「対テロ戦争」と私達の選択

2004.04.21

四月八日にカタールの衛星テレビ局アルジャジーラは、三人の邦人がイラク人グループによって誘拐・拘束されたことを報じた。小泉首相は、翌九日に、犯行グループを「テロリスト」と断じ、グループが要求した自衛隊のイラクからの撤退要求に応じる考えはないことを早々と明らかにした。先行きが危ぶまれたなか、犯行グループは一〇日、イラクのイスラム宗教者委員会の声明に応じて、三人を二四時間以内に解放することを声明した。

しかし、その後は、日本政府の対応のまずさ(政府関係者の言動の詳細が激しい戦闘が行われているイラクにも瞬く間に伝えられるのが、国際情報化時代の現実であることを、日本政府は、少なくとも当初の間は、まったく認識していなかった)、犯行が行われたと見られているファルージャで、米軍と反抗勢力との激しい戦闘が起こり、情勢がきわめて緊迫したことなどもあって、執筆時点では解放は実現していない(四月一五日の時点で、更に二人のジャーナリスト、NGO関係者がバグダッドで誘拐されたという情報が入っている)。

こういう事実関係を踏まえたとき、私たちは、これからのイラクに対して、今回の事件に対して、あるいは、自衛隊の撤退ない限りは今後も起こりうる類似の事件に対して、国家として、また、国民としてどうかかわっていくことが求められるのかという問題に、正面から向き合うことを迫られている。本稿は、その問題に関する考察である。

1.「テロリストに屈服するな」という理由づけは当てはまらない

今回の事件について最初に考える必要があるのは、今や当たり前のように言われる、「テロリストに屈するな」という主張の正当性についてである。

「テロという暴力は、いかなる理由によっても許されてはならない」といわれる。この議論は、一般論としては異論をさしはさむ余地はないように見える。しかし実は考えるべき重要な問題がある。国際的に、テロリズムに関して確立した定義・基準があるわけではないということだ。

理論的に考えれば、テロリズムを、「政治的目的を達成するなど、同情・理解するべき動機、背景の有無にかかわらず、絶対に許されてはならない、無辜の市民を殺害する非人道的暴力」と定義することは可能である。その場合には、権力に抵抗するケース(例:アルカイダの行動)も、権力が行うケース(例:イスラエルやアメリカの行動)もともに含まれることになる。しかし、今回の事件では、犯行グループは三人を人質に取り、自衛隊のイラク撤退の実現という要求はつけているが、三人を問答無用で殺害するという行動には出ていない。彼らを「テロリスト」と決めつけることには、重大な問題がある。

もう一つ確認しておきたいことは、テロリズムという言葉は、国際政治の場において、政治的に中立な意味合いで使われてこなかった、ということだ。具体的には、一方の立場に立つものからする他方の立場に立つものに対する容赦のない非難・妥協の余地のない敵対、という意味合いが込められる。

以上の二点から考える限り、今回、小泉首相がはじめから犯行グループを「テロリスト」と決めつけたことは、決定的な誤りであった。「日本の首相が『テロリスト』と呼んだため、(犯人側が)態度を変えたと聞いている」、「あのようなことを言うのは非生産的だ。障害が増えてしまった」という批判(イスラム宗教者委員会のアブドルサラム・クベイシ師の一三日の発言。一五日付赤旗)はきわめて示唆的である。犯行グループを「テロリスト」と決めつけ、自衛隊の撤退はあり得ないことを大前提に据える(犯行グループの最大の政治要求を頭からはねつける)小泉首相の行動は、問題解決を遅らせる主要な原因となったとしか考えられない。

そうであればこそ、小泉首相の発言が犯行グループに伝わった時点で、犯行グループは、同首相との間には政治的解決の道はないと結論するほかなかったことになる。犯行グループの声明は、小泉首相に対し、明確にそういう認識を示している。すなわち声明では、日本政府が自国民の生命を軽んじることを指摘し、「日本の首相…は、自国民とその意思を尊重せず、戦争犯罪者ブッシュ(米大統領)に仕えている」と述べているのだ。

