北朝鮮問題と有事法制

2003.05.15

*この論文は、いずれ刊行される本の一つの章として書いたものです。日本の「有事法制」の基底に座るアメリカの世界戦略の危険な本質を理解する参考となれば、と思い、掲載します。(2003年5月15日)

(はじめに)

アメリカの覇権主義は、今や留まるところを知らない勢いで自己主張を推し進めている。国連安全保障理事会(安保理)でのあらゆる審議過程や決議の内容をも平然と無視し、あるいは牽強付会的に自分に都合良く解釈して、イラクに対する武力行使に踏み切ったことは、その最たる現れである。アメリカの自国中心主義の覇権主義をいかに押しとどめるか、そもそも押しとどめることができるかどうかは、現代国際社会が直面している最大の課題である。

歴史上も世界覇権を目指した国はないわけではない。しかし、その都度その覇権実現を阻止するための連合体が現れて、その野心をくじき、葬り去ることに成功してきた。それは、当否を離れて、パワー・ポリティックスによるバランス・オブ・パワーが働いた結果であった。しかし今や、アメリカの圧倒的な軍事力を押しとどめる力を、国際社会は持ち得ないかのようである。欧米国際政治の根底を流れるバランス・オブ・パワーによる国際秩序維持の論理も、今のアメリカの前には無力であるかのようだ。

今日においてこの問題を考える場合の立脚点としては、理論的には、あるいは可能性としては、いくつかのケースを考えることができるであろう。非同盟運動を中心とした国際的な反覇権主義勢力を糾合するという可能性。その系として国際世論をなんとかして結集する可能性。あるいは毒を制するには毒をもって制するというが、過去のパワー・ポリティックスの論理にしたがい、アメリカに対抗する諸勢力によるバランス・オブ・パワーの結成を目指して、アメリカの覇権主義的台頭に警戒感を有する列強のアメリカ牽制戦線を結成する可能性も考えられないわけではない。

二〇〇三年二月にマレーシアの首都クアラルンプールで開催された第一三回非同盟諸国首脳会議では、折からの焦点であるアメリカによるイラク攻撃問題もあって、非同盟運動がこの問題、なかんずく強引にイラク攻撃を推し進めようとするアメリカに対していかなる対応を行うべきかが大きな議論の焦点のひとつとなった。基調演説を行ったマレーシアのマハティール首相は、「どの国も世界の警察官となることを許されてはならない」と述べ、名指しすることはしなかったけれども、アメリカを厳しく批判した。

この会議で採択された声明も、「戦争を回避するあらゆる努力を歓迎、支持し、一方的行動ではない多国間行動に基づく努力のねばり強い継続」を呼びかけ、アメリカの行動を牽制した。この会議に参加した加盟国及びオブザーバーの八カ国が国連安保理の非常任理事国であることを考え合わせれば、アメリカの行動をチェックするために必要な力を非同盟運動が持ち合わせていると考えることができる。しかし残念ながら、これら非同盟に属する安保理理事国の懸命な調停工作も、対イラク攻撃の結論先にありきのアメリカの前には通用しなかった。

また、国際世論の動きにも注目する必要がある。やはりアメリカのイラク攻撃をめぐり、これに反対し、国連による査察の継続を求める大規模なデモや集会が二〇〇三年二月一五日から一六日にかけて世界各地で行われた。六〇カ国で一〇〇〇万人という往時のヴェトナム反戦集会をもしのぐ規模の世論の集結が大々的に報道された。三月一五日にも同じく大規模な反戦運動が世界各地で繰り広げられ、その後も世界各地でアメリカの行動を糾弾する動きが続いてきた。

こうした国際世論の盛り上がりにも後押しされて、大国の中からもアメリカの動きを押しとどめようとする動きが現れてきた。すなわち、安保理常任理事国であるフランス、ロシア、中国、あるいは非常任理事国として安保理に席を占めるドイツがアメリカと一線を画する動きを強めたことである。国際世論の動きが伝統的なバランス・オブ・パワーの働きを促すという、これまでの国際政治にも例を見ない動きへの萌芽が、そこには見られた。

しかし残念ながら、率直に言って、以上のいずれの可能性も、現実(アメリカの対イラク武力行使の決意)を動かすエネルギーとしては、決定的な力が不足していることを認めないわけにはいかないだろう。非同盟運動は、かつての多くの盟主が今や内憂外患に見舞われて、国際関係において有力な発言を行うことすらままならない状況となっている。国際世論の結集も、少なくとも当面の可能性としては、自立的な運動としての活動を期待できる条件を生み出すにはいたっていない。過去のパワー・ポリティックスに類するアメリカの覇権主義に対抗する列強の同盟関係の結成に関しては、当面そのような動きは皆無である。

このように考えると、我々が現在行うべきことは、むしろアメリカの覇権主義の本質及びグローバル戦略の展開をできる限り冷静に把握し、その本質と展開に潜む弱点ないし問題を解明し、これらの弱点や問題を今後のアメリカの覇権主義の克服及びグローバル戦略展開の阻止につなげていくということではないか、と考えられる。ただし、アメリカの覇権主義の克服及びそのグローバル戦略展開阻止にかかわる考察を行うためには、アメリカ経済・社会についての分析を伴うものでなければ説得力を持たない。そういう問題は他の論考に委ね、本稿は、アメリカ中心主義(ユニラテラリズム)に代表されるアメリカ覇権主義の本質の分析と、アメリカ中心主義に基づくその軍事戦略の分析を行う試みである。

一 アメリカの覇権主義の確立と今日的現れ−アメリカ中心主義−

アメリカの覇権主義確立の歴史は、若干乱暴な表現を用いるのであれば、孤立主義から国際主義へ、そして国際主義からアメリカ中心主義(いわゆるユニラテラリズムをさすが、何故に「アメリカ中心主義」という訳語にこだわるかについては後述する)へという変遷の歴史としてまとめることが可能であるように思われる。孤立主義とはモンロー・ドクトリンに代表されるものであり、国際主義とはトルーマン・ドクトリンによって代表され、そしてアメリカ中心主義とはクリントンに始まりブッシュによって極限にまで押し広げられようとしているものである。

ちなみに、論者によっては、孤立主義と国際主義とを相対立するものとして分類し、国際主義をさらにその戦術の違いに着目して、多国間主義(マルティラテラリズム)とユニラテラリズムとに分類するものもいる(ジョセフ・ナイ『アメリカの力のパラドックス』一五四頁参照)。確かに英語表現としての意味合いからすると、このような分類の仕方が妥当であると考えることはできる。しかし、ユニラテラリズムは、往々にして他国の利益を無視した孤立主義に傾く傾向を強く持つ。つまり、ユニラテラリズムは、時に孤立主義として自己主張することもあり、時には国際主義の内容を持って現れるのだ。したがって、このような分類は、本質に即した分類とはなっていないと思われる。

私個人の理解によれば、モンロー・ドクトリン、トルーマン・ドクトリンそしてアメリカ中心主義は決して異質な、相互に交わることがない主義・主張ではない。むしろ、アメリカの建国理念に対するこだわりと飽くなき国益確保に対する執念とがそれぞれの時代環境において強調点を異にして発現したものととらえることが正確な理解であると考える。

(一)アメリカの建国の歴史

私はアメリカ史を専門とするものではないから、先学の研究成果を私なりに咀嚼したアメリカの建国における特徴的要素を摘記するものであることをあらかじめ断っておかなければならない。

アメリカにおける植民地建設は一六世紀末にさかのぼるが、その植民地建設に思想的正当化の根拠を与えたのは、なんと言っても、一六二〇年のピルグリム・ファーザーズのアメリカ移住に代表される、旧大陸にはない自由と独立の精神の注入であったことは間違いない。そのとき以来新大陸は、旧大陸における圧政から解放された人々の精神的なよりどころとなっていった。

しかし、かれらが自由と独立の理念にのみ走る人々でなかったことは、その後の歴史の経緯が如実に物語っている。もっとも象徴的な独立戦争にしても、当初から独立を目指して立ち上がったわけではなく、イギリスの圧政が次第にアメリカの人々を独立という選択に向かわせたというのが真実である。この場合重要な事実として理解しておくべきことは、イギリスが行った不当な施政がついにアメリカ人をして独立以外の選択はあり得ないという結論に導いたということである。もしイギリスが過酷な施政を行っていなかったならば、当時のアメリカが独立という思い切った選択をしていたかどうかは、歴史的には興味深い「もしも」であった。しかし以上の経緯から読みとることができる事実は、アメリカ人が理想にのみ突っ走る国民ではなく、常に自分たちにとっての最善の利益(国益)は何かを考慮した上で行動する人々だったということである。

