アメリカと日本:ブッシュ政権の世界戦略と日本の憲法をめぐる情勢そして私たちの課題

2004.08

*2004年7月26日に、愛知憲法会議、革新愛知の会、自由法曹団愛知支部主催の連続憲法講座の一環(第2回)としてお話ししたものを、主催者がテープ起こしをしてくださいましたので、お話しした後に会場から受けた質問に対する私の発言内容も含め、手を入れたものの大要を紹介します。

 今日私たちが直面している平和憲法の危機について、私たちはどのような姿勢で臨まなければいけないのか、また、臨むことが求められているのかという問題について、私が考えているところを述べさせて頂きたいと思います。

ちなみに私は、この4月頃からある原稿をずっと書いてきておりまして、8月の下旬には、青木書店という出版社から「戦争をする国 しない国」という題で本を出すことになっております(注:8月25日に出版になりました)。今日お話することのかなりの部分がその本を準備する中で考えた中身が入っておりますので、自己宣伝になりますけども、本当に憲法改正に押し流されてしまっていいのかという問題意識のある方、ご関心のある方は、是非とも私の新しい本も読んで頂けたら、今日のお話の肉付けになるだろうと思います。よろしくお願いいたします。

それでは今日のお話ですが、私にご案内が来たときには、憲法前文と第9条を中心に現在の国際情勢、とりわけアメリカの世界戦略との関係で極東・アジアの平和をどう築くかについて語ってほしいというご注文だったわけでして、皆様のお手元にお配り頂きましたレジュメを用意致しました。そのレジュメに基づいてお話します。

今日の世界の平和を大きく左右するのは、何と申してもアメリカであります。また、これからの日本の行く末に決定的な悪い影響を与える可能性があるのもアメリカです。そこで先ず、アメリカ、特に現在のブッシュ政権の世界戦略をどう見るのかという問題についてお話したいと思います。

それから、そのアメリカの世界戦略を、ブッシュ政権の過去の3年あまりの期間の歩みで振り返るわけですけれども、そこで考えなければいけないこととして、この秋に行われるアメリカの大統領選挙によって、アメリカの世界戦略あるいは対日政策、対アジア政策が変わるのかという問題があります。現在アメリカでは、ブッシュ大統領と民主党のケリー候補という図式で選挙戦が激しく闘われており、その中で双方の側から色々な問題についての発言が行われていますので、アメリカ大統領選に関する論点についても触れたいと思って、レジュメに顔を出させています。結論を先に申しますと、ブッシュが居なくなれば世の中は良くなるだろうと判断される方も多いと思いますけれども、それ程世の中簡単ではなさそうだ、ということをお話しすることになるだろうと思います。

3番目に、そういうアメリカの戦略の中で、日本が直面する情勢と私達の課題はどういうことかということについて、レジュメを作ってみました。そして、私に与えられた課題の一つである国際情勢の問題につきましては、ブッシュ政権の世界戦略について考える中で適宜触れていきたいと思っております。

まず、アメリカのブッシュ政権の世界戦略についてお話したいと思います。レジュメをご覧頂ければ直ぐお分かりのように、4つの柱からなっております。

1つの柱は、ブッシュ政権が打ち出した先制攻撃戦略についてであります。この戦略を正確に理解することが、現在の世界の平和を考える上で非常に重要であると考えます。そして、その戦略との関連で、第2の柱として、朝鮮半島に対するアメリカの政策はどうなっていくか、また、アメリカの政策だけではなくて、朝鮮半島情勢がどうなっていくかという問題についても、レジュメでは触れています。

第3の柱は中国問題です。米中関係については、皆さんは、現在の国際情勢とのかかわりの中であまりお考えにならないことかも知れません。けれども、私の見るところでは、ブッシュ政権における脅威認識と言いますか、アメリカにとって何が脅威とみなされるかという問題を考える上で、中国というのは、常に敵になる可能性が非常に大きい国として認識されておりますので、この問題も触れておかざるを得ないということで、レジュメに入れてあります。朝鮮問題が日本では大きく取り上げられているが故に、アメリカにとっても日本の保守政治にとっても、中国という要素を隠し通せるという状況が存在していますけれども、実は非常に重要な問題であるということをお話したい、ということであります。

4番目の柱は、ブッシュ政権の政策が非常に行き詰まりを見せているということ、及びそこからどういう教訓と問題点を汲み取るかということです。

それでは最初に、アメリカのブッシュ政権の先制攻撃戦略から入りたいと思います。

アメリカの世界戦略あるいは軍事戦略を考える時に、私達が先ずふまえて置かなければならないことは、平和という問題について、「力による」平和と「力によらない」平和という基本的な考え方の対立があるということです。私達の憲法は、「力によらない」平和という理念に立脚しています。この「力によらない平和」という考え方は、第二次世界大戦を引き起こし、それに先だって中国を侵略し、アジアを侵略し、朝鮮半島を植民地支配した日本軍国主義が世界そしてアジアに及ぼした被害、そしてその結果私達国民自身も塗炭の苦しみを味わったという、そういう惨禍に鑑みて、もう2度と「力による」平和という考え方には立たないと誓ったのが、平和憲法の前文と9条であるわけです。この講座にお集まりの方々は、ほとんどの方がこの平和憲法の立場・理念を支持しておられるであろうと私は思います。そういう方々の多くは、「力による」平和という言葉そのものが概念矛盾ではないかと受けとめられるだろうと思います。概念矛盾というのは、「力(暴力あるいは武力)」と「平和」というのは両立しないではないかという意味においてであります。

しかし、現実の国際社会におきましては、全体としてみれば、いまだに「平和は力の裏付けがあってのみ実現できる」という考え方が非常に強いのです。むしろ、「力を背景にすることによって平和を作りあげていく」という考え方の方が、伝統的に欧米社会を中心にして強いわけです。その中でもアメリカという国は、この「力による」平和という考え方をもっとも信奉し、かつ実践している国であるということを、私達は知っておかなければなりません。そういう「力による」平和という考え方に立つアメリカが、非常に有力な同盟国である日本を見た場合に、その日本が「力によらない」平和という理念に立脚した憲法に拘束されて、アメリカの世界戦略を補い、協力するということにおいて、どうしても欠けるところがあると、これでは困るということで、その平和憲法を改めて「力による」平和、すなわち軍事力の裏付けを伴った平和、という立場に変わるべきであると迫ってくることになるわけです。

そこに今日の憲法危機をもたらした国際的要因の最大のものがある、ということになります。したがって私達は、憲法問題を考える時に、常にアメリカという要素を考えなければならないし、そのアメリカは「力による」平和という考え方に立っていることを踏まえておかなければならないと思います。

「力による」平和と「力によらない」平和という考え方の対立の歴史は、非常に長いわけですけれども、時間の関係で、その点のお話しは割愛させて頂きます。ただ一言だけ申し上げておきたいのは、この「力によらない」平和という考え方は、人類の歴史の歩みで見れば、私はいずれ国際社会における多数意見の座を占めるだろうし、普遍的な価値観の中に組み込まれていくのではないかと予想します。けれども現実に目を向ける場合、現在の国際社会を前提とする限り、平和憲法が立脚している「力によらない」平和観は国際的には圧倒的に少数派であって、「力による」平和観が支配的であるという現状も率直に認めなければなりません。そうであるが故にこそ、「力によらない」平和観に立つ平和憲法を守り、育てていくという課題が、いかに大きな困難を背負っているかということにもなる、ということは理解しておいていただきたいと思います。

次に先制攻撃の歴史ですけれども、先制攻撃を戦略として明確に打ち出したのは、世界の歴史においてブッシュ政権が始めてであります。しかし、先制攻撃そのものについては、第二次世界大戦後だけの期間に限ってみても、いくらでも先例があります。

先制攻撃ということで国際的に最初に非難の的になったのは、イラクが作っていた原子力発電所を、この原子力発電所からプルトニウムを取り出してイラクが原爆を製造する危険性があるという理由づけをして、1981年にイスラエルが先制攻撃の空爆をしてこの原子力発電所を破壊したという事件があります。当時の国連でも大いに問題になりました。イスラエルは、予防的に自衛権を行使したのだという論法で正当化に努めたんですけども、国際社会からは、こういう先制攻撃は国際法の下では許されないということで強く批判されました。

アメリカ自身も、皆様よくご存じのように、例えばパナマのノリエガ将軍を数千名のアメリカの部隊を派遣して引っ捕らえるというような乱暴・無法を極めるような行動をとったことがあります。これも先制攻撃ですね。あるいはリビアに対して空爆を行い、タリバン政権にかくまわれていたビン・ラディンをやっつけると称して巡航ミサイルによる攻撃をしたという例があります。これらは全て、先制攻撃の概念に入るものです。

もう一点付け加えておきますと、実は日本政府も随分早い時期から、自衛権の行使として先制攻撃が認められるという立場を国会で明らかにしてきております。今はミサイルの時代であり、ミサイルが発射されてしまったら終わりであるから、「座して死を待つべし」ということは受け入れられないという理屈で、相手がミサイル攻撃に着手したと判断される時点において、その相手のミサイル基地を攻撃することは自衛権の範囲内である、と政府は度々説明してきています。ですから、自衛権の行使としてとは強弁してはいますが、先制攻撃を正当とする主張は、日本政府もやっていることを記憶しておく必要があると思います。

しかし、先制攻撃をした国、あるいは先制攻撃を可能性として排除しない立場を取る国々についてお話したのですけれども、それらの国々といえども、他の理屈や口実抜きで先制攻撃そのものを正当化するというのではありません。あくまで自衛権の一環として先制攻撃という形をとらざるを得ない場合がある、ということで説明をしています。ところがブッシュ政権は、戦争そのものが違法化されている今日の国際社会において、自衛権の行使という理屈づけもせず、とにかく悪いやつは先制攻撃でぶっ叩くことを戦略として採用するということを公然と打ち出した点で、最初の国・政権であったということであります。

ブッシュ政権における先制攻撃戦略の採用までにはいろいろ経緯があるのですけども、長い話を短くいたしますと、ブッシュ政権で国防長官になったラムズフエルドという人が、非常に特異な戦略観を持っておりまして、ソ連という脅威がなくなった状況の下で、アメリカがなお膨大な軍事力を維持し更に発展させることを正当化する議論を編み出したわけです。それが、レジュメに書いてあります「脅威立脚型」から「能力立脚型」への転換ということです。

簡単に申し上げますと、今まではソ連という具体的な脅威があり、そのソ連と対抗しうるだけの戦力を持つことが必要であるという考え方、これが「脅威立脚型」ということです。ソ連という脅威の軍事能力に見合う軍事力を持つという戦略によってソ連と対抗するということだったわけです。けれども、そのソ連がなくなった。しかしアメリカとしては、引き続き膨大な軍事力を持ち、更に開発を進めるという場合に、それをどう正当化するかという問題が出てきます。

ラムズフエルドは、これからアメリカが直面する脅威はどういうものか分からないとし、しかし、脅威がなくなることはないのだと主張します。したがって、どういう脅威に直面しても対処できないということが起こらないように、ありとあらゆる考えられる限りの軍事能力を構築する、そういう戦略を考えるべきだと言い出したのです。それが「能力立脚型」ということです。要するに、アメリカの科学技術力・経済力をもってして開発しうるあらゆる軍事能力を保持する。そうすれば、どんな脅威が現れても対抗することができるではないか、という理屈です。

そういう理屈ではあるのですけども、やっぱり具体的な脅威の形を示せないと、あるかも知れないし、ないかも知れないような脅威のために膨大な金を注ぎ込む必要があるのか、という当然の疑問が出てきてしまうわけで、ラムズフエルドの「能力立脚型」戦略には、非常に説得力に弱いところがある。つまり、脅威が特定できないというところに弱みがあったわけです。

