サッカーと君が代・日の丸

2002.06.23

 *この文章は、雑誌『クレスコ』に書いたものです。サッカーにかかわる私なりのこだわりは明らかにしておきたいので、短文ではありますