「愛国心」を考える

2003.11

1.日本の「戦争する国」への変質

日本は、1990年の湾岸危機を契機として、その後ひたすら軍事大国・「戦争する国」に向けて邁進してきている。その歩みは、1990年から1993年まで、1994年から2000年まで、そして2001年から現在までの3つの大きな時期に分けることが可能だと思われる。

 1990年から1993年までの第一の時期はいわば助走期と位置づけることが可能だ。湾岸危機・戦争に伴う「軍事的国際貢献」論の登場と130億ドルに及ぶ戦費拠出、掃海艇派遣、PKO法の成立と自衛隊の戦後初の海外派遣等がこの時期の主な出来事である。

この時期の特徴は、アメリカの圧力の下に「軍事貢献」の道を模索する保守政治と、なお平和憲法の下で日本が軍事的な分野で国際行動をとることに強い抵抗感を感じる多くの国民との間の綱引きが行われたこと、そして次第に保守政治の議論に国民世論が傾斜していったことである。そこで明らかになったことは、戦後長い間国民的常識ですらあった「平和国家・日本」の理念が、実は60年代以来の保守支配のもとで、次第にスローガン化さらには空洞化し、保守政治が「軍事貢献」論をもって正面から挑戦してきたときには、その挑戦をはね返すだけの内実を備えていないということであった。

1994年から2000年までの第二の時期は、北朝鮮「核疑惑」に始まる朝鮮半島の一触即発の危機を経て、アメリカが日本に日米軍事同盟強化を迫り、日本の「戦争する国」に向けた動きが加速した時期ととらえることが可能である。具体的には北朝鮮「核疑惑」を受けたナイ・イニシアティヴ、新・国防計画の大綱の発表、橋本・クリントン両首脳による日米首脳安保共同宣言とガイドライン見直し合意、新ガイドラインの策定、周辺事態法の強行成立などがこの時期の主な出来事である。この時期には、平和主義を唱える国民世論はますます守勢にたたされ、国会における護憲勢力の力は顕著に後退を余儀なくされた。

この時期の特徴は、とくに新ガイドラインの策定と周辺事態法の強行成立に代表されるように、日米軍事同盟強化の動きが加速し、日本の本格的な対米後方支援が可能となり、60年安保体制が筆者の名付けるところの新ガイドライン安保体制への移行を開始したことにある。すなわちこの移行は、日本防衛を主体とする安保体制から対外攻撃を主体とする安保体制へ、日本有事を基本とする安保体制から全面有事を内容とする安保体制へ、事前協議によるノーあり安保体制から事前協議を実質無意味化する安保体制へ、自衛隊による対応を主体とする安保体制から国民総動員を内容とする安保体制へ(この移行は、2002年のいわゆる有事3法の成立によって完成する)、国際法尊重を建前とした安保体制から国際法無視の安保体制へ、という5つの変化によって特徴づけられるのである。

2001年から現在までの第三の時期は、2000年10月のいわゆるアーミテージ報告に込められたブッシュ政権の対日要求のさらなる高まりと、日本がその要求に積極的に応じようとして実質改憲に踏み込むに至った時期と位置づけることが出来る。2001年1月にはアメリカにブッシュ政権が登場し、同年4月には日本に小泉政権が誕生したことによって、日本の集団的自衛権行使(すなわち憲法第9条への抵触)に向けた歩みが加速した。

この時期の特徴は、就任以来第9条改憲を要求する立場にあったブッシュ政権が、9.11事件が起こったことによって、日本の対米軍事支援の一層の強化、日本本土の米軍軍事基地としての機能強化を本格化させたことに集中的に表されている。前者の代表がテロ対策特措法及びイラク対策特措法であり、後者の代表がいわゆる有事3法の強行成立であったことはもちろんである。前者によって自衛隊の憲法違反の海外派兵が本格化し、後者によって日本全土のアメリカ軍基地化が実現することになる。