(二)モンロー・ドクトリン

モンロー・ドクトリンに代表されるアメリカの対外政策のあり方が一九世紀前半のアメリカにおける大きな争点になったのは決して偶然ではなかった。当時のアメリカは弱小国であり、その対外影響力はきわめて限られていた。折しも欧州ではポルトガルやギリシャにおいて、アメリカに範をとった自由と独立を目指す運動が展開されていた。また、中南米諸国においてもやはり植民地解放を目指す闘いが盛んに行われていた。自由と独立を標榜するアメリカの理念的な立場からすれば、当然これらの運動を支援すべきだという主張が強かった。

しかし弱小国アメリカが自由と独立を目指すこれらの戦いに援助を行う能力は極端に制限されていた。それだけではない。かりにアメリカが不用意に介入でもすれば、アメリカそのものに対する欧州列強の干渉を正当化する格好の口実を与えることにもなりかねない。また、欧州列強の間の同盟関係の荒波に身を投じることも、アメリカの命運を欧州政治に翻弄される危険性をはらんでいた。

当時のアメリカ政府内部では激論が交わされた。モンロー大統領自身は、欧州におけるバランス・オブ・パワーの政治に身を投じ、具体的にはイギリスとの同盟関係を強化することによってアメリカが直面する課題に対処する方針を主張した。しかし、結果的にはまったく逆の結論がモンロー・ドクトリンと称せられることになるアメリカ単独の政策として採用されることになった。その骨子は次の三点からなっていた。

第一は、アメリカは欧州の問題には関与しないというものだ。これは、アメリカが欧州における自由と独立を目指す運動に対する積極的支援を行うことを差し控えることを約束したに等しい。これによって欧州列強によるアメリカ政治に対する介入を防止することを目指したものである。ここには明らかに、アメリカの独立確保のためにはポルトガルやギリシャにおける自由と独立を求める戦いが困難と挫折に逢着する結果になるという必然に目をつぶるという国益優先の発想がある。

第二は、欧州諸国は西半球に新たに植民地を得るべきではないというものだ。

第三は、欧州諸国は、西半球の独立国に旧体制を押しつけようとするべきではないとするものだ。

第二及び第三の主張の主なポイントは要するに、西半球の政治体制についてはアメリカが中心になって決めるので、欧州諸国は容喙しないでもらいたいという要求だ。当時の欧州内部にはアメリカの出来事に対して積極的に介入する余裕を生むのを妨げるに十分な問題があった。アメリカの要求は、欧州諸国にとって必ずしもアメリカのわがままと映るものではなかったのである。こうしてアメリカはその後約一世紀にわたって、孤立主義を標榜することになっていった(正確のためにいえば、この約一世紀にわたるアメリカの外交がとくにその対アジア・太平洋政策において孤立主義に徹するものではなかったことは、例えばアメリカが日本に対する開国要求の先頭に立ったことや中国市場の門戸開放を主張した対中国政策を積極的に展開したことにおいて明らかである。)

(三)トルーマン・ドクトリン

トルーマン・ドクトリンは、第二次世界大戦に勝利して世界最強の地位に登りつめたアメリカが世界にアメリカ的価値観を押し広めようとした時期に打ち出したものである。ルーズベルト大統領の政権で副大統領の地位にあったトルーマンは、ルーズベルトとは異なり、社会主義特にソ連に対して不信感を持っていた。ルーズベルトの死後大統領に就任したトルーマンは、一九四五年一〇月二七日に、アメリカの対外政策の基本原則を述べているが、その第六項には次の一節がある。

「我々は、いかなる外国の力によって一定の政権がある国家に強制されることについても、これを承認することを拒否する。場合によっては、そういう政府が強制されることを防止することは不可能な場合もあろう。しかしアメリカは、そのようないかなる政権も承認しないであろう。」

ここでは特にソ連が名指しされているわけではない。しかし、ソ連による東欧支配への動きはすでに始まっていたし、東ドイツからブルガリアまで社会主義政権が登場するのはそれほどの時日を必要としなかった。トルーマンの上記発言が、そうしたソ連の動きを牽制しようとしたものであることは明らかであった。

しかしトルーマンが、後にトルーマン・ドクトリンと呼ばれることになる演説を行ったのは、一九四七年三月一二日のことであった。この演説の主題は特にギリシャとトルコに関してであった。ギリシャからは、ギリシャが自由な国家として生き延びるためにはアメリカの経済援助が必要だというメッセージが寄せられていた。そのギリシャの存続は、共産主義者によって指導されたテロリストの活動によって脅かされているというのがトルーマンの判断であった。一方トルコに関しては、それまでトルコに対して援助を行ってきたイギリスがもはや援助を継続する能力がなくなっており、アメリカがイギリスの役割を引き受ける以外に道はないというものであった。

しかしトルーマン演説は、単にギリシャとトルコを支援するという目的意識を表明するものにとどまらなかった。いまやアメリカの対外政策の主要目的の一つは、アメリカ及びその他の国々が強圧から自由な生活スタイルを作り出すための条件を創造することにある、と宣言するトルーマンは、直接及び間接の侵略によって自由な人々に課せられた全体主義政権は、国際平和の基礎を突き崩し、したがってアメリカの安全保障を損なう、としたのである。

その後の東西冷戦の経緯については改めてふりかえるまでないだろう。ただし、この時期のアメリカの理念追求と国益実現の形については整理しておく必要があると思われる。トルーマン宣言が明確に指摘しているように、アメリカ的理念を標榜する政権を世界に扶植することがそのままアメリカの安全保障に直結するという発想である。

ただし、東西対決という状況の下では、アメリカが勝手にアメリカ的理念を諸国に押しつけるというわけにはいかない。そこでは明らかに、ソ連以下の社会主義の攻勢に対抗して、アメリカ的理念を受け入れることこそが各国にとっての利益になるという説得力を持つ政策的内容を伴う必要がある。つまり、アメリカ的価値観を一方的に押しつけるだけではなく、現地政権側の積極的協力の確保を目指す政策的努力を伴うものであった。ここにトルーマン・ドクトリンが国際主義と呼ばれる真骨頂があるのである。

(四)アメリカ中心主義(ユニラテラリズム)

まず本論に入る前に、ユニラテラリズムの訳語を確定しておく必要がある。日本でよく使われる訳語は「単独行動主義」と呼ばれるものである。しかし、二〇〇二年のいわゆる九・一一事件が起こってからのアメリカの行動自体が「単独行動主義」という訳語の不適切さを示している。アメリカはある時は必要に応じて同盟国の支持の取り付けに積極的に動くとともに、別の時は他国の意図を平然と無視した行動をとってきた。これは決してその場その場のご都合主義に基づくものではないし、ましてや「単独行動主義」という訳語に収まりきれるものではない。

このことをアメリカの国防長官・ラムズフェルドは、九・一一事件後のかなり早い段階で次のような表現で明確に述べている。

「これ(注:対アフガニスタン戦争)はアメリカ以外の国がかつて戦ったことがない戦争である。この戦争は、敵対諸国の枢軸を打ち破るために連合した大同盟軍によって行われるものではない。そうではなくこの戦争は、変化し発展する流動的な連合軍によって行われる。 国ごとに異なる役割を有し、それぞれの方法で貢献する。外交的支援を行う国もあれば、財政的な、さらには後方支援や軍事的な支援を行う国もある。国によっては公然と支援するであろうが、国によっては、その状況に応じて、私的かつ秘密裏に支援するだろう。この戦争では、任務が連合のあり方を決めるのであって、その逆ではない。」(二〇〇一年九月二八日付インタナショナル・ヘラルド・トリビュン紙)

ちなみに、この考え方がラムズフェルド個人のものではなく、ブッシュ自身のものであったことが明らかになっている。ボブ・ウッドワードによれば、早くも九月一九日の時点でブッシュは、戦争遂行の要件によって多国の連合が今後変化すること、国によって要求される援助が異なること、これが単一の遠大かつ不変の連合ではないことを強調するように、パウエルとラムズフェルドに念押ししたという(『ブッシュの戦争』邦訳版一三八頁)。

