれておりますように、保守政治が自信を回復してきますと、俺たちがやった過去の何が悪い、その過去をもう一度元に戻すんだという動きが出てくる。そういうことの延長線上に彼らの憲法改悪という構想も出てくるという、そういう因果関係をよくふまえておく必要があると思います。
(小見出し)いま、国民は第九条をどのように見ているのか?
浅井)
 次に、レジュメの三頁目の「(4)今、国民は第九条をどのように見ているのでしょうか」というところについて少し述べます。
 二〇〇四年五月一日付「朝日新聞」で、憲法にかんする世論調査の結果が大々的に報道されました。そこでは、一九五一年当時からの第九条に対する国民世論の移り変わりを、グラフにして表示してもおりますが、二〇〇一年の調査では、九条改憲に賛成一七%、反対七四%だったのに対して、二〇〇四年の調査では、憲法九条「改正」に賛成が三一%、反対が六〇%と、憲法九条改憲に反対する人は、一九九〇年の十二月に最高の八〇%を超えて以来、低下傾向にあります。私たちは、まだ六〇%も反対の人がいるということを頼りにするわけですけれども、「朝日新聞」の調査では、九〇年十二月の調査以来ずーっと下がり傾向にあるということです。
 それから、憲法「改正」に賛成にしても反対にしても、年齢による大きな違いがそれほどあるわけではありません。若者の憲法離れということが、よく指摘されていますが、少なくともこの調査では、それほど若い人たちが憲法問題に対して冷ややかな態度をとっているというわけではありません。ですから、こんにちの日本の若者の最も優れた特性というのは、非常に豊かな感性を持っているということですから、そういう感性を引き出すことに成功するならば、私たちは、いくらでも改憲反対の世論を若い人たちのなかにも広めていくことができるということを読み取っておきたいと思います。
(小見出し)「九条があったから日本はこれまで平和だった」とはいえない
浅井)
 ここで、一つ私が気になっていることがあります。それは、多くの国民が「第九条があったから日本はこれまで平和であった」と感じて、そういう意味で九条を肯定的に見ているという現実です。
 先日もある集会に伺って、詩の朗読があって、その中で、憲法第九条があったから日本は戦後戦争をしてこなかったというようなことを朗読されたわけです。私は、この部分についても、レジュメのなかに書いておりましたので、明らかに齟齬が生じてきたということでお話ししたのですが、私は、こういう第九条認識、要するに、第九条があったから日本は戦争をしないですんできたという認識は、まったく事実に合わないと思っています。それは、戦後の沖縄の歴史を見てれば明らかです。あるいは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、そして、最近のイラク戦争において、日本の基地は、完全にアメリカのこれらの戦争の出撃拠点、中継基地になっています。したがって、日本は平和であった、戦争をしなかったと、こんなことを言ったら、アメリカの戦争の相手であった朝鮮の人たち、ベトナムの人たち、イラクの人たちは怒り狂うと思います。
 そういうあやふやな九条認識は間違っています。
 私たちは、自分は手を下さなかったかもしれないけれども、立派に基地を提供している。それは、まぎれもない戦争参加である。そういうことを考えると、第九条があったから平和であれたという認識で私たちが第九条を受けとめているようでは、私たちの平和にかんする感覚とか意識、認識というものは、とてもじゃないけど、非常に中途半端な次元にとどまっているということを考えていただきたいと思うわけです。
(小見出し)解釈改憲で歪められた九条理解にたった九条改憲反対の危うさ
浅井)
 それから、もう一つ率直に事実として認めざるをえないことは、多くの国民が、解釈改憲で歪められた九条を支持しているということです。
 それはどういうことかといいますと、「朝日新聞」の世論調査では、六〇%の人が第九条改憲に反対と言いますけれども、その中身は何かといいますと、もう自衛隊は合憲であるという理解、あるいは、自衛隊による軍事的国際貢献も第九条のもとでも認められる場合がある、あるいは、国連安保理でのお墨付きがあれば自衛隊が海外で活動することも違憲ではない、そういうふうにいまの第九条も読めると、理解している人が多いのです。それらの人々にしてみれば、そういう第九条をいまさらわざわざ変える必要はないじゃないかという反対論ではないかと、思うわけです。それは、私たちの理解する第九条の理解と全然違うわけでありまして、そういう意味での第九条改憲反対が六〇%のかなりの部分を占めるということですから、その六〇%に、私たちは胡座をかくわけにはいかないと思うわけです。