そこに突発したのが2001年の9.11事件でした。正に9.11は、脅威を特定できない点において弱みがあったラムズフエルドの「能力立脚型」戦略に、弱点克服の格好の素材を提供したということです。航空機がミサイルとして使われるというようなことは、誰も予想しえないことではないか(注:実は、CIAの内部などでは、そういう可能性があると指摘する専門家が9.11以前からいた、ということが最近明らかにされています)、これからのアメリカは、アメリカに対して敵意を持つ国々あるいは組織、人がありとあらゆる想像力を駆使した様々な形の攻撃にさらされることが明らかになった、というわけです。

そういう脅威をラムズフエルドは、「恐怖という顔の見えない脅威」と定式化しました。要するに、「お化け」です。相手が「お化け」であれば、何でも出来てしまうわけです。どうしたらアメリカに攻撃できるかという発想に立って、あらゆる可能性を考えて立ち向かってくる敵が相手となると、ラムズフエルドのような立場からすれば、本当にありとあらゆる可能性が考えなければならない、と考えても不思議はありません。こうして、「恐怖という顔の見えない脅威」という形で脅威認識を据え付けて、この先制攻撃戦略を推進するということになったのです。

こうして「恐怖という顔の見えない脅威」という脅威認識を作ったのですけれども、その最初の実践応用例が、レジュメの2に書きましたように、ごろつき国家論であり、最初の標的がイラクであったということであります。ただし、この脅威認識にイラクを当てはめたのは、いわば「結論先にありき」の類の話であったことが分かってきています。ボブ・ウッドワードという人が書いた『攻撃計画』という本(注:日本経済新聞社から翻訳版が出ています)を読みますと、ブッシュ政権は9.11が起こった直後からイラクのサダム・フセインと9.11を強引にくっ付けるという考え方で邁進したということであります。

その場合に、なぜ先制攻撃ということになるのか、ということですが、ブッシュ政権の当初のこじつけは、簡単に言うとこういうことでした。すなわち、9.11を起こしたテロリスト達は、とにかくアメリカを最大限破壊したいと思っているに違いない。そういう彼等は、できることならば大量破壊兵器(核兵器、化学兵器、生物兵器)を手に入れて、それを持ってアメリカを攻撃したいに違いない。ところで、そういう大量破壊兵器は、アルカイダあるいはビン・ラディンの能力の及ばないものである。したがって、彼等はそういう兵器を保持しているごろつき国家の指導者に近づくに違いない。そして、彼等と連携し、彼等からそういう兵器を入手してアメリカに矛先を向けることになるだろう。こういう理屈です。

そこで、ビン・ラディンあるいはアルカイダと直接的に結びつけられたのがイラクであったということです。イラクは大量破壊兵器を持っている。そしてその大量破壊兵器をビン・ラディンに渡すかもしれない。渡されたらもうアメリカは終わりだ。だから、渡される前に先制攻撃でイラクを潰す。そこで先制攻撃をイラクに対して仕掛けた、ということであります。

しかし、レジュメで指摘しておりますように、先制攻撃戦略はこの1年あまりでもう完全に行き詰まっています。

一つは、イラク戦争を発動するに当たって、ブッシュ大統領は、サダム・フセインは大量破壊兵器を持っているに違いないということを、対イラク戦争の大義名分にしたわけですが、その後の事態が明らかになっているように、イラクには大量破壊兵器はなかったわけです。ですから、イラク戦争はまったく大義名分の立たない戦争である、ということになるわけです。サダム・フセインは、要するにアメリカが勝手に作った「お化け」にすぎず、実はたいした存在ではなかった、ということが国際的な常識になってきている。そういう状況の中で、アメリカが行った先制攻撃戦略の初の発動である対イラク戦争というのは、まったく正当化できない戦争であったことが証明されたということです。

付け加えて申しますと、この点はこれまでに申し上げておくべきだったのですけども、第二次世界大戦後にできた国際連合憲章という国際法は、あらゆる戦争を禁止しているのです。国連憲章では戦争を全面的に禁止し、例外として、自衛権の行使としての武力の行使と、国連が主体となって行う武力行使この二つだけを許しているのであって、それ以外の戦争はすべて違法なものとして許さないことになっています。アメリカによる対イラク戦争は、国連憲章が認めている二つの武力の行使のいずれにも該当しないですから、国際法上明確に違法な戦争であったことが非常にはっきりしているということであります。

しかも、レジュメにも書きましたように、アメリカは戦争終結宣言を出したけれども、今もなおイラクにおいては戦火が絶えないということが示しているように、アメリカの対イラク占領統治は完全に行き詰まりを見せています。レジュメで、「出口」戦略を伴わないという根本的欠陥、と書きましたことはどういうことかと言いますと、信じられないことなのですけども、要するにブッシュ達は、とにかくフセインをやっつければ後は何とかなるという読みで戦争を始めているのです。

その無茶さ加減を理解する上では、アメリカが日本と戦ったときのことが参考になります。対日戦争の時は、アメリカは1942年か1943年頃から、すでに戦争で勝った後の対日占領政策を内部的に検討して、十分な下準備を経て対日占領政策に乗り出しているのです。ところが今回のイラク戦争では、占領統治については、戦争が終わってから考えるという信じられない事態であったということも、アメリカのメディアの執拗な取材に基づいた記事などによって明らかにされてきています。

更にそういうブッシュの行き当たりばったり、しかも感情にまかせて善と悪、正と邪と決めつけるそういうやり方に対しては、本当にこのままでいったら世の中どうなるのかと、国際社会ではかなり広範な警戒感が育ってきています。その点、日本の大新聞、テレビの報道を見ていますと、日本ほどアメリカがやっていることについて無批判的な報道をしている国も数少ないのです。日本の報道だけを見ていると、いずれアメリカは何とかするだろうという印象を私たちに与えるような報道内容になっている。しかし、実際はそうではないのです。本当にアメリカは、もうどうしたらいいか分からないという状況に追い込まれているのです。若干脇道に入りましたが、やはり日本というアメリカべったりの国におけるメディアのあり方ということについてまで、私たちはいろいろ考えなければならないということです。とにかく、こういうことでブッシュ政権の先制攻撃戦略は、ある論者によれば、先制攻撃戦略の発動はイラクが最初で最後になるのではないか、というような見方まで呼び起こしています。

そこでしかし、私たちとしては、そういう見方まで出てきているからといって安心するわけにいかないということを、アメリカの朝鮮半島政策に関して指摘しておきたいというのが次のポイントであります。ブッシュ政権における朝鮮問題の位置づけは、簡単に言いますと、三つの要素からなっています。レジュメには書いてございませんが、一つは、ブッシュはキムジョンイルが嫌いで嫌いでしょうがないということです。本当に憎しみの対象以外の何物でもないということ。やはり、ボブ・ウッドワードが書きました『ブッシュの戦争』という本があります。その中でブッシュ自身の言葉として、「俺はキムジョンイルが大嫌いだ」と言っているのです。そういう大嫌い感情が「ごろつき国家」の一つとして北朝鮮をイラクとともに名指しする要因になっています。しかしそうは言っても、ただ好き嫌いだけでは動けません。特にこのイラク戦争で、もう完全にアメリカの軍事的能力は伸びきった状態にあり、予備役まで動員して闘わざるを得ない状況に追い込まれていますから、第二の戦線を開く余裕がないということです。このことがブッシュ政権の対北朝鮮政策を方向づけるもう一つの大きな要因になっています。それからもう一つの要素が、レジュメでも書いてありますように、朝鮮問題に関しては、取りあえず「六者会談」、つまりアメリカ、ロシア、中国、日本、韓国、北朝鮮の六カ国による交渉の場が設けられていうということで、少なくともブッシュ政権としても、「六者会談」をむげに無視するわけにいかないという事情があります。

「六者会談」における新たな動向については、皆さんも新聞などで見ておられると思いますけれども、要するにこの前「六者会談」が北京で行われた時に、ちょっとした進展があったのです。それはどういうことかといいますと、今までほとんど北朝鮮を交渉相手とせずとしていたアメリカが、条件付き交渉の立場に転じ、北朝鮮もアメリカの立場の変化に対応する姿勢を示すようになったということです。アメリカは、北朝鮮があらゆる核計画を放棄したら、それに対してアメリカも援助をする用意がある。究極的には北朝鮮を承認する、というような行動に出ると言ったようです。それから、「核計画」という言葉も微妙な点が含まれています。あらゆる核計画というとき、アメリカはこれまで核の平和利用の可能性まで含めていたのです。要するに、原子力発電所をつくることもだめという立場だったのです。ところが、この前の「六者会談」では、核の平和利用の可能性については曖昧にするという微妙な姿勢の変化を覗かせたのがアメリカの新しい点です。こうしたことから、「六者会談」に前途が出てきたのではないかと言われているのであります。

皆様は、北朝鮮が原子力の平和利用をする、具体的には原子力発電所を持つということについて、どのようにお考えになるかは分かりませんが、例えば日本などは50カ所近い所に原子力発電所を持っているわけです。私達が持つことが許されるのに、北朝鮮が原子力発電所を持つことは許されないということは、国際的にいう二重基準ということになります。これはどう見でもおかしいことなのです。ですから、非常に始めからおかしいところを引っ込めようとする姿勢をアメリカが見せたということが、この前の「六者階段」の味噌であったと理解して頂きたいと思います。

このように見てくると、朝鮮問題も将来に向けて展望が出てきたのかと思われるかも知れません。小泉首相の二度にわたる訪朝ということも見ると、日朝関係にも何か進展があるかも知れないということを重ね合わせてお考えになるかも知れません。けれども、喜んでばかりはいられない事情もあります。

それが在韓米軍削減・基地移転問題であります。要するに、アメリカは今の在韓米軍の一部をイラクに派遣することをも含めて、在韓米軍の縮小計画を考えているということが報道されています。注意して読みますと分かりますように、この計画にはもう一つ大きなポイントがあります。それは、今韓国に展開しているアメリカ軍はソウルと38度線、すなわち北朝鮮と韓国との国境線、臨時境界線ですけども、その一帯に展開しています。ですから仮に北朝鮮が攻撃をすれば、そこにいる3万7千人のアメリカ軍は完全に犠牲になるわけです。そういう代価を支払わされたら、アメリカは黙って見ているわけはない。必ずアメリカは反撃する。そのことを北朝鮮も当然理解する。そういう相互の判断が働いく結果、在韓米軍の存在が抑止力になって、北朝鮮の攻撃を思いとどまらせる。以上が、アメリカ自身も説明してきた在韓米軍の存在理由なのです。

ところが今回のアメリカの在韓米軍の縮小計画によりますと、韓国にいるアメリカ軍をソウルから南に下げるという計画が含まれています。ということは、今までの抑止論を崩すということになります。ここからは私の想像が入りますので、参考までに聞いておいて頂きたいのですけれども、アメリカは北朝鮮から攻撃される前に北朝鮮を攻撃することを考えるためには、38度線とソウルの間に人質になる米軍を置いておくわけにはいかない、ということなのです。何故かといいますと、アメリカが先制攻撃をすれば、北朝鮮は必ず反撃をします。その時に37,000人の米軍がソウルと38度線の間にいたら全滅です。しかし、ソウル以南にいれば、アメリカ軍には被害が及ばないです。だからアメリカは、安心して先制攻撃ができるということになります。