これらの発言に明らかなとおり、アメリカは決して何事も単独で決めて行おうとしているのではない。アメリカにとって必要なときにはその必要に応じて関係する国々の支援を求める姿勢を公然と明らかにしているのである。ただし、「任務が連合のあり方を決める」という表現に明確なとおり、同盟国と相談した上で物事を決定するということではなく、任務の内容を決めるのはアメリカである。ほかの国々は、アメリカが決めたラインにしたがって動くことが求められるという筋書きだ。

だからこそユニラテラリズムとは「アメリカ中心主義」と訳すべきなのである。これは決して趣味の次元の話ではない。ブッシュ政権が追求する対外政策路線の本質をどのようにとらえるかという問題なのだ。したがって、以下においてはアメリカ中心主義という表現を統一的に使うこととする。

アメリカ中心主義は、じつはブッシュ政権の専売特許ではない。私がすでに明らかにしたことがあるように(拙著『国際的常識と国内的常識』五三頁)すでにクリントン政権においては、アメリカ中心主義がその対外政策の方針の一つとして明確にされていた。たとえばレーク補佐官(当時)は、「アメリカがマルティラテラリズムでいくか、あるいはユニラテラリズムでいくかを決める決定的要因は、アメリカの利害だ」と言っていた。クリントン自身、「我々は、他国や国連などの国際機関と協力することもしばしばあるだろうが、我々の同盟国の根本的利害に脅威が及ぶ時には、単独で行動することをためらわない」と述べていたのである。

ただしクリントン政権の時のアメリカ中心主義は、必ずしもブッシュ政権の時と同じ意味合いで使われていたわけではなかった。クリントン政権時のクリストファー国務長官は、「対外政策上の目的を貫くためには、単独ででも行動するという選択肢を保持する」と言いつつ、その理由として、「他国にアメリカと責任を分担させることは、我々が単独で行動する用意があるときにのみ可能になる」からだ、と言っていた。つまりあくまで他国をアメリカに協力させる上での手段としての位置づけが濃厚なのである。これは明らかに、ラムズフェルドの発想とは異なっている。

もう一つ興味深いことは、ブッシュ政権自体は、自らの対外政策をアメリカ中心主義と形容することに対しては慎重である以上に、むしろ反発を示すということである。これは、少し考えれば容易に理解できることだ。自国の対外政策の決断について他国の容喙は認めない。しかしその実施に当たっては、必要に応じて大いに他国を利用するというのだから、アメリカ中心主義を公然と標榜できるわけがない。だから彼らによれば、「選択的多国間主義」とされる。

アメリカ中心主義の訳語の確定に多くのスペースを費やしてきたが、ブッシュ政権のアメリカ中心主義の本質を理解することは簡単である。ソ連の崩壊はクリントン政権の時代に起こったが、ソ連崩壊を受けたロシアとの関係を本格的に推進するようになったのはブッシュ政権である。そのロシアは、もはやアメリカと覇権を争う意図は毛頭なく、むしろ国内を資本主義化したことによって落ち込んだ経済力の回復を至上課題としている。だから東西冷戦の構図は完全に消え失せた。アメリカは今や世界唯一の覇権強国である。ブッシュ政権のアメリカとしては、アメリカ的理念を世界的に広げることをそのままアメリカの国益実現として推進しうる立場にある。アメリカの覇権主義は、今その頂点を迎えたといっても過言ではない。

この点についても、ウッドワードはブッシュとの単独会見を踏まえて興味深い観察を行っている。つまり、「ブッシュの未来像は、明らかに世界を作り直すという野望が含まれており、人々の窮状を減らし、平和をもたらすには、先制攻撃と、必要とあれば一国のみの行動も辞さないという考えがそこにあった」(前掲書四五二頁)というのである。これが覇権主義でなくてなんであろうか。

二 ブッシュ政権のグローバル戦略の本質

アメリカのグローバル戦略は各分野に及んでいる。政治・軍事、経済、文化、その他のあらゆる分野でアメリカ発のグローバル化の波が世界を押し流しているというべきだろう。政治・軍事の分野以外では素人の筆者としては、経済、文化などの分野におけるアメリカのグローバル戦略の展開について語るだけの資格はない。したがってここでも基本的にアメリカの政治・軍事面でのグローバル化戦略についてのみ論究することをあらかじめ断っておかなければならない。

(一)いわゆるグローバル化という概念について

しかし最初に基本概念としてのグローバル化の本質については正確に位置づけておく必要があると考える。一般にグローバル化というときは、政治・軍事、経済、文化などの分野における世界の一体化を意味するとされることが多い。世界の一体化という限りではそのとおりなのだが、問題は一体化の震源地はどこにあるかという問題意識が抜け落ちていることに筆者は常に作為的なものを感じている。グローバル化は方向性のない猛々しい荒波の奔流ではない。グローバル化は、アメリカを人工的な震源地として世界に押し寄せる大津波なのだ。したがってグローバル化の波はいかなる手段をもってしても抗しがたい歴史的な必然ではなく、アメリカという人工的な震源地をコントロールすることができれば、十分にコントロール可能なものなのである。

その点について、経済に関してではあるが、明確に論じた文章がある。ロンドン大学経済学部で政治経済学を担当するロバート・ウェード教授の「アメリカの帝国がバランスを失った世界を支配する」(二〇〇二年一月三日付インタナショナル・ヘラルド・トリビュン紙)である。私はこれまで門外漢としてではあるが国際経済についての文章にも目を通してきた。ウェードの文章は、私が読んだ文献の中では、国際経済のグローバル化がアメリカを人工的な震源地とするきわめて危険なものであり、まったく新しい国際経済制度を構築しないと国際経済が破局を迎えかねないことをもっとも鋭く警告した文章である(ちなみに、経済の立場からアメリカを震源地とするグローバル化についてのより本格的な研究として、ノーベル賞を受賞したジョセフ・スティグリッツの『グローバリゼーション及びその問題点』がある)。

この文章は、アメリカを今日のローマ帝国の皇帝に見立て、通常の市場諸力がアメリカの経済的優越性を保証し、アメリカ市民が生産する以上の消費を行うことを可能にし、そして挑戦者を退けることを可能にするために、どのような国際政治経済的取り決めの枠組みを作るかという仮説的設問を提起することから始める。ウェードがまず指摘するように、アメリカとしては自国の為替レートの自主性を保ちたいし、通貨政策は自国の目的に添ってのみ決めるが、他の国の通貨についてはアメリカに頼らざるを得ないようにしたい。アメリカはまた、アメリカの優越性に挑戦するような経済中心が台頭することを妨げるために世界中で動揺や経済危機を演出することができるようにしたい。アメリカ中心主義の立場に立つ限り、ウェードの以上の想定には無理がない。

こうした立論の上にウェードは、以上の目的のためにアメリカは国際政治経済にどういう配線を行うか、と議論を展開する。まずは資本移動の自由化。第二は自由貿易。第三は国際的に自由な投資環境。第四はアメリカ・ドルを主要な準備通貨とすること。第五は無制限な貿易赤字を支えるための措置、等々。

ウェードは、このようなアメリカによる世界経済支配が、「世界のことを考える」動機に出ていたときは、国際経済にとって利益になったこともあることは認める。しかしアメリカはしばしばアメリカ市民とアメリカ企業だけのことを考えることが多かったし、この傾向は近年において顕著になっている、と指摘する。

ウェードはさらに、アメリカが世界貿易機関をしてサービス貿易の自由化を約束させたが、これは、保健、福祉、年金、教育、水道などの各国市場をアメリカの会社によって提供させるようにし、開発途上国における社会保障に対する普遍的アクセスをという考え方を損なうものだということも指摘している。ウェードによれば、世界銀行のソフト・ローン・ファシリティも同じで、私的セクターを大いに発展させて基本的サービスの商業化に資することを意図したものだと指摘している。

以上の諸点を指摘するウェードの結論は、長期的に見た場合、きわめて不公平な世界を繰り返そうとする構造的取り決めは再編し、新しい枠組みのもとでのマーケットがより公平な結果を生み出すようにしなければならない、というきわめて常識的なところに落ち着いているのである。つまりウェードの議論は、経済におけるグローバル化が優れてアメリカの利益を推進するために進められているアメリカ発の国際経済政策であることを明らかにしているのだ。