 たとえば、自民党が昨年十二月に出した改憲草案大綱——これはいったん没になりましたが——、その中で、はしなくも本音が露呈されています。そこで彼らがやろうとしている第九条改憲とは何かといいますと、第九条第一項は、いまのままで良い。ですから、戦争放棄条項は維持すると言っているのです。けれども、第九条第二項で戦力を持たないといっているのは、自衛隊合憲論からいってじゃまになるから変える。それから、アメリカと軍事協力しなければいけない、あるいは、国連安保理決議で武力行使をやる場合には、日本も進んで参加しなければいけない、そういうときに、集団的自衛権という国際法上の権利を行使できるといえないと、いろいろと問題が起きる。これまでにも起こってきた。だから、一気に問題をなくしておこうということで、国際貢献のための軍事力行使、海外派兵は違憲ではないという趣旨の規定を入れるというふうになっているわけです。そうしますと、いま第九条改憲反対といっている人たちがその自民党の改憲草案大綱を見た場合には、彼らがうまい言葉を使ってたぶらかせば、多くの第九条改憲反対派が、「これくらいならいいんじゃないの」という気持ちになる可能性、危険性は大きいと見ておかないといけないと思います。他方で、自民党は、てんこ盛りにプライバシー権だとか環境権だとかの「新しい人権」を規定するだとか、そういう人の目を引く規定を入れようとしている。改憲草案大綱には、わざわざ徴兵制はしかないと書いてある。まさに私たちの警戒心を解くための布石だと思います。そういう改憲案が出されたら、六〇%の九条改憲反対派のどれだけの部分が、それでも駄目だということができるのか、非常に不安が残るところであります。そういうところが、私たちが今後も改憲阻止のための闘いで頑張る上での大きな留意点であると思います。
(小見出し)アメリカの対日改憲要求と小泉政権の対応
浅井)
 その次に、レジュメの四頁に「2.アメリカの対日改憲要求と小泉政権の対応」とありますが、ここで申し上げたいことは、今回の自民党、民主党、公明党が改憲に突っ走る最大の要因は、アメリカの対日要求からきているということです。
 もともと、自民党は改憲勢力です。自民党が一九五五年に保守合同で創立されたとき以来、自主憲法制定と言ってきたわけで、彼らにとっても憲法「改正」は念願であるわけです。けれども、なぜいまこれほど、一所懸命になるのかというと、それは、アメリカの対日改憲要求が出てきているということです。
 アメリカ追随一辺倒の日本の保守勢力——私が、「保守勢力」と申し上げる場合には、民主党も公明党も含むわけですけれども——の人たちは、アメリカが目の色を変えて日本に改憲を迫ってくることに対しては、応えて動かなければならないと思うわけです。二〇〇四年七月二十一日に、アーミテージという当時の国務副長官が「憲法九条は日米同盟関係の妨げの一つになっている」とはっきり言いましたし、その一ヶ月後の八月十二日には、当時の国務長官パウエル氏も「日本が国際社会で十分な役割を演じ、安保理でフルに活躍する一員となり、それに伴う義務を担うというのであれば、憲法九条は再検討されるべきだろう」といっているわけです。アメリカの改憲要求の最大の眼目は第九条にありということです。
 レジュメの五頁に「(ハ)なぜ最近になって露骨な9条改憲要求発言が出てくることになったのでしょうか」とありますが、これは、ブッシュ第一期政権が発足してからのたゆまない働きかけということがありますが、こんにち特に注目しておかなければならないことは、明日(現地時間で二月十九日)ワシントンで、日本の外務・防衛の両大臣とアメリカの国務・国防の両長官との間で、いわゆる「2+2」という会議があります。それで共同声明が出ることになっていますが、そこでの一つの大きな要素として中国問題があります。台湾問題をめぐって、米中が戦争をする可能性があるということをアメリカと日本は真剣に考えています。アメリカは日本という前進基地がなければ、とてもじゃないけれども中国との戦争をできないわけです。ですから、日本を本当に戦争をやれるような国にすることが、アメリカにとって非常に大きな眼目になっているわけです。もちろん、アメリカといえども馬鹿ではありませんから、中国との間で、何が何でも戦争をしようと思っているわけではありません。とはいえ、たとえば、台湾の陳水扁総統が、台湾の独立を宣言するようなことになれば、アメリカの議会と日本の国会は、台湾独立を承認すべしと動くに決まっている。これに対して中国は絶対に引かない。そうなると米中戦争という、誰もが望んでいない戦争が起こるという筋書きになります。そういうことに対して、あらゆる戦争の可能性を考えておかなければ気がすまないアメリカは、そういうことになった場合に、手の打ちようがなければ困るから、日本列島全部がアメリカの基地になるように考えているわけです。
(小見出し)いまなぜ明文改憲か?