ですから私達が考えておかなければならないのは、この在韓米軍縮小問題というのは決して簡単な問題ではないということです。ブッシュが再選され、「六者会談」がうまくいかなくなった時に、ブッシュはアメリカ軍の人質さえいなければ、安心して先制攻撃のシナリオを書くことができるということになります。そして帰結するところは、今日の主題ではありませんけれども、北朝鮮によるアメリカ軍が駐在する日本への反撃という可能性を一気に現実にさせるわけで、「武力攻撃事態対処法」とか「国民保護法制」が発動されるという事態に直結してくるということです。かつて中央官庁の一端にいた私の第六感ですけれども、こういうアメリカの構想は日本側に伝わっていないはずはないです。

何故小泉政権が「武力攻撃事態対処法」、「国民保護法制」をしゃかりきになってやろうとするのかといえば、要するにアメリカが北朝鮮に対して先制攻撃を仕掛ける可能性がある。その結果、北朝鮮の反撃として、日本を舞台にした戦争が起こる可能性があると考えるから、こういう法律が必要だということになるのです。ですから、これらの法律は万が一の保険だ、と小泉首相は言いますけれど、アメリカのせいで、日本はとんでもない戦争に巻き込まれることになることはおわかり頂けると思います。

ちなみに、私の今度出す本(注:『戦争する国しない国』)の最後の部分で扱っておりますけども、今年の国会で上がった「国民保護法制」というのはこれです(注:7法案3条約の原文を会場で示しました)。こういう分厚いものです。それが、自公と民主党のなれ合い審議の結果、ほとんど国会で議論もなくすんなり通っているのです。しかし実は、本当に危険な内容であり、私たちの人間としての尊厳は完全にアメリカの戦略の人質にとられていることが、この法律によって明らかになっています。

時間が押してきておりますので、米中関係は本当に重要なことですけれども、一点だけ申し上げておきます。9.11事件以後、米中関係は改善したといわれていますけれども、レジュメで台湾問題という項目をあげておきましたように、米中関係を究極的に左右するのは台湾問題です。台湾問題とはどういうことかと言えば、具体的には、台湾が独立宣言をすることによって起こる米中戦争ということです。台湾は今、陳水扁という総統のもとで、独立を目指しているという状況があります。そしてアメリカの議会、日本の国会では、完全に台湾独立支持派が多数を占めています。したがって、今のところは、米日両政府が台湾に独立宣言をすることを思いとどまらせているから、問題は顕在化していませんけれども、何時、陳水扁が独立宣言をするかもしれないという状況は常にあるわけです。そうなった場合には、アメリカの議会、日本の国会が台湾を独立国として承認すべきだと決めてしまえば、これは両政府の行動を左右しますから、日本とアメリカは台湾の独立を承認することになってしまいます。

ところが中国は、台湾の独立を絶対に認めませんから、米中戦争が起こり、エスカレートしていけば、核戦争にまで発展していってしまうという事態を、中国のナショナリズムを考えれば、私たちは最悪のシナリオとして考えておかなければいけないわけです。皆さんの中には、今までのあれだけの経済発展の成果を犠牲にするようなことを、中国がするわけはないではないかと思われる方が多いと思うのですが、それは中国のナショナリズムを理解したことにはなりません。中国の指導者達が戦争を回避したいと思っても、国民感情が許さないのです。皆さんは、社会主義の国だから、国民は政府の指図どおりになるのではないかとお思いかも知れませんが、今日の中国は、特に対日関係に関しては、もはやそういう国ではありません。本当にナショナリズムに押されて、中国の指導者には行動の自由がなくなるのです。米中戦争となれば、中国には核ミサイルという対抗兵器があります。その核ミサイルが数百発の単位で日本を射程におさめています。そうなった場合には、広島・長崎がかすんでしまうような核戦争、核被害が日本に及ぶということになります。

アメリカといえども、日本を灰にするような戦争をしたいと思っているわけではないでしょう。しかし、先程も言いましたように、中国を潜在的な脅威の最たるものとして考えている点においては、アメリカの共和党も民主党も変わるところがない。こういうことになりますと、誰もが望んでいないのだけれども、いったん坂をころげ落ち出したら、奈落の底まで転がり落ちていってしまうというのが台湾問題の非常に恐ろしいところなのです。

レジュメの前半だけでもう1時間過ぎてしまいました。けれども、アメリカの戦略の危険性を理解しておいて頂かないと、私たちが何故憲法を護らなければいけないのかという問題意識に繋がらないので、御理解頂きたいと思います。

レジュメの1(4)のアメリカの「力による」平和政策の失敗から得られる教訓と問題点という点に関しても、多くのことを申し上げたいのですけれども、時間の関係がありますので、この点は最小限にいたします。

「国連の位置づけは如何にあるべきか」という問題は、平和憲法を護る立場に立つ私たちは、ともすれば国連を重視した外交ということを考えがちですけれども、ここで私が申し上げたいことは、国連という存在あるいは国連憲章という文章について、単純に白か黒かという割り切り方をするのは危険だということを申し上げたいのです。例えば、国連憲章も恒久平和を念願している点では平和憲法と同じ立場ですけども、しかし、平和が破壊された時あるいは平和を回復するために必要だと判断するときには、国連は自ら軍事力を使うということをはっきりと国連憲章で書いているわけです。それは明らかに、理念として、「力によらない」平和の立場からは出てきません。あくまで「力による」平和という考え方が最後の担保になっているわけです。そういう国連憲章と平和憲法の根本理念の違いということは、あまり議論されていないのではないかという点を、私達は深く考える必要があるのではないかということであります。

それから、イラク戦争の際に明らかになりましたように、アメリカはイラクに対する戦争を国連安全保障理事会のお墨付きを得て、国連の決める戦争としてやりたかったわけです。正当化の理由が欲しかった。しかし、皆さんがご存じのように、フランス、ドイツ、ロシア、中国が反対して、安保理はアメリカの戦争を認めなかったわけです。だから違法な戦争ということになったのです。そういう意味で確かに国連は、特にこのイラク戦争を認めなかったという点では、国際世論の高まりを反映し、「力によらない」平和という可能性を追求するために一定の役割を果たしたということはあります。しかし、今の現実をみますと明らかなように、実際に違法な戦争をやったアメリカ軍、イギリス軍を中心とする軍隊が、安保理決議1546によって、安保理の認める多国籍軍という地位を与えられて居直ることを認められてしまったのです。このように安保理は、やってはいけないことをやった軍隊を後追いして認めるという政治的妥協を行う場でもあるわけです。これは、大国間の馴れ合い政治の所産であるということなのです。ですから、ここで私達が考えなければいけないことは、国連がやることは何でも正しいのかということです。私が結論として申し上げたいのは、国連だって間違ったこともやることがある。そういうことに対して、私達は的確な批判力を持たなければいけないのではないかということを申し上げておきたいのです。

国連決議さえ貰えば自衛隊のイラク派兵も可能というのは、正に小泉政治がよりどころとしたことです。確かに多くの国民は、安保理の決議があったからイラク派兵は良いのだ、という議論には納得してしまうところがあるのです。しかし、この決議も大国政治の妥協の産物であり、非常に不明瞭な点があったということを、私達がしっかり見極める眼力を持っていたならば、たとえ安保理の決議があったって、悪いことはやってはいけない、イラク派兵はいけないという議論はできたはずです。そういう意味で、私は、国連についても私達がしっかりした判断力を持つ必要があるということを申し上げておきたいと思います。

次に、レジュメの2.の「アメリカ大統領選に関する視点」というところに移りますが、これは詳しく申し上げたらきりがないので、ごく簡単に項目ごとにまとめて申し上げておきます。

一つは、9.11以後のブッシュ政治によって翻弄された国際政治の立て直しを可能にするという視点から見た場合の大統領選挙の意義ということですが、要するに、大統領が変わればアメリカの政策は変わるかということであります。

例えば、ブッシュは国連を無視してイラク戦争を始めたと、その点をケリーは批判しています。しかし、戦争そのものをやるべきではなかったとは言っていないのです。あくまで安保理の決議を貰ってやるべきだった、国際世論を味方につけてやるべきだった、こういう議論です。もう一つのケリーの論点は、「他の国が言うことを聞かなかったならば、そんなのは知ったことではない。フランス、ドイツがぶつぶついうなら言わしておけ」と言って、戦争を始めたのがブッシュだったのですが、それではいけない、あくまで同盟国・友好国の理解と協力を得た上で進めるべきだというのがケリーです。こういう違いはありますけれども、しかしケリーも、民主党の大統領選挙の公約文書でも先制攻撃戦略そのものを否定はしない、と言っているのです。ですから、ケリーになったらすべてが良い方に変わる、と考えるのはあまりにも楽天的ではないのかという感じがする、ということが一つであります。

2番目は、大統領選挙後に待ち受ける国際問題に対して、いずれの候補が当選するかによって、状況は変わるかという観点で見た場合にどうか、ということです。ブッシュ政権が打ち出した核戦略の問題、要するに使える核兵器を開発するというような考え方、あるいは、対テロ政策のあり方、あるいは日本を含めた同盟国との関係のあり方、こういう問題についても結論的に言えば、ブッシュとケリーの違いは、量的なものであって質的なものではない、とまとめることができると思います。

私達は、ブッシュ大統領の強烈なキリスト教原理主義に近い政治運営の仕方は、ケリーが大統領になれば改まることは期待できます。しかし、だからと言って、ブッシュ政権が進めて来た政策が根本的に切り替わるということまで今の時点で考えるのはまだ問題があるのではないかと考えておく必要がある、と申し上げておきたいと思います。

(注:確かにブッシュとケリーの政策上の違いはほとんど変わりませんが、後で発言の中で触れたように、「人間の尊厳を承認する意識があるか」という点で、私は、ブッシュからはまったくその要素を感じないのに対し、ケリーの発言の節々からは、少なくともその点についてはこだわりを持っているということは感じています。ただし、先制攻撃戦略を容認するケリーが、果たして普遍的な価値としての「人間の尊厳の承認」ということをどこまで本気で大切にする気持ちがあるのかという点になると、非常に懐疑的にならざるを得ません。

もう1点付け加えておけば、ケリーは、同盟国重視、北朝鮮の核開発問題に対するブッシュの無策ぶりを厳しく批判している、という点で、大統領になれば、対北朝鮮問題との関連で日本により大きな役割を求めてくることも考えられます。これまでのところ、ケリーは対日政策についてはほとんど発言していませんが、ケリーが大統領になれば、対日政策がより穏健になるという保証はありません。)

それでは、レジュメの「日本が直面する情勢と私たちの課題」に移りたいと思います。ここでは非常に多くの項目が並んでおります。最初が小泉政権によるイラク派兵問題をどう見るか。2番目には、憲法が直面している状況と私達の課題というのはどういうものか、という総論的なことを考えています。その後、憲法改正、改正というのは憲法の条文にそう書いてあるのでそのまま書いたのですけど、本当は正しく改めるわけではないので、括弧付きで「改正」といった方が正確です。そういう問題についてどう見るべきか。そして、改憲論について私達が考えなければいけないことはどういうことかという問題を扱っています。更に、改憲問題をめぐって情勢が深刻さを増しているわけですが、その責任・問題は改憲派の方にのみあるのか、という問題も考えたいと思います。それが、レジュメの3(5)にある、私達の護憲論における「欠陥」のところです。欠陥というところにカギ括弧をつけましたけれども、私たちの護憲論の立場にも、考えるべき問題が非常にあるのではないだろうか、というのが今の私の問題意識であります。そういうことについてお話したいのであります。

