イラクにおける3人の日本人の拘束について考える

2004.04.13(追記版)

イラク特措法の強行成立以来、予想していたことがついに起こってしまった。これが、3人の日本人がイラクで何者かに拘束されたという情報に接したときの、私の最初の感想でした。

 アメリカの不法なイラクに対する占領統治に加担することを目的とし、本質とする自衛隊のイラク派遣は、政府がどんなに人道支援、復興支援を名目にしようと、その目的・本質が変わるものではありません。なによりも、自らの意思に反する占領支配を受け、しかも日に日に安全環境が悪化しつつある状況のもとで、イラクの人々が米英だけではなく、米英に協力しようとする国々に不信と怒りの目を向けるのは、当然なことです。

とくに日本については、3人を捉えた何者かが述べているように、イラクの人々はもともと日本に対して良好な感情を持っていた、という事情があるというのです。その感情を裏切られたということになれば、日本に対する感情が更に先鋭なものになることは、私たちの日常的な対人関係を振りかえるだけでも、十分に理解できることではないでしょうか。

私は、今回の事件が起きてから大きな動揺が走っている国内の有様を見るにつけても、イラク特措法案が国会に出された段階で、国民の多くがこういう今日の事態があることを十分予期し、法案に対する猛烈な反対の声を上げるべきだったのに、という気持ちになります。「特措法の成立を許してしまい、自衛隊のイラク派兵が行われたら、どういう事態が待ちかまえているか」ということについては、事前に十分に予想が付いていたわけですから、特措法を成立することを許してしまった国民にも大きな責任があると言わなければなりません。なんと言っても、日本は民主主義国家であるはずですから。

そのことをまず明らかにした上で、私は起こってしまった今回の事件について、私たちがどのように態度決定し、行動するか、ということを考えます。

私は、この問題に向き合う際にも、イラク派兵が不法なアメリカの占領支配に加担するものであるという本質を直視することから出発しなければいけない、と思います。自衛隊のイラク派兵がなかったならば、3人の拘束はなかったでしょう。もっといえば、小泉首相のブッシュ大統領に対する盲従がないのであれば、日本は、イラクを含むアラブ世界で長年にわたって培ってきた対日好感情を維持し得ていたはずです。この因果関係をわきまえることが、今回の不幸をきわめる事件を解決する第1歩だと確信します。

その点をしっかり確認すれば、日本として取るべき行動は自衛隊のイラク撤退を速やかに決断することしかありません。そのことによって、イラクその他のアラブ諸国の対日感情が直ちに好転することを期待できるほど、物事は簡単ではないことは、私も知っているつもりです。しかし、そうすることが、3人の解放につながるもっとも確実な行動であることは間違いありません。

この私の主張に対しては、「自衛隊を撤退すればテロに屈することになる」、という反論が直ちに予想されます。私は、そうではないと考えます。ここで考えなければならないことは、3つあります。

一つは、原因(自衛隊派遣)を作った方(日本)がまずその原因を取り除かなければならない、ということです。ましてや、その原因となる行動が、すでに述べたように、正当化しようのないもの(小泉首相のブッシュ大統領に対する思い入れによる、不法なアメリカによる占領支配に加担する自衛隊派遣)であるわけですから、なおさらです。原因を棚上げして、その原因によって被害を被った側にのみ善意の行動を求めるというのは、まったく説得力がありません。

もう一つ、自衛隊の撤退に反対する人たちは「テロに屈してはならない」といいますが、今回3人を拘束した何者かを軽々にテロリストと決めつけることには、様々な専門家も指摘しているように、問題があるということです。単なるテロリストであるならば、3人はとっくに殺害されていたと思われます。彼らの目的は、少なくとも送りつけられてきた記録による限り、自衛隊の撤退を要求するという政治的な動機がハッキリしています(一部の識者が指摘するように、彼らの究極的な目的がお金にあるとしたら、それはそれで事態を単純化させる方向に向ける要素として、むしろそうあってほしいと、私個人は願いたい気持ちですが)。私たちは、彼らをテロリストと決めつけて対応の幅を狭めるようなことがあってはならないと、強く思います。

彼らの動機が政治的な目的の実現にあるとしても、たしかに、非戦闘員である民間人を拘束することは許されることではありません。しかし、3人を拘束した何者かがそうした国際法にどれだけの理解と認識があるのか、私たちは多くを望むことができないのではないでしょうか。むしろ、彼らの人間としての両親に訴えることに主眼をおくべきだと思います。