しかし声明は、「イラクの抵抗は、…平和な文民の外国人を狙ったものではないということを全世界に証明するため、また、…イスラム聖職者協会の原則、純粋性、勇気を信頼して、また、…当該三人(人質三人)は、イラクの人々を助けており、占領国への従属に汚染されていないことを確認したため」三人を解放する、としている。そしてこの声明は、「友人たる日本の人々に、イラクにいる自衛隊を撤退するよう、日本政府に圧力をかけるよう求める」としている(声明の翻訳は共同通信によった)。自分たちは「テロリスト」ではない、という強烈な主張が盛り込まれていることが分かる。

つまり、この犯行は、米軍の攻撃で絶望的な状況に追い込まれた人々による、最後の手段(民間人を巻き込むことは、いかなる理由によるにせよ、許されることではないが)としての人質作戦であり、三人の殺害それ自体が目的ではないことは、すでに、犯行二日後の一〇日の時点で明らかであったと言わなければならない。声明のメッセージを正確に受けとめなかったことが、小泉首相の二重の誤り(上述)とならんで、事態を長引かせる今一つの原因になったことは、否定できないと思われる。

余談だが、テレビに登場するいわゆる専門家諸氏が、この声明文を微に入り、細をうがって論評しながら、以上の本質部分に対する注目がまったく抜け落ちていたのは、私には不思議でならない。文章の巧拙よりも、文章の内容の一貫性、政治的認識や主張の説得力に注目すれば、その真偽云々という議論はまったく的をはずれているとしか思えない。

2.国際法違反のアメリカが問題の根源にある

ブッシュ大統領は、九・一一事件以来、テロとの戦争をあらゆる政策課題の中心に据え、矛先を早くからサダム・フセイン打倒に絞り込み、先制攻撃による対イラク戦争を引き起こした。しかい、ケイ証言(最大の開戦理由だったイラクにおける大量破壊兵器の存在を実質的に否定)、クラーク証言(ブッシュ政権が九・一一事件直後からイラクに異常な関心を向けていた事実を暴露)など、ブッシュ政権の内部からの告発や、九・一一事件の真相を解明する委員会の活動などによって、対イラク戦争の正当性を問う声は、アメリカ国内でも急速に高まりを見せている。

私たちが忘れてはならないのは、アメリカが国際法違反の対イラク戦争を起こし、国際法上の正当性のない占領支配を強引に推し進めることがなかったならば、今回の事件は起こるはずがなかったということだ。より直接的には、アメリカの国際法違反の対イラク戦争・占領支配に対する支援として、日本政府が自衛隊をイラクに派遣したことに対して、イラクの怒りが向けられたということである。今回の事件は、不法なアメリカへの加担としての自衛隊派遣に対する反感がもっとも極端な形をとって現れたということなのだ。

自衛隊はイラクに対する人道復興支援を呼びかけた安保理決議一四八三に応じた活動をしているのだから、上記批判は的はずれだ、と反論する向きもある。しかし、この決議の成立経緯をふりかえるだけでも、その内容については様々な議論がある。その点よりも重要なことは、この決議は、アメリカの強い圧力で、真の当事者であるイラク不在の下で作られていることだ。イラク側からすれば、押しつけられた不本意なものだということだ。

イラクに対する人道復興支援がイラク人にとって受け入れられる形・内容で行われるならば、それはそれで人道復興支援を行う側としてもそれなりの正当性を主張しうるかもしれない。たしかに自衛隊がサマワ入りした当初は、そういう雰囲気も、少なくとも現地においては感じられた。しかし、アメリカの行動に大義がないことが明らかになり、アメリカとともに行動する各国軍隊の存在をイラク人が拒否するようになった現在、日本政府が、もっぱらアメリカとの同盟関係に忠義立てして自衛隊のイラク駐留に執着することは、もはやいかなる正当性もない。現実に、イラクから部隊を撤退する国が続出している。日本のみがアメリカに従うことに固執することは、ますますイラク民衆の日本に対する反感を高め、第二、第三の人質事件を誘発する危険性を高めるだけだろう。