浅井)
 先ほど、尾形さんがお話しされておりましたように、憲法の明文改悪はこれからのことですけれども、武力攻撃事態対処法だとか国民保護法制だとかによって、すでに実質改憲はどんどんすすんでいます。これらの法制によって、アメリカがほしいという空港や港湾、道路は、アメリカが望みさえすればいつでも日本は、アメリカに供することができる、そういう法律がすでにできているわけです。ですから、成田空港だって、関西空港だって、東京湾だって、横浜港だって、アメリカがこれを基地にするといえば、基地にできるようになっている。そういう意味では、すでに日本全土が、アメリカの基地になっているといっても過言ではありません。しかし、それをいまの憲法の下でやったのでは違憲だということで、私たち国民が違憲訴訟はもとより、反対運動の大波を起こす手がかりがあるわけです。ところが憲法が変えられてしまえば、違憲でなくなってしまいます。反対運動を起こさないように、根元になる憲法を変えておくということが、改憲勢力の狙いにあることは間違いありません。
 それから、もうひとつ大きな問題としてあるのは、アメリカには、イラクに派遣された自衛隊の実情に対する強い不満があるということです。
 私たちからすると、自衛隊がイラクに派遣されることは、憲法違反でとんでもないことだと理解するのですが、アメリカの視点からしますと、本当に中途半端な軍事力なんですね。自分の身を護ることすらかなわないから、いまはオランダ、三月からはイギリスに護ってもらわなければ存在できない軍事力、要するに「お荷物」なわけです。そんな軍事力でも、なぜ彼らが歓迎しているのかといえば、それは、有志連合から外れて撤兵している国がどんどんでているからです。そこで、西のイギリス、東の日本、この二つの国が軍事力を派遣しているということは、アメリカが国際社会に対して、「俺の後ろにはイギリスも日本もついている」ということをいえる、非常に政治的な利用価値があるということです。
 しかし、アメリカの本音からいえば、自分の身を護ることもできない軍事力ではどうしようもない、一人前に戦争のできる国になれということがあるわけです。自衛隊のイラク派兵によって、ますます憲法九条がじゃまものとして、彼らの目にははっきりと映ってきた。それが、彼らの改憲要求に大きく働いていることは明らかだと思います。
(小見出し)第九条を守るために、私たちに求められていることは?