政府の頑迷な姿勢を改めさせる努力を引き続き行うことはもちろんですが、3人を拘束している何者かに対して直接働きかける努力を行うことも緊急の課題だと思います。すでに武者小路公秀教授たちが動きを取られているように、私たちとしては、あらゆる手段を尽くして、彼らに、3人を殺害しないように呼びかけを行う必要があります。

もう一点是非考える必要があることは、アメリカの対イラク戦争そのものが間違っていたということが、当のアメリカでも次第に認識されるようになっている、ということです。ブッシュ大統領以下のアメリカ政権の指導者たちが、9.11事件の直後から標的をイラクに定めていたという事実関係が浮かび上がっています。しかも、9.11事件とイラクを結びつける証拠はなにもない、ということが分かっていたのに、ブッシュたちはサダム・フセイン打倒に早くから狙いをつけていたというのです。大量破壊兵器の存在という開戦理由も崩れています。アラブ世界の民主化という、とってつけたような正当化理由は、党のアメリカがこれまで(そして現に今も)もっとも独裁的、専制的な政権をもり立ててきた張本人であるという事実の前には、いささかの説得力ももちません。

こうしたアメリカ国内での事態の進展を受けて、これまでイラクに派兵を行ってきた国々の間でも、派兵を見直す動きが出てきています。新聞報道(4月9日付朝日新聞)によれば、ニカラグア(駐留予算の不足を理由として)は2月末に、シンガポールは4月初に撤兵しました。スペインの次期政権が6月を期限として撤兵する方針であることはよく知られていますし、ニュージーランドも9月で撤収させる方針そうです。ポーランド、ブルガリアなどでも動揺が起こっていると、この新聞報道は付け加えています。この新聞報道では紹介していませんが、ブッシュ大統領と会談したオランダ首相は、その後のブッシュと一緒に行った共同記者会見で、オランダ軍の駐留延長について明言を避けました。

これらの国々の動向は、「テロに屈する」という類の話ではありません。それぞれの国の事情が働いているのはもちろんです。しかし、「テロに屈するのは良くない」という議論が、これらの国々において説得力を失っていることは、まぎれもない事実です。この議論が説得力を失っているのは、要するに根拠のない対米協力はおかしい、というきわめて常識的な判断が働きだした、ということだ、と私は思います。私は、日本人の私たちがこういう国際的な常識を弁えることこそ、これからの日本の行動において更に誤りを深めさせないためにも、きわめて重要だと確信します。

(追記1)

私は、このコラム欄でテロリズムの問題については、何度か書いていますので、その点については、ここでは触れていません。関心のある方は、それらの文章を読んでくださるように、お願いします。

結論だけ言えば、私はテロリズムに対しては、アメリカ・ブッシュ政権がやっている(そして小泉政権も付き従っている)軍事力による対決では答えにならないと確信します。テロリズムを生み出す温床である貧困(経済的社会的問題)及びアメリカの二重基準の政策(とくに国際政治問題)を解決しないことには、根本的解決につながらないと思います。これらの問題に取組ながら、現実に起こるテロリズム(イスラエル、アメリカなどによる国家によるテロリズムの問題も含みます)に対しては、リビアに対して国際社会が成果を上げたように、政治経済を含めた非軍事のねばり強い、根気の要る取り組みこそが必要だと思います。

今回の件に関しては、本文中でも書いたように、テロリズムと決めつけるのは、彼らをむしろ暴走に追い込むだけであって、問題解決を遠のかせるだけです。私は、3人の家族の方々や市民各層が奔走し、努力しておられるように、3人を拘束しているイラク人たちの耳目に、3人が小泉政治に反対する立場で行動している人々である事実が伝わり、届き、最悪の事態を引き起こすことを思い止まってくれることを、心から願っています。

そして、表面的なことすらまともにせず、アメリカの目だけを窺いながら自らの行動を決める小泉首相を絶対に許せない思いでいっぱいです。(2004年4月10日夜)

(追記2)(2004年4月13日記)

