冷戦後のアメリカの軍事戦略とアフガン侵略

2003.02.23

*この原稿は、2003年2月23日に神戸で開かれたアフガニスタン戦争犯罪民衆法廷で行った証言の内容です。アフガニスタンでのアメリカの戦争犯罪を告発するときに忘れてはならないのは、国連などがそれを正当化するために恥ずべき大きな役割を果たしたことを忘れてはならないということです。この証言はそういう視点を提供することをも念頭において発表したものです。(2003年2月23日記)

1.問題の発端:「9.11事件」の受けとめ方における致命的誤り

(1)事件の本質とアメリカの初動における問題点

アメリカによるアフガニスタン攻撃の法的問題点を考察する前提として最初に問題にしなければならないのは、アメリカ・ブッシュ政権が、9.11事件の本質を故意に「戦争」だと断定し、その後の議論が、アメリカだけではなく、広く国際的にもそれに引きずられてしまったことにある。しかし改めていうまでもなく、9.11事件の本質はテロリズムという国際犯罪であるという点にあることを再確認しておきたい。

テロリズムという国際犯罪に対する対処方針については、国際的な取り組みを通じて、すでに一定のルールが確立しつつあった。そういうなかでブッシュが「犯罪」と「戦争」というまったく法的に異なる事柄を意識的に混同させたこと自体、きわめて重大な問題を含んでいる。国際テロリズムという犯罪に対する国際的対応という点での典型は、いわゆるパンナム機爆破事件であった。

同事件についてはよく知られているところであるので、ここではごく簡単に要点を摘記するにとどめる。

1988年にパンナム機を爆破した2名の容疑者はリビア政府のコントロール下にあった。アメリカを含む当時の国際社会は、安保理決議に基づいてリビアに対する国際的制裁を実施することによって、リビア政府に対して容疑者を引き渡すように圧力を行使した。こうした国際的な圧力の下で最終的にリビア政府は、容疑者の引き渡しに応じた。

この事件の経過のなかでとくに注目されるのは、リビア政府と国連との間でかわされた合意内容であった。裁判は、パンナム機が爆破された地であるスコットランドの法廷がその法律に基づいて行う。しかし、裁判が行われる場所としては、公正を期すために第三国としてのオランダとすることにされた。容疑者の移動については、身柄の安全を確保するために国連の関係者が護送する。これらの合意事項については、アメリカを含む全当事国が同意したのだ。裁判の結果、容疑者の1人に対しては無期懲役刑が、そしてもう1人に足しては無罪が言い渡されるという結果になって、アメリカもその判決結果を受け入れた。

9.11事件についても、本来このような国際的な取り組みが求められていたはずである。実行犯は全員死亡したが、実行犯に対して責任を有することが問題とされたアルカイダ(とくにそのリーダーであるビンラディン等の指導者)の組織的犯罪の疑いに対しては、国際社会としては、国際犯罪として徹底的に事件の解明および関係者の処罰に当たることが求められているはずだった。

しかし現実には、事件の翌日にブッシュ大統領が、これを「戦争」であると一方的に宣言し、後述するように国連安全保障理事会もそれを実質的に追認する決議を採択することにより、国際法に基づく厳正かつ公平な裁判による解決という道筋が閉ざされたのだ。アメリカによるアフガニスタン攻撃という一方的かつ国際法的に許されない侵略行動の原点はここに胚胎することが忘れられてはならない。

(2)アメリカのアフガニスタン攻撃を解明する前に確認しておくべきこと

私は、アメリカによるアフガニスタン攻撃を国際法違反の不法かつ不当な侵略行動とする立場に立つことをこれから明らかにするわけであるが、その前に改めて確認しておくべきことがある。それは、9.11事件の解決策として、国際的な司法的解決の道に引き戻すことの重要性を再確認するということである。

アメリカのアフガニスタンに対する侵略の不法性および不当性だけを明らかにするだけでは、この問題を全面的に解明したことにはならない。9.11事件の法的解決の道筋を明確に示すことによってのみ、アメリカに対して不法かつ不当であるアフガニスタン侵略を即時かつ無条件に中止させるという私たちの主張が正当なものであることを、国際社会に対して明らかにすることができるのである。

以上のことを明らかにした上で、本題であるアメリカの軍事戦略の危険を極める本質とその戦略が現実に適用されたアフガニスタンに対する侵略戦争の不法かつ不当な本質を明らかにすることにしたい。

