ブッシュ政権の異常な世界認識と対イラク戦争

2003.03.27

*以下の文章は、雑誌『前衛』に載せられる予定の緊急インタビューとしての発言です。内容的には、これまでコラムに書いてきた部分と重複する部分もありますが、現在の対イラク戦争について新しい内容も含まれていますので、掲載いたします。(2003年3月27日記)

一 国際法を踏みにじる暴挙

ブッシュ米大統領は、三月一七日、対イラク武力行使にむけた全米向け演説を行い、三月一九日(現地時間。日本時間では二〇日)には対イラク開戦に踏み込み、事実上の宣戦布告を行いました。演説でブッシュ大統領は、大量破壊兵器の問題で、①九一年の湾岸戦争終結以来、外交的な解決を求めてきたにもかかわらず、イラク側が大量破壊兵器を保有、秘匿してきた、②過去に隣国、自国内で同兵器を使用した、③テロ組織・アルカイダの関係者をかくまってきた、として、「イラクの脅威は明白」と断定、「米国は、自国の安全保障のために武力を行使する主権を有する」としています。そして、武力行使の法的な根拠として、国連安全保障理事会決議一四四一などをあげています。

しかし、アメリカの攻撃が、国際法と国連憲章を蹂躙する無法な行為であることは、議論の余地がありません。決議一四四一は、イラクによる安保理決議の不履行と大量破壊兵器や大量破壊兵器の拡散は「国際の平和と安全に対する脅威と認め」、「国連憲章第七章にのっとって行動して」、としつつ、具体的には、査察の再開とそのすすめ方などの段取りを定め、査察が困難に直面するなどの事態が起こったときには直ちに安保理の会合を開く、イラクが義務に違反し続ける結果として「重大な結果」に直面する、という条項を盛り込んでいます。当時、安保理の議長国として決議のとりまとめに尽力した国が明らかにしたように、「重大な結果」を招くという文言があるからといって、アメリカの武力行使を自動的に容認するものではない、ということを明らかにし、フランス、ロシアなどもそのように理解していることを明らかにしました。アメリカは、この決議によって武力行使を正当化できるという立場をとりましたが、少数見にすぎず、したがって、この決議をもって、武力行使に踏み切ることは到底許されないといわなければなりません。

もともと、現在の国際法、特にその中でももっとも重要な国連憲章において武力行使が認められるのは、憲章第七章に基づく安保理の決定に基づく集団的措置以外では、憲章第五一条に基づく自衛権の行使に限られます。その場合も、自衛権行使の三要件(急迫不正、ほかに手段がない、必要最小限)の条件がかぶさることは、国際法のイロハと言えることです。このイロハすら顧みないところにも、今度のアメリカの行動の明々白々な国際法違反の本質、異常さを見てとれると思います。

演説でブッシュ大統領は、「安保理はその責任を果たさなかった」とし、名指しこそしなかったものの、フランスなどが武力行使を容認することを目的とする決議案に拒否権を行使する態度をとり続けたことを批判しました。しかし、フランスなどの政権が腹の底では何を考えているかということはともかく、あくまでアメリカの行動に「待った」をかけようとする姿勢は、急速に盛り上がりを見せてきた国際世論の後押しを抜きにしては考えられません。二月一六日から一七日にかけて行われた戦争反対デモは、世界各地で一〇〇〇万人規模にふくれ上り、その後も広がりをみせてきています。それに呼応するように、アメリカ国内でも急速に反戦の声が盛り上がっています。

このような動きは、アメリカの強引を極める動きに危機感を深める国際世論が急速に結集を示したものとしか理解できません。これに対し、日本の新聞では、なぜか安保理を舞台にしたアメリカとフランスの対立というように、事態を矮小化して描くことに熱心ですが、それは本質を見誤っているというほかありません。そのことは、フランスの要人の発言(「我々は国際世論を代表している」)にも明らかに反映されています。まさに、今回のアメリカの決断は、このような国際世論を敵にまわすものだと言わなければなりません。

