有事法制と教育

2003.02.20

以下に掲載するのは、最近、千葉県浦安市の公民館であった講習会での発言容量です。時間が少なかったためにすべてについて発言することはできませんでしたが、特に、有事法制と教育とのかかわりの部分はこれまであまり私自身も言及してこなかった部分でありますので、何らかの参考のために載せておきたいと思います。 (2003年2月20日記)

〇有事法制とは何か?

1.有事とは何でしょうか?

−「有事」とは、「アメリカが始める戦争に対して日本が全面協力すること」です。

*ポイント:有事は、アメリカが戦争を起こさなければ、ありえないということです。アメリカが進んで戦争を起こしかねない国だということは、今のイラクのことを見ても分かるはずです。

この問題について考える上では、1994年に起こった事実を紹介するのがいちばん分かりやすいと思います。それは、いわゆる北朝鮮の「核疑惑」という問題です。また、この問題について、1996年12月24日に朝日新聞が特集を組んで報道したことがあるので、そのこともあわせ紹介します。

今の日本国内では、北朝鮮が核開発をしているから、それに対する備えをするのは当然だという雰囲気がありますが、北朝鮮には日本に対して先制攻撃する意志も十分な能力もありません。喩えていってみれば北朝鮮は、ライオン(アメリカ)とオオカミ(日本)に今にも飛びかかろうとされているハリネズミのようなものです。一所懸命針を逆立てている(虚勢を張っている)けれども、内心いつライオン(とオオカミ)に飛びかかられるかとおどおどしている状況なのです。

私たちは、何事も日本を中心にしてみる癖がありますが、北朝鮮が如何に神経をとがらせているかを理解する気持ちをもつことが求められていると思います。

2.有事法制とは何でしょうか?

−「有事法制」とは、「アメリカが始める戦争に際し、日本の内外でアメリカに対して全面協力し、しかも相手側が試みる日本を目標とした反撃に対する備えをするために、国民をも巻き込んだ総動員態勢を作り上げようとするもの」です。

*ポイント:アメリカが全面的な戦争をするためには日本の全面的な協力が欠かせません。有事法制の最大のポイントは、アメリカにとって都合のよい戦争体制作りをするために、私たち国民の生命と人権を犠牲にしようとするものである、ということです。

この点についても先に紹介した朝日新聞の特集が参考になるのでお示ししたいと思います。

もう一つ例を挙げます。数日前(2月10日)に、福井県では自衛隊と警察とが一緒になって原子力施設に対する攻撃があるときに備えて、人々の避難誘導(強制疎開)を含めた図上演習が行われました。北海道で行われたのに次ぐ全国で2番目の図上演習だそうです。なぜこんな演習が行われなければならないのでしょうか。

これは、アメリカが北朝鮮に戦争をしかけたときに、北朝鮮のゲリラが反撃として日本の原発を襲撃する可能性があることに備えたものです。有事法制とは、たとえば、こうした身の毛のよだつような事態に対するものなのです。こんなことは、アメリカが北朝鮮に対する戦争をしかけなければ起こりえないことなのです。

私たちが考えることが求められていることは、アメリカが例えば北朝鮮に対する戦争をしかけることを許して、そのツケを払わされることを受け入れるのか、それとも、アメリカがしかけようとする戦争に反対して、これを拒否し、そうすることによって日本に降りかかってくる戦争の被害を未然に防ぐことの、いずれを選ぶかということです。答えは、改めていうまでもなく、明らかだと思います。

3.有事法制を推進する人たちの主張についてどう考える必要があるでしょうか?

−「他国から攻められたときに備えがなかったらどうなるか」という問題提起に対して、どう考えればよいでしょうか?

*ポイント:何度も繰り返すことになりますが、最大のポイントは、戦争をしかけるのはアメリカ(およびこれに協力する日本)であって、相手が先手をとって攻撃してくるのではないということを、しっかりと理解する必要があります。

アメリカが攻撃するから、相手としてはやむを得ず反撃をしてくるということなのであって、「他国から攻められ」ないようにするためには、最大の原因であるアメリカの攻撃を許さないように日本が協力を拒否することがいちばんの道なのです。アメリカが攻撃しなければ反撃はなく、従って日本として有事法制という「備え」をする必要もないのです。

−「(有事法制という)備えあれば憂いなし」(小泉首相)という主張に対して、私たちはどう考えるべきでしょうか?