しかし、以上の措置の集積によってアメリカの対日軍事要求が完全に満たされるに至った、と見るのは単純すぎる。有事3法については、国民を総動員する国内法の整備が未完成な状況にある。さらに、日本全域においてアメリカ軍の自由な行動を保証する国内法制の整備も今後の課題である。また、アメリカは、日本がアメリカの指揮下のもとで本格的な戦闘行動に参加しうるようになることを求めており、そのためには第9条改憲は不可欠である。このように考えてくると、第三期は今なお進行中の過程と考えなければならない。

いずれにしても、以上の日本の軍事力向上の進行が示すのは、日本の平和と安全がより強固に確保されるということを意味するものではまったくない、ということである。事実は全く逆であって、日本がアメリカの発動する世界規模の戦争に巻き込まれる危険性・蓋然性がますます強まるということである。

2.北朝鮮問題と「愛国心」

すでに述べたように、1994年から2000年までの時期の日本は、いわゆる北朝鮮の「核疑惑」問題によって大きな影響を受けた。この事実が示すように、日本の平和・安全保障問題が扱われる際には、北朝鮮問題がしばしば浮上する。その場合の北朝鮮は、常に例外なく負のイメージをもって語られることになっている。いわく「北朝鮮は脅威だ」、「北朝鮮は何をするか分からない危険な国だ」等々。こういう議論が保守政治の日米軍事同盟強化論の有力な材料として用いられるのはもちろんのことである。さらに反動的な層にかかると、そういう北朝鮮に対して毅然とした「愛国心」を涵養することが重要だ、という宣伝材料としてまで利用されることになる。そこにあるのは、攻撃者・侵略者・加害者としての北朝鮮のイメージであり、これに対して被攻撃者・被侵略者・被害者としての日本というイメージである。

しかし、このような議論が如何に荒唐無稽なものであるかについては、かなり善意の日本人を含め、余り理解が進んでいない。ここには、筆者が常に口にする「天動説・日本」の影響が大きく働いていることを見ないわけにはいかない。

第二次世界大戦までの日本はまぎれもない侵略国家だった。しかし侵略戦争の加害責任を認めようとしない戦後保守政治は、「一億総懺悔」論などを持ち出して昭和天皇以下の戦争責任を曖昧にし、国民の間に被害者意識だけを身につけさせることに成功した。その国民は、平和憲法の影響もあって、一夜にして恒久的な平和愛好の民として生まれ変わったがごとき意識を身につけるに至った。このような国民意識からすると、日本は常に善であり、平和愛好国家である。仮に日本の周りの平和がかき乱されるようなことがあれば、それは日本のせいではなく、もっぱら悪者である他者の働きによるものであるということになる。

すでに1.において述べたように、1990年代以来のアジア・太平洋地域の緊張は、アメリカ及びこれに付き従う日本の手によって醸成されてきたものである。しかし平和主義の理念が空洞化した今日の日本人には、この実体が見えなくなっている。そこで悪者捜しが始まるということになる。

日米軍事同盟強化を急ぐアメリカ及び日本にとっての本当の対象は中国である。しかし、急速な経済成長を遂げつつあり、しかも大国としての存在感をますます大きくさせるに至った中国を、公然と悪者扱いすることははばかられる。その点北朝鮮は、金正日独裁体制の小国であり、しかも米日韓の軍事包囲網に対してハリネズミのように身を逆立てて身構えている。悪者として決めつけるには格好な存在というわけである。

こういう悪者に対して、多くの日本人が違和感を持って臨んでいる。保守政治・反動的論者にとって、こういう日本人に「愛国心」の涵養を叫ぶことはいかにも好都合である。こうして、文部省が戦後一貫して推し進めてきた「愛国心」教育が、いまや全国民的規模をもって展開されるということになった。

しかし、悪者・北朝鮮のイメージをかき立てるために保守政治が利用してきた不審船事件、拉致問題、核ミサイル問題のいずれをとっても、被害者としての日本を証明するには余りにもお粗末である。不審船事件についていえば、当該船舶は日本領海を隔たること数百キロの洋上にいた。その船舶を追いかけていって威嚇射撃、船体射撃を行い、沈没にいたらしめたのは日本の海上保安庁である。拉致問題についても、被拉致者は一時帰国、という日朝間の合意を一方的に破って永久帰国としたのは日本だった。そういう合意違反をしておきながら、北朝鮮側が家族の帰国を認めないと一方的に批判するのは、余りにも日本の身勝手というものだろう。核ミサイル問題に至っては、米朝間には1994年に行った合意及びそれを受けたKEDO合意が存在している。それらの公表されている合意文を読めば、核ミサイル問題で約束違反をしているのはアメリカであり、そのことが今日の北朝鮮の態度硬化を生み出していることは誰にも分かるはずである。