浅井)
 レジュメ七頁の「4.第九条を守るために、私たちに求められていることは何でしょうか」に入ります。
 「(1)私たちの訴え・呼びかけに積極的に反応する人が少ないのはなぜでしょうか」ということですが、人々が無関心であるには、それなりの理由があると思います。
(小見出し)既成事実に弱い日本人
浅井)
 一つは、多くの日本人に共通する傾向で、これを国民性という人もいますが、既成事実に弱いということです。いったん何かができてしまうと、そこから議論が出発してしまう。私たちは、その事実が間違っていたら、間違っていることを元に戻すことから始めなければいけないのに、たとえば、武力攻撃事態法ができてしまったら、そこから議論が始まってしまう。国民保護法制についてもそうです。違憲のものであったら、それは駄目とあくまでもいうことが私たちのとるべき立場であるにもかかわらず、それができないというところに私は、日本人の悲しい、既成事実に弱いという傾向を見ざるをえないということです。
(小見出し)保守勢力の巧みな国民誘導
浅井)
 もう一つには、保守勢力の人たちもけっして頭が悪いわけではなくて、戦後の節目節目に日本国民が保守勢力の誘う方向に動くように、舵取りをおこなっていたし、それに私たちは乗っかってしまってきたということです。
 一九六〇年代の高度経済成長、それから、一九九〇年代に入ってからの軍事的国際貢献論、それらに見事にのせられて、私たちは中間層意識を持ってみたり、軍事的国際貢献といわれて、国際貢献ならしかたがないのかと受けとめてしまう。そういう蓄積の上に彼らはいま、改憲をしようとしているわけです。
 改憲についても、国会に憲法調査会を設けて、いかにも公平中立の立場で議論をして結論を出すかのようですが、はじめから結論ありきです。はじめから改憲をしようということで設けたことはわかっている。けれども、そういう建前でやられると、護憲派である社民党も共産党も参加せざるをえない。結局、彼らのつくった土俵の上で踊らされて、今年中には、憲法調査会の結論が出る。それは、憲法「改正」の方向に世論を誘うわけです。そういうことに対しても、「国会が決めたのだからしょうがない」ということになりかねない。そういう状況があります。
(小見出し)国民の反戦意識の上に胡座をかいてきた反対運動の弱さ
浅井)
 それと同時に、私たちの側にも問題があったのではないかと思います。
 それは、敗戦後まもなくは、国民的な規模で、反戦・平和という感情はあったと思います。それは、先ほど申し上げたように、第九条の正確な理解にもとづくものではなかったけれども、もう戦争はこりごりだと、反戦・平和だというので、第九条を熱く擁護するエネルギーが働いていたと思うのですが、私たちはいつのまにかその上に胡座をかいてしまって、私たちの立場を日々刻々新しい理論武装でもって強化するということを怠ってきたのではないかと思います。
 九〇年代に、軍事国際貢献論が出てきたときに、私たちの側から何も有効な反撃を打ち出せなかった。やはり私たちの側にも、足腰の弱りという問題があったのではないかと思います。
(小見出し)国家という問題を避けてきた弱さ
浅井)
 それから、私がもう一つ強調したいのは、私たちは、国家という問題を避けたがるということです。
 私たちが九〇年代以降に突きつけられた問題というのは、日本という国家が国際社会とどうかかわるのか、という問題でした。そのような国際社会からの問いかけに対して私たちは、答えることができなかった。そのときに、自民党以下の保守勢力は、古臭い国家観にもとづいて、国際社会からの問いかけに答えたわけです。
 市民として国際社会にかかわっていくということは重要です。しかし、いまの国際社会においては、非常に多くのことが国家を通してしか、かかわることができません。そこで、国家の問題について考えてこなかった私たちは、どうしても受け身に追い込まれてしまったということがあると思います。
(小見出し)私たちの訴え・呼びかけに人々が積極的に反応するようになるために、私たちに何が必要か?
