中国と日本:日中関係悪化の主要な責任は日本にある

2004.09.20

*この文章は、ある雑誌に掲載する予定で書いたものです。少し前に「アジアカップと日中関係」という題で文章を載せましたが、どうも、日中関係に関して日本国内で見られる反応は歪みを深める傾向が強まっているとしか思えない(文中でも指摘したように、中国専門家からさえ、見当はずれの中国批判が行われる状況があります)ので、もう一度、アジアカップの問題を切り口にして、日中関係悪化の責任という問題について考えてみました。結論は、題名に書いたとおりです。

日中関係は、感情的に扱うには、余りにも重要な問題です。このHPを訪れてくださる方が、冷静に日中関係について考えてくださる素材として、この文章を読んでくださることを心から願います(2004年9月20日記)。

1.サッカー・アジアカップでの反日感情

中国で行われたサッカーのアジアカップで、中国のサポーターが日本チームに対して激しいブーイングを行い、「君が代」斉唱に対してもあからさまな嫌悪感を示し、北京での優勝戦の後には日本大使館の公用車を傷つける行動に出たことについて、日本国内では大きな反響を呼んだ(日本国内の反響の大きさに、外国のメディアも取り上げたほどだ)。

日本国内の反応は、マス・メディアが中国のサポーターの過激な行動を大々的に取り上げるだけではすまなかった。中国問題の専門家の中からも、今回の中国のサポーターの暴走を中国の反日愛国教育の所産と分析し、「反日に傾斜する教育内容は明らかに行き過ぎ」と厳しく批判する者も現れた(例えば、八月三一日付朝日新聞所掲の慶応大学・小島朋之教授)。テレビのニュースやワイドショーなどでは、スポーツに政治を持ちこむ中国には、二〇〇八年の北京オリンピックを開催する資格はないと断ずる向きまで現れた(朝日新聞の八月五日付社説も、「(日中の)決勝戦が、四年後に五輪を迎える中国の人々の度量を示す機会にもなる」と書いた)。

今回の問題の政治的背景を分析する前に、中国の反日愛国教育の「行き過ぎ」という批判と、今回のような事件を起こす中国にはオリンピックを開催する資格はないという主張について検討しておきたい。

中国のサポーターの反日的言動の背景には愛国主義教育があるのではないか、という質問に対し、中国人民大学の時殷弘教授は、「愛国教育は日本など特定の国をあげつらうものではない」と反論している(八月三一日付朝日新聞所掲)。私は、時教授の言っていることが基本的に正しいと判断する。

確かに中国の愛国主義教育を強める動きは、一九八二年に起こった日本におけるいわゆる歴史教科書検定問題に端を発している。大虐殺があった南京に大虐殺記念館が、そして日中戦争の端緒となった廬溝橋のすぐ傍らに抗日戦争記念館が、ともに訒小平の揮毫による金色の館名を輝かせて建てられたことは、愛国主義教育が抗日戦争を重要な内容としていることを如実に示している。歴史教科書問題は、中国のナショナリズム運動の象徴とも言うべき一九一九年の五四運動(それは同時に中国に二一箇条の要求を突きつけていた日本に対する抗議運動でもあった)以来の、日本による中国に対する侵略戦争を想起させ、歴史に学ぼうとする真摯な姿勢を全く見せない日本に対する深刻な警戒感を中国側に与えたのだ。

しかし、愛国主義教育を反日教育と矮小化するのは、日本人の歴史認識の曖昧さを棚に上げ、自らの価値尺度をもって中国人の歴史認識を強引に推し量ろうとする、重大な誤りである。私が所用で広島を訪れていた時に読んだ中国新聞(八月三日付)には、北京大学の王暁秋教授(中日関係史学会副会長)の談話が載っていた。彼は、次のように述べている。

「正しい歴史認識は二つの側面がある。何があったのかを明らかにし、客観的に見る。二つ目は今日的な意味です。過去に戻るのではなく、輝かしい未来をつくるために歴史を見つめることです。」

「(抗日戦争記念館の展示は若い世代に反日感情をかき立てていないかとの質問に対し)反日的な宣伝が目的ではない。五千年の歴史を持つ中華民族が受けた侵略の屈辱、苦難にどう立ち向かったのかを若者に覚えてもらいたい。(中略)屈辱を知ることで人は発奮、向上する…。」

五千年の歴史を誇る中国人が近現代で味わった最大の屈辱が日本の中国侵略であったために、その愛国主義教育の内容の多くが日本の侵略戦争を題材にするのは必然である。しかし、その趣旨は、反日感情を煽ることに目的があるのではなく、王教授が言うように、中国人が発奮、向上することを促すことに目的があることは、何度も南京大虐殺館と抗日戦争記念館を訪れている私には、素直にうなずけることだ。