まず、小泉内閣によるイラク派兵について、三つの点を改めて確認しておきたいと思います。

一つは、レジュメに書きましたように、憲法違反のイラク特措法に基づく自衛隊のイラク派遣ということに問題の本質があるということです。イラク特措法は憲法違反の代物にほかならない、といわなければなりません。イラク派兵の根拠の法律が憲法違反だったら、イラク派兵が許されていいわけはないはずです。そういう根本的なところを、私達はやはり曖昧にせず、しっかり見極めるべきではないでしょうか。小泉政権は、自衛隊のイラク派兵は人道支援、復興支援だと主張し、だから憲法違反の問題は生じないと言いますけども、イラク特措法が憲法違反以外のなにものでもないということを前提とすれば、いかなる後追いの理由を付けても、自衛隊派遣が憲法違反だという本質は変わらない、ということを見ておきたいのです。

レジュメでは三つのポイントを記しておりますけれども、「積み重ねられた「解釈改憲」の終着駅」という点は、若干複雑な議論に入りますので省きまして、残りの二つのポイントについてお話したいと思います。

一つのポイントは、今回の自衛隊のイラク派兵は、日米軍事同盟に基づくアメリカの対日要求に応えるためのものである点に本質があるということです。人道支援だ、イラクの復興・開発支援だと言い張っても、アメリカが日本に自衛隊を派遣してくれと強要して来なかったら、小泉政権といえども危ない橋を渡ったはずがないのです。そうすると、この問題は、レジュメに書きましたように、「力によらない」平和という理念に立つ平和憲法と「力による」平和という考え方に立脚する日米安保条約・日米安保体制とのあいだの根本的矛盾に由来するものだ、ということが分かります。日本が独立を回復したときに同時にできたのが日米安保条約だったわけですけれども、その時以来の矛盾・問題の今日的な到達点がイラク派兵だということなのです。その点をはっきりと私達が認識しておかなければならないと思います。

もともと、「力によらない」平和の考え方に立つ平和憲法のもとでは、「力による」平和の考え方に立つ日米安保条約などは作れるはずがなかったのです。理念が根本的に違うのですから、これは憲法を選ぶか安保を選ぶかという問題だったのです。ところがその時に、日本人の「まあまあ主義」といいますか、ものごとを曖昧にして過ごす習性が災いして、平和憲法のもとでも日米安保条約は作れるのだという考え方に、私達はいつの間にか慣らされてしまったのです。しかし、それが今回のイラク派兵ということで、根本において妥協してしまったことのツケがこういう結果をもたらすのだということで、本当に私達は今改めて、憲法か安保か、という問いかけを自らにしなければいけないと思います。

これを言い替えれば、「力によらない」平和という立場を堅持する平和憲法を護って、日米軍事同盟を解消するのか、それとも、もし「力による」平和という考え方に立つ日米安保条約を重視、優先するならば、必然的にアメリカが要求するように憲法を改めるのか、という選択を私たちはせざるを得ないのです。今日私達が直面している問題は、そういうことであります。

もちろん今の段階では、アメリカは、小泉政権がかなり無理をして自衛隊をイラクに派遣したという事実自体は評価しています。しかしアメリカの本音はどうかといえば、アメリカ国務省のアーミテージが「憲法を変えるべきだ」とはっきり言っているわけです。それは何故かというと、今イラクにいる自衛隊はきわめて中途半端な存在だからです。すなわち、自分からイラクの抵抗勢力に戦争を仕掛けることはできない。もっぱら攻撃されて、身に危険が迫った場合に限ってしか応戦することもできないことになっているのです。変な話ですが、日本よりはるかに小さいオランダの軍隊が自衛隊を守っているわけです。アメリカからすれば、こんな馬鹿なことはないではないか、どうして自分で自分を守らないのだという議論になるし、自分を守るだけではなくて、ならずものがうろついているのだから、自衛隊がアメリカ軍などと一緒になって戦争するべきではないか、というのがアメリカの本音・腹なのです。その邪魔になるのだったら、平和憲法なんてもう止めなさい、ということになるわけです。

もう一つのポイントは、自衛隊のイラク派兵はアメリカに対する協力として行われているわけですが、そのアメリカがやったのは、先程申しましたように、国際法違反の戦争です。ですから、国際法違反をやっているアメリカの戦争に加担するということは、日本も国際法違反行為の領域に踏み込んでいるということです。こういう意味においても、日本は本当に許されてはならないことをやっているということを確認しておく必要があります。

以上のポイントを確認するだけの私達の常識がなければ、何故アジアの国々、特に日本に侵略された国々が、日本のイラク派兵の問題についてかくも敏感になるということは、なかなか理解できないことになります。要するに、日本はいまや国際法違反のことでも平気でやってしまう国に再びなってしまったということですから、次には公然たる海外派兵だと、侵略を受けた国々は当然のごとく考えるわけです。それは決してこじつけではなく、彼らの考える方がまともであって、イラク派兵の問題と本格的な海外派兵の問題とは別問題とこじつけるとすれば、その方がはるかに偽善に満ちたものだといわざるを得ないと思います。

昨日のアーミテージ発言が本当にあらわにしたように、そして時を同じくして経団連の豊田会長も憲法改正に踏み込む発言をしたように、両者が示しあわせて行った発言とまでは思いませんけれども、要するに改憲勢力の二つの大きな後ろ盾になっているアメリカと日本の経済界が、ついに衣をかなぐり捨てて改憲を公言するようになったという状況があることに、今日の憲法をめぐる深刻な状況が集中的に現れていると考える必要があります。

そこで、レジュメの「平和憲法が置かれている状況と私達の課題」というところに入ります。

ここでは二つの問題を申し上げたいと思っております。一つは、90年代から日本の政治の右傾化といいますか反動化といいますか、これが本当に1本調子で進んできているということであります。90年の湾岸危機・戦争の際の130億ドルの戦費拠出に端を発して、軍事的国際貢献の名の下に、保守政治は改憲への道をまっしぐらに歩み始めたという問題があると思います。

手前味噌になりますけれど、私は、92年にPKO法が通った当時から、保守政治の最終的目標は改憲にあり、ということを叫んできたのですけれども、そういうことはほとんど注目されないままできてしまいました。そして、その延長線に今日がある、と非常に砂を噛む思いをしております。

途中の経緯は省きますが、2001年1月にアメリカでブッシュ政権が登場し、4月に政権についた小泉首相とブッシュの連携によって改憲への道が加速された、ということであります。私もまざまざと覚えておりますけれども、自民党総裁に当選した直後の記者会見で、小泉氏は改憲ということを公然と口にしました。戦後の自民党の総理・総裁の中でも小泉氏が始めてであったということが、本当に今からふりかえっても、その後の日本政治の歩みを示唆するものであったと思います。

保守政治は、今や憲法を変えることに照準をおいています。憲法を変えるというのは、要するに、「力によらない」平和という理念に立つ憲法はもうやめ、アメリカがよって立つ「力による」平和という考え方に国の進路を切り替えるということです。分かりやすい言い方をすれば、「戦争しない国」から「戦争する国」に切り替えることに最大の目標が置かれていることは間違いないところです。

ただし、急いで付け加えておきたいことがあります。私達は、憲法改正問題の焦点が憲法の前文及び9条にあると考えがちでありますが、私が先程ご紹介した本(『戦争する国 しない国』)で明らかにしておりますように、保守勢力の狙いはもう一つあります。それは、レジュメにも書きましたように、「国家を国民の上におく」国家観を国民に押しつけるということです。それはどういうことかと言えば、要するに、人間の尊厳(具体的には民主主義・人権)を国家に服従させるという考え方であります。

それはおそらく、憲法の条文でその趣旨を明確に書き込む、ということにはならないと思います。私の本を見て頂ければ分かるように、武力攻撃事態対処法そして国民保護法制の国会審議において、政府は、「公共の福祉」という憲法にある文言には国の安全・国益が含まれると言い放って、人権を制限することがありうる、と言いきっているのです。憲法12条及び13条は、基本的人権に関するいわば総則的な規定でありますけれども、例えば13条における規定ぶりは、人権は公共の福祉に反しない限り最大の尊重を必要とする、となっています。政府は、いわばこの規定を額面どおりに解釈するという立場をとり、公共の福祉すなわち国益のためには、国民の権利・義務が制限される場合があると、繰り返し答弁しています。

明治憲法のもとでも、国民には一定の権利が「臣民」の権利という形で一応認められていました。しかし、すべての権利について、法律の範囲内で、という制約がついていました。それが今度は、憲法12条・13条の「公共の福祉」という規定がすべての人権規定にかかって来る、という解釈によって人権制限を成し遂げようとしているのです。そういうことが、現憲法のもとで現実のものになろうとしているということです。そういうことによって保守政治は、私達を再び実質的に戦前の臣民の地位に引き戻そうとしているのです。この点にも、是非皆さんが関心を向けて頂きたいと思います。

次に、レジュメの憲法改正の要件というところに入らせていただきます。

5月1日付の朝日新聞の世論調査によりますと、憲法9条の改正に賛成するか反対するかという直接的な問いが行われれば、まだ6割の国民が改正に反対です。しかし憲法全体について改正することについて賛成か反対かと問われると、賛成が53%と過半数を超えたのです。それが何故重要なのかというと、そこで憲法改正の要件を定めた96条の規定ですけれども、それに基づきますと、憲法改正には二つの要件を満たす必要があります。一つは、衆議院・参議院の各議院の総議員の3分の2以上の賛成で国会が国民に提案する、ということです。それからもう一つが国民の承認を経なければならないということで、その承認には特別な国民投票又は国会が定める選挙の際行われる投票で過半数の賛成を必要とするということです。だから、国民の過半数の賛成というのがもう一つの要件になっているということです。

第1の要件である国会の総議員の3分の2以上の賛成という点については、今回の参議院選挙の結果、もう完全に満たされるに至ったと言わなければなりません。何故かといいますと、要するに民主党も改憲賛成なのです。民主党は、6月22日に創憲に向けて憲法提言を出しています。この提言については、民主党のホーム・ページにアクセスすればダウンロードできます。その改憲案には9条改定を含みます。要するに、民主党も「力による」平和という立場に転換するという立場をとっています。それから公明党は加憲という立場で、これも国際協力のための自衛隊海外派兵は認めるという考え方をすでに出しています。したがって、今回の選挙の結果については、民主党の勝利、自民党の挫折・敗北と評価するのがマスコミでは一般的ですが、私に言わせれば、改憲派の大躍進、護憲勢力の大敗北と特徴づけなければなりません。

したがって、今回の選挙の結果、昨年行われた衆議院総選挙の結果と併せますと、現在の衆議院と参議院はともに、あと3年の任期を持つわけです。だから新聞でもチラチラ書き始めましたけれども、来年には自民党の改憲案、再来年には民主党の改憲案、そして97年には改憲案の成立・通過という日程を、自民党の責任者が公然と言い出しております。要するに、この3年が勝負だということです。

改憲を阻止できるかどうかは、国民の動向によって決まる、ということがお分かりになると思います。つまり、先ほどもいいましたように、国民の過半数が賛成するか反対するかというところがポイントになるということです。その点では、朝日新聞の世論調査でも、半数以上の方が憲法改正に賛成の立場に回っているんです。ということは、改憲勢力から見れば、明らかに成算ありということになります。これが今の状況だと思います。

皆さんは、9条については別ではないかとおっしゃるかも知れませんけれども、これから申し上げますように、改憲勢力もしたたかでありまして、改憲を国民に提案するに当たって、各条ごとに個別に国民に賛否を問うというような形は絶対に取りません。憲法改正案を丸ごとぶつけて、全体として賛成か反対か、という形で迫ってくることは明らかです。朝日新聞の世論調査の結果に反映された、国民のかなりの部分が9条と憲法全体の改正とを分けて考えようとしていることは、改憲勢力からすれば、まさにチャンスなのです。ということは、憲法96条の二つめの要件も満たされる可能性が大きくなっている、と見なければならないと思います。