浅井)
 レジュメの八頁、「(2)私たちの訴え・呼びかけに人々が積極的に反応するようになるために、私たちは何をどうすることが必要なのでしょうか」というところになります。
 ここでは、二つ書きましたが、現状肯定の立場からの九条改憲反対の人々にどう呼びかけるのかという問題もあるので、三つの問題をお話ししたいと思います。
(小見出し)「個人を国家の上に置く国家観」を身につける
浅井)
 一つは、もっとも根本的には、私たちの訴え・呼びかけの中身を格段に充実させ、説得力をもたせるように努力するという、当たり前のことです。しかし、それは当たり前のことなのですが、その中身は何かといいますと、まず、国家観を身につけることです。最近書きました『戦争する国 しない国』という本で力説しておりますが、保守勢力の人たちがもっている国家観というのは、「国家を個人の上に置く」国家観です。要するに、国家のためには個人を犠牲にする国家観です。ですから、先ほど紹介した自民党の改憲草案大綱でも、基本的人権については、「新しい人権」などを盛り込んではいますが、「国家の安全」とか「国益」のためには、人権が服従させらるという趣旨の規定が入っている。だから、「新しい人権」が規定されていても何も意味がありません。〃いざ有事〃となった場合、あるいは「公共の利益」や「国家の利益」のためには人権は服従させられる。それは、国家が個人の上にくる、そういう国家観を彼らはもっているということです。これは、人権や民主主義を重んじる私たちの立場からすれば、とうてい耐えられない国家観です。
 私たちがもつべき国家観として私が申し上げたいのは、「個人を国家の上に置く」国家観、要するに、個人が国家の上にくるということです。これは、憲法の前文にもはっきりと書いてあることですから当たり前のことなのですが、その当たり前のことが、平和憲法にはちゃんと盛り込んであったのに、国家というものが、うさんくさくて馴染めない私たちは、平和憲法が示している国家観をわがものとすることを怠ってきた。しかし、私たちが動かす国家、そういう国家であれば、何も悪い存在ではないはずです。私たちが国家を動かして、国際社会に対して軍事力によらない平和なかかわり方をさせていく、というようにするならば、私たちは、本当に豊富な国際社会とのかかわり方を国家を通じてもつことができるわけです。ですから、私は、国家観を身につけること、「個人を国家の上に置く」国家観を平和憲法を再確認してもとうではないかということを、申し上げたいと思います。
(小見出し)揺るぎない平和観=「力によらない平和観」の確立
浅井)
 それから、揺るぎなき平和観を確立することです。
 「揺るぎない平和観」とは何かというと、それは憲法第九条に出ている武力によらない、「力によらない」平和観、徹底して力によらない平和観です。これも、いまの国際社会を率直に見れば、「力による」平和観、武力による平和観というのが、圧倒的に支配的な現実があります。しかし、いまのイラクの現実を見ればわかるように、アメリカの圧倒的な軍事力を持ってしても、イラクはどうにもならない。九〇年代以降の国際社会の現実を見てみますと、武力では問題は解決しないということを圧倒的な事例でもって証明できる。むしろ、いまや欧米では、公然と唱えられるようになっていることですが、本当の平和のために解決すべき問題は貧困です。貧困は、武力では解決しません。これは、軍事力以外の方法によって解決する以外にはない。それこそが、平和憲法をもつ私たちが、前文と第九条をもつ私たちが、国際社会に積極的にかかわっていく最大のよすがです。私たちは平和憲法をもっていて幸せなんです。平和憲法をもっていなければ、私たちはゼロから組み立てなければいけない。しかし、その理論的な根拠を、すでに一九四六年に公布された憲法が、いま私たちの目の前で、その存在理由を示していてくれている。そういうことで、私たちは、「力によらない」平和観にもとづいて国際社会にかかわる豊富な政策を国民の前に提起することができるということです。
(小見出し)「新しい人権」を重視する改憲賛成派を反対派に
浅井)
 それから、当面の最重点課題である改憲阻止の闘いのために、これまで述べてきた根本論と同時に、的を絞った多数派工作を行う必要があるということです。
 自民党などの改憲派のもくろみ通りに物事が進むとすれば、二〇〇七年に改憲のための国民投票が行われる予定になっています。いまの国会の改憲勢力の圧倒的多数の状況から考えるならば、余程のハプニングが起こらないかぎり不可避でしょう。