今回の事件を起こすような中国には、オリンピックを開催する資格はない、という指摘に至っては、今回の事件が私たち日本人に投げかけている深刻な問題を直視しない私たちの思考の浅薄さを意味するものでしかない。

今回の中国のサポーターの暴走は、確かに厳しく批判されるべきである。日本国内のマス・メディアの報道を読み、聞く限り、あたかもスタジアムを埋めたほとんどの中国人サポーターを巻き込んだとんでもない反日大合唱であったかのような印象を与える。仮にそうだったとして話を進めよう(実態はそれほどのものではなかったらしいことは、現実に観戦した日本のサポーターのHPへの書き込みやわたしのぜみの卒業生の観戦の感想などからも窺うことができるのだが)。

しかし、中国のサポーターの暴走はもっぱら日本に対してだけ向けられていた、という重要な事実を、私たちは見忘れてはいないだろうか。その暴走は愛国主義教育がもたらした副産物という一面がある、という主張にも一理あるとしよう。だが、決定的に重要なことは、そのサポーターたちは、中国チームを贔屓するあまり、日本以外の国々に対しても同じような行動を取ることはなかった、という点にある。つまり、中国人サポーターの行動は、偏狭な排外主義とは明確に一線を画していた、ということが重要なのだ。

中国が偏狭な排外主義的ナショナリズムに凝り固まっているのであれば、その中国がオリンピックを主催する資格はない、という主張には十分な理由がある。しかし、今の日中政治関係が改善されないままに二〇〇八年の北京オリンピックを迎える時、考えられる最悪の事態とはどういうことだろうか。

もちろん、アジアカップにおける中国人サポーターの行動に対してメディアを通じて懸命に自制を呼びかけ、また、北京の優勝決定戦に際しては、精一杯の警備態勢を強いた中国側の対応から判断すれば、中国人に対する、政治とスポーツを切り離すべきだとする国民教育は今後格段に強まるだろう。したがって、これから述べる、私の最悪事態に関する予想が外れることを、私自身期待していることを前もって述べておきたい。

私が予想する最悪事態とは、こういうことである。つまり、北京オリンピックにおいては、日本選手が出場する場面に限って中国人観客のブーイングが起こる現象である。そのとき、世界中は、日中関係が異常な状態にあるということを否応なく知ることになる。いうまでもなく、日中関係はアジアひいては国際関係に重大な影響を及ぼす要素であるから、国際的関心はいやが上にも高まるだろう。その結果、日中関係の異常さの原因を、世界中がいっせいに詮索することになるだろう。

そこから直ちに明らかにされることは、日中関係の異常さをもたらしている原因・責任は、主に中国側にあるのではなく、圧倒的に日本側にある、ということだ。どうして、私はそう断言するのか。その点を次に述べる形で、本論に入ることにする。

2.日中関係悪化の原因と責任の所在

戦後の日中関係が本格的な歩みを示したのは、中国で文化大革命が終了し、訒小平の下で改革開放路線が本格化した一九七〇年代末からのことである(一九七二年に国交は回復したが、文化大革命で混乱していた中国には、なお数年対日関係を本格的に考えるだけの余裕はなかった)。

日中経済関係は、一応順調に発展して今日に至っている。しかし、政治面では国交回復当時から三つの問題が伏在していた。歴史問題(対中侵略戦争に対して日本がいかなる認識をもつか)、台湾問題(日本が台湾問題にどういう態度で臨むか)、日米軍事同盟(台湾を日米安保の発動対象とする極東条項の存在)である(詳しくは、拙著『中国をどう見るか』高文研 六二〜六六頁参照)。このほかに日中間には、石油資源の埋蔵がらみで、両国間の排他的経済水域の線引き問題(近時、日中双方の探査活動をめぐって大きく報道)、更には尖閣列島の領有権問題があるが、国交回復交渉時には取り上げられなかったし、政治的意味は低い。

歴史問題に関しては、すでに触れたように、早くも一九八二年に歴史教科書検定問題として表面化した。中曽根首相及び橋本首相(いずれも当時)の靖国参拝(それぞれ一九八五年と一九九六年)は、日本の保守政治の過去を直視することを拒否する歴史認識(正確には、正しい歴史認識の欠落)を集中的に示すものとして、中国側の警戒感を高めた。とくに日本の敗戦(中国にとっては抗日戦争勝利)の五〇周年に当たる一九九五年という年を日本側が無視して通り過ぎたこと(前掲書六七〜七二頁参照)は、歴史の節目を重視する中国にとっては到底看過できないことであり、中国側は全国規模で大々的な行事を行った。