*ポイント:日本が有事法制を作れば、アメリカは安心して戦争を行うことになりますから、相手の反撃が日本に及んでくる可能性は格段に高くなります。反対に、有事法制という「備え」をつくらなければ、アメリカがかりに戦争を始めても、相手の反撃によって守りに破綻が生じることになるから、戦争を続けられなくなることを考慮せざるを得ず、従って元に返って、戦争をしかけること自体を思いとどまらざるを得ないということになるのです。

つまり、ここでのポイントは、有事法制という備えがあれば、反撃される「憂い」が大きくなるということなのです。逆に言いますと、有事法制という備えがなければ、アメリカは日本から戦争をしかけることはできなくなりますから、相手の反撃もないということになります。小泉首相の言葉を文字っていうならば、「備えなければ憂いなし」ということが最大のポイントなのです。

〇有事法制と教育とのかかわり

1.教育基本法改正と有事法制との関係について
−なぜいま教育基本法改正なのでしょうか?

*出発点:2000年12月22日に出された「教育改革国民会議」の最終報告「教育を変える17の提案」が、第17項目目として、「新しい時代にふさわしい教育基本法を」と提案したのを受けて、2001年11月26日に遠山文部科学大臣が「教育振興基本計画の策定について」とともに「新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方について」中央教育審議会に諮問したことに始まります。

−有事法制との間に関係はあるのでしょうか?あるとすれば、どういう関係があるのでしょうか?

*関係の有無:有事法制が教育基本法の改正を必要としている(あるいはその逆)という直接的結合よりも、有事法制を促進する政府・与党が、同時に教育基本法の改正(改悪)についても積極的に動いたということに、その思想的なつながりを考える必要があるということだと思います。

その点については、「日の丸・君が代による人権侵害」市民オンブズパーソン事務局(大阪)の井前弘幸という方が、2002年7月3日付で、ホームページに載せられた【シリーズ 教育基本法が危ない!】「小泉内閣は有事法案の成立と教育基本法改悪をワンセットで一挙に進めようとしている−有事法正反対と教育基本法改悪反対との結合を−」に非常に参考になる分析が行われています。この分析によると、2001年5月の段階で、有事3法案を促進する動きが強まるに連れて中教審における教育基本法見直し作業が加速され、6月に入って、有事3法案成立への動きが失速するに連れて中教審の教育基本法を促進する動きも失速した、という経緯が克明に明らかにされています。

−なぜ有事法制と教育基本法とが同時進行ということになるのでしょうか?

*周知のとおり、教育基本法は、平和憲法の原則と精神を教育の基本に据えることを目的として制定されたものです。有事法制は、改めていうまでもなく、平和憲法の根幹をなす第9条改憲を目指す勢力によって推進されています。平和憲法を突き崩そうとする勢力にとって、有事法制促進と教育基本法改悪とは、平和憲法を改悪するための車の両輪ともいうべき位置づけが与えられているのです。

教育基本法は、平和憲法の原則と精神を踏まえた教育を目指すものですから、そういう教育を受ける子どもたちが育つことは、改憲、有事法制に対する批判力を持つ子供たちが育つということですから、政府・与党にとっては、大変に都合が悪いということではないでしょうか。

2.有事法制と子どもの権利条約との関係について
−子どもの権利条約とは何でしょうか?

] *その意義:(ここでは、金東勳教授が『解説 条約集』に載せられた次の説明を紹介します。)「人権と基本的自由は普遍的価値であり、すべての人が共有するという自明の原則が確立された現代にあっても、子どもは、権利享有の主体とは考えず、親若しくは大人の監督と管理の客体としか見なさないことが常識であり、社会通念であった。こうした既存の常識と社会通念とりわけ親と大人たちの子どもに対する考えと姿勢の根本的な是正を求め、子どもたちを権利の主体と認め、子どもの尊厳と人権の尊重を法的に義務づけるために制定されたのが『児童の権利に関する条約』または『子どもの権利条約』である。」

この条約は、1989年11月20日に国連総会で採択され、90年9月2日に効力を発生しました。日本については、94年3月に国会で承認し、5月22日に効力が発止しています。締約国は190を超え、ほぼすべての国家がこの条約を受け入れています。

−有事法制と子どもの権利条約との間にはどのような関係があると考えるべきでしょうか?