 そうすると、私たちは、一刻を争って多数派工作をする必要がある。マスコミがいうことを聞いてくれないとかといって嘆く前に、豊富にやることがあります。一つは、善意の改憲賛成派に的を絞りましょうということです。この「善意の改憲賛成派」というのは何かといいますと、先ほど紹介しました「朝日新聞」の世論調査で第九条改憲に反対が六〇%ですが、憲法全体の「改正」には、賛成が五三%ということがあります。この六〇%と五三%の違いを解く鍵は、「新しい人権」を重視する人たちが、全体としての憲法「改正」賛成にまわってしまう人が多いということです。
 ところが、「新しい人権」が憲法の条文に加わったところで、「国益」「国家の安全」のためには、これらの人権も含めて国家の犠牲になるということははっきりしていますから、そんな憲法なら「新しい人権」を重視して改憲に賛成している人たちにとっても改憲は意味がありません。その点を彼らに理解してもらえたなら、憲法全体の「改正」賛成の五三%が減って、改憲を阻止できるということです。私たちと「新しい人権」を重視する人たちとは、かなり共通の土俵をもっています。
 これらの人々に呼びかけることによって、改憲賛成派を反対派に変え、改憲を阻止することは現実的に可能であるということを考えてほしいと思います。
(小見出し)核廃絶運動のエネルギーを改憲反対のエネルギーに
浅井)
 それから、核廃絶運動のエネルギーを改憲反対のエネルギーにさせましょうということです。
 私が、この数年来実感していることは、核廃絶に賛成している人は、まだ国民の圧倒的多数です。核廃絶に反対する日本国民は、ほとんどいません。しかし、その核廃絶を唱える人たちと、憲法改悪阻止に立ち上がる人との間には、大きなギャップがあります。けれども、日本の核廃絶運動が、なぜこれだけの国際的な影響力、リーダーシップをもっていたかといえば、国際社会は、日本が平和憲法をもっており、したがって戦争をしない国であり、その戦争をしない国に徹する日本が、広島・長崎の体験にもとづいて核兵器廃絶を唱えている、それは説得力があり、一貫性があるということで、日本のリーダーシップを承認してきたわけです。
 ところが、仮に日本が、改憲をし、戦争をする国になれば、それで核廃絶を唱えても、国際社会は何を言っているんだとしかなりません。ですから、核廃絶運動を本当に力あるものにするためには、なんとしてでも核廃絶運動を改憲阻止のエネルギーと一体化させる必要があります。核廃絶運動のエネルギーを改憲阻止のエネルギーと一体化できれば、ものすごいエネルギーが憲法改悪反対のエネルギーにまわってきます。これも、さしてむつかしい課題ではないはずです。
(小見出し)改憲派の論理に惑わされない改憲反対の運動を
浅井)
 最後に、現状肯定の立場から九条改憲に反対の人たちに、どういう働きかけをする必要があるかということです。
 そういう現状肯定(自衛隊合憲、軍事的国際貢献合憲、それから、安保理決議があれば自衛隊派兵も合憲)に基づく第九条改憲反対という立場は、第九条の本来の趣旨を正確に認識していないことは確かですので、その人たちに地道に働きかけていって、本来の第九条を支持し、守る考えになってもらう必要があると思います。
 しかし当面の課題としては、そのような九条改憲反対の人たちに対して、自民党などの考えている改憲案は、現状追認をもはるかに上回る、本当に戦争をする国になるための改悪を意図しているんですということをしっかり認識してもらう必要があります。つまり、改憲派のいわば「目くらまし」の論理に惑わされないで、第九条明文改憲は許せないのだということを、認識してもらうことが必要だと思います。
(小見出し)国連憲章と日本国憲法とは、平和観が決定的に異なる
浅井)
 最初の質問は、国連安保理決議のもとだと武力行使はよいのではないかという議論にたいしてどうするのかということですが、国連憲章は日本国憲法と非常に大きく違っているところがあります。それは、国連憲章が、国際紛争の解決のための武力行使を認めているところです。平和憲法と国連憲章とでは、「力による」平和を認めるか認めないかというところで決定的に違うわけです。ですから、平和憲法の立場に立つ限り、国連がやることだったら全部認めなければならないということにはなりません。
 日本は国連憲章を承認して国連に加盟しているのだから、安保理が決議したことを断ることはできないという議論がありますが、これについては国連憲章第四十三条第三項の規定との関係で考える必要があります。国連が軍事力を行使しない、経済制裁をやると決めたときには、日本は従わなければいけません。たとえば、南アフリカのアパルトヘイト政策にたいして経済制裁をすると国連安保理で決議されたときには、日本も従わないといけませんでした。これは無条件です。しかし、武力行使のときは、国連憲章四十三条第三項で、各加盟国は国連安保理と協定を結んで兵力を提供するとことになっているのですが、その協定を、加盟国の憲法上の手続きに従って批准することとするという規定が入っています。これは、もともとアメリカの要求で入ったもので、アメリカ憲法では、戦争権限はアメリカ議会が持っていますから、安保理がやる戦争に行政府がコミットしては困るということでこの規定を入れたのです。ですから、それと同じことが日本についてもいえるのです。日本国憲法第九条がある以上、日本国憲法に従って、そういう協定を安保理との間で結ぶ必要がないのです。安保理決議で戦争をするといっても、それにたいして日本が参加するかどうかの最終決定権は日本が持っているということは国連憲章ではっきりと定められているわけですから、戦争をする必要がないのです。