(二)政治・軍事におけるグローバル戦略

アメリカは、九・一一事件を一つの重要な契機として、前例のない軍事外交戦略に向かおうとしている。そのことをもっとも明確にかつ完全な形で表したのが「四年ごとの防衛見直し」(QDR)であり、特に核戦略に関して突出させたものが「核態勢報告」(NPR)である。また、これら両報告を受けてブッシュ大統領が二〇〇二年一月二九日に行った年頭教書も忘れることはできない。さらには、ラムズフェルド国防長官が雑誌『フォーリン・アフェアズ』2002年5/6月号で発表した「軍隊の改革」と題する論文もある。以下においては、この四つの文書を根拠にして、如何に九.一一事件以来のアメリカの軍事外交政策が常軌を失した「狂」の次元に入り込んでしまったかを明らかにすることにしたい。

(イ) 四年ごとの防衛見直し(QDR)

「四年ごとの防衛見直し」(QDR)は、二〇〇一年九月三〇日、九・一一事件を受けて発表されたものである。QDRは、次のような文言で始まっている。「二〇〇一年九月一一日、アメリカは悪質な血なまぐさい攻撃に曝された。アメリカ人は仕事場で死んだ。彼らはアメリカの土の上で死んだ。彼らは戦闘員としてではなく、無実な犠牲者として死んだのだ。彼らは伝統的な戦闘を仕掛ける伝統的な軍隊によって死んだのではなく、テロという残忍で顔のない兵器によって死んだのである。(中略)アメリカが今日戦う戦争はアメリカが自ら選んで行うものではない。それは、テロという悪の力によってアメリカに対して暴力的かつ凶暴に持ち込まれる戦争である。これは、アメリカ及びアメリカの生き方に対しての戦争である。これは、アメリカが大切にしているものに対する戦争である。これは自由そのものに対する戦争である。」九・一一事件及びそれを引き起こしたものに対するすさまじいまでの怒りが表されている。

QDRには、アメリカに対する攻撃が予測不可能な性格なものであることに対する常軌を失した反応が見られる。「我々はどこでいつアメリカの利益が脅迫されるか、いつアメリカが攻撃されるか、あるいはアメリカ人はいつ攻撃によって死ぬかについて正確に知ることはできない。(中略)我々は常により正確な情報を手に入れるように努めるべきだが、我々の情報力には常にギャップがあることを知らなければならない。驚愕すべき出来事に迅速かつ決定的に適応すること、これが戦争計画における条件でなければならない。」

したがってQDRの目標は、国防計画の基礎を、伝統的な「脅威立脚型」から「能力立脚型」に移行させることになる。説明によれば、脅威立脚型モデルでは敵が誰であり、戦争がどこで起こるかということに力点をおいていたのに対し、能力立脚型モデルでは敵がどのように戦うかという点により焦点を当てるものになるのだという。つまり、自分たちの目的を達成するために、突然性、ペテン及び非対称的な戦闘に頼る敵を抑止し打ち破るための能力を獲得するというのが能力立脚型モデルの目指すところだということになる。そのために必要とされるのは、アメリカの非対称的な優越性を将来に向かって維持するために、アメリカの軍事力、能力及び制度を改革させることにある、というのだ。

ただし、大量破壊兵器に代表される非対称的な形の戦闘を含む広範な能力を保有する敵からの挑戦を考える上では、九・一一事件が示したように、アメリカが地理的にどのように位置しているかということは、アメリカに対する直接攻撃からアメリカを守るということを保障するものではもはやない、という教訓もアメリカは引き出そうとしている。そういう点で、アメリカの直接的な利害関心がある地域の安定に対して脅威をもたらすのに十分な能力を開発する地域大国に対する警戒感を指摘し、その点で特にアジアが大規模な軍事競争の起こりやすい地域として名指ししていることに注目する必要がある。

QDRがアジアに注目する理由は以下のように説明されている。中東から北東アジアにつながる不安定な半円形に沿って、アジア地域には台頭するあるいは勢いが衰えつつある様々な国々を含んでいる(注:台頭する国とは中国であることは自明である。他方、「勢いが衰えつつある国」というのは日本を指しているのであろうか)。そのアジアで安定したバランスを維持することは複雑な仕事だ。強力な資源をもった軍事的競争者がこの地域には現れる可能性がある。ベンガル湾から日本海に至る東アジア地域は特に挑戦的な地域である。アジアという戦域では距離が広大だ。この地域でほかの地域よりもアクセスが少ないアメリカにとって、追加的なアクセスとインフラに関する協定を確保することのメリットは大きい。

QDRは、名指しで日本の重要性を述べているわけではない。しかし、以上の脈絡からいって、アメリカがアジアにおける最大の同盟国としての日本の重要性を念頭においていることを読みとらない方がどうかしているというべきであろう。

QDRは、このほかにも多くの点で注目するべき内容を含んでいる。しかし以上の点からだけでも、少なくとも二つの点で私たちは重要な二つの結論を引き出すことができると思う。一つは、九・一一事件がアメリカの軍事外交戦略にとてつもなく大きな変質をもたらしつつあるという事実である。もう一つは、そういう九・一一事件の衝撃にもかかわらず、アメリカのアジア重視の姿勢は微動の変化も見られないということである。

むしろ日本の私たちにとって考えるべきことは、九・一一事件による戦略の変質とアジア重視が重複しており、日本に対する軍事要求が今後いやが上にも増す方向性が示唆されているということだろう。本稿における私の課題ではないが、日本の有事法制制定への動きも、このようなアメリカの軍事外交戦略のなかで位置づけられていることはきわめて見やすい道理であることを理解する必要があると思う。

(ロ)核態勢報告(NPR)

核態勢報告(NPR)は、二〇〇一年一二月三一日にラムズフェルド国防長官によって公表された。しかしその内容はきわめて簡単なものであり、とうていその内容を詳細に理解することはできないものであった。幸いその大要がグローバル・セキュリィティという機関から公表されたため、私たちはその恐るべき内容の一端をかいま見ることができることになった。ただし留意しておくべきことは、公表されたものはあくまで抜粋であり、全体像を正確に把握することは難しいということである。

NPRにおける最大の特徴は、「核戦力及びその計画においては、冷戦時代におけるより柔軟性が大幅に必要になっている」という認識が基調に据えられていることである。ここでも九・一一事件後におけるアメリカの軍事思考の変質ぶりをうかがうことができる。つまり「様々な敵対者が新しい安全保障環境において価値あるものと見なす資産は様々であり、時には、敵対者が価値あるものと見なすものについての理解も変化する」という微妙な言い回しを行った上で、「アメリカの核兵器は、広範な目標対象を危機にさらすために引き続き必要とされる。この能力は、様々な事態において広範囲な敵対者に対して有効な抑止戦略を支える上で、核戦力の役割にとってカギとなるものである。規模、範囲及び目的において異なる核攻撃のオプションは他の軍事的能力を補助するものとなるだろう」という結論を引き出しているのである。核兵器に対して、従来の戦略にはとうていうかがうことができない積極的な役割を与えようとする意図を明確に読みとることができるだろう。

同時にNPRは、ミサイル防衛の役割に対しても大きな意義づけを与える。「ミサイル防衛は、潜在的な敵による戦略的及び戦術的な計算に対して効果のあるシステムとして台頭しつつある。(中略)ミサイル防衛の様々な技術やシステムを証明することにより、潜在的な敵に対して抑圧的な効果を与えることができる。ミサイル防衛とくに多層的な防衛システムに対抗するという問題は、潜在的な敵にとって、困難で時間のかかるしかも高価な任務を与えるものとなるだろう。」

しかしNPRが考えていることはこれに留まらない。非核及び核の双方の兵器を考えることにより、「敵を決定的に打ち破る軍事作戦においてより柔軟性をもつことができる」とまで考えるのである。たとえば核兵器は、地底深く潜ったバンカーなどの非核兵器による攻撃に対して抵抗力がある標的に対して使用することができる、と公言される。核兵器の先制使用が当然のごとく念頭におかれているのである。

また、流動的な安全保障環境では、将来において必要とされる核戦力のレベルについて確実性をもって予測することも不可能であるというのがNPRの公言するところでもある。NPRは、アメリカが備えなければならない事態として、「直接的」「潜在的」及び「予想外」の三つに分類する。