しかもその後も、「歴史教科書をつくる会」(一九九六年創設)による、日本の過去を徹底的に美化する(対中戦争が侵略であった事実すら認めない)教科書をつくる動き、反中意識をむき出しにする石原慎太郎が東京都知事(一九九九年当選)になってからの言動など、中国側の神経を逆なでする、日本側における歴史無視の事例は枚挙の暇がない。

極めつきが、小泉首相の四年連続の靖国参拝である(二〇〇一年の首相就任以来毎年一回)。しかも小泉首相は、今後の靖国参拝についても、「自分の政治信条だから断固として変えない」(二〇〇四年八月三一日)と述べている。

この点に関して、時教授(前出)は、「(小泉)首相が靖国参拝を続ける限り首脳往来は不可能だ。中国はすでに何度も強烈に反対しており、それを変えることは国内政治的に通らない」と発言している。その理由として同教授は、「歴史問題では中国の民衆心理をくまなければならない」と指摘した。このことを、私たちは深刻に受けとめるべきだ。私たちは、中国が社会主義国だから、中国共産党の意向によって中国人が動くと受けとめがちだが、こと日中関係に関する限り、それは全く見当はずれの見方である。中国共産党といえども、日中戦争で悲惨な体験をした中国民衆の対日感情を無視した行動取ることは政治的に不可能だという時教授の指摘は、決して誇張ではない。

台湾問題についても、日本側の動きが折に触れ中国側の神経を逆なでしてきたというのが、国交回復後約三〇年以上にわたる実態である。日中国交回復の際、日本側は日台関係を非政治的関係に限ることを約束した。しかし日台関係は、その後なし崩し的に拡大の一途を辿ってきた。よりにもよって、日本の敗戦(中国の抗日戦争勝利)五〇周年に当たる一九九五年には、台湾の李登輝総統(当時)の訪日問題(幸いに、実現せず)が起こり、歴史問題(前述)ですでに悪化していた日中関係は更に険悪さを増した。

台湾問題については、米中間の動きも深刻な影を落とす。米中戦略関係を確立した上海コミュニケ(一九七二年)、米中国交正常化コミュニケ(一九七八年)、対台湾武器輸出問題に関するコミュニケ(一九九一年)が米中関係を規律する基本文書だ。ところが、クリントン及びブッシュ政権の下で、アメリカは台湾の防衛力を向上するために、台湾に対する先進的な武器供与を大幅に増やしてきた。また政府高官レベルの交流も、クリントン政権が李登輝総統(当時)の訪米を認めて以来、特にブッシュ政権の下ではおおっぴらに行うようになっている。

日米軍事同盟に関しては、台湾問題にも深くかかわる二つの重大な動きが、中国側の警戒と関心を強めている。一つは、アメリカの先制攻撃戦略に呼応して進められている日米同盟の攻撃的性格を強める動きだ。

アフガニスタン戦争に対する海上自衛隊による後方支援活動、イラク戦争における自衛隊のイラク派遣、アメリカの始める先制攻撃による戦争に協力する(参戦する)日本に向けて行われる反撃を予期し、これに対処することを目指す武力攻撃事態対処法及び同法を具体化するための一連の国民保護法制などは、攻撃的な日米軍事同盟へ向けた布石として、中国では強い警戒感をもって受けとめられている。ブッシュ政権は、海外米兵力の再編計画に乗りだしているが、ハブとしての日本の基地機能は強化される方向で検討が進んでいる。これまた、中国にとっては無視できないものだ。

さらにアメリカは今や公然と、日本の本格的な海外派兵を要求するまでになっている。その端緒は、二〇〇〇年のいわゆるアーミテージ報告だが、国際法違反・憲法違反として日本国内では強い批判にさらされている自衛隊のイラク派兵も、アメリカからすれば、自ら進んで戦争作戦行動も取ることができない(つまり、憲法九条の制約から抜け出せない)きわめて中途半端なものでしかない。

アーミテージは国務副長官の立場で、「憲法第九条は日米同盟関係の妨げの一つとなっている」(本年七月二一日)と公言した。またパウエル国務長官も、「日本が国際社会で十分な役割を演じ、安保理でフルに活躍する一員となりそれに伴う義務を担うというのであれば、憲法九条は検討されるべきであろう」(八月一二日)と述べた。改憲を目指す保守政治の動きは、小泉政権になってから加速化しているが、アメリカ側のこうした公然とした圧力行使は、改憲に向けた動きを更に強めるものだ。