*有事法制と子どもの権利条約との間に直接的な関係があるということではないと思います。国会で与党を含む全会一致で承認したという事実を見ても、与党・政府がこの条約に対して敵対的な姿勢をとっていると批判することは短絡的にすぎると考えます。

しかし、子どもの権利条約の根底に横たわるのは、人権と基本的自由という普遍的な価値を承認する基礎に立って、子どもについては「特別な保護および援助についての権利を享有することができる」(前文)という非常に積極的な人権思想の実現を目指す立場です。ですから、子どもたちを親や大人の都合次第で監督し、管理する対象という考え方を厳しく否定し、子どもたちが権利主体であることを全面的に押し出す考え方です。そういう考え方は、子どもたちを自分たちに都合のいいような方向に導くことを目的として、教育基本法を改定しようとする政府・与党の考え方と真っ向から対立するものであることは確かです。

この集まりのために準備をする過程で、いろいろなホーム・ページを覗いているときに面白いサイトを見つけました。それは、「新しい歴史教科書をつくる会」(滋賀県支部)が載せている「児童の権利条約」に関するものです。詳しい内容は時間の関係もあるので省きますが、明らかにこの条約の内容と精神を揶揄し、歪曲しようとする趣旨で書かれていました。

−子どもの権利条約では、教育についてどういう規定をおいているのでしょうか?

*教育に関しては第28条と第29条が扱っていますが、とくにこの集会の趣旨との関係で重要なのは、第29条です。その第1項では、児童の教育が指向すべきこととしていくつかのことを規定していますが、「(b)人権および基本的な自由並びに国際連合憲章にうたう原則の尊重を育成すること」については、顔をしかめ、眉をひそめる向きもあるのではないでしょうか。

もっとも、「(c)…児童の…出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること」などの規定もありますから、読みようによってはこれらの人々も納得顔になるのかもしれません。念のために付け加えておけば、教育基本法は、第2条において、「教育の目的は、…自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」と定めていますから、子どもの権利条約のこの規定となんら矛盾するものではありません。

3.有事法制とボランティア活動、社会奉仕体験活動の義務化との関係について
−ボランティア活動、社会奉仕活動の義務化という問題はどういう経緯があるのでしょうか?

*問題となったきっかけ:この問題の直接のきっかけになっているのは、やはり「教育改革国民会議」の最終報告の17の提案の中に、「奉仕活動を全員が行うようにする」という項目があったことです。そこでは、「今までの教育は要求することに主力を置いたものであった」として、「しかしこれからは、与えられ、与えることの双方が、個人と社会のなかで暖かい潮流をつくることが望まれる」と述べ、このことが「自分の周囲にいる他者への献身や奉仕を可能にし、…大勢の人の幸福を願う公的な視野にまで広がる方向性を持つ。思いやりの心を育てるためにも奉仕学習を進めることが必要である。」と書かれています。

これを受けて学校教育法および社会教育法の改正が行われました。「国民会議」の提案では小学校から高校にいたるまでの各段階で行うことを明記していましたが、学校教育法では、「第18条の2 小学校においては、…児童の体験的な学習活動、特にボランティア活動など社会奉仕体験活動、自然体験活動その他の体験活動の充実に努めるものとする。」としています(同時に社会教育法では、「第5条 市(特別区を含む)町村の教育委員会は、社会教育に関し、…左の事務を行う」の12として「青少年に対しボランティア活動など社会奉仕体験活動、自然体験活動その他の体験活動の機会を提供する事業の実施及びその奨励に関すること」をあげています)。

−有事法制との関係で問題となることは何でしょうか?

*有事法制に結びつけられる危険性:問題となるのは、学校教育法では、そういう活動の充実に努める場合において、「社会教育関係団体その他の関係団体及び関係機関との連携に十分配慮しなければならない」としていること、また、両法の改正の趣旨として、「学校教育と社会教育の双方が相まって、児童生徒の社会奉仕体験活動などの体験活動を促進していく姿勢を明確にしている」としていることでしょう。

「関係団体及び関係機関」というのは、一切の限定がつけられていません。現在国会に提案されている有事法案では、国民生活に関係がある事柄については、今後整備することになっています。政府・与党が前国会で示した「国民の保護のための法制について」の「4 国民の役割」の「(1)国民の協力」では、次のようなことが書かれています。

「〇国民に協力を求める措置の範囲

・避難住民などの救援の援助

・消火活動、負傷者の搬送または被災者の救助の援助

・保健衛生の確保の援助

・避難に関する訓練への参加

〇住民の自主的な防災組織やボランティアに対する国・地方公共団体の支援」

4.「戦争」を子どもたちにどう教えることが必要でしょうか?