3人が捕まった映像については、テレビでは大幅にカットされ、無害(?)な部分だけが放映されています。しかし、捕まった彼らがいかに恐怖の奈落に突き落とされていたかが、元の映像では映されています。私は、そのことについて外国の報道で読み知っていたのですが、ゼミ生がそのサイトを教えてくれたので、見ました。

http://www.spiegel.de/video/0,4916,2549,00.html

がそのサイトです。気持ちに自信が持てない人にはお勧めできませんが、現実を直視しなければならないと考える方にとっては、逃げてはいけないものだと思います。

私がどうしてこの追記2を書く気持ちになったかについては、理由があります。

今夕のテレビ朝日のニュース番組を見ていたら、私にとっては形容のしがたいほどのやりきれない思いを味わわされた画面に遭遇したのです。それは、3人の家族の人たちが東京で訴えを行っている内容について、「自己責任だから」ということで、どうも圧力がかかっているらしく、東京にいない家族の方が東京にいる人の言動について、「申し訳ない」と謝っている画面でした。そして、それを放映した後に、キャスターが、まったく理解できないことですが、当の訴えをした人に、「自衛隊を撤退させてほしいか」と改めて意思表示をすることを迫る画面も、もちろん実況で映したのです。

フリーカメラマンの方のイラク入国の動機については、私は断言するだけの材料を持ち合わせませんので、発言を控えます。しかし、他の2人については、イラクに敵対する意思はなく、1人はストリート・チルドレンに対する熱い思い、もう1人については劣化ウラン弾がイラクの人々にいかなる被害をもたらしているかについて肉薄したいという思い、からの行動であることについては、各種報道が軌を一にする内容を伝えていることから、疑いの余地はないと思います。

そういう彼らが、死の危険が待ちかまえていることについて悩んだ末に、あえてイラク行きを選んだこと(その点についても様々な報道で確認されています)について、私は尊敬します。その2人が刃をのど元に突きつけられて恐怖におののく姿は、まさに壮絶以外の何ものでもありません。その2人をなんとしてでも救いたいと思う家族の心情は、私は人間として当たり前すぎる行動だと思うのです。

その家族の行動に対して、「自己責任だから」と、水をかける行動を取る日本人がいることに、私は心底唖然とします。そういうことを無責任に言う人は、2人が文字どおり決死の覚悟で自分の取るべき行動を決断した重みがまったく分かっていないし、その2人を思いやる家族の気持ちを踏みにじっていると思います。そして、謝罪まで迫る雰囲気を作り出しているのです。

私は、そういうことを放映しておいた後、その言動を取ったことが知られている家族の人に、「自衛隊を撤退させてほしいか」と改めて意思表示をすることを迫ったキャスター、というよりもそういう流れで番組を編成したテレビ朝日、の無定見さというか、踏み絵を践ませる態度というか、とにかく私には無責任をきわめるとしか言いようのない報道にも、頭に血が上る怒りを覚えました。「一体、あなた達は何を視聴者に伝えたいのか?」という思いです。

自衛隊派兵に反対の立場を番組として取るならば、自分たちの口で言うべきでしょう。しかし、そういうことは口にしないのです。結果的には、その家族の方の苦渋に満ちた表情、今や言葉を選んで話すことを余儀なくされているぎこちない表情だけをテレビで流して終わりなのです。

私は今朝、学生たちに対する講義の中で、丸山真男が1960年に発言した「現代における態度決定」という文章を紹介しました。その一節には、次のような彼の発言があります。

「私たちの社会というものは、私たちの無数の行動の網と申しますか、行動の組合せから成り立っております。社会がこうして私たちの行動連関から成り立つ限りにおいて、私たちは行動あるいは非行動を通じて他人に、つまり社会に責任を負っています。その意味では純粋に「見る」立場…は完全に無責任な立場ということになります。…認識することと決断することとの矛盾のなかに生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その結果の責任をとることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動連関が以上に複雑になった現代においていよいよ痛切になってきたのです。」

私は、丸山の発言の前半部分は、捕らわれた2人の社会的責任を自覚してのこその行動であったことを裏書きするものだと受けとめます。そして、その2人を「自己責任」という言葉(つまり自業自得だと突き放す言葉)で片づける日本人の精神的風土、そして「純粋に「見る」立場」(いわゆる中立を装う立場)を見にくいまでにさらけ出したテレビ朝日の番組の「中立性」の双方に、丸山の後半部分の発言の現代にもそのまま通じる重みを感じてなりません。

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