たとえば「直接的事態」とは、よく分かっているものであり、例としては、イラクによるイスラエルに対する攻撃や北朝鮮による韓国に対する攻撃、さらには台湾情勢をめぐる軍事衝突が挙げられている。

中国に関していえば、その戦略目標がまだ発展中であり、その核及び非核戦力の現代化も進行中であることから、中国は直接的または潜在的事態に含まれる国家とされる、と公言されているのである。

このように、NPRにおいては従来の核抑止戦略とはまったく異なる発想にたって今後のアメリカの核戦力を構築することを考えていることが分かる。核兵器の先制使用、戦術的使用、そのための地下核実験の再開、さらには防衛ミサイルの開発など、戦後構築されてきた核兵器に関する確立された概念をすべてスクラップせずにはすまない構想が推進されようとしているのである。

(ハ)年頭教書

二〇〇二年一月二九日に、ブッシュ大統領は年頭教書を発表した。ブッシュは冒頭に、「我が国家は戦争にあり、経済は不況であり、文明世界は先例のない危険に直面している」といっている。そういっておきながら、「国家はいまだかつてなく強い」ともいっているのである。ここにも不安と狂気とが混在するブッシュ政権のいまの姿を見ることができる。そして敵が全世界を戦場と見なしている以上、彼らをどこまでも追っかけていかなければならない、と述べている。そのような考えにたった上でブッシュは軍事外交戦略の基本的考え方を述べた。そこでは、九・一一事件以来の経験を総括した上で、アメリカが当面の戦略的重点として二つの目標を追求することを明らかにしている。

一つは、対「テロ」戦争を世界中に拡大していく意思の表明である。ブッシュは、アメリカの行動がもっとも見えやすいのはアフガニスタンであるとしつつも、フィリピン、ボスニア、アフリカに言及しながら「アメリカはどこででも行動する」と明言している。

アメリカの戦争が泥沼化への道であることは、すでにアフガニスタンの事態が示している。アメリカの猛攻によって瓦礫と化したアフガニスタンを復興することが至難の業であることは、戦争にうつつを抜かすものをのぞけば、常識に属する。しかしいまのアメリカには、そのこと自体が目に見えなくなっているのだ。

今一つは、「悪の枢軸」に対する対抗宣言である。北朝鮮、イラン及びイラクを「悪の枢軸」と決めつけるだけではなく、テロリストの同盟者と一緒になって、世界の平和を脅かすために武装しようとしていると批判する。アメリカがイラクを攻撃する気持ちは掛け値なしのものである。イラクが大量破壊兵器をテロリスト集団に引き渡す可能性があるというのが、対イラク攻撃の正当化理由なのだ。

以上の発想に共通するのはやはり九・一一事件以後の異常心理だ。ブッシュによれば、イラクなどの国々は、大量破壊兵器をテロリストに与え、アメリカに最後通牒を突きつけようとしているということになる。したがって、そういうことに対して無関心でいることは大災害を生むというのである。「この戦争は我々の時刻表によっては終わらないだろう。しかし、この戦争は確実に我々の時刻表にしたがって行われるだろう」というブッシュの発言には、本当に被害妄想に陥ったものの狂気の響きしか感じられない。

(ニ)ラムズフェルド論文

ラムズフェルド論文は、総じていえば、以上の三つの文書で示された考え方を総合し、まとめたものと位置づけることができる。そこで基本的に示されている認識は、「冷戦は終わり、ソ連は去った。それとともに、アメリカが慣れ親しんできた安全保障環境も去った。我々が九月一一日に学んだのは、新しい世紀の挑戦は過去の時ほどに予見できないということである」という、QDRにくり返し登場した予見性の消失という認識である。「これからの年月も、我々は、予想できない方法で襲いかかる新しい敵に驚かされるだろう。しかも彼らがより高度の武器を獲得すれば、その攻撃は九月一一日に受けたものよりさらにすさまじいものになるだろう」という認識もやはりQDRの時とまったく変わっていないことが分かるのである。

こういう時代の挑戦、すなわち見知らぬ、不確かな、見えない、予想もできない敵からアメリカを守るという課題は難しいものにならざるを得ないとラムズフェルドは述べる。しかし、それは不可能に見えるかもしれないが、そうではないと彼は強くいう。ただしそれをやり遂げるためには、慣れ親しんだ考え方や計画を捨て、リスクを背負い新しいことを試み、そうすることによって、まだ我々に挑戦するべき、いまのところ立ち現れるに至っていない敵を抑止し、打ち破らなければならない、というのだ。

こういう挑戦に対処するには、アメリカが挑戦される可能性がある脆弱なポイントをできるだけなくすこととアメリカの優位性をできるだけ伸ばすことに意を用いなければならないとする。そういう点でラムズフェルドは、六点からなる改革目標を提起する。①アメリカ本土と海外基地の防衛。②遠隔地での軍事力投入と維持。③敵に対して聖地を与えないこと。④情報網を攻撃から守ること。⑤アメリカの様々な部隊が共同して戦えるように彼らを結びつける情報技術を使用すること。⑥宇宙空間の妨害されない利用。ラムズフェルドは、こうした戦争ができるようにするためには、迅速に展開でき、完全に統合され、遠隔地に急速に到達でき、海空軍と共同して、敵を迅速かつ決定的に打ち破る合同軍が必要である、とする。

ラムズフェルドはまた、アメリカの目的は単に戦いに勝つことだけではなく、それを防止することにもあるとする。しかし、それを実現するためのラムズフェルドの考え方は尋常ではない。つまり、潜在的な敵の政策決定に影響を与え、彼らが現存の兵器を使うことを抑止するだけでなく、危険な新しい兵器を作ること自体を思いとどまらせるようにしなければならないというのだ。そうするためには現実のアメリカ海軍の実力がそういう効果を発揮している(つまり、他国がアメリカに対抗するような海軍を作ることを断念している)ように、アメリカは新しい軍事資産を構築することによって、敵に競争する気持ちを失わせることが重要だとするのである。その例としてラムズフェルドは、効果的なミサイル防衛を展開することによって、敵がミサイルを作る気持ちを失わせることができると説く。

最後にラムズフェルドは、アフガニスタンの戦争から学んだ教訓で将来にも適用できるものがいくつかあると指摘している。そのうちの興味あるポイントを指摘しておく。

たとえば、これまで述べてきたことから明らかなように、ラムズフェルドの戦略構想の中には外国(同盟国)という要素はほとんどはいってきていない。あくまでアメリカ中心主義である。その彼がこの論文で唯一外国との関係に触れた部分では、次のように述べている。この戦争において他の国から支援を受ける際の政策は、我々にとって他の国の協力を最大限なものにして、敵に対する我々の効率性を最大限にすることだ、と。外国を利用する上でもアメリカ中心主義の考え方が露骨なまでに貫徹されていることに驚くほかない。

また戦争を行うに当たっては協力する気持ちのある連合軍のメリットがあることはラムズフェルドも認める。しかしラムズフェルドは、戦争は委員会によって戦うのではならないと皮肉っぽく釘を刺している。彼が好んで口にする言葉がここでも繰り返される。すなわち、任務が連合軍のあり方を決めるのであって、連合軍が任務の内容を決めるのであってはならないということだ。ここにも戦争遂行において同盟国軍に要らぬ口出しをさせないというラムズフェルドのアメリカ中心主義そのものの発想を見いだすことは難しいことではない。

このほかにもラムズフェルドは驚くべき考え方を公然と述べている。たとえば、アメリカを防衛するためには予防は必要であり、時には先制攻撃もあり得るとしている。限られた場合とはさすがに断っているが、「最良の防衛は、よい攻撃だ」と公言しているのである。

さらにラムズフェルドは、地上軍も含めて例外はないとも言い切っている。イラクを名指ししているわけではないが、そのメッセージはきわめて明確である。ラムズフェルドは、「敵は、我々が彼らを打ち破るためにどんな手段も使うこと、勝利を達成するためにはいかなる犠牲も払う用意があることを理解しなければならない」といっている。

三 ブッシュ政権の対「テロ」戦略の展開

ウッドワードの前掲書を通読して明らかになることは、ブッシュ政権が行った対アフガニスタン戦争さらには対「テロ」戦争における、ブッシュの感情的反応に振り回されるアメリカ政権の政策の場当たり性とはったり性ということである。そこには一貫したしかも冷静な理性的判断に基づく戦争遂行の姿勢は皆無であった。私は、この本を読んでいる中で、かつての日本軍国主義の中国侵略から第二次世界大戦へのめり込んでいくあの泥沼化の姿と同じものを感じ取る思いに襲われた。