小泉首相は、ブッシュ政権と心中するつもりかもしれない。しかし、そんな彼個人の思いこみによって、人質たちの運命が翻弄されるなどということが許されていいはずはない。しかも、先にも触れたように、アメリカ国内におけるブッシュ政権の対イラク政策に対する批判は急速に高まっている。

私はかつて、「ブッシュ政権の意図通りに物事が進むことは考えにくいが、そのことにも考えるべき問題がある。たとえば、このような好戦的な政策を、アメリカ国民がいつまで支持するかはなはだ疑問だ。今はまだ事件の直後であることも考慮する必要がある。事件が長引くに伴い、アメリカ世論の動向が変化する可能性は大きい。」と書いたことがある(私のホーム・ページのコラム欄「テロリズムと国際政治」 二〇〇一年一〇月執筆)。事態は、私が予見したとおりになっている。

アメリカの真の友好国を自任する人物であれば、今アメリカに対して行うべきは、一つしかない。それは、今や「ブッシュのヴェトナム」とまで形容されるようになった対イラク政策を抜本的に見直し、国際社会とイラクの様々な勢力が手を携えて、事態の収拾とイラク復興にとり組む政策を採用するよう強力に説得することだ。

私は、自分のホーム・ページで二〇〇一年一〇月にこう書いた。「平和大国・日本がなすべきは、なによりもまず、アメリカに理を尽くし、誤診の非を認めさせ、その手術の手を止めさせ、正しい診断に基づく療法に切り替えさせることだ。」(「国際テロリズム:日本は道を誤ってはいけない」)この文章は、アフガニスタンに対する武力攻撃をアメリカが仕掛ける前の段階で書いたものだ。しかし、今のイラクにおけるアメリカに対しても、そのまま当てはまると思う。

以上からの結論として、私は、今回の事件が起こったこと、解決が長引いたことの重大な責任は、小泉政権が負うべきだと思う。小泉首相がこの事件が投げかけている問題に向き合うことを拒否するかたくなな姿勢には、心底からの怒りを感じるし、許せないと思う。

3.事件に対する一部の国民の反応はやりきれない

私は、今回の事件を受けとめる国民の側についても、重大な問題が伏在していることを痛感させられている。最近、ホーム・ページのコラム欄で書いたことだが、テレビの報道番組で、私は形容のしがたいほどのやりきれない思いを味わう画面に遭遇した。三人の家族が東京で訴えを行っている内容について、「自己責任だから」など(新聞報道では、救済に要する費用を自弁しろ、という類の低劣きわまるものもあるという)という圧力、非難が殺到しているらしい。そのことに関連して、東京にいない家族の一人が、東京にいる人の言動について、「申し訳ない」と謝っている画面だ。この点については、新聞でも報道された(四月一四日付朝日新聞など)。

フリーカメラマンのイラク入国の動機については、私はあれこれ判断するだけの材料を持ち合わせないので、ここでは発言を控える。しかし、他の二人については、イラクに敵対する意思はまったくない。一人はストリート・チルドレンに対する熱い思いから、そしてもう一人は劣化ウラン弾がイラクの人々にいかなる被害をもたらしているかについて肉薄したいという思いからの行動である。そのことについては、各種報道が軌を一にする内容を伝えていることから、疑いの余地はない。そういう彼らが、死の危険が待ちかまえていることについて悩んだ末に、あえてイラク行きを選んだこと(その点についても様々な報道で確認されている)について、私は尊敬する。