二 ブッシュの世界認識とその戦略

ブッシュ政権によるイラク攻撃は、九・一一事件後にアメリカが提示してきた、先制攻撃戦略の最初の発動だと言えます。いったい、アメリカは、いま、世界をどのように認識し、どのようにしようとしているのでしょうか。三月一二日の「日経」に、「結びあう信仰と政策」と題する記事が掲載されていました。そこでは、「各国政府や国際世論の強い反対にもかかわらず、フセイン政権打倒にこだわるのは、なぜか」として、ブッシュ大統領の周辺のキリスト教右派人脈に光をあてています。たしかに、ブッシュ大統領の演説のなかには、聖書の抜粋が多用され、私たちには異様としか受けとめるほかのない「宗教的な使命感」に彩られていると言うことができます。ボブ・ウッドワードの著書『ブッシュの戦争』(日本経済新聞社)を読んでも、ブッシュの言動に彼独自の宗教観が重要な要素として働いていることを読みとることができます。私は、とくに九・一一事件を経て、自分が世界の「救世主」だという意識を深めていったところに大きなポイントがあり、それに、ラムズフェルド国防長官が進めていた戦略の再構築とが結びついて、今日の対イラク攻撃に結びついていると言えるのではないかと思います。

《九・一一後につくられた独自の世界的使命感》

ブッシュ政権の世界観の中心をなすものは、「アメリカ中心主義」と言いかえることができるユニラテラリズムであることは言うまでもありません。その世界観の根底には、徹底した選良意識と飽くことを知らない国益追求の姿勢があります。この世界観は、米ソ冷戦の終焉を受けて、すでにブッシュ政権の前任であるクリントン政権の時に打ち出されていたのですが、当時はまだ国際情勢が流動的な要素も抱えており、またクリントン政権自体がユニラテラリズムに徹することに対するためらいもあり、徹底してはいませんでした。

これに対し、ブッシュ政権は、自らの世界観をユニラテラリズムと表現することにはむしろ抵抗感を示します。表向きには、アメリカが、自らの利益のためだけでなく自由世界の全体的利益を代表して行動するということを、ことあるごとに強調してきました。しかし実際はどうかといえば、改めて論じるまでもなく、具体的な事例として、地球温暖化防止の京都議定書に対する批准を一方的に拒否したこと、ソ連との間に結んだABM条約を、自らのミサイル防衛構想を推進するためにはじゃまであるという理由で一方的に脱退したこと、包括的核実験禁止条約(CTBT)についても、自らの核兵器開発にとってじゃまになるという理由で脱退の意向を表明することをためらわないことなど、そのアメリカ中心主義の本質を示す事例は枚挙の暇がありません。

アメリカ中心主義的な世界観を生み出したもっとも基本的条件は、米ソ冷戦が終了したのを受けて、今やアメリカのみが唯一の超大国として世界に君臨するに至ったという事実にあります。ブッシュが政権の座に着いた二〇〇一年には、かつてのライバルであったロシア(旧ソ連)の凋落ぶりはすでにあまりにも明らかでした。そういう新しい国際環境の下においてブッシュ政権は、新しい世界観を提示する課題に直面したのです。しかし凡庸という表現がもっとも適切に当てはまるブッシュおよびその政権からは、国際的に評価されるに足る世界観が打ち出されることを期待することは、はじめから無理だったというべきでしょう。

現実のブッシュ政権は、九・一一事件が起きるまでは、国際情勢に対して積極的に関与することを嫌い、自国の利益のみを追求することに専心するという、文字通りの消極的なユニラテラリズムを特徴としていました。この時点では、アメリカの身勝手さは目立つものの、国際社会に対してとくに脅威となる行動は影を潜めていたということができます。

ところが、九・一一事件を経て、「テロリズム撲滅」ということで、世界世論を糾合し得る条件・状況が生まれたわけです。しかも、アメリカがその戦いの先頭・中心に立てたことを通じ、そのユニラテラリズムが急速に対外的な自己主張を強め、ブッシュ独自の世界的使命感を帯びるようになったのです。この変化を生み出した点に、九・一一事件のブッシュ政権における重要な意味があると思います。

《「能力立脚型」戦略への移行》

軍事的観点からいいますと、ラムズフェルド国防長官は、九・一一事件が起きる以前から、アメリカの軍事戦略に関して、すでに独自の発想に立った新戦略の構想を持っていました。それは、従来の「脅威立脚型」の戦略に対して、彼自らが命名するところの「能力立脚型」戦略への移行です。