そして理解すべきことは、このような無定見な戦争遂行は、じつはこれまでに述べてきたブッシュのグローバル戦略そのものから引き出される必然であるということである。脅威の本質が「テロ」という「顔の見えない恐怖という脅威」(いってみれば「お化け」)であるとすれば、その脅威に対する作戦も常に未知の不可解な存在に対する想像力をたくましくしたものにならざるを得ない。そしてその作戦は、ブッシュ政権の対「テロ」戦争に関する主観的な判断によって無限に拡大されていくことが運命づけられている。この二つの点をさらに詳しく検討しておきたい。

(一)対「テロ」戦争そのものが内包する無定見性

対「テロ」戦争としての対アフガニスタン戦争については、いくつかの重大な問題点が含まれていた。そのうちの一つは、九・一一事件の犯行者であるテロリストに対するアメリカの行動が何故にアフガニスタンという国家に対する戦争までをも正当化しうるのかという問題だった。この点に関して、ウッドワードは驚くべき事実関係を明らかにしている。

一般に受け入れられている国内の常識からいえば、犯行者をかくまえばその逃亡を幇助した罪に問われることはあっても、その犯行者と同罪とされることはない。ところがブッシュは、九・一一事件直後に行うことになった演説において、「我々は、テロ行為をもくろんだものとテロリストをかくまうものを区別しない」という表現にすることを自ら要求したというのである(前掲書四一頁)。それだけではない。この重大な結果を招来する表現を決定するに当たって、ブッシュはチェイニー副大統領、パウエル国務長官、あるいはラムズフェルド国防長官との相談を経なかったというのだ(同、四二頁)。

その異常ぶりについてウッドワードは、次のような文章を残している。

「大統領は国家安全保障問題担当補佐官やホワイトハウスの広報責任者、スピーチライターたちとだけ相談して、何十年に一度というきわめて重大な外交政策の決断を下したーー国務長官はそこから外されていた。」(同、四三頁)

ブッシュは、ウッドワードに対して、「私は教科書どおりにやる人間ではない。直感で動く人間なんだ」(同、四五三頁)ということを口にし、この発言を含め、十数回にわたって自分の直感や直感に従った行動のことを口にしたという。九・一一事件以後ブッシュがしばしば口にした「テロリストをかくまうものもテロリスト」という決めつけは、まったくブッシュ個人の「直感」にしたがった、世の中の常識を覆す恐るべき決定だったことが分かるのである。これによって、ブッシュのアフガニスタンに対する戦争が当然のごとく進められていくことになったのであるから、ブッシュの無定見性がいかなる結果を招くかということの重要な一端を思い知らされるのだ。

私たちの驚きはそれだけに留まらない。上記演説直後に招集された会議で、誰一人としてブッシュの上記発言に対して慎重論を唱えたものがいなかったことをウッドワードは間接的表現ながら明らかにしている。むしろ発言した閣僚が競って、アフガニスタン(タリバン政権)に対する攻撃の強硬論を述べたとしている(同、四五頁)。

対テロ戦争に含まれていたもう一つの問題点をあげるならば、そうやって戦争をしかけるアフガニスタンの戦後復興についての見取り図がまるで欠落していたということである。というよりは、対「テロ」戦争の遂行に重点が置かれるあまり、その戦争の結果生まれる破壊に対しては無関心を決め込むという無責任さが露骨だということだ。

この問題については多くを語る必要はないだろう。タリバン政権を首都及びカンダハルから追い出した後の政権の受け皿作りは難航を極めている。アメリカの庇護の下で反タリバン勢力を率いたカルザイが擁立されたが、もともと荒廃を極めていた土地にアメリカなどによって加えられた徹底破壊により、国家再建のめどはまったく立っていない。

(二)対「テロ」戦争において加速された無定見性

テロリストをかくまうものもテロリストとして扱うことを決めたブッシュの発言を受けて開かれた上記の会議では、対「テロ」戦争の拡大についても議論が行われたことを、ウッドワードは明らかにしている。例えばCIA長官のテネットは、アルカイダの活動は世界中で行われ、全大陸に及んでいると述べ、六〇カ国分の問題を抱え込んだと発言した。これに対しブッシュは「一度に一つずつつぶそう」と答えている。また、ラムズフェルドが、ビンラディンとアルカイダだけではなく、テロリズムを支援する国も問題だと発言したのに対しては、ブッシュは、「各国に選択を迫らなければならない」と応じている(同、四六頁)。

その後の事態は正にブッシュが述べたように進んでいったことは、私たちのよく承知するところである。対「テロ」戦争は、フィリピンのミンダナオ島に対する作戦を皮切りに各地で展開されている。また、いわゆるテロ支援国家に対する問題に関しては、機会あるごとにブッシュが「アメリカとともに動くか、それともテロリストと一緒になるか」の踏み絵を踏むことを各国に迫るという形で実行に移されてきた。

しかし、このような独りよがりな判断と実行は、「テロ」に対する無定見性によって無限の拡大を運命づけられているし、ついには収拾がつかなくなる可能性を秘めている。なぜかといえば、そもそも「テロ」とは何かという基本問題について、ブッシュ政権は当初から感情的な決めつけが先行しているからだ。「テロ」なるものの内容を厳密に定義してはじめて、その無制限な拡大と一方的な決めつけを防ぐことができるのだが、その肝心な作業が行われた形跡は全くない。

現実に起こったことが何かといえば、フィリピンにおける民族紛争、おりから拡大の様相を示しつつあったイスラエルとPLOとの間の紛争及びカシミール問題をめぐるインドとパキスタンの係争に対するブッシュ政権のとった行動によって如実に示された。すなわち、イスラエルのシャロン政権によるPLO締め付け作戦に対するパレスチナ側の報復活動は、ブッシュ政権によって一方的に「テロ」と決めつけられたし、住民自決を目指してきたカシミール側によるインドに対する作戦行動も「テロ」と断定された。また、ミンダナオ島のゲリラ活動も、従来はやはり民族自決運動とされてきたものを、一気にテロリスト集団と規定することになってしまっている。

パレスチナ、カシミール、また、ミンダナオにしても、九・一一事件が起こるまでは、その過激な活動に対する批判はあったにしても、基本的には民族自決運動として位置づけられてきたものである。しかしブッシュ政権は、民族自決運動の暴力的側面だけを強調し、運動を進めてきた組織を「テロ」集団と決めつける一方的な立場に終始することになった。このような行動は、ただでさえ解決が困難なこれらの国際紛争にさらに複雑な要因を持ち込むことにつながっている。

この混乱は、ブッシュ政権が行った「テロ」の範囲を勝手にしかも恣意的に拡大するという行為によって引き起こされたものである。それは、それまで国連の場などにおいて進められてきた国際的なテロリズムに対する取り組みそのものに混乱を持ち込むものでもあった。そしてその行き着くところは、「悪の枢軸」と名指しされたイラクに対する戦争となって発現することになる。

四 対「テロ」戦争から対イラク戦争へ

対「テロ」戦争を対イラク戦争へと結びつけることは、ブッシュ政権の内部では早くから主張が行われていた。九・一一事件直後にラムズフェルド国防長官は、部下に対し、「いい情報を早く。UBL(オサマ・ビン・ラディン)だけでなく、同時にSH(サダム・フセイン)を叩くのに十分な情報を」と指示したという(二〇〇二年九月四日のアメリカ・CBSニュースとして二〇〇三年三月二七日付の朝日新聞が紹介)。またウッドワードによれば、同事件後に開かれた九月一五日の会議で、対アフガニスタン作戦よりも成功の可能性が高い軍事作戦があり得るかという話題がのぼったときに、イラクが「俎上に載った」(同、一一一頁)とある。

このときは、「(九・一一事件に)関与していたのを突き止めるまでは、イラク軍事オプションは棚上げです」(同、一一七頁)として対イラク開戦を戒めたパウエル国務長官の発言もあって、対イラク戦争の話は立ち消えになったという。九月一七日の会議では、ブッシュ自ら、「イラクは関与していたと思うが、いま攻撃するつもりはない、現時点では証拠がない」と述べた(同、一三一頁)。