そこで私達として考えなければならないことが出てきます。何故9条改憲には反対が6割なのに、憲法全体の改正には賛成が過半数になるのか、これは矛盾しているように見えます。しかし実を言うと、矛盾ではないのです。というのは、これはレジュメに載せた自民党憲法調査会のプロジェクトチームの提案にも取り込まれていることですけれども、私のいう、いわゆる「善意の改憲派」がかなりいるということです。それはどういうことかといえば、今の憲法には環境権あるいはプライバシーに関する規定が入っていないわけですが、そういう規定はあった方がいいとする善意の改憲論者がいるわけです。例えば、環境運動を真剣にやっている人たちの中にはかなりいるでしょう。

ですから、私達にとっての課題は、そういう善意の改憲論者といいましようか、そういう人たちに対して、「環境権の規定が仮に入ったとしても、戦争をする国になってしまい、イザ戦争となったら、環境権の規定などは簡単に吹き飛ばされますよ、あなたそれでも良いのですか」という議論を真正面から挑まなければならない状況になっている、ということだと思います。皆さんのまわりにも、環境問題や人権問題に必死になってとり組む善意の方がいっぱいおられると思います。そういう方々に、「環境、人権を大切に思う気持ちはよく分かるけれども、今問われているのはそれ以前の大問題ですよ、環境権が吹き飛ばされるような内容が憲法改正で考えられているということを考えて下さい」という働きかけをしなければならない状況になっているということです。この困難な課題をやり遂げて、善意の改憲論にたっていた人々に納得してもらった場合にのみ、始めて「9条反対」即「憲法改正反対」の世論が過半数という状況を生むことができます。そういう問題を私達は抱えております。

本当に自民党はさるものでありまして、憲法改正プロジェクトチームというものが自民党の中にあります。レジュメに、6月5日付の『しんぶん赤旗』に載った「論点整理の素案」という内容の全文(『しんぶん赤旗』に載った限りでの全文)を載せておきました。ちなみに、自民党のホーム・ページにアクセスしますと、「自民党憲法調査会」というページがあります。そこをクリックすれば、憲法調査会の議論の要旨は載っております。ところがこの「論点整理素案」は載せていません。ですから私も仕方なくこの赤旗の紹介によらざるを得なかったということであります。その点では先程ご紹介したように、民主党の方がまだ正直です。

少し脱線しましたが、素案の「基本的考え方」を見ますと、一見何でもないと思われるけれども、非常に毒が含まれた記述がなされております。例えば、めざすべき国家像は品格ある国家そして「国と国民の関係をはっきりさせるべきである」とあります。これだけを読みますと、たいしたことはないと思われるかもしれません。しかし、私が武力攻撃事態対処法と国民保護法制の二つの法律体系の国会審議、特にその特別委員会の審議録ですけども、それを全部検討した結果を踏まえて申し上げますと、先ほどもご紹介しましたように、政府関係者が、公共の福祉のためには個人の権利は制限されると公言している場面に度々ぶつかります。

ちなみに、これも本に書きましたけれども、武力攻撃事態対処法に関する衆議院の審議の最終段階で賛成に回った民主党が、参議院ではその対処法に賛成する立場から共産党や社民党の議院の質問に答える場面があります。その中で非常に興味深いのは、民主党議員の考える「国家と国民の関係のあり方」というのが、自民党とそっくりそのままだということです。「公共の福祉つまり国益ですよね」というような発言があるのです。要するに国家が国民の上に来るという考え方を堂々とのべているわけです。

自民党の憲法調査会の素案にもどりますが、「国と国民の関係をはっきりさせるべきである」という真意は、要するに今まで国民が甘やかされて過ぎてきた。それをやっぱり愛国心に基づいて国に忠誠を尽くす国民を作らなければいけない、という意味あいで言っていることだということが分かります。要するに、「国家を個人の上におく」国家観を我々に押しつけようとしているということです。

守るべき価値については、「人類普遍の価値を発展させつつ、歴史、伝統、文化に根ざした我が国固有の価値、すなわち「国柄」とのバランスがとれた健全な常識に基づいたものでなければならない」としています。これと似たような文章は、小学校・中学校の副読本である「心のノート」の中でも繰り返し出てまいります。「我が国固有の価値」というところが曲者です。これによって、個人の尊厳の承認という普遍的な価値を有名無実化、空洞化するという方向性が出されているということです。

前文に関しては、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」は、今後もこれを堅持していくべきである、としています。一見する限りでは、「結構ではないか」と反応する人も多いでしょう。けれども、この「平和主義」というのは、平和憲法にいう「力によらない」平和の考え方ではまったくないわけです。彼らの「平和主義」は「力による」平和観に基づくものであり、まさに「似て非なるもの」であります。

基本的人権の尊重については、行き過ぎた利己主義的風潮を戒める必要があると言っており、ここには彼らの本音が余すところなく出ていると思います。基本的人権を利己主義と同一視しているというところに、如何に彼らが基本的人権の本質を理解していないかということが、はしなくも露呈されているということです。

皆様に改めて申すまでもないのですけれども、基本的人権が何故尊重されなければならないかと言えば、人間には尊厳というものがあって、その尊厳を大切にしなければならないという認識が、欧州におけるルネッサンス、人間解放の歴史の中で、本当に人々の闘いの中で育まれてきたのです。人間の尊厳を尊重するための法的な保障として、基本的な人権という考え方が出てきたわけです。ですから、本当に人間の尊厳ということ、基本的人権というものの本質を理解するものであれば、それが利己主義とは本来無縁のものであるということは明らかです。

天皇問題は重要ではありますけれども、素案に書いてあることに即してお話しすることはないので、今日のお話では一応省略いたします。

安全保障ですけれども、共通認識として、自衛のための戦力の保持を明記する、となっています。素案からはハッキリ窺えませんが、自民党案として検討されていることについて紹介しておきます。まず、憲法9条の1項は今の憲法の条文のままでいい、といっています。しかし、9条2項で戦力の不保持を定めた部分は、自衛隊の合憲性をハッキリさせるために変えるとしています。更に9条3項において、具体的な表現はまだ固まっていないようですが、集団的自衛権に明文的に踏み込むかどうか、集団的自衛権と書かないで国際協力のための自衛隊の活用という趣旨をいれるか、というようなところで調整中のようです。国際協力という場合、アメリカのやる戦争に協力することはすべて国際協力だと読み切ってしまうというようなことを考えているようです。その方向は、今私が申し上げたように、憲法9条については、1項、2項、3項と書き分けて、1項はそのままにしておいて「憲法の平和主義は保たれるのではないか」という国民の誤解を導く。そして2項、3項を盛り込むことによって自分達の目的を実現する、という手の込んだやり方を採用していることが見えてきます。

後、国会、内閣、地方自治等々ありますけれども、時間の都合がありますので省きます。地方自治については、非常に重大な問題点が武力攻撃事態対処法・国民保護法制の議論の中で出てきているのですが、時間がありませんので省かせて頂きます。

最後に、残された時間の範囲内で、私達の護憲論における「欠陥」という問題について、少し皆様に論争を挑むということをさせて頂きたいと思います。

一つは、なぜ「護憲」論は少数派になりつつあるのか、ということについてです。この点については、「今ある現実がすべてで、それは変えられないのだ」という既成事実に弱い国民性が働いているということを、私は非常に強く実感しております。実際に私達の目の前にある現実はあらゆる可能性を持っているはずです。どういう可能性だって選択できるのが本当の現実です。これをある学者(注:丸山眞男)は「可能性の束」と呼んでいます。「現実とは可能性の束だ」という現実認識があるならば、その束の中の何を選択するかという考え方が、当然出てくるはずです。ところが多くの国民が考える現実は、今ある現実、すなわち、憲法改正がもう必然になりつつある事態であって、「これが現実だから、自分1人があらがってみてもどうにもならない」という諦めに繋がってしまうわけです。日本人特有の現実感というものの働きがあるということだと思います。

もう一つは、先ほども申しましたけども、いわゆる善意の改憲論者に対する私達の意識的・自覚的な働きかけがこれまで少なかったのではないかという問題です。本当に私達が改憲を阻止しようとするならば、これからはそれではすまない。環境問題をやっている人達の中に積極的に入り込んでいって、その人達に「平和憲法あっての環境権だよ」ということを説得力をもって解き明かす必要がある。そういう努力を今までしてこなかったのではないだろうか。そういう努力が足りなかったのではないだろうか。これはもちろん、私の自己反省を込めての問題提起として申し上げたいと思います。

それからもう一つは、私達の「護憲論」は鍛え方が足りないのではないだろうか、ということです。私もよく全国母親大会に出させて頂いたりしておりますし、教育関係者の集会にも参加させて頂いたこともありますけれども、「我が子・夫を戦場に送るな」、「教え子を戦場に送るな」というスローガンがスローガンだけになってしまっていて、分厚い肉付けが行われていないという問題があるのではないでしょうか。要するに、同じ気持ち同士・身内の間で、スローガンさえと唱えればすべて分かった気持ちになって、それで終わってしまっているのではないでしょうか。私は、そういうことでは、今の保守的傾向を強めている多くの国民に対しては説得力を持たないと思います。

今回のイラク派兵の際に、私は自衛隊の内部から反乱・抵抗が起きるのではないかと密かに期待をしていました。確かに家族の中には動揺が起こったようですけれども、少なくともマスコミ報道に関する限りは表面化していない。そしてインタビューされた派遣兵士達は、口々に「誇りと責任感を持って任務を遂行して参ります」と言うのです。こういうテレビの画面を見るたびに、「力によらない」平和観の立場に立つ私達は、本当になす術がない状況に追い込まれているのではないかと感じました。

特に私が問題と感じているのは、先ほどからもしばしば申し上げているように、私達の平和観が実は曖昧なのではないだろうかということです。「力によらない」平和ということの大切さを、私達は本当に知っているつもりになっていますが、突きつめて考えた場合、本当に知っているのだろうかと考え込むのです。つまり、本当に「力によらない」平和観を我がものとしているのだろうか、という問題意識です。

時間がないので、簡単にしか申し上げられませんけれども、やっぱり先ほど申しましたように、平和憲法のもとで日米安保を認めてしまったいい加減さ、あるいは、軍事的国際貢献となって自衛隊のPKO派遣となり、アフガン戦争への参戦となり、イラク戦争への派兵になってくるたびに、その都度その都度私達は受け身に立たされてきているわけです。これらはすべて、「力による」平和観の産物です。そういう動きに対して、私達は原点に立ち戻ってしっかりとした反論ができてきていたかということを私は考えるのです。

私自身も反省を込めて考えるのですけれども、特に60年代以降になって、私達の側における平和観の鍛え方が非常におろそかになったのではないか、と考えます。「力によらない」平和というものがどれほど意味のあるものなのか、現実的に対外政策あるいは対内政策を営むときに、この平和観を基本に据えつけなければならないという意識がどこまで私達に座っていたのかということについて、私は、私達の側における努力が非常に足りなかったのではないのかと思うのです。今、改憲派の人達が、「力による」平和が国際的な現実だと主張するときに、今のところは未だ国際的には少数派である「力によらない」平和観が、実はこれからの21世紀の国際社会では、いよいよ本領を発揮する時なのだということを、具体的な政策提言も含めて、私達から提起していくことがまだできていないのではないかと、私は深く考えるのです。