これらの行動は、侵略戦争の過去を反省しない日本が、再び「戦争する国」への道をひた走ろうとするものとして、中国で受けとめられていることは間違いない。

もう一つの動きは、米日両国が、ミサイル防衛の研究開発配備の分野で、協力を加速していることだ。ミサイル防衛については、日本国内では、北朝鮮のミサイルによる脅威に備えるものという受けとめ方がまかり通っているが、これほど的はずれの議論はない。私がかつて詳細に明らかにした(拙著『集団的自衛権と日本国憲法』集英社新書)ように、アメリカは中国を潜在的脅威として捉え、台湾の独立問題(中国側が神経をとがらすのは、アメリカ及び日本の議会を中心にして、台湾独立支持勢力が影響力を持ち、台湾側と連動して動いていることだ)を契機として起こる米中戦争を現実的可能性として考えている(同書二四〜六六頁参照)。その際には中国のミサイルに如何に対抗するかが一つの大きなカギとなると考えて、中国のミサイルを無力化するためのミサイル防衛(中国のミサイルを無力化すれば、米日は中国との戦争で圧倒的に優位に立つことができる)に本腰を入れてとり組もうとしているのだ(同書六七〜七七頁参照)。

確かに米中関係は、九・一一事件以後、国際テロリズムに対する闘いにおける協力という分野を中心にして、一定の改善・進展が見られる。しかし、ブッシュ政権の先制攻撃戦略及びこれと連動して進められている、台湾問題をにらんだ日米軍事同盟の攻撃的再編強化、その努力と直結する日本における九条改憲に向けた動きは、中国の対日(対米)警戒感を高める以外の何ものでもないことを、私たちは深刻に認識する必要がある。時教授(前出)が、「対日関係の核心は台湾問題。日本が台湾独立を支持せず、歴史問題で重大な後退をしないことだ」と述べている重みは、限りなく大きい。

(終わりに)

小泉首相が毎年行う靖国神社参拝によってすでに大いに傷ついていた中国人の対日感情は、二〇〇三年に立て続けで起こった事件によって更に増幅された。チチハルでの旧日本軍が遺棄した毒ガス兵器による中国人の死傷事故事件(八月。本年七月にも吉林省で児童二人が負傷した)、珠海での日本人による集団買春事件(九月)、西安での日本人留学生による卑猥な寸劇事件(一〇月)がそれである。覚醒剤を中国から持ち出そうとして逮捕され、重刑を受けるケースは、去年から今年にかけて急増しているともいう(八月一五日付朝日新聞)。

これらの事態の深刻性を真摯に受けとめ、これ以上日中関係を悪化させてはならないという認識があったならば、二〇〇四年冒頭の小泉首相の靖国参拝はあり得ないことだっただろう。しかし、小泉首相は何事もなかったかのように参拝を強行した。

これらの事件、それにもかかわらず小泉首相が行った靖国参拝(四回目)は、日本国内でも注目されはしたが、それぞれを孤立した事件として受けとめる見方しかなかった。しかし、中国国内の受けとめ方は違う。それらはすべて、中国に対する侵略戦争の加害責任を真摯に受けとめようとせず、したがって中国人の自尊心を傷つけることになんらの痛痒も感じない日本及び日本人が、ただでさえ傷ついている中国人の心の傷に塩を塗る所業とされるのだ。

ここまで書けば、冒頭に述べたサッカー・アジアカップにおける中国人サポーターの行動について、私たちが分けもなく反発することが、単に的はずれであるにとどまらず、対中国・中国人の関係において、如何に無責任かつ無答責な所為であるか、ということも理解されるのではないだろうか。

二〇〇八年の北京オリンピックにかかわって私たちがいま問うべきは、中国人のナショナリズム感情の問題などではない(その問題については、中国国内の問題として、中国人が主体的に向き合うであろう)。私たちが問うべきは、中国人の悪化している対日認識・感情(これまで私が述べてきたことを直視するものであれば認めるほかないように、その認識・感情は正当な根拠をもっている)が改善されるようにするため、日本及び私たち日本人が歴史認識、台湾、日米軍事同盟という三つの問題について、中国側が納得できるだけの誠実な対応を取ることができるか、ということである。

その重要にして不可欠な第一歩は、小泉首相が靖国参拝を断念し、その決断を明らかにすることだ。そのことは、日中首脳レベルでの交流再開を可能にし、歴史認識、台湾、日米軍事同盟を始めとする日中間の政治的諸懸案に関する日中対話・交渉再開への重要な糸口を提供することになるだろう。

日中政治関係の悪化の主要な原因は日本側にある。その原因を取り除くために進んで行動することこそが、日本及び私たち日本人の責任の取り方である。

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