 私は一度だけ小沢一郎氏と対談したことがあるのですが、あれだけ国連憲章に従って戦争をするといっている彼も、ちゃんと第四十三条第三項の所在を知っているのです。しかしそれは都合が悪いから言わないだけなのです。
(小見出し)いまの改憲は、集団的自衛権でも正当化できないアメリカの先制攻撃戦略にもとづく戦争に日本が協力するため
浅井)
 次の大学生の方の問題提起は非常に重いと思います。
 自民党がなぜ改憲をしようとしているのかというと、アメリカと一緒に戦争できる国になるためです。戦争をする国というのは、日本が攻撃を受けたらそれにたいして反撃して始める戦争ではなくて、イラク戦争のように、アメリカがしかける戦争に日本が一緒に参加するということです。これを、「集団的自衛権の行使」として正当化しようとしているのですが、集団的自衛権というのは、相手から攻撃されたら発動できる権利として国連憲章に定められているものです。先制攻撃に加担するというのは集団的自衛権でもなんでもありません。それをごまかしの議論で可能にするのが自民党の改憲案の根本なのです。ですから、そこを私たちは明確に解き明かさなくてはなりません。
 いかなる立場をとるにせよ、集団的自衛権によって先制攻撃に加担することは正当化されないということさえはっきりすれば、自民党の改憲案はウソの産物だというのが分かってもらえると思います。
 先制攻撃による戦争というのは、アジアにおいては北朝鮮にたいしてアメリカがやる戦争、あるいは、台湾海峡の紛争をきっかけにしてアメリカが中国に戦争をしかけるとか、そういうことをアメリカが考えているのです。これに日本が協力するということです。そのために、「国民保護法制」がすでにできました。そして、それに関連して「国民保護に関する基本指針案」というのができています。その中では、アメリカが先制攻撃をおこなった場合に、北朝鮮や中国が反撃に出て、ゲリラが日本に攻撃する、あるいは中国がミサイル攻撃をする、その結果として原子力発電所が破壊されるとか、中国のミサイルに核弾頭を積んでいれば日本は核被害を受けるということまでが政府の文書に公然と書かれているのです。これらの文書は、首相官邸のホームページで見ることができるので見ていただくといいのですが、いまの日本政府は、私たちを核戦争に巻き込もうとしているのです。そういうことを考えたら、本当に改憲を許してはいけないと思います。
 憲法改悪を許してはならないと言うことを説得力を持って議論しようというときには、たとえば、いま申し上げた「基本指針」を相手に実際に見せてあげながら、議論をしてはどうかと思います。
(小見出し)アメリカの先制攻撃戦略と不可分のミサイル防衛計画
浅井)
 三つ目に、ミサイル防衛と大増税との関係ですが、税金というのは、徴収する段階で、使用目的が決まっているわけではありませんから、増税分の七兆円すべてがミサイル防衛に向けられるという議論はなかなかできにくいです。
 しかし、ミサイル防衛に関して言うと、このミサイル防衛は、アメリカが中国に戦争をしかけたら、中国は陸海空軍を持っていますが、それはアメリカの目ではありません。日本に届く前に全部海の藻屑に消えます。しかし、アメリカが唯一怖がっているのは中国のミサイルです。中国のミサイルが飛んできたら、いまの状態では防ぎようがありません。在日米軍の基地は全滅になりますからそれでは困るということでミサイル防衛なのです。
 よく、北朝鮮のテポドンやノドンの脅威があおられていますが、そんなのは目じゃないのです。一番怖いのは、命中精度も高く破壊力のある中国のミサイルなのです。そのミサイルにどう対抗するのかということで、日米でミサイル防衛計画が推し進められているということです。そこまで新聞がなぜ書かないのかと不思議です。これは専門家や保守政治家からすれば常識です。ただ国民に言わないだけなのです。ですからミサイル防衛の本質をとらえれば、アメリカの先制攻撃戦略と結びついている。ミサイルさえ撃ち落せる仕組みができれば、アメリカは安心して中国を攻めることができるわけです。そういう因果関係なのです。
女性)
 そもそもミサイル防衛というものは、具体的には、どういうものなのですか?