従来の「脅威立脚型」戦略とは、文字どおり伝統的な脅威認識に立脚するもので、アメリカを攻撃する能力と意志を持つ相手を想定し、アメリカがその相手を上回る能力を備えることによって対抗するというものでした。これに対して「能力立脚型」の戦略では、「この概念は、アメリカおよび同盟国に対して脅威となる主体が特定できないという事実に基づくものである」という認識が根底にあります。したがって、「誰が敵であり、どこで戦争が起こるかということより、敵はどう戦うかに焦点を当てる」というわけです。要するに「能力立脚型」戦略とは、ソ連という特定の脅威の存在を前提にして維持されてきたアメリカの強大無比な軍事力を、ソ連なきあとの世界(つまり、アメリカに対して正面切って対抗するライバルの台頭を想定できない世界)においても維持し、さらに発展させることを目的として編み出された、「軍事力の維持・発展」という結論が先行する軍事戦略理論なのです。しかし、その最大の難点は、脅威を特定できないという点にありました。

そういう状況下において起こったのが、九・一一事件であり、ブッシュの感情にまかせた「これは戦争だ」という感情にまかせた発言だったわけです。ラムズフェルドにとっては正に渡りに船だった、というべきでしょう。テロリストによる対米直接攻撃という誰もが予想もできない事件こそは、「能力立脚型」戦略の”正当性”を立証するものと受けとめられたのです。「能力立脚型」戦略における脅威の裏付けとして、「恐怖という顔の見えない脅威」、つまり「お化け」を考えたわけです。「お化け」の能力は想像の世界で無限に拡大し、肥大するのですから、「能力立脚型」戦略を遂行する上で、九・一一事件ほど格好な材料はありません。九・一一事件はこのようにして、ラムズフェルドの構想する「能力立脚型」戦略の補強材として取り込まれていったのです。

具体的には、事件直後に出された「四年ごとの防衛見直し」(QDR)では、新しい脅威観の表明がなされます。「恐怖という顔のない脅威」「巨大な不確定要素」という規定がそれです。その規定から、テロリズムをも対象にした、次のような具体的な脅威観が引き出されてきます。「アメリカは、大量破壊兵器をはじめとした戦争に対する非対称的アプローチを含む広範な範囲の能力を所有する敵に挑戦される可能性がある」、あるいは、「テロリストは、支援国家や庇護国家の支持を得ており、…大量破壊兵器の急速な拡散により、今後のテロリストの攻撃はこれらの兵器を使用するものとなる可能性がある」。ここにはすでに、後にブッシュが提起する「悪の枢軸」論の萌芽が顔を覗かせているし、テロリズムと「ならず者国家」を短絡的に結びつけようとする思考が透けて見えてきます。

このような「脅威」観の特異性と危険性は直ちに明らかです。まずその特異性は、「恐怖」という姿・顔・形の見えない、主観によってどうにでも左右される実態のないものを脅威として規定したことにあります。要するに、これからの脅威は「お化け」のようなつかみようのないものだ、という認識なのです。このような認識が堂々と表明されるというところに、特異性を通り越して異様性すら感じるのは私だけではないと思います。

そして、その危険性はさらにハッキリしています。「脅威」が、主観的な産物であるがゆえに、ブッシュおよびその政権の恣意によって、無限に拡大される可能性があるということです。そして現実の動きは、正にそのように展開していることは明らかでしょう。

《予想以上に「成果」があったアフガニスタンでの戦争》

「能力立脚型」を言い出したラムズフェルド自身にすれば、アフガニスタンでの戦争の結果で、予想以上にその正しさが「証明」されたことに大いに確信を深めたのではないかと思います。

たとえばプレデターという無人飛行機は、一機数百万㌦ていどの軽便な兵器ですが、それがカメラの役割をにない、戦闘機、攻撃側にあらゆる映像で敵の居所を知らせる。場合によっては、プレデターが搭載している精密誘導弾で、敵を直接撃破する能力もそなわっている。また、アメリカの新聞でも、記者自身が驚きの気持ちを込めて報道していましたが、数㌔先の洞窟の中でアルカイダが暖をとるために火を燃やしているのをセンサーで感じとり、CIAの特殊工作員が、センサーで感じとったロケーションを戦闘機に送り、戦闘機がものの見事に爆弾を的中させます。こうした精巧なハイテク攻撃によって、ソ連軍を蹴散らしたアルカイダたちが悲鳴をあげたと言います。

アフガニスタン戦争については、私たちは「副産物」としての民間人被害をアメリカが軽視することを告発しますが、ラムズフェルドらにしてみれば、精密兵器の価値が実証されたことのほうがはるかに重要なのであって、副産物的な被害はしかたがないという認識でしょう。むしろアルカイダを解消させ、タリバンを予想外に早く陥落させた価値を大きく評価していると思います。アフガニスタンでの戦争の教訓は、今度のイラク戦争にも全面的に「活かされている」と思います。おそらくラムズフェルド以下の指導者たちは、イラク戦争についても成算ありと踏んでいると思われます。