確かに筆者にも金正日独裁体制には強い批判がある。しかし、その問題と「日本に脅威を及ぼす悪者・北朝鮮?」という問題とは全く次元を異にする話である。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式の感情論で物事を押し切るには、ことは余りにも重大である。まして、間違った議論に基づいて「愛国心」を叫ぶに至っては、相手である北朝鮮としてもたまったものではない。

筆者は、日朝関係を考える際の原点は、侵略・植民地支配を行ったのは日本であり、その戦後処理を終えていない唯一の国家が北朝鮮であるということを私たち日本人が承認することにあると確信する。その点を承認する限り、「天動説・日本」の立場から北朝鮮に敵愾心を持ち、「愛国心」を振り回すのは筋違いであることを強調しないわけにはいかない。

3.日本人が涵養するべき真の愛国心とは何か

今日の日本人のなかには、「日本の平和と安全を守ってくれるのはアメリカ」だと思いこみ、親米であるか否かをもって愛国心があるかないかの判断基準とするものが少なくない。その裏返しとしては、アメリカに楯突く(そしてもちろん日本に対しても目障りな)北朝鮮について少しでも非対決的な見方をするものは「売国奴」と決めつける見方もあふれている。しかし、筆者が以上に述べてきたことが否定できない以上、そのような「愛国心」とは実に怪しげなものであることが分かるのではないだろうか。

筆者は、愛国心そのものの意義を否定するものではない。むしろ筆者は、「自分が日本人である」ことを胸を張って言えるような国家に日本がなることを心から期待しているし、そういう国家にするためにこそ機会あるごとに自分の所説を述べているのだ。

しかし率直に言って、世界を支配することに野心を燃やすアメリカに追随する日本、天動説に凝り固まって北朝鮮を悪者扱いにする日本は、どう考えても間違っている。ましてや、そういう心情を「愛国心」とはき違えることには嫌悪すら覚える。

日本はいまや押しも押されもせぬ大国である。これは好き嫌いの問題ではない。問題はこの事実と如何に向かい合うか、ということだ。筆者にいわせれば、横暴を極めるアメリカに対して説得力・影響力を行使できるのは、大国・日本ならではの役回りである。また、天動説から抜け出し、日本の言動が国際関係に如何に大きな影響を及ぼすかを第三者的に見つめ、我と我が身を振りかえる矜持をもつことも、大国・日本ならではの国際社会に対する義務だと言えるだろう。ましてその日本はかつて侵略戦争によって国際社会に多大の被害を与えたことがあるいわば前科者なのである。北朝鮮はその日本による最大の被害者の一つなのだ。

日本が以上の意味をわきまえた大国・日本として身を処することに徹するとき、はじめて国際社会の信頼を集めることが出来る。また、そういう日本であってはじめて私たち日本人は、「自分が日本人である」ことに確信を持つことが出来るようになる。そしてそれこそが私たちの涵養するべき愛国心の中身でなければならないであろう。

最後に断っておかなければならないことがある。それは、国際化時代に住む私たちがもつアイデンティティの多様性ということである。筆者が愛国心を持つことの意義を認めることはすでに述べた。しかし、私たちは日本という国家に対するアイデンティティと同時に、大は国際社会、アジアから小は地域社会、自分の属する単位に至るまでの様々な社会に属しており、それぞれのアイデンティティを養うことが出来る。また、社会だけではなく様々な文化のなかにも自らのアイデンティティを見いだしているであろう。

要するに愛国心だけを突出させることは、国際化時代を生きる私たちにとって百害あって一利なしなのである。多様なアイデンティティの一部としての愛国心というものを心がけるべきだと思う。

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