2.「9.11事件」とアメリカ・ブッシュ政権の脅威観

(1)ブッシュ政権の世界観

ブッシュ政権の世界観の中心をなすものは「アメリカ中心主義」といいかえることができるユニラテラリズムである。その世界観の根底には、徹底した選良意識と飽くことを知らない国益追求の姿勢がある。この世界観は、すでにブッシュ政権の前任であるクリントン政権の時に打ち出されていた。しかしその当時はまだ国際情勢が流動的な要素も抱えており、かつまたクリントン政権自体がユニラテラリズムに徹することに対するためらいもあって、アメリカ中心主義は徹底していなかった。

これに対してブッシュ政権自身は、自らの世界観をユニラテラリズムという表現で表すことに対して抵抗感を示す。アメリカは、自らの利益のためだけでなく自由世界の全体的利益を代表して行動するということをことあるごとに強調する。そこには、クリントン政権の時に現れていた方向性を自らがより徹底した形で追求する政権だと烙印を押されることに対する抵抗感も働いているのだろう。しかしその行動を見れば、ブッシュ政権こそがアメリカ中心主義をもっともどん欲に追求する政権だということが直ちに明らかになる。

その点については改めて論じるまでもなく自明なことであるので、ここで詳述することは避ける。具体的な事例としては、地球温暖化防止の京都議定書に対する批准を一方的に拒否したこと、ソ連との間に結んだABM条約を、自らのミサイル防衛構想を推進するためにはじゃまであるという理由で一方的に脱退したこと、包括的核実験禁止条約(CTBT)についても、自らの核兵器開発にとってじゃまになるという理由で脱退の意向を表明することをためらわないことなど、枚挙の暇がないことだけを指摘すれば十分であろう。

アメリカ中心主義的世界観を生み出したもっとも基本的条件は、米ソ冷戦が終了したのを受けて、今やアメリカのみが唯一の超大国として世界に君臨するに至ったという事実に立脚している。ブッシュが政権の座に着いた2001年には、かつてのライバルであったロシア(旧ソ連)の凋落ぶりはすでにあまりにも明らかであった。

そういう新しい国際環境の下においてブッシュ政権は、新しい世界観を提示する課題に直面したのである。しかし凡庸という表現がもっとも適切に当てはまるブッシュおよびその政権からは、国際的に評価されるに足る世界観が打ち出されることを期待することは、はじめから無理だったというべきであろう。現実のブッシュ政権は、9.11事件が起きるまでは、国際情勢に対して積極的に関与することを嫌い、自国の利益のみを追求することに専心するという、文字通りの消極的なユニラテラリズムを特徴としていた。この時点では、アメリカの身勝手さは目立つものの、国際社会に対してとくに脅威となる行動は影を潜めていたということができるだろう。

(2)9.11事件を契機としてあらわれた特異な脅威観

9.11事件は、ブッシュおよび彼の政権に痛撃を与える衝撃的な事件として立ち現れた。それまでの根拠ない選良意識が大きく揺さぶられ、アメリカの国益追求が何もしないでも実現するようなものではないことを思い知らされるという意味合いをもっていた。この新しい事態に直面したブッシュ政権が示した対応は、異様を極めるものだった。

ブッシュが、9.11事件に対して即座に示した反応は、すでに述べたとおり、これを「戦争」と規定することだった。この時点でアメリカの内外において、ブッシュを強く牽制し、その誤った反応を批判する動きが現れていたならば、その後の事態の展開は十分に異なったものになっていた可能性はある。しかし、テロリストの挑戦を「戦争」と規定するブッシュの感情のみに走った反応は、国防総省(ラムズフェルド、ウォルフォビッツ)を中心とする好戦的グループによって即座に受け入れられ、理論化され、脅威観として昇華されていった。

具体的には、事件直後に出された「4年ごとの防衛見直し」(QDR)における新しい脅威観の表明である。それは、ブッシュの感情的激発という異常な精神状態の発露を、これまでには考えられないような脅威観としてまとめるものであった。「恐怖という顔のない脅威」(the faceless threat of terror)、「巨大な不確定要素」(a great deal of uncertainty)という規定がそれである。