ただしバグダッドでの市街戦になると、そういう精密兵器があまり意味をなさなくなる、ともいわれています。かりにそうだとすれば、市街戦までなだれ込むまでサダム・フセインの息の根が続き、戦争が泥沼化した場合はどういう状況になるか、アメリカにとっても未知数の世界に入り込んでしまう可能性がないとは言えない、と思います。

《アメリカの言うとおりになる「世界」をつくる》

このように、「アメリカは世界の救世主」という九・一一事件を受けたブッシュの信念とラムズフェルドの軍事戦略が、奇妙な形で融合して今日にいたっていることを認識する必要があります。しかも、ブッシュ政権は、九・一一事件を受けたアフガニスタンの戦争は成功したと考えており、つまりはブッシュ的信念とラムズフェルド的戦略が実証されたと位置づけているわけです。それが、奇妙な自信となって彼らの意識を高め、イラクに対する戦争へと向かわせていくことになったのでした。

このブッシュのおごりと高ぶりの様子は、ボブ・ウッドワードの『ブッシュの戦争』のなかに、赤裸々に描かれています。ブッシュは、自分の仕事と責任についてこう語っているのです。「この仕事には、——未来像のたぐいが大事だ」と。ウッドワードは、この言葉を紹介した後で、次のような解説を付け加えています。「ブッシュの未来像は、明らかに世界を作り直すという野望が含まれており、人々の窮状を減らし、平和をもたらすには、先制攻撃と、必要とあれば一国のみの行動も辞さないという考えがそこにあった」と。

要するにブッシュは、アメリカの言うとおりになる世界を軍事力で作り出すことを本気で考えているということです。それが今の対イラク戦争という形で現れていることは間違いありません。実際に、九・一一事件が起こった直後から、ウォルフォウィッツ国防副長官などが中心となってイラクも攻撃すべきだという主張が根強くあったことが、『ブッシュの戦争』では紹介されています。アフガニスタンの次なる見えざる敵を措定し、それが先制攻撃という議論に結びついてきた流れがあると思います。

三 イラク攻撃で世界はどうなるのか

では、アメリカのイラク攻撃で、世界はどうなるでしょうか。私は、いま世界は分岐点に立っていると思います。万が一、アメリカの思いどおりに物事が進むと、アメリカのユニラテラリズムがますます強まっていくことは間違いありません。その結果、ナポレオンも、ヒトラーも果たせなかった、世界に対するアメリカによる一極支配という、とんでもない事態に世の中をもっていく可能性がなきにしもあらずだ、と思います。

しかし、それは軍事的な面だけを見ての仮定の話であって、それを妨げる要因がたくさんあると言えます。

軍事面では仮にサダム・フセインを倒すことができたとしても、その後のイラクをどのように再建するのかという点になりますと、ブッシュ政権からは青写真すら示されていません。後継政権づくりなどの受け皿づくりを抜きに破壊をすすめるわけですからたいへんです。悪評高い現在の反サダム・フセイン勢力、国外に逃亡している人たちのなかには、せめてアフガニスタンのカルザイくらいの人望を集める人材もいない、といわれているのです。したがって、ポスト・サダム・フセインのイラクの国家再建は至難を極めることが予想されています。ましてや石油資源について被害が及ぶようなことになれば、ますます再建が難しくなるということになります。

仮に戦争に勝っても、その後の経済、民生の復興はたいへんなことになります。しかも、それはイラクだけの問題ではすまされず、世界経済全体にも深刻な影響が及ぶということが懸念されています。その意味で、ただでさえ足元が危ないアメリカ経済をふくめ、国際経済にどういう影響が及ぶか、誰もが予想もできない事態を引き起こす可能性もあります。その結果、戦争には勝っても、後始末という点でブッシュ政権は大きくつまずくにちがいありません。さらに言えば、仮に戦争が長期戦にでもなれば、アメリカ国内で急速なブッシュ離れが起こると思います。このように考えると、ブッシュの思いどおりに物事がすすみ、ユニラテラリズムでアメリカの世界支配が現実のものになるという可能性はきわめて少ない、と言えると思います。