−「戦争=絶対悪」という教え方ではきわめて不十分だと思います。

*侵略戦争と被侵略戦争:侵略戦争は悪であることについては国際的に異論ありませんが、侵略される側の抵抗戦争は悪とは言い切れません。国内社会のように犯罪を取り締まる司法警察制度がきわめて不十分にしか働いていない国際社会では、徹底非暴力の立場に立つのでもない限り、抵抗戦争(本当の意味で自衛のための戦争)は認められています。私自身、歴史的な事例として、アメリカの侵略に対して戦ったヴェトナムの自衛のための戦争を否定する気持ちにはなりません。

この議論に抵抗感がある人は、国内社会における正当防衛の議論についても明確な態度を貫くはずですが、本当にそのように言えるでしょうか。

国連憲章では戦争を、自衛の場合を除いて、禁止しました。難しいのは、自衛と主張して戦争する国が現れた場合、国際的にみんなが納得する形で、その当否を判断し、その主張を行う国を従わせるような権威ある存在がまだないということです。そのことは、今回のイラクに対するアメリカの強引な主張に対して、国際社会が結束して徹底的に批判を行うことにまではいたっていないということに、厳しく示されました。国際社会は、国連そのものを含め、このこと一つをとっても、まだ社会としてはきわめて未成熟な段階に留まっていること、従って、善悪・正邪の判断についても、客観的かつ権威を持って行うことがあらゆる場合に可能になるまでには至っていないということを、正確に子どもたちが理解するようにする必要があると思います。

しかし、国際社会が未成熟であるということから直ちに、子どもたちが戦争についても斜に構えた、ひねくれた見方に傾くことに何もしないということは間違っていると思います。今のイラク問題を見ても分かるように、アメリカが強引な論法で戦争への道をひた走ろうとしても、大きな国際世論が盛り上がってきて、それがアメリカを牽制する強い力として働いていることにこそ、私たちは、大きな意義を見いだす必要があります。そして子どもたちに対しても、紆余曲折はあるかもしれないけれども、私たちの正しい意見は大きな力となって国際政治を動かすまでになりつつある、ということを伝えることが必要ではないでしょうか。国際世論が成長するに従って、戦争への道を走ろうとする国々がそうできないようにすることが、次第に現実の可能性となっていくという点にこそ、今後の国際社会全体としての方向性を見いだすべきであると確信します。

−日本人の私たちの場合、特に戦争を「被害者」の立場からだけではなく、「加害者」の立場からもっともっと精力的に子どもたちに語らなければならないと思います。

*この点については、近年、国内において理解と認識が深まりつつありますので、これ以上深入りしません。ハッキリさせておく必要があることは、自らの侵略、加害を語ることはなんら「自虐」的なことではなく、むしろ国際的な信頼を獲得する上で避けることのできない課題であるということです。

5.学校教育のなかで「平和」をどう教える必要があるでしょうか。併せて、市民の平和学習の意義についてどう考えるべきでしょうか?

−「平和=戦争のない状態=絶対善」という単純な考え方では、子どもたちが真に納得することができる「平和」についての見方は育たないと思います。

*「平和」についての全面的な、正しい認識をはぐくむ必要性:多くの戦争が飢餓や貧困、差別など人間の尊厳を無視し、否定すること(いわゆる構造的暴力)を原因として起こっている現実の国際社会を見るとき、そういう原因を無視して、「戦争はいけない」といっても、それはまったくの欺瞞でしかありません。「平和とは、必ずしも戦争のない状態だけを指すのではなく、戦争が起こらなくてもすむような経済的社会的文化的歴史的条件、要するに人間の尊厳が尊重されるために必要な条件が満たされた場合に初めて存在しうる」ということを正しく子どもたちに伝えなければいけないのだと思います。

そういう見方にたつ場合に初めて、国際的に南北問題という形で広く存在する構造的暴力を引き起こしている先進国側のエゴイズムを根本的に取り除くような取り組みが行われなければならないこと、そうしてのみはじめて真の「平和」と呼びうる状況が実現することについて、子どもたちの認識を正すことができるのだと思います。

−戦後の日本の「平和」教育は、専ら被害者の立場に立った、「戦争こりごり」的な内容のものが支配的だったと思いますが、この点についても改める必要があると思います。

*幸い、この点についても近年理解と認識が進んできていますので、これ以上深入りすることは控えます。

−市民の平和学習についても、私としては以上の2点を強調したいと思います。大人である私たち市民の「平和」に関する認識が正されなければ、子どもたちに正しい姿勢で接することは不可能です。

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