そういう彼らが刃をのど元に突きつけられ、恐怖におののく姿(なぜかごく一部を除いて報道されていない。私は、ドイツのシュピーゲル紙のインターネットのサイトを通じてみた)は、まさに壮絶以外の何ものでもない。そんな彼らをなんとしてでも救いたいと思う家族の心情は、私は人間として当たり前すぎる行動だと思う。その家族の行動に対して、「自己責任だから」と、水をかける行動を取る日本人がいることに、私は心底唖然とする。

そういうことを無責任に言う人は、二人が文字どおり決死の覚悟で自分の取るべき行動を決断した重みがまったく分かっていないし、その二人を思いやる家族の気持ちを踏みにじっている。そして、謝罪まで迫る雰囲気を作り出しているのだ。更に許し難いことは、そういう無神経な人々に限って、「テロリストに屈するな」という見当はずれをきわめる日本政府の主張を丸呑みにし、あるいは、アメリカの不法な戦争・占領支配に加担する日本のあってはならない姿を直視し、批判する気持ちを持ち合わせていない、ということだ。

4.根本的な国民的課題を見つめ直したい

国民一般の政治意識について、私はかなり以前から危機感を持つようになった。湾岸危機・戦争以来、保守政治が積み重ねる既成事実の前に、ますます多くの国民が批判力を失い、「現実」的になっていると感じるからだ。そしていまや、憲法「改正」がきわめて現実味をもって語られるまでになっている。三人の人質事件に対する世論の反応が見えてこないことは、私の危機感をいやが上にも増幅する。

私の危機感は、この事件が起きる前から、より正確に言えば、自衛隊のイラク派遣が現実になったときから、ますます強まっている。そして、どうして日本の国民はかくも既成事実に対して弱いのか、なんとかならないのか、という焦燥感に襲われている。そうした私の問題意識に対して、すでに十数年にわたり、丸山真男の文章は重要な手がかりを与え続けてくれる。というより、丸山自身が、私が意識するはるか以前に、この危機感から日本政治に対する積極的な発言を行っていたのだ。

丸山は、早くから、日本人の「既成事実への屈服」、「権力の偏重」(上にぺこぺこ、下に横柄)の傾向を指摘し、日本の民主主義に対して警鐘を鳴らし続けた。「既成事実への屈服」や「権力の偏重」を生み出すのは、「個」の本質的な価値(人間としての尊厳)を認識し、その価値観に基づいて自らの言動を律する日本人があまりに少ないためだ。五〇年代、六〇年代に書かれた丸山の文章を今読んでも、まるで今日の日本のことについて語っているかの如き鮮烈な印象を受ける。逆に言えば、四〜五〇年を経ても、日本の民主主義、もっと端的に言えば、民主主義の主人公であるはずの私たち国民の体質、あるいは日本の精神的風土は本質的にいい方向に変質を遂げていない、ということである。

丸山の文章と向き合うなかで、私が次第に育んできた問題意識がある。つまり、「個」という価値基準を我がものにしていない、今日の多くの日本人が共通して直面している問題は、戦後の保守政治が歪めることに大きく貢献(?)した「平和」観の曖昧さであり、また「国家」観の欠落という点にあるのではないか、ということだ。

いきなりこう言うと、唐突な印象を与えるかもしれない。しかし、人間の尊厳、したがって「個」を我がものにしないままでいる限り、私たちは「平和」について考える座標軸を持たないに等しい。また、「個」の意識がなければ、個人を押さえつける強い性向を持つ「国家」に対する正確な認識も持ちうるはずがない。丸山の指摘した「既成事実への屈服」、「権力の偏重」は、私たちの「平和」観を曖昧にし、「国家」観を持ち得ないようにする力として働くのだ。

丸山の生きた時代に比べ、今日の私たちにとって、「平和」観、「国家」観の問題に立ち向かうことがきわめて切迫した課題になっている。それは、保守政治が現実政治における選択として、私たちにこの二つの問題を容赦なく押しつける政治状況になっているからだ。

「平和」観に関して言えば、保守政治の主張する「武力による」平和観を受け入れるか、平和憲法の掲げる「武力によらない」平和観を立脚点におくかの選択である。また、「国家」観に関して言えば、保守政治が執着する「国家を個人の上におく」国家観を受け入れるか、それとも平和憲法の根本理念を体した「個人を国家の上におく」国家観を我がものにするかの選択である。

私は、私たち国民がこの二つの問題に対して明確な問題意識を持ち得ないでいたことが、一九九〇年代以来の日本政治の急速な右傾化に歯止めをかけることができなかった、大きな原因であると考える。その今日的な現れが、国民的な平和観の曖昧さに関して言えば、自衛隊のイラク派遣に対する国民世論の動揺(各種世論調査を見ても、当初はイラク派兵に対する反対が大幅に上回っていたのに、派兵が既成事実化するにつれ、賛否が拮抗する状況が生まれている)に反映されている。また、国民の国家観の欠落が何をもたらすかと言えば、国民の基本的人権を国家権力が大幅に制限することに狙いがある武力攻撃事態対処法(二〇〇三年成立)やいわゆる国民保護法制に対する諦めに似た無関心の広がりをあげることができるだろう。

今回の事件に即していえば、保守政治の右傾化を押しとどめることができなかった私たちの「平和」観と「国家」観における「弱さ」が、こういう劇的な形で暴露された、と私は受けとめる。私たち国民における「平和」観における曖昧さと「国家」観の欠落という状況が続く限り、私は、この二つの問題を集中的に体現する憲法「改正」問題の前途についても、厳しい事態に直面することを余儀なくされる可能性は高い、と判断するほかない。

私たち一人一人に、避けることのできない決断が、いま厳しく問われている。

(追記1)三人の人質が解放されて、そのことにはホッとすると同時に、新たに捕まった二人の安否のことが直ちに気になり、三人の家族のようには感情が爆発する気分にはなれません。五人すべてが自衛隊のイラク派遣に反対する人々です。三人と同じように、他の二人についても、拘束したイラク人たちが二人の立場を理解し、解放することを願わずにはいられません。小泉首相は罪深き人です。本文で書きましたように、小泉首相がアメリカの言うままに自衛隊を派遣することさえなければ、五人がこのような目に遭ういわれはなかったのです。小泉首相が正しい決断の下に行動しているのならば、こういう言い方は控えるべきでしょう。しかし、そうではないのです。私達は、三人の解放を喜ぶだけにとどまらず、五人が捕まる原因になった自衛隊のイラク派遣そのものに厳しい批判を行わなければなりません。そして、小泉首相の国民に対する無責任をきわめる言動を絶対に許してはならないことを、改めて確認する必要があります。(二〇〇四年四月一五日夜記)

(追記2)

解放された3人に対し、小泉首相、福田官房長官、冬柴公明党幹事長が批判を浴びせ、NHKの午後7時のニュースでは、その映像をまったく無批判に報じました。朝日新聞の16日付夕刊には、小泉首相の発言をそのまま報じています。

(3人のなかにはイラクに残りたいという人もいるようだが、という質問に対し)「いかに善意な気持ちがあってもね、これだけの目にあって、多くの政府の人たちが自分たちの救出に寝食を忘れて努力してくれているのに、なおかつそういうこと言うんですかね。やはり自覚というものを持っていただきたいですね。」

福田長官は、帰ってから頭を冷やして考えろという趣旨、冬柴幹事長に至っては救出にかかった費用を家族に請求せよ、とぶちあげる始末。

小泉首相の発言を報じた朝日新聞夕刊のすぐ傍には、アメリカのパウエル国務長官の次の発言が載っていました。「誰も危険を冒さなければ、私達は前進しない」、「より良い目的のため、自ら危険を冒した日本人たちがいたことを私は嬉しく思う」、(日本では人質になった人は自分の行動に責任を持つべきだと言う人がいるが、と聞かれて)「彼らや、危険を承知でイラクに派遣された兵士がいることを、日本の人々は誇りに思うべきだ」、と言っているのです。パウエルが正しく事態の文脈を理解した上での発言かどうかは分かりません。また、パウエルのすべての言葉に賛成するわけでももちろんないですが、少なくとも私が下線を引いた箇所の発言は、さすがに「腐っても鯛」、個人の尊厳をあらゆる価値の上におく国の人間ならではのものだと思います。