問題なのは、現実には危険な「力の空白」、あるいは混迷した情勢が現出してくる可能性が高いということです。国連を無視して戦争に訴えるということですから、その後始末について、改めて安保理をアメリカが活用しようとしても、安保理がどれだけの役割を果たすことができるかについては、関係諸国の協力的姿勢が確保されることが不可欠となるでしょう。事態は、もはや、軍事的・政治的に事態を収拾すれば済むという話ではなく、世界経済、国際経済を巻き込んだ混迷が待っているもとで、どのような新しい世界秩序をつくるか、という大きな課題を国際社会は背負い込むことになるのだと思います。

四 注目すべき国際世論と非同盟の力

では、今後、こうしたかなで国際社会には、どういう役割が期待できるのでしょうか。

《世界的規模での反戦のたたかい》

私が注目しているのは、アメリの武力行使に対して、くり返し世界規模で戦争反対のデモが行われたし、また行われているということです。なんとしてでもアメリカの暴走を制止する、という一点での世論の糾合がすすめられ、いわばブッシュ政権対国際世論のがっぷり四つの力比べが進んでいるのです。

ブッシュ政権の思い通りにことが進めば、国際社会が営々として築き上げてきた国際関係の大原則が崩壊する崖っぷちに立たされることは明らかです。くり返しになりますが、国連憲章は、武力行使を、二つのケースをのぞき、いかなる場合においても禁じています。アメリカの武力行使は、国連憲章で認めている二つのケース(自衛権行使と集団的措置)のいずれにも当たりません。ある国家の特定の政権を外国が武力によって打倒することは、国連憲章の定める原則と目的に根本から衝突します。世界の人々のたたかいは、こうしたアメリカの野望を阻止し、歴史的に築き上げられてきた国際社会の大原則を守り抜くための非常に重要な意義を有するものであるのです。私たちは、アメリカ・ブッシュ政権の野望を封じ込めることを通じて、国際関係において権力政治がまかり通ってきた状況を変えていく、という歴史的展望をもつことも求められているのではないでしょうか。

ブッシュ政権が、現在のような異様な世界認識と戦略をもつにいたった契機に、九・一一事件があったことはさきほどのべました。九・一一事件が起こってすぐの安保理では、決議一三六八が決められ、個別的または集団的自衛権を行使する権利があることを確認しました。その決議を根拠にアメリカは、自衛権の行使として報復戦争をすすめたわけですが、結局、その一連の経過が、今日に至る混乱を生む一つの大きな元になったのではないかと思います。

もしブッシュが九・一一事件直後に「これは戦争だ」と叫んだときに、「殿ご乱心」といってアメリカの暴走を制止し、アメリカのアフガニスタンに対する攻撃に対し、「国連憲章にいう自衛権の行使としては認められない」「報復戦争は、国連憲章で認知される武力行使の二つの対応以外の範疇のものであって、したがって国連憲章上、許されない」ということを明らかにする正論が支配していたならば、私はその後の事態の展開がもっと変わっていたと思います。ところがあのときは、常任理事国五大国も、国連事務総長も、アメリカが報復攻撃をすることは自衛権の行使だと追認してしまったわけです。結果的にはそのことが、ブッシュをして、「俺は今や世界の救世主なのだ」という自信を植え付けさせる方向で働き、さらに、今度のイラクに対する武力行使についても、「最終的にはみんながついて来る」という甘い読みをする要因になったのではないかと思います。

これらのことは、私たちに、現実的な問題として、大国だけが安保理を通じて世界を支配するということはもはや許されてはならないのだ、という問題を投げかけているのではないでしょうか。人権と民主主義こそは人類の歴史を通じて私たちがかちとってきた普遍的な価値です。たしかに国連憲章は、この普遍的な価値を国際社会においても実現することを大きな目標として掲げました。しかし現実の国連は、大国による支配を許しやすいように、権力政治が働くようにつくられたという問題をも抱えています。私たちは、アメリカ・ブッシュ政権の行動を掣肘(せいちゅう)することを通じて、国連のあるべき姿に重要な一石を投じることで、国際関係における普遍的な価値の実現に向けても大きな一歩を刻むことができるのではないのでしょうか。

ブッシュ政権とがっぷり四つに組んだ国際世論が、開戦という事態に対して、パニックあるいは無力感に陥るのか、むしろそれに耐えて積極的な方向性を出すように、各国を強く押して促すという方向に向かうのか、この点が、今後の国際社会を展望する上で、大きな意味をもつのではないのでしょうか。