しかしそのブッシュ自身、大統領に就任以来、「フセインの力をひそかに弱める手だてを捜し求めていた」(同)ともされる。そのブッシュは、タリバン崩壊のめどが立った段階で、「大統領は、まるで電球が頭の中で明滅したように、『そうだ。イラクをやろう』と考えた」とライス大統領補佐官が述べた、とされているのだ(二〇〇三年二月二〇日のアメリカ・PBS放送として、上掲朝日新聞が紹介)。

そのブッシュは、前掲一般教書演説では、「悪の枢軸」論をとりあげた。「テロ」問題と「悪の枢軸」を結びつけたのは、ブッシュの凝り固まった確信だった。そしてその考えは、二〇〇二年九月に公表された「国家安全保障戦略」において明確に定式化され、そのまま対イラク戦争において実行された。

(一)国家安全保障戦略

まず、アメリカが戦う相手であるが、「国家安全保障戦略」は、「世界規模のテロリストに対する戦争」と規定する。その場合、敵は、「単一の政権、個人、宗教、イデオロギーではなく、テロリズムである」としている。そして「テロリストと彼らを意識的にかくまい、それに支援を提供するものとを区別しない」とする。

「国家安全保障戦略」は、米ソ冷戦後の新しい挑戦として、ならず者国家とテロリストを同列にあげる。そして、彼らの破壊力はソ連には及ぶべくもないとしつつ、従来最強国家のみが保有していた破壊力を入手し、それをアメリカに対して使用しようとする彼らの決意ゆえに、今日の安全保障環境はより複雑で危険なものになっている、と断じるのだ。

この新しい脅威の真の面目は次の諸点にあるとされ、したがって、従来のような抑止力に依存することはできず、彼らに第一撃の選択肢を与えることを許すわけにはいかないとされるのである。

まず冷戦時代における敵は、現状維持を指向し、リスクを冒すことに慎重な存在であった。しかし、報復という脅威にのみ基づく抑止は、リスクを受け入れることにもっと積極的で、自らの国民の生命や国家の富を賭けようとする、ならず者国家の指導者に対しては働きそうにないとする。

また冷戦時代には大量破壊兵器は最終的兵器として考えられていた。しかしならず者国家にとっては使用する選択肢にある兵器であると一方的に判断されるのである。すなわち大量破壊兵器は、隣国を脅迫し、侵略し、アメリカなどを恐喝するためのものである、と決めつけられる。

「数世紀にわたり、国際法では、急迫の攻撃の危険のある敵から自らを守るためには、攻撃を受けるまで自らを合法的に守る行動をとることができないということではなかった」と「国家安全保障戦略」は強弁する。回りくどい言い方だが、要するに、急迫した脅威に対して先制予防の行動をとることは非合法ではないとしてきた、というのだ。そして上記のような状況を前にしたとき、伝統的な自衛についての考え方についても情勢に適応させる必要がある、と「国家安全保障戦略」は続ける。というのは、敵は大量破壊兵器の使用に訴えるのであり、脅威が大きくなればなるほど、行動をとらないことのリスクもそれだけ大きくなるから、たとえ敵からの攻撃の時間場所について不確実性があっても、自らを防衛するために想定行動、あるいは先制予防行動をとることが緊要となる、というのだ。こうして「国家安全保障戦略」では、おおっぴらに先制攻撃が正当化されることになる。

しかし「国家安全保障戦略」が示した考え方には、明らかに無理がある。改めて指摘するまでもなく、自衛権行使には、急迫不正、他に手段がない、必要最小限度という三要件を充足する必要があるというのは、国際法におけるイロハである。国連憲章第五一条においても、自衛権の行使に当たっては、「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合」に限って自衛権の行使を認めているのである。先制予防の考え方が「数世紀にわたり」国際法の中で市民権を得ていたとする「国家安全保障戦略」の言い分にはいささかの正統性もない。ましてや急迫性の概念を押し広げ、時間場所について不確実性が残っても先制予防行動をとることができる、という議論に至っては、あらゆる先制戦争を合法化することを承認する者を除いて、あまりの強弁さにあきれるしかない。

(二)イラクに対する戦争

イラクに対するアメリカの戦争は、正に以上の「国家安全保障戦略」に示された先制予防攻撃の考え方を実行したものであると見なければならない。アメリカの戦争遂行を正当化する口実は、二転、三転した。いわく大量破壊兵器の壊滅、サダム・フセイン政権の打倒、さらにはイラク国民に自由をもたらす、アラブ世界に自由と民主主義をもたらす等々。そのこと自体、この戦争の正当性のなさを実証するものである。この戦争が終始一貫して「国家安全保障戦略」で打ち出された方針を遂行するもの、「ならず者国家」・イラクを先制攻撃によって倒すことを目的とする国際法違反の戦争であったことは、誰の目にも明らかであった。

確かにイラクのサダム・フセイン政権が人民の支持を得ていない独裁政権であったことは、戦争がわずか三週間でほぼ終結したこと、なかんずく政権崩壊に対するイラク市民の反応ぶりからも読み取ることは難しいことではない。しかし、独立主権国家の政権交代は内政問題であり、内政不干渉を一大原則とする国際法は、他国による政権転覆を認めてはいない。もしもそれが許されるとするならば、極端な話、一九九〇年にクウェートを侵略併合の挙に出たイラクの行動自体が認められかねないということになる。このように、もしもアメリカの今回の行動を容認してしまえば、これからアメリカは世界各地において自らの気に入らない政権を次々と力ずくで押しつぶすことができることになる。そのようなことは、国際秩序そのものを危殆に瀕せしめることにつながる。

アメリカという唯一の超大国が行ったことについて原状回復を図ることはできないから、既成事実に基づいて今後のことを考えるしかない、とすることは、アメリカの不法な行動を認めることにつながるものであり、私たちとしては決して認めてはならないことである。ましてや、アメリカの対イラク戦争の動機が上記のように全く正当性を欠くものである以上、なおさらである。

アメリカは、イラクの戦後復興に関しても、自らの手で行うとする政策を打ち出している。これもまた、非合法の戦争の勝利を受けた占領行政にほかならず、およそ国際的合法性を主張できるものではない。国際社会特に国連がこういうやり方を先例として受け入れることは、自らの存在理由を傷つけるものである。

五 ブッシュ政権が継承したアメリカの軍事戦略の問題点

対アフガニスタン戦争から対イラク戦争へと、ブッシュ政権の戦略は一見向かうところ敵なしの勢いで成功を収めているかのように見える。その戦略に内在する問題点についてはすでに言及したから、ここでは繰り返さない。ここではむしろ、ジョージ・ケナンの指摘するところにしたがって、アメリカの軍事戦略に潜む二つの問題点をブッシュ政権が受け継いでいる点について指摘することとしたい。ケナンによれば、この二つの過ちによって、アメリカは「深い迷路」に入り込んだ、とされる(『アメリカ外交五〇年』二六五頁)

(一)無差別攻撃(一般市民大量殺戮)

アメリカが大規模な対外戦争に参加することになったのは第一次世界大戦と第二次世界大戦であった。この二度にわたる大戦は、それまでの欧州大陸を中心にして戦われ、その中で確立されてきた戦争法の概念を重要な点で無視するものであった。伝統的な戦争法においては戦闘員と非戦闘員とを厳格に区別し、非戦闘員を戦闘に巻き込むことを禁止するルールが確立していた。しかし、武器の破壊力や飛距離の格段の向上に伴い、戦闘員と非戦闘員を区別して扱うことが実際的に困難になる傾向が進んだ。さらに二度にわたる大戦は、国家をあげての総力戦という性格を強め、そのことは戦闘を戦場にのみ限定することを軍事的にもどかしいものとする考え方を戦争当事者の間に育てる結果となった。伝統的な戦争概念を十分に踏まえないままに大戦に参加することになったアメリカは、したがって無差別攻撃すなわち一般市民大量殺戮方針の採用に対しても強い違和感を覚えなかった。アメリカによる沖縄戦、東京大空襲、広島及び長崎に対する原爆投下は、こうした脈絡においてとらえられるのである。無差別攻撃の考え方は、第二次世界大戦後から今日に至るアメリカの対外戦争においてもしばしば見られるものとなっている。対アフガニスタン及び対イラク戦争もその例外ではない。