浅井)
 いま日本が展開しようとしているミサイル防衛システムは、パトリオットミサイルで迎撃するというものです。それにたいしてアメリカは、地上から発射するシステムの他に、海上から発射したり、空中に備えておいてレーザーなどで迎撃するというシステムも考えています。
 しかし、このミサイル防衛計画というのは本当におとぎ話なのです。宇宙の彼方から、ハエみたいな物体を撃ち落とすという類の話なのです。そんなことは、どんなに高い現代の科学技術の水準をもってしても不可能なことです。当たりっこないのです。ですから、そのためにお金をつけるというのは本当に無駄なのです。しかも、莫大なお金がかかります。ミサイル防衛について、アメリカに率先してついていっているのは、世界でも日本だけです。
(小見出し)全局を見通す視野をわがものにして、あきらめない不退転の決意で頑張りましょう——浅井さん
浅井)
 私も外務官僚をしていたことがあるのでよくわかるのですが、改憲勢力は官僚機構を全部動かして、碁の布石を打つようにやっています。憲法も教育基本法も、みんな絡んでいます。ところが、私たちの側は、一つ一つの重点主義になっています。だから負けてしまうのです。私たちも、毎日の生活で大変ですが、総合的な視点を持つ、全局を見通すという視野をわがものにした取り組みをしていかないといけないと思います。そうでないと、各個撃破でやられてしまいます。
 もう一つは、先ほど、運動の方が間に合わないのではないかというご指摘がありました。私のレジュメの九頁に、「不幸にして私たちの訴え・呼びかけが通らない(憲法『改正』が成立してしまう)場合のことを考えるのは、『敗北主義』でしょうか」とわざわざ書きましたが、実を言うと、私は二〇〇七年に憲法が改悪されてしまうことも考えています。改悪されたらもう既成事実だからだめだと諦めるのかということです。そうではないでしょう。
 私は、最後に発言された方がおっしゃったことが非常に胸にしみました。個人的なことですが、私の孫娘も身障者です。「国民保護に関する基本指針」を読むと、戦争になると弱者がまず切り捨てられます。そういうふうに見ると、「国民保護に関する基本指針」というのは本当にリアリティがあります。リアリティのある彼らがつくっている文章を大いに活用して、 私たちが訴え、彼らは私たちの命をゴミ屑のように思っているのだ、そういうのに我慢できるのかということをみんなが自覚すれば、一人ひとりの力が固まって、質的な変化を生み出す根源的なエネルギーになると思います。
 最後の方の意見を大変感動して聞いたのですが、知っていることをぶちまけるということではなくて、本当にこうなったら大変だ、しかしそうなって諦めてしまうのはもっとだめだよと、そういう不退転の決意でとにかく頑張る。たとえ、「君が代」斉唱の時に起立しても、心の中まで起立したわけではないという気持ちさえあれば頑張れると思います。それがメッセージです。
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