実は私は、1992年、10年以上前のことですけれども、岩波ジュニア新書で『「国際貢献」と日本』という本を出しまして、そこで「力によらない」平和観の立場に立った日本の国際社会とのかかわり方について、私の考え方を書いたことがあります。そのように、私自身は考えてきたつもりではありますが、しかし結局はそういう考え方が私達の側において当たり前のものとなるという状況には至らなかったということをなかば悔しい思いで思い出しております。それはともかく、この問題について本当に私達が正面から立ち向かわないと、「力による」平和観が国際社会の流れだという、日本人特有の現実感・あきらめ感に洗い流されてしまう危険性が非常に強いのではないか、ということを申し上げたいと思います。

更にもう一つ指摘したい問題は、私達にまともな国家観があるだろうかということです。皆さんがいろいろな問題を考える時に、国家という要素が物事を判断する際の要素として入り込んでいるかどうかということです。まともな国家観が未だにないことについては、いろいろ申し上げたいことが多いのです。レジュメには4つほどのポイントを示しておきました。

一つは、歴史的な事情で、私達は国家と正面から向き合うことを妨げられ、あるいは自分の感情として逃げようとしてきたということがあると思うのです。要するに、国家によって引きずられていった戦争でこりごりの目にあったということで、国家のことなど考えたくもないという気持ちもありますし、その国家を自民党がずっと支配をして、国民の権利を徐々に奪い取る政治を進めてきたという歴史的な事実にかんがみれば、国家というものは薄汚い存在だという受けとめ方が長い間支配的だったわけです。そういう心理を前提にしますと、自分たちの存在を国際社会とかかわらせるときに、国家という媒体を経ないで、いきなり国際市民として係わることを考えてしまうのです。日本国民としてのかかわり方は考えないわけです。そいう心の働きでありますと、国家観がまったくないわけです。

ところが90年代以降、国際社会が日本に突きつけた問題は、大国になった日本がこれから国際社会とどう接するのという問題だったのです。その時に、古くさい国家観ではあるけれども、保守勢力の人達はとにかく国家観をもっていた。「国家を個人の上におく」国家観というものを持っていたのです。だから、軍事的国際貢献という議論を出してきました。それに対して、国家観がない私達は、日本を国家としてどうやって国際社会とかかわらせるかという問いかけに対して、答えを出せない。そういう羽目に追い込まれたわけです。そのことが、私達を決定的に弱いというか、勢いのない立場に立たたせる原因になったのではないかと思います。

しかも、日本が大国であるという事実についても、私はここ数年来盛んに強調してきたわけでありますし、日本が大国ということは、事実であって好き嫌いの問題ではないと申し上げてきたわけでありますけれども、国家という問題を考えること自体に違和感を覚える人達は、大国・日本なんてとんでもない、日本は小国であるべきだ、という議論になるわけです。

しかし、この会場をみても、これだけの人数の方がおられても、私達は涼しい空気の中で議論ができています。これはもう膨大なエネルギーを消費しているわけです。私達は、そういうことに慣れてしまっているのです。本当に小国になるべきだというのであったならば、私達は冷房も一切遮断し、自然に返らなければいけないはずなのです。大国であることの利益並はちゃっかりと頂いていておいて、しかし大国日本という現実に向かい合うのはいやだ、というのは通らないと思うのです。

国民は国家の主人公、というのはそういう意味です。「国民が主人公」とよく言われますが、何の主人公か分からないのでは困るわけです。私達は、国家の主人公だから、国家を動かすわけです。ということは、国民である個人が国家の上に立つということです。私は、「個人を国家の上に置く」国家観と表現していますけれども、そういう国家観を私達が1日も早く我がものするということによって、今まで私達の中において空白だった部分を早急に埋める作業をしなければいけない、ということを申し上げたいのであります。

(質疑部分)

*質問者の発言については、私は、必ずしもすべてにわたって、正確に趣旨を理解できたわけではありませんでした。この原稿起こしの文章を読んでみて、質問者の発言の趣旨はたぶんこういうことだろうと思って、若干手を加えた部分があることを、最初にお断りしておきます。また、最初にすべての質問を受けつけ、後でまとめて私がお答えする形を取ったこともあり、また時間が押していたという事情もあって、必ずしもすべての問題提起に対してお答えしなかった(できなかった)ことも、あらかじめお断りしておきます。

〔質問1〕「個人を国家の上におく国家観」という認識を持っていくことが大切、ということはまさにそのとおりだと思うのですけれども、また、具体的にどういうことであるのか、私自身イメージとしては分かるのですけれども、どうしていけばいのかどういうことなのかという点を具体的に説明していただければと思います。例えばアメリカというのは、「個人を国家の上に置く」国として当てはまられるのかどうか。アメリカという国は、国旗もしくは国家に対する忠誠を誓う国でありますけれども、一方で国旗を焼くというものもあります。ですから、アメリカはそういう国家に含まれるかということです。私自身としては、もしそういう国があるとするならば、自由とか権利とかそういう意味で既に先進的なヨーロッパ諸国にあるのかな、という漠然としたイメージがあるのですけれども、今のこの地球にそうした「個人を国家の上におく」国、もしくは私たちがこれから手本としてばいいような国があるのでしょうか。

〔質問2〕平和観の曖昧さということに関係してくることで、武力による平和の危険性については分かるのですが、しかし、そうかといって、直ぐ武力によらない平和というものがイメージできないということを、多くの方がそういう意識を持っているのではないかと思うのです。その点については、護憲政党が武力によらない平和路線を具体的に実行していく路線を明示してこなかったことに問題があるのではないかと思うのです。平和の世界をどう作るのだという具体的な路線提示ができていなかったところに問題があったのではないかと、私は思うわけです。そこで、武力によらない平和路線というものを具体的にどのようにイメージされるのか、お話をお聞きしたいと思います。

〔質問3〕こちらへ来る前に、先生の書いた集団的自衛権に関する本を読んで来たのです。憲法第9条第2項との関連で、自衛権のない国というのは取り締まりのない家と一緒ではないか、とよく例えで言われるのですが、自衛権と武力というのが結びつくものかどうか、武力のない自衛というものがあるものでしようか。

また先ほど、米軍と日本の関係を言われていましたけれども、米軍がいることによって日本が守られているのか、それともかえって危ないのか。よく北朝鮮のテポドン云々といっていますが、日本に向かってくるテポドンというのは三沢にある米軍基地を狙っているのではないか。テポドンが日本を横断して太平洋に落ちましたけども、三沢の上空を飛んできているのですね。三沢にはいわゆるF16戦闘攻撃機があって、非常に大事な情報基地があると言われていますけれども、そういう米軍があるから日本が危ないのでしょうか。そこを一寸お聞きしたい。

それから、外務省の公務員が自衛隊を海外に出そうと熱心でしたね。何故自衛隊が米軍にくっつくことについて、一生懸命使命感をもってやっているのか。

〔質問4〕イラクでの自衛隊が多国籍軍に参加して治安維持活動をしている、ということに私はすごく大きな衝撃を受けたのですけれども、今後こうしてずっと多国籍軍に参加してしまうと、インド洋にイージス艦が派遣されたままになっているように、もうほとんど撤退、撤兵の可能性が薄くなってしまい、私たち市民は、イージス艦を忘れてしまっているように、イラクの自衛隊のことも忘れてしまうのではないかというすごい危機感をもつけれども、このことについての質問です。

それからもう一つ、18日か19日の『しんぶん赤旗』で、アメリカの新聞の世論調査の結果がでておりまして、アメリカの市民の中で、アメリカがイラクに武力攻撃をしたのは非情に間違っていたという人が51%に達した、そしてイラク戦争が人命を犠牲にしてまでやる価値はなかったという人が62%になったというのを見て、私はすごく希望を持ったのです。私は、アメリカの市民がこういう反戦運動とか、イラクから引き上げるという運動とかをやるということでないと、希望はないのではないかと思っていたので、かすかな期待感を持ってしまったのですけれども、アメリカの市民の状況についてどういう状態かどうかについてお尋ねします。

〔質問5〕私は、中国のことについてお伺いしたいのですけれども、今中国はともあれ経済も発展していますけれども、聞くところによると、社会主義と市場経済、開放政策をやっておりますけれど、その矛盾が出てきて、ある程度ごたごたしていて、ナショナリズムとか、台湾海峡の問題とかにかかわってくるように思います。そこで、平和憲法を守っていく日本としてどうかかわっていくべきでしょうか。

また、憲法の以前の問題として、自然法というもの、自然法である自衛権ですか、そのようなものがあるということを聞いておりますけれども、それは本当にあるのかないのか、具体的にご説明願いたい。

さらにまた、今テロが盛んになっておりますけれども、そういう問題について、日本としてどういうふうにもっていくか、その際に、日本が平和憲法を守っていったら、日本との協議がないのかということについてのお考えをお聞きしたいと思います。

〔質問6〕いま地方自治体の中で、市民の生活の安全とかあるいはその他であるとかの条例が多くの所で作られつつあるのですが、名古屋でも9月の議会で出るとか出ないとかということですが、先般の有事関連7法案と今度の憲法の改悪の問題とこの流れをどういうふうに考えたらいいかということをお話頂ければと思います。

〔質問7〕今憲法を変えようという勢力に対して私たちが反対の運動を作っていくときに、福祉予算がドンドン削られていますよね。そういうことで、私たちの生活実感として、「やっぱり生活が苦しくなっているのは、小泉が悪いんだよね」というような話はできるのですけれども、「本当は小泉が悪いんだよね」だけではなくて、その背景にあるものをみんなに話していきたいな、っていうことを思っているのです。ただちょっと勉強が足りなくて、「憲法を変えられることがまた、私たちの生活が悪くなるっていうところと結びついてくるんだよ」っていう話がしっかりとできるようになれば、世論を作っていけると思うので、そういう勉強をこれからしていきたいと思っているのです。

私は、保育園の方の関係のことにかかわっているので、民営化の問題とか、国の出す予算が減らされて、自助努力とか自己責任、自助努力で自分の生活を成り立たせるようにという、そういう政府の考えも、今日のお話を聞いていると、「やっぱり戦争できる国にしていくためには、予算をドンドンそういう軍事費の方に使わなくてはいけなくって、それで私たちの生活に回ってこないんだよね」って、そんな単純な話をしてもいいものでしょうか。普通の親っていうか、普通の市民に難しい憲法論議ではなくって、「憲法を変えられると、こんなに私たち困るんだよね」っていう、単純なこういう生活実感に根ざした話がドンドンしていけたらいいな、って思っていますので、何かご助言を頂けましたら御願いします。

〔質問8〕3点だけお願いします。

まず1点は北朝鮮の件ですけれども、私は甘いなーと思われると思うのですが、多分北朝鮮には戦争をするような力はないのではないかという気がします。子供達を飢え死にさせるような国に、戦争をする力は多分ないのではないかという気がします。

2点目は、先程1番最後に日本は大国だと言われましたけれども、まあ大国かも知れませんが、気持ちは小国で、大国は経済だけでいいのではないかと思います。したがって、力を使わない平和と言われましたけれども、これは経済でやれば良いわけで、経済と教育で武力なき平和を。

それは具体的にどうかというと、後は国連ですよね。国連は今、制度疲労を起こしているようですが、国連そのものをもっと強い力に改組できないかなと思っています。「甘いなー」という意見が聞こえそうですけれども、この3点について、よろしくお願いします。

(浅井)私自身もよく考えなければいけないなという問題提起も含まれていまして、どこまで問題を提起された方の納得がいくようなお話ができるかどうか自信がありませんけれども、できる限り正面からお答えするべく努力させて頂きます。

まず、「個人を国家の上におく」国家観について、具体的にどういうものをイメージすればいいか、アメリカとかヨーロッパ諸国とかがこの国家観に当てはまるか、というご質問でした。これは正に、私が今回出版する『戦争する国 しない国』という本でも、一つの重要なポイントになっているところです。