こういう傾向は、ケナンによって次のように指摘されている。「両大戦、とくに第二次世界大戦の場合、戦争行為は敵の軍隊に対してのみ行われるべきであって、無防備の一般市民に対してなされてはならないという従来の戦争のやり方の原則から、われわれはしだいに離れるに至った」。「今日直面しているような恐るべき困惑した事態に立ち至った原因は、われわれが兵員のみならず一般市民に対しても攻撃を加える慣行を全面的に承認したために、とくに第二次世界大戦中、いわゆる地域爆撃を採用したために、もたらされたのである。」(二六四頁)

(二)徹底的勝利(無条件降伏方針)

アメリカが参戦した第一次及び第二次世界大戦においては、アメリカは敵の無条件降伏という形での徹底的な勝利を追求したために、無差別攻撃をよしとする傾向に加え、「敵の力と意志を完全に破壊することであるという見解」(同)をアメリカ側にもたせてしまった。ケナンの見解に全面的に賛同するわけではないが、次の説明は、民主主義の下においてこそ徹底的勝利すなわち無条件降伏方針を求める傾向が現れることを納得させる一面をもっているであろう。

「民主主義というものは…挑発されても、あまり早く反応しない。だが、ひとたび干戈に訴えねばならぬほどにまで挑発されてしまうと、かかる事態を惹起したことに対して、相手を容易に許そうとはしないのである。…忘れられないほどの懲らしめを与え、そんなことが再び起こるのを防ぐために、戦うのである。こういう戦争はとことんまで続けられねばならない」(一〇二頁)。私たちは、この方針がアフガニスタンにおいても、また、イラクにおいても追求されてきていることを知っている。

六 ブッシュ戦略の限界:国際社会の可能性

ブッシュ戦略は、アメリカ中心主義を実行し、世界をアメリカの意図のままに作り替えようとするきわめて危険な本質を表している。アメリカの意志に委ねるならば、世界はアメリカ的価値観と軍事力によって支配されることを余儀なくされるであろう。そのようなことは、国際社会に真の平和と繁栄を保証するものであろうか。そもそも、そのような体制は健全なものであろうか。

(一)価値観の問題

ブッシュ政権が標榜する価値観とは自由、民主主義、そして資本主義市場経済である。ブッシュ政権が現在イラクに導入しようとしているのも正にこれらの価値観に基づく政治経済体制である。ここでは、自由及び民主主義の問題と資本主義市場経済の問題に分けて考察する必要がある。

自由と民主主義に関していえば、普遍的価値としての立場を確立していると言える。問題は、その点にあるのではなく、アメリカ的「自由」、アメリカ的「民主主義」に問題がすり替えられ、矮小化されてしまうところにある。しかし現実には自由といい、民主主義といっても、その具体的内容、各国における現れ方は実に多様である。その点をアメリカが謙虚に承認し、受け入れない限り、各国との衝突は不可避であり、各国がアメリカの意のままに動くということはないだろう。

資本主義市場経済に至っては、それが普遍的価値として確立しているかどうかさえ疑わしいものがある。確かに市場経済の効用については広く認められるに至っている。しかし、市場経済が資本主義に固有のものなのか、ましてやアメリカ的な資本主義市場経済体制のみが国際的に唯一のモデルであるといえるかどうかに至っては、全く定論はない。

地球上には一八〇カ国以上の国家が存在している。これらの国家に唯一アメリカ的自由、アメリカ的民主主義、アメリカ的資本主義市場経済体制を押しつけるというのは、あまりにも現実離れした考えといわなければならない。

(二)軍事力の限界

確かにアメリカの軍事力は圧倒的である。能力立脚型戦略に基づくアメリカの軍事力は、今後もアメリカの産軍複合体の自己肥大を遂げていく可能性が大きい。しかし、この動きが無制限に続く保証はない。アメリカ経済の先行きはかなり不透明であり、軍事に過度に偏重するその財政基盤はなおのこと波乱的要因を抱え込んでいる。

また、「恐怖」を脅威と見なすことに立脚するその戦略は、根本的に脆弱性を抱え込んでいるといわなければならない。「恐怖」とは要するに主観の産物であり、九・一一事件の記憶がアメリカ国民の思考を支配する限りは説得力を維持するかもしれない。しかし、国民が冷静さを取り戻すに従い、国民生活に大きな犠牲を強いる軍事力の開発と配備はいずれ国民の批判を招くことになることが十分予想されるからである。

(三)国際世論

国際社会は、社会としては未熟な段階にある。それがゆえにアメリカによる武力行使がまかり通るということも起こる。国際的に権威と強制力を持つ立法、司法、行政機関が存在していないためである。理想論を離れていえば、このような現実が短期間で解消する見通しもない。私たちはこのような国際社会において平和と安定とを求めていくことが運命づけられている。

ブッシュ政権のようなアメリカ中心主義の超大国が自らのデザインにしたがって国際秩序を編成しようという行動に出るとき、国際社会としてはどのような対抗手段があるだろうか。九・一一事件以後の国際社会の現実は、そのような対抗手段が限られていることを物語っていることは否定できない。

しかし、対イラク戦争までの経緯をふりかえるとき、国際社会がまったくアメリカに対して無力であり、手段がないというわけではないことを教えている。

その一つは国際世論の力である。対イラク戦争を強行しようとするアメリカに対して、世界各地に反戦運動が澎湃として盛り上がった。とくに無辜のイラク市民を犠牲にするなという声は大きく、無差別殺戮をなんとも思わない傾向が強いアメリカもその世論の前では、一定の譲歩を余儀なくされた。

国際世論はまた、フランス、ドイツなどの外交努力を下支えする重要な役割をも担った。フランス、ドイツなどの国家は、アメリカの対イラク戦争に対する批判勢力として行動したが、あくまで妥協しない姿勢を可能にしたものは国際世論の支持であったことは間違いないところである。

その結果、国際連合の安全保障理事会がはじめてアメリカの暴走を抑えるための積極的役割を担うことができた。一般には、アメリカの決意の前には安保理は無力だった、と評価されることが多いが、このような判断は明らかに誤りである。米ソ冷戦終結後の状況の中で、安保理がはじめてアメリカの行動を牽制するために積極的な行動をとった点こそが評価されるべきである。最終的にはアメリカは安保理によるお墨付きなしに武力行使に踏み切ったわけだが、そのことはアメリカの行動の大義名分に強い疑問を投げかける意味を持っている。

そうであればこそ、イラクの戦後復興に当たっても、物事がアメリカの思惑どおりには必ずしも動かないという結果をもたらしている。アメリカは、戦後復興を自らの構想にしたがってとり進めようとしているが、イラク国内の反米感情と国連の積極的関与を求める国際世論とが相まって、アメリカの行動を牽制する効果を生み出しているのだ。

国際世論がアメリカの行動を牽制する力を持っていることを示したのは今回だけには限らない。一九九九年に世界貿易機関(WTO)のシアトル会議をブロックした様々な市民運動の結集は、その嚆矢であり、それ以後も頻発した類似の行動は、先進諸国主導の国際経済体制を揺るがし、これに圧力を及ぼすのに大きな効果があった。

しかし、イラク戦争に反対する国際世論の声は、これらの市民運動の行動とは少なくとも二つの点で一線を画している。第一に、シアトルその他での行動が様々な利害関係を伴ったNGOなどを主体とするものであったのに対し、イラク戦争反対に集まった国際世論はそういう利害関係によって結ばれたものではなかった、ということがあげられる。

第二に、それにも増して重要な点は、世界各地の反戦運動は、無辜のイラク市民に対する同情とこれとの連帯を太い主軸としていたことである。人権問題をめぐってこれほど広範囲な連帯活動が行われたことは、人類史上未だかつてない。そのことの意義はどんなに評価しても、評価しすぎということはない。

確かに、今回のような反戦運動は、アメリカのあまりに強引なやり口に対する反発という要素にもよるものであることは否定できない。また、世界各地の反戦運動が横の連帯を広げるまでの成長を遂げるに至っていないという現実も直視する必要があるだろう。私はあるところに書いた文章で、「アメリカと国際世論ががっぷり四つに組んだ戦い」と形容したことがあるが、正しくは「がっぷり四つに組む戦いの萌芽」というべきであったろう。しかし、国際世論がアメリカをたじろがせたことはまぎれもない事実である。私たちにとって必要なことは、この萌芽を大切にし、未熟な国際社会の行動規範に育てあげることだ。

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