その規定から、テロリズムをも対象にした、次のような具体的な脅威観が引き出されてくる。「アメリカは、大量破壊兵器をはじめとした戦争に対する非対称的アプローチを含む広範な範囲の能力を所有する敵に挑戦される可能性がある」(the United States is likely to be challenged by adversaries who possess a wide range of capabilities, including asummetric approaches to warfare, particularly weapons of mass destruction)。あるいは、「テロリストは、支援国家や庇護国家の支持を得ており、…大量破壊兵器の急速な拡散により、今後のテロリストの攻撃はこれらの兵器を使用するものとなる可能性がある」Often these (terrorisr) groups have the support of state sponsors or enjoy sanctuary and protection of states, …the rapid proliferation of CBRNE technology gives rise to the danger that future terrorists attacks might involve such weapons)など。ここにはすでに、後にブッシュが提起する「悪の枢軸」論の萌芽が顔を覗かせているし、テロリズムと「ならず者国家」を短絡的に結びつけようとする思考が透けて見えてくる。

このような「脅威」観の特異性と危険性は直ちに明らかである。まずその特異性は、「恐怖(terror)」という姿・顔・形の見えない主観によってどうにでも左右される実態のないものを脅威として規定したことにある。要するに、これからの脅威は「お化け」のようなつかみようのないものだ、という認識なのである。このような認識が堂々と表明されるというところに、特異性を通り越して異様性すら感じるのは私だけではあるまい。

その危険性はさらにハッキリしている。主観的な産物であるがゆえに、ブッシュおよびその政権の恣意によって、無限に拡大される可能性があるということだ。そして現実の動きは、正にそのように展開していることは、切迫するイラクに対する侵略戦争の可能性において明らかである。

この脅威認識は、伝統的な脅威観によっては生み出されようがない。伝統的な脅威観によれば、脅威とは能力と意思によって規定される。従って、この脅威認識の下では、アメリカがもつべき戦争能力は相手側の実力を一つのめどとして物量化することができる。

しかし「恐怖」というのは、あくまで主観の産物であり、相手側の能力と意思にかかわりなく、専ら主観的な感情によってその有無が規定される。しかもその相手の実態が「お化け」である以上、アメリカとしては自分が想像する相手の無限の能力に対しておびえ、身構えなければならなくなるという自家撞着に陥るのだ。

(3)特異な脅威認識を支える軍事戦略

すでにラムズフェルド国防長官は、9.11事件が起きる以前から、アメリカの軍事戦略に関して、独自の発想に立った新戦略の構想を持っていた。それは、従来の「脅威立脚型」(threat-based) の戦略に対して、彼自らが命名するところの「能力立脚型」(capability-based)戦略への移行であった。

従来の「脅威立脚型」戦略とは、文字通り伝統的な脅威認識に立脚するものである。すなわち、すでに述べたように、アメリカを攻撃する能力と意志を持つ相手を想定し、アメリカもその相手の能力を上回る能力を備えることによって対抗するというものである。いうまでもなく冷戦時代における最大の脅威はソ連であった。

これに対して能力立脚型の戦略においては、「この概念(注:能力立脚型)は、アメリカおよび同盟国に対して脅威となる主体が特定できないという事実に基づくものである」(The concept reflects the fact that the United States cannot know with confidence what nation, combination of nations, or non-state actor will pose threat to vital U.S. interests or those of U.S allies and friends decades from now)という認識が根底にある。したがって、「誰が敵であり、どこで戦争が起こるかということより、敵はどう戦うかに焦点を当てるこのモデルは、戦略的視野を広げるものだ」(A capability-based model ? one that focuses more on how adversary might fight than who the adversary might be and where a war might occur ? broadens the strategic perspective) ということになる。さらに、このアプローチにより、奇襲、欺瞞、非対称的戦争によって目的を達成しようとする敵を抑止し、敗北させるために必要な軍事的能力の内容を特定することができるとされるのだ。

要するに能力立脚型戦略とは、ソ連という特定の脅威の存在を前提にして維持されてきたアメリカの強大無比な軍事力を、ソ連なきあとの世界(つまり、アメリカに対して正面切って対抗するライバルの台頭を想定できない世界)においても維持し、さらに発展させることを目的として編み出された、「軍事力の維持・発展」という結論が先行する軍事戦略理論なのである。その最大の難点は、脅威を特定できないという点にあった。

そういう状況下において起こったのが9.11事件であり、ブッシュの感情にまかせた「戦争」発言だった。ラムズフェルドにとっては正に渡りに船だった、というべきだろう。テロリストによる対米直接攻撃という誰もが予想もできない事件こそは、能力立脚型戦略の‘正当性’を立証するものと受けとめられたのである。「能力立脚型」戦略における脅威の裏付けとして「恐怖という顔の見えない脅威」、つまり「お化け」、を考える。お化けの能力は想像の世界で無限に拡大し、肥大するのであるから、「能力立脚型」戦略を推敲する上で、これほど適したものはない。9.11事件はこのようにして、ラムズフェルドの構想する「能力立脚型」戦略の補強材として取り込まれていったのである。