《非同盟の動きと世界の連帯》

同様に、私は、非同盟諸国の動向に注目しています。安保理では、非同盟諸国の議長国であるマレーシアの要請によって、安保理での審議の打ちきりの直前にも再び公開討論がおこなわれました。そういうところを見ても、久しぶりに非同盟が存在感を示したと感じています。残念ながら、日本の新聞が報じるのは、特派員が置いてある先進国主体の、しかも大都市中心で、第三世界、あるいは非同盟諸国の動向が報じられることが非常に少ないのですが、私たちは非同盟諸国のイニシアチブが大国主導の安保理をも動かす力を持っているということをしっかり認識する必要があると思います。

ただ、対イラク戦争後の世界を展望したとき、おそらく国際経済自体が重大な試練に曝されることになります。経済的には弱い立場にある非同盟諸国、第三世界だけで国際経済もふくめてリードをとることを展望するには無理があります。現実的な可能性としては、たとえばEUとアフリカ諸国とが連帯を強め、東アジア諸国が経済関係を発展させるなかで、新しい経済秩序をつくる転機にしていくという方向が大事なのではないかと思います。地理的に見ても、アフリカとか中近東はEUと近く、東アジアにおいても中国の経済発展を中心にして自力発展をする、そのような手がかりをつかむ要素をもっています。

EUや中国は第三世界との連帯を、口先だけであるかどうかは別にしても、重視する傾向を従来からもっていますから、そこから、新しい公正と公平を念頭においた新しい国際経済秩序を目ざした動きが出てくる可能性があると思います。つまり、災い転じて福となす、そういう方向に向かう可能性をもっています。ですから、一時的、短中期的には混乱は免れないかもしれないけれども、むしろそれをきっかけにして新しい秩序へと向かう可能性はあるのではないかと思いますし、それを願いたいと思います。

《恥ずかしくも愚かな小泉内閣》

こうしたもとで、小泉首相以下の政府・与党は、ひたすらアメリカを支持することに汲々としています。本当に恥ずかしい愚かな行動です。そこには、いささかの見識もありませんし、私が指摘したような国際関係のあり方、人類の歴史的な進歩を妨害する行動に終始しているのです。

さきほどのべたシナリオのもとで考えると、日本が甘い汁を吸えるのは、アメリカの思いどおりに事態がすすむ場合にのみですが、まずそれは考えられないと思います。アメリカの場合は、経済力からいって、世界から孤立したとしてもある程度はやっていける実力をもっていると思います。しかし、日本は、本当に最悪の事態をむかえるのではないかと思います。すでに日本経済は破綻寸前の状況にあります。アメリカの対イラク戦争によって国際経済が動揺すれば、日本経済は真っ先に直撃を受けるのではないでしょうか。

しかも、経済力において他の国に対してばらまき外交をやる余力も失ってしまっている日本は、国際的に見て魅力のない、求心力のない存在です。アジア諸国にしてみれば、小泉首相の靖国参拝に象徴されるように、アジアとの連帯ということをまともに考えてこなかったわけですから、アリとキリギリスのたとえではありませんが、そういうときになったら、東アジアに対して哀れみを乞うキリギリスという存在になる可能性すら考えられると思います。

国民のせいではありませんが、このように日本には、大きな試練が前に待ちかまえていることを私たちは覚悟しなければなりません。客観的には日本は、きわめて苦しい立場に置かれるようになります。しかし、日本において、遅まきながら、大きな動きが出てきています。最近の世論調査によっても、対イラク戦争反対が七〇%から八〇%をしめています。小泉政権のアメリカ追随に対する批判という点でも、国民の五割以上が小泉政権の政策に反対しているのです。いわゆるマスコミも、こうした世論の動きを無視できなくなりつつあります。国内のたたかいも決して悲観するには及びません。

それだからこそ、私たちの運動が、自発的に意識を高め、そして政治の主導的な役割をにぎって、まさに民主主義の原点である私たちが主人公という、そういう意識をもって動いていけるようにすることが求められているのではないでしょうか。この点では、私たちは豊富な経験を積んできているわけではありません。大きな試練のなかで、戦後五三年にわたる平和憲法の下での民主主義によって、どれくらい日本人が自覚的な市民になってきたのか、あらためて厳しく検証されることになるのではないかと思います。小泉首相以下の政府・与党が、国内世論を無視してアメリカに忠誠を示そうとしている背景には、今国会で彼らが成立を目指す有事法制に対する考慮が働いていることも見逃すことはできません。私たちは、政府・与党の側に潜むこうした計算づくの行動に対しても、しっかりした批判の目を養うことが求められていると思います。

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