日本の保守政治の特徴として、「力による」平和観と「国家を個人の上におく」国家観があるということを申しているのですけれども、実は保守主義という考え方は日本特有なものではなくて、アメリカやヨーロッパ諸国でももちろん存在しています。ただ、日本の保守主義とアメリカやヨーロッパの保守主義を分ける最大のものは何かというと、「力による」平和観という点では一緒なのですが、唯一両者を分ける最大のポイントはそれぞれの国家観の違いにあります。

どう違うかというと、日本の保守主義というのは、戦前から思想がつながっていて、「国家を個人の上におく」という考え方です。今の保守政治は、それを何とか復活させようとしているのですね。それに対して、アメリカにしてもヨーロッパにしても、やはり人権という考え方、個人の尊厳という考え方の発祥地です。ちなみに、東洋思想の専門家の人達の研究成果の受け売りですけれども、東洋思想においても、「個人の尊厳」という言葉はないにしても、そういうものに近い考え方の芽は出てきたことはあるとは言われています。しかし要するに、西洋的にそれが全面的に花開いたということではないわけですね。ですから、「個人の尊厳」という概念は、私たちにとっては確かに輸入物ではあるとは思うのです。

しかし、輸入物だから身に付かないかというとそうではありません。例えば、キリスト教は元々ヨーロッパで生まれたわけではないけれども、ヨーロッパのものになっているわけでしょう。つまり、普遍性のあるものは、何処に発芽しようとも、何処ででも成長し育つものであるということです。人類の歴史を通じて文化の多様性が重要だ、というのは、いろいろな多様な文化の中から普遍性のあるものが出てくるから意味があるということなのです。

少し話が逸れた感じがするかも知れませんが、アメリカにしろヨーロッパにしても、「個人の尊厳」を重視し、突きつめていくと、最終的に、国家というものも個人に仕えさせるものである、という当然の認識がでてくるわけですね。ご指摘になったように、アメリカやヨーロッパは、基本的には個人が国家の上にくる、すなわち「個人を国家の上におく」国家観を基礎に据えた国々である、と見ていいと思います。

ただしブッシュのように、キリスト教原理主義に近い考え方をもっている人間になると、アメリカという国家の大義のためには、アメリカ兵を犠牲にするということについてもためらいがなくなってきてしまう、ということが起こります。その点では、先ほどケリーとブッシュの違いは量的なもので質的なものではないと言いましたけれども、個人と国家の関係のあり方という点については、ケリーとブッシュには違いを感じます。

ケリーは、イラクでアメリカ兵が死んでいくことについて、ブッシュはアメリカの兵士を無駄に死なせているとすごく批判しているのです。そして、自分(ケリー)が大統領だったら、兵士や兵士の両親や恋人に直接向かい合ってちゃんと事情を話すと言っています。「こういうことだから納得してくれ」、「国家のために自分の命を差し出すことが、個人の尊厳を全うする所以だと納得した上で、あなたの生命を国家に捧げて欲しい」と話しかけると言っているのですね。ここにはやはり、「個人を国家の上におく」考え方が流れていると思います。ですから、「個人を国家の上におく」考え方というのは、やはりヨーロッパやアメリカにおけるいわゆる主流の考え方であると思います。ですから私が考えるのも、そういう国家観を日本人が持つようにしたいな、ということです。

それから平和観の曖昧さということは、もうこれも本質的な問題であります。「力による」平和観の危険性も分かるけれども、「力によらない」平和観ということについては、イメージができないと言われる、正にそこにおいて、これまでいわゆる革新の側が確固とした平和観に基づく路線・政策を提起できなかったという問題が潜んでいるのではないかというご指摘だったと理解したのですけれども、それは正にそのとおりだと思うのです。

「力によらない」平和観というものを具体的にイメージできないということですけれども、一つはこのように考えて頂くのはどうか、と思うのですね。いわゆる「力による」平和、具体的には武力行使ですけども、国際的に見て、武力行使によって戦後どれだけの問題が片づいたかということです。ほとんどの場合において、破壊の方が大きく、本当に問題の解決に結びついた例というのは、私の事実認識の事例が少なすぎるのかも知れませんけれども、私の知る限りはないのです。特に今度のイラクの戦争あるいはアフガン戦争などをみても分かるように、破壊だけ行われて、建設は全然行われていないのです。ですから、「力による」平和観が答えになっていないことは非常にはっきりしているわけです。

そういう考え方に対しては、では戦争をしなかったら、例えばサダム・フセインの独裁を放置したままになるではないか、という反論が直ちに起こると思います。それに対して私たちは無力で良いのか、という議論です。けれども、私は「そうですか」とは思わないですね。より正確を期して言いますと、「力による平和」というのも実は色々な段階があるのです。例えば、経済制裁を加えるのも広い意味では経済力という力の行使です。しかしいわゆる軍事力、武力ではない。後の方の質問で、日本は経済的なことをやればいいのであって、軍事的なことは控える小国であるべきだ、という議論もあったと思うのですけれども、大国であるべきか小国であるべきかという論点はともかくとして、やはり経済力の行使と軍事力の行使との間では大きな違いがあります(注:時間がなかったので、経済制裁による場合にも、多くの国民、特に女性や子供が犠牲になってしまうという問題が起こることがあり、その点についてはどう考えるべきかという大切なポイントについて、私としての考え方をご説明する時間はありませんでした)。

例えば、リビアが最近核開発を放棄しました。このことについて、ブッシュは、力の政策が功を奏したのだと勝手に主張して、自分の得点にしていますけれども、実はその主張は牽強付会もいいところであります。1988年にいわゆるパンナム機撃墜事件というテロ事件があって、その実行犯だったリビア人がリビア国内にかくまわれ、これにどう対処するかという問題になったのです。どうなったかというと、10数年かけて国連安保理決議に基づく国際的な経済制裁をやった結果、リビアが耐えきれなくなって、犯人を国際法廷に引き渡すという形で問題が解決したのです。その結果、アメリカもリビアとの関係を正常化することになりました。このケースは、武力によらない国際協調による努力が実を結んだ好例です。ガダフィーというリビアの独裁者をいわゆる国際社会の一員として呼び戻したという実例を生んでいるわけです。これは最近の例です。

私が『「国際貢献」と日本』という本で展開したのは、日本という国は経済大国であり、技術大国であり、それから智的資源という意味でも大国であるいうこと、そして日本が経済大国になったのは、もちろん私たち国民の営々たる努力もありますけども、貿易立国で来た日本は諸外国から利益を得なければ今日の大国化は無かったわけですね。諸外国との関係のお陰で日本が大国となったということを、私たちはしっかり認識して、国際社会に積極的にかかわっていく、大国になることができたお礼を国際社会に対して行う、という認識をもつ必要があると思うのです。

しかし、侵略戦争を行い、国際社会に大きな犠牲を強いた過去をもつ日本としては、力は使わない、軍事力は使わないということをハッキリさせた上で、それ以外の手段で積極的に国際社会の平和と繁栄に役立つことは積極的にやる。あるいは、国際的に人権を促進すること、貧困を解決すること、それから環境問題、こういうことについては、私たちはどんどん口出しも手出しもするしお金も出す。そういう形で国際社会を引っ張っていく。そういう意味での国際的なリーダーシップを発揮するというのが、「力によらない」平和観の具体的な路線化であり、政策化ではないかと考えます。『「国際貢献」と日本』は、もう10年以上も前に出版した本ですが、そこで述べたことは、事例については古くなっているかも知れませんが、「力によらない」平和観に基づく提言という基本的考え方については、著者である私が自分でいうのも変でありますけれども、説得力を失っていない、新鮮さを保っていると自負しております。

次に、自衛権に関するご質問がありました。結論から言いますと、自衛権という権利は、国家である以上、どこの国でも持っているものだと思います。それは、人間が刑法で正当防衛とか緊急避難が認められているのと同じ考え方です。自分の生命に危害が加えられる時に、自分を守ることは正当防衛として認められる場合があるわけです。それと同じように、国家が、外部からの暴力によって、国家としての存在を危うくされるようになったときを考えたらどうでしょうか。例えば日本が、私の考える「個人を国家の上におく」国家観に基礎をおく国家になっているとした場合に、「国家を個人の上におく」考え方に立つほかの国家から攻め込まれるようなことがあれば、私は断固として対抗し、抵抗します。それが自衛権だと思うのです。

ただし、その自衛権をどのように行使するかという場合に、鉄砲をもってやるのか、あるいは占領者に対して徹底的に不服従の運動をするのか、それとももっとほかの戦い方があるのか、それはいろいろ考えられると思います。そのことに関連してもう一つ申し上げたいのは、日本が軍事力を行使しなければならなくなるような事態がそもそも考えられるかということです。そのことを考える方が、私ははるかに現実的だと思います。その点に即して申し上げるならば、ありとあらゆる戦争シナリオを考えなければ気がすまないアメリカが、日本が他の国に故なくして攻めこまれて始まる戦争というシナリオはもっていないのです。ということは、あり得ないということです。

それなのに何故、アメリカは日本に戦争法を準備しろというかと言えば、先ほどもお話ししましたように、アメリカは北朝鮮に先制攻撃の戦争を仕掛けることを考えている。また、台湾問題を契機として、中国と戦争をすることがありうる。そうした場合には、同盟国である日本を巻き込まずにはすまない。そうすると、日本は否応なしに北朝鮮・中国と戦争状態になる。そうなったときには、当然北朝鮮や中国の反撃に身構える日本、つまり戦争する国になっていなければいけない。つまり、そういう経緯があってはじめて日本に戦火が及んでくることがあるということなのです。

そこから出てくる簡単な結論は、アメリカに戦争をさせなければ、日本は戦争ということを考える必要はあり得ない、ということです。その時にも、北朝鮮は何をする国か分からないという受けとめ方が日本国内では強いのですが、現実にいって、最後の質問をされた方のお話にもありましたように、北朝鮮には戦争をする力は本当にないのですね。これだけ盛んに北朝鮮を脅威とみなす報道にさらされていますと、「北朝鮮には戦争遂行能力がない」といわれても、皆さんの中にも、にわかに信じがたいと思われる方もいるかも知れません。しかし、最後の質問をされた方が指摘されたように、飢え死にをする子供がいる国にどうして他の国をせめる余力があるか、ということです。

唯一あり得る戦争のケースは、日本の保守政治が「万景峰」号に検査をするなどの北朝鮮の神経を逆なですることをくり返し、しかも戦争責任は認めないで、北朝鮮を絶望に追い込む場合です。そういう日本に対しては、過去の恨み・辛みが重なって、日本も道連れにして自爆を図るという国家テロリズムみたいなことにはなりうる可能性があります。しかし、そういう極端なケースを除いては、北朝鮮が日本を攻めるというようなことはあり得ないのです。

したがって私は、自衛権の問題については、理論的には日本は自衛権を持っていると考えていますが、現実問題としては、そういう自衛権をどういう形にせよ行使しなければならないような状況が出てくるかどうかということを考えることの方がはるかに意味があると思いますし、その可能性は限りなくゼロに近い、いや、ないと思います。

以上のことは、三番目の方が指摘された問題にかかわってきます。つまり、アメリカ軍が日本にいることによって日本は危険を背負い込んでいる、というのが私の結論です。テポドンが三沢を狙っているというようなことにも触れられましたけれども、テポドンはそれほど高性能ではないというのが、アメリカを含めた専門家の見方です。その点はともかくとして、重大なことは、アメリカ軍が日本にいるから、そして日米軍事同盟があるから、日本は戦争の危機に直面する可能性があるということです。日米軍事同盟から解放されれば、日本は本当に戦争を心配する必要のない国になる。また、日米軍事同盟を解消する日本に危険性を感じる国もなくなる、ということがポイントであろうと思います。