(4)アフガニスタン攻撃正当化の詭弁作り

9.11事件の背後にアルカイダの存在があると決めつけてかかったブッシュ政権にとっての最大の難関は、アルカイダの本拠地となっていたアフガニスタンに対する攻撃を如何にして正当化するか、ということだった。ここには、大きくいって、2つの問題があった。一つは、戦争を禁止している国連憲章の下において武力行使に訴える行動を如何に‘正当化’するかという問題だ。もう一つは、アルカイダに対する攻撃に留まらず、アフガニスタンそのものを攻撃の対象とすることを如何にして‘正当化’するかという問題である。

この問題をクリアするために国連安保理の‘権威’と‘正当性’が最大限に利用された。すなわち最初の問題については、武力行使が自衛権の行使である、とする国連安保理決議をでっち上げ、その中で二つ目の問題に対しても根拠を与える文言を挿入するという手法がとられた。

この点は重要なところなので、詳しく具体的に見ておかなければならない。すなわち、事件の翌日に開催された安保理では、事件直後のショックと動揺という雰囲気のなか、アメリカの強力な働きかけの下で、きわめて曖昧な内容の決議1368が採択された。その大要は次の通りだ。

「安保理は、

国連憲章の原則と目的を再確認し、

テロリストの活動によって引き起こされる国際の平和と安全に対してあらゆる手段によって戦うことを決意し、

憲章に基づく個別的または集団的の固有の権利を認識し、

1.(9.11事件の)活動を国際の平和と安全に対する脅威と見なす。

2.(省略)

3.すべての国家に対し、これらのテロリストの攻撃の実行者、組織者およびスポンサーを緊急に裁判するために協力することを呼びかけるとともに、これらの行為の実行者、組織者およびスポンサーに援助を与え、支持し、あるいはかくまうことに責任があるものは責任を問われることを強調する。

4.(省略)

5.9.11のテロ攻撃…に対抗するためにあらゆる必要な措置をとるという安保理の用意を表明する。

6.(省略)」

この安保理決議が重大な意味を持ったのは、上記決議で下線を引いた部分に関する次の諸点においてである。

戦争を禁止している国連憲章の下でも武力行使ができる、というアメリカの主張に根拠を与えるための工夫として、まず前文の「あらゆる手段によって(戦う)」(combat by all means)という表現が挿入された。この表現は、90年代以後の安保理決議において国際的な武力行使を許可する場合に用いられる常套句である。安保理としてそうする決意であることを表明したことによって、アメリカが軍事力行使をすることをあらかじめ許容する意味合いが強く盛り込まれた。

そしてこの点については、本文においても、「あらゆる必要な措置をとる」(take all necessary steps) という安保理の用意を表明することで、さらにアメリカの立場を補強していることに留意する必要がある。

その点の主張をさらに強化するのが、憲章に基づく個別的または集団的の自衛権を「認識する」という表現が念入りに前文中に盛り込まれたことである。本来であれば、国連憲章には自衛権の規定が入っているのであるから、それを改めて「認識する」旨の規定は不必要であるはずだ。

しかし、この規定の狙いは別のところにあった。つまり、アメリカ以下の国々がアフガニスタンに対してとる軍事行動は、国連憲章に基づく自衛権の行使であるということをあらかじめ認める趣旨としてわざわざ挿入されたのである。なんとも念の入ったことであると驚かされるが、これもアメリカが自らの行動を‘正当化’するための工夫であったことは明らかである。

国連憲章における平和と安全の担い手であるべき安保理が、このようにしてまで、アメリカの立場を‘正当化’するために振り回されたということを、私たちはどのように理解し、認識するべきであろうか。

このような内容は、国連憲章の認める自衛権行使の許すことのできない乱用であり、戦争一般を否定した国連憲章の精神に反するものであることが明らかである。国際法上、自衛権行使の要件は厳格に定められている。私たちは、アメリカの侵略を国際法違反として糾弾するに際しては、国連安保理が担ったこのような重大な憲章違反の決議採択という事実から目を背けることはできない。国連安保理といえども神聖不可侵な存在ではないという事実を直視することによってのみ、初めて私たちの民衆法廷の存在理由があるという点をここで強調しておきたい。