救出にかかわったイスラム宗教者委員会の責任者が、高遠さんに、これからもイラクで活動してください、という趣旨の発言を行っていたことも、私達は忘れるわけにはいかないはずです。この委員会は、アメリカの占領支配に明確に反対し、人質問題に関しても、アメリカの占領支配に対する協力・非協力を基準にして、積極的にかかわるか否かを決めているのです。3人が解放されたということは、アメリカの占領支配に対するイラク人の明確な意思表示であり、つまりはアメリカの占領支配に無条件で付き従う小泉政治に対する、イラクの人々の抗議声明なのです。

パウエル発言、イスラム宗教者委員会責任者の発言と比較したとき、小泉首相の発言に現れる、自衛隊を派遣したことがすべての原因であることすら承認しない独善的で傲慢な態度には、怒りを通り越して、呆れるほかありません。政府の誤りによって引き起こされた危険を承知の上で、あえてイラク行きを決断した3人の行動は、パウエルですら認めるように、そしてイラクの聖職者が高遠さんの行動を賞賛しているように、私達日本人として、誇りに思うべきことなのです。

私が心から苦々しく思うことは、殺到するバッシングの声に直面した家族が、3人に対して「言動は慎むように」(高遠さんの弟の本人に対する発言として、やはり朝日新聞夕刊が報道)と言わざるを得ない状況に追い込まれていることです。なんということでしょうか。正しいことをしている人たち、私達が誇りに思うべき人たちが、バッシングの前に謝罪を強いられるとは。

私は、本当にこの国は何処か根本的なところで狂っているとしか思えません。保守反動政治の「国家を個人の上におく」国家観が、「個人を国家の上におく」国家観を押さえつけようとしているのです。公明党に至っては、その下劣をきわめる本性が余すところなく白日の下に曝されたというほかありません。私は、公明党に対して吐き気すら催します。

正しい行動を取った3人に、私達は最大限のエールを送ろうではありませんか。「ひるむな、負けるな、正しいと信じる道を歩み続けろ」、と。そして彼らの家族に対しては、「バッシングに負けないでほしい、正しい行動を取っている3人を、世間の間違った、見当はずれの圧力に屈して、押さえ込まないでほしい」というメッセージを送ろうではありませんか。(2004年4月16日夜記)

(追記3)

このコラムの「『平和国家』・日本のあり方と国際社会とのかかわり方」の文章とのかかわりで、追記をつけました。というのは、「自己責任」論の背景にあるのは、「国家を個人の上におく」国家観と「武力による」平和観に固執する小泉政権と自公連立政治であり、その問題を深く扱ったのが上の文章であるからです。私は、「自己責任」論に対する反論は、NGOおよびフリーなジャーナリズムの存在理由・価値を述べるだけでは、多くの国民に対して有効な説得力をもつには十分ではない、という気がしてなりません。

もちろん、その存在理由・価値について多くの国民に正しい理解・認識をもってもらう必要があることは十分認識します。しかし、それだけでは不十分であって、「自己責任」論の背景にある彼らの国家観・平和観・国際観の本質をハッキリ多くの国民に認識してもらう必要があると思います。さらには、私の持論ですが、私達の側からの積極的な平和観・国家観・国際観を提起しなければ、多くの国民が納得しないと思います。

そういう問題意識から書いたのが上の文章でしたので、それへの追記という形で、今回の問題についてそこで触れました。(2004年4月21日記)

RSS