それから、外務省が自衛隊派遣に積極的であることへの疑問についてですけれども、外務省にいた人間としてよく分かることは、外務省という組織にとっては、アメリカとの友好ということがもう理屈抜きの信仰になっているのです。そういう雰囲気の職場にいますと、始めはそういう雰囲気に批判的であっても、5年もいたら染まってしまうのです。皆さんも、自分の職場とか自分が所属する団体とかのことを考えてごらんになれば、何かしら職場・団体なりのタブーみたいなものがあるのではないでしょうか。決まりきったこと、改めて根本的に問い直すことをはばかられること、それがタブーですが、外務省の場合、そのタブーの最たるものが対米追随です。私は若くして台湾に留学して、アメリカに批判的な考え方を持った若い人々に接する機会を得たことによって、そういうタブーから解放されるという幸運を得ましたけれども、多くの人は、外務省に入った時は私と同じような考え方の人間も、5年も経ち10年も経てば、「アメリカあっての日本だね」となるのです。

それから、自衛隊がイラクに居座り続けると、イージス艦の時のように、日本人はそのことを忘れてしまうのではないかというご指摘がありました。私もそのとおりのことを心配しています。だからこそ、私達の現実認識を問い直すことが必要であることを申し上げたわけです。くり返しになりますが、「現実」ということを、「今そこにあるもの」、「もう既にそこにあるもの」と諦めて受け入れてしまうのではなく、「可能性の束」として見る。そういう現実認識が備われば、今ある現実が悪いものであるならば、違う現実を選択しようではないかという考え方が自ずと出てきます。そういう考え方を持つことが大事だということを、もう一度も申し上げさせて頂きたいと思います。

6番目の方のご質問にお答えします。『しんぶん赤旗』の報道に出たアメリカの世論調査の結果については、私も見ました。残念ながら、これらの世論はまだ、広範な反戦運動という形では広がっていません。ベトナム反戦運動の時のような広がりは、今のところはありません。しかし、イラク戦争は明らかに過ちであったし、人命を犠牲にするだけの価値がない戦争だという世論が過半数を超えたという事実は重いものがあると考えます。それと同時にブッシュに対する支持率が40%すれすれになったという世論調査もあります。現職の大統領が選挙の年に40%を切る支持率になるということは、過去の例で言えば、再選への危険信号だそうです。ですから、この秋の大統領選挙でブッシュが負けるということも十分あると思います。更にイラクの情勢が混沌とすれば、ますますそういう可能性は強まってくるでしょう。

ただ、私がお話の中で申し上げたことは、それでよかったと安心してしまうのであれば、それは少々まずいのであって、ケリーという人物をよく見ないと、私達が果たして手放しで喜んでいいのかどうかというのは別問題だ、ということを申し上げたかったわけです。

中国の問題を提起された方のご質問についてはご趣旨を理解しかねたので、生半可な発言は控えます。

この方は、日本にもテロの脅威はないかということも指摘されたと思うのですけれども、この点について非常に象徴的なことは、ビン・ラディンは、以前日本について述べたときは、原爆の被爆国として言及していたのです。要するに、彼の認識における日本はアメリカによって被害を被った国だったのです。それが最近では、アメリカに加担する国として、テロの対象国に加えたわけですね。ということはどういうことかというと、日本がアメリカに対する戦争協力をしかければ、少なくともビン・ラディン系の組織のテロの対象になることにはならなかったということです。

もちろん、テロというのは、定義にもよりますけれども、どういう場合に起こるかというのは分かりませんから、日本に関しては100%ない、とまでは申しません。例えは悪いかも知れませんが、それは要するに交通事故と一緒ですから、そういうものに対しては、私達は日頃の備えはするけども、出会ってしまったらこれはどうしようもないことです。しかし、そのために身構えると称して、侵略戦争の責任を清算もしていない日本が軍事力を持つということになれば、私達の気持ちとしてはテロ対策のためだと主張しても、日本の戦略戦争で被害を被っているアジア諸国はそうは受け取らないということです。ですから、私達はそういうプラス・マイナスを考えたときに、やはり軍事力は持たないことにするべきなのです。

テロの可能性に対しては、もっと別な方法で対処することは十分考えられるわけです。例えば、警察力というのは軍事力とは別ですから、そういう警察力で対応するというように、きめ細かく考えることが必要ではないかと思います。

地方自治体で、市民の安全を守る、保護すると称して、条例が作られつつあるというご指摘は、そのとおりであります。これが改憲の流れとどういう関係があるかというご質問だったと思いますが、改憲の流れとそのままズバリ結びつくというよりも、実は武力攻撃事態対処法それから国民保護法制の具体化の一環として位置づけるべきです。この二つの法律によって、今や首相は、地方自治体の首長が「ウン」と言わなかったら、「ウン」と言わせることができるということになってしまっているのです。それでもまだ言うことを聞こうとしない首長がいたら、首相はその首長を外してしまえばいい、となっているのです。ですから、地方自治体ではこういう条例作りにとり組みだしている、ということであります。

国民保護法制の恐ろしさということで申し上げておきたいことがあります。例えばこの国民保護法制の国会審議の時に取り上げられていたことですが、例えば鳥取県では、東部の人口2万5千人を内陸に避難させるのにどうするかというシミュレーションをやったそうです。そうしたら、12日間かかるという結論になったというのです。つまり、緊急時に住民を避難させるというようなことは実際にはできっこない、という結論になったということですけれども、この事例が示していることは、もう地方自治体に国民保護法制を具体化するための具体的な指示が降りてきているということです。

鳥取県の例で付け加えて申し上げますと、住民は海からの攻撃に際して、内陸に逃げるわけです。他方、敵を迎え撃つために、自衛隊・米軍は海に向かうわけです。ところが鳥取県では大勢の人・軍隊が通ることができる道が少ないですから、逃げる住民と戦闘に向かう軍隊がぶつかってしまう(注:バッティングといっています)というのです。「その時にはどちらが優先しますか」という質問まであって、石破防衛庁長官は、軍隊が優先することもあると、ハッキリ言っています。もうそういう状況です。

国会審議なんて中身がないだろうと思われる方もおられるでしょうが、「国会審議録」で検索すれば、国会審議の記録が全部ホーム・ページで読めますから、是非とも見ていただきたいと思います。「そんな時間がないよ」という方は、せめて『戦争する国 しない国』を読んで見て下さい。武力攻撃事態対処法と国民保護法制の審議のさわりの部分は、この本に収めてありますから。

アメリカの世界戦略で、米中戦争にどうして移行するのかという問題提起について。アメリカには台湾関係法という法律がありまして、台湾の独立性が脅かされる時には、アメリカが台湾を守ることができるとしています。したがって、台湾が独立を宣言するような場合、中国は戦争を賭してでも台湾の独立を認めませんから、アメリカはこの法律に基づいて、台湾を守るために兵を出します。そうしたときに、米中双方が本当に自制心を働かせて、戦火にまで発展しなければいいのですけれども、そのような保証はないわけです。小競り合いから段々とエスカレートしていって、ついには爆発するという可能性は、日中事変、ナチスの軍事侵略を始めとする過去の戦争の多くの例が示すとおりですから、誰も望みもしなかい戦争になってしまうということは、この米中戦争については十分ある、ということを言いたかったわけです。

改憲反対の運動についての問題提起は、非常に重要です。「改憲になれば戦費が増加し、社会福祉や生活関連の予算が削られて大変なことになるよ」という議論でいいのか、間違いではないのかということですけれども、これは本質論としてはそのとおりだと思います。しかし、これを生のままでこのとおり言うと、私は足下をすくわれる危険性があるとも思います。「敵もさるもの」ですから、そういう本質論を交わす用意・工夫を十分しています。例えば、緊急時の自衛隊に関する予算と社会福祉・生活保障に関する予算は別枠であって、それぞれについて分けて考えるというような紋切り型の答弁が返って来るでしょうから、そういう形で議論をもっていっても、それはなかなか突破口にはならないでしょうね。しかし、本質論としては、ご指摘の点は正解です。ただその正解であることを、いかに揚げ足を取られないようするためにもっと説得力のあるものにするかが正に問われていることなのであって、私達がもっともっと腰を据えて、政策力・理論力・運動力を高めていかなければいけない領域の問題だろうと思います。

北朝鮮の戦争能力という点については、もう申し上げたとおりで、問題提起された方のご意見と一緒であります。この方が、日本は大国かも知れないけれども、経済に限って、後は力のない国であった方がいいのではないかと指摘された点について、一言だけ私が申し上げたいのは、大国というのは、なにも軍事力があることだけが大国の要件だということではないということです。もちろん、これまでの大国としての基準の中に、軍事力が一つの大きなポイントとして入っていることは事実ですけれども、しかし、世界・国際社会が日本を見る目は、日本に軍事力があるかないかによって、日本を大国であるかないかと判断しているわけではないのです。経済力がこれだけあるということは、まぎれもない大国の証なのです。

経済大国である日本がこけたら世界経済がこける。あるいは、日本が「戦争しない国」から「戦争する国」になれば世界中が影響を受けるのです。私はよく「象と蟻の例え」で申し上げるのです。蟻が交通信号を無視して交差点を渡ろうとしても、交通事情には何の影響も及びません。しかし、象が信号を無視して道を渡ろうとしたら、大混乱になるでしょう。日本はいわば国際社会における象という存在である、ということで大国なのです。だから大国でないということにこだわることは、個人的な好き嫌いとしてはいいかも知れないけれども、国際社会と向きあうときには、非常に顰蹙を買う事態になると思うのですね。やっぱり、日本は大国としての責任を意識しなければ、国際社会では通らないわけです。そういう自己認識を伴わないままの日本であれば、他の国々が本当に迷惑してしまうのです。大きな図体の人間が、好き勝手にさせてくれと言って勝手に動いたら、それこそ電車の中で走り回る高校生と変わりないです。そういう問題を、やはり私達は意識しなければいけないと思います。

最後に国連をもっと強くできないかいう問題提起に関して。国連憲章によって国連の権限を強くする、すなわち端的にいえば、国連を国家の上におくということができれば、国連を強くすることができるわけです。そうすれば、国連はアメリカの首に鈴を付ける事もできるようになることも考えられます。ところが1番の問題は、そういうふうに国連が動くことができるようにするために国連憲章を変えるためには、5大国の賛成が不可欠なのです。5大国のうちの1カ国でも拒否したら、国連憲章を改正できない定めになっているのですね。だから、アメリカという猫が自分の首に鈴を付ける憲章の改定、国連を強める改定に応じるはずがない。これが現実です。だから私は、アメリカを変えていくために努力するということは、長期的な視点としては大事だと思いますけれども、今後数十年という間にアメリカが「力による」平和観という路線を変えるはずはないし、「我こそは世界1だ」という認識がそう簡単に変わることもないと思います。

そういう意味におきまして、私達にとっての現実的な課題は、要するに国連を利用できる時には国連の場を使う。しかしそうでない場合は、院外共闘みたいに、本当に志を同じくする国々が集まってアメリカに対して対抗力を発揮する、というように考えていくのが現実的ではないかと考えています。その場合、日本という世界第2位の大国が、アメリカを牽制する側に立って動くようになれば、これはものすごい力になります。その点を認識していないのは、残念ながら私達日本人だけなのです。私達が認識していないから、アメリカは喜んでいるし、日本人が目を覚まさないようにしておこうと必死になっているわけですね。だから、私達が目を覚ませば世界は変わるのです。これは本当に間違いのないことです。そういう事を最後に申し上げたいと思います。

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