次に、アフガニスタンに対する攻撃そのものを‘正当化’するための工夫としては決議の第3項がある。すなわち、テロの実行者、組織者、スポンサーに「援助を与え、支持し、かくまう」ものも責任を問われるというくだりである。この点は、その後、ブッシュによって最大限に単純化された形で強調されることになる。ブッシュの表現では、「テロリストをかくまうものもテロリスト」という表現になる。具体的には、アルカイダをかくまうアフガニスタンもテロリストであり、そうであるものとしてアメリカの攻撃の対象になるのは当然だ、という理屈なのだ。

この理屈が乱暴かつ粗雑を極めることは、次のような一例をもってすれば直ちに明らかであろう。「テロリストをかくまうものはテロリスト」という主張は、「殺人犯をかくまうものは殺人犯」というのと同じである。そのような論理は受け入れられるはずがないことは、子どもでも分かるというべきだろう。ところが、アメリカのアフガニスタンに対する武力行使はこの理屈が成り立つという前提の上でのみ成り立つ代物である。

このような法理がまかり通るとしたら、世の中は犯罪者だらけになってしまうであろう。重大なことは、ここでも安保理という本来国際世論を代表しなければならない存在が、ひたすらアメリカの侵略戦争に加担するための論理作りに徹したということであり、アメリカの侵略に対して大義名分を与えるという恥ずべき役割を担ったことである。

こうして、安保理を巻き込んで、アメリカのアフガニスタンに対する侵略戦争を‘正当化’する詭弁が組み立てられたのだ。

3.アフガニスタン侵略に対する国際的な対応の責任

法廷の議論を考える上で、本筋ではないが、一応触れておくべき問題がある。それは、アメリカのアフガニスタン侵略の‘正当化’に対しては国際的な対応が一役買っていたという問題である。アメリカの侵略を支持し、その免罪符を与えるという点で、国連安保理決議1368が担った重大な役割についてはすでに言及した。国際的な対応の重大な誤り、さらにいえばアメリカとともに侵略の責任を負わなければならないという点でさらに付け加えておかなければならないのは、NATO(およびオーストラリアをはじめとするいくつかの国々)の行動であり、国連事務総長のとった行動である。

すなわち、NATOは、アメリカのアフガニスタンに対する侵略戦争を自衛権の行使と見なしただけに留まらず、NATO諸国の多くを含む国々が集団的自衛権行使という名目でアメリカが指揮する侵略戦争に自ら加担した。これら諸国の侵略責任についても、私たちが目を背けることは許されない、ということを私は強調しておきたい。

またアナン国連事務総長も、アメリカの侵略戦争が始まった際の声明で、次のように述べたことを、私たちは忘れるべきではない。

「アメリカに対する9.11の攻撃の直後、安保理は、テロリストの行為によって引き起こされた国際の平和と安全に対する脅威に対して、あらゆる手段で戦う決意を表明した。安保理はまた、国連憲章に基づく個別または集団的の固有の権利を再確認した。関係諸国は、その脈絡においてアフガニスタンにおける現在の軍事行動を位置づけている。」

( Immediately after the 11 September attacks on the United States, the Sscurity Council expressed its determination to combat, by all means, threats to international peace and security caused by terrorist acts. The Council also reaffirmed the inherent right of individual or collective self-defence in accordance with the Charter of United Nations, The States concerned have set their current military action in Afghanistan in that context.)

この声明は、疑問の余地のない形で、国連事務総長が安保理決議を追認していることを示している。しかもその追認声明はアメリカが軍事行動を始めた直後に出されているという点がとくに重大である。私はこの民衆法廷がアメリカの侵略責任を追及することに対して、全面的に支持するものである。しかし、アメリカの責任のみに視点を限定するとしたら、それは片手落ちという結果になることを、私はあえて指摘しておきたい。国連事務総長もアフガニスタンに対する侵略に対しては無答責ではあり得ない、という厳しい現実を直視しなければならないと考える。

ちなみに、安全保障理事会および国連総会の議長も、アメリカ以下の行動を個別的または集団的自衛権の下での行動であることを追認している。

4.アフガニスタン侵略戦争におけるアメリカの重大な戦争犯罪

アフガニスタンに対する侵略戦争においてアメリカが犯した戦争犯罪の数々については、十分な解明を行わなければならない点である。すでにこの法廷においても十分な解明のあったところだと思うし、私に与えられた課題は、「アメリカのアフガニスタン攻撃が、侵略の罪に当たるという点の立証」という点に重点を置いた解明ということであるので、具体的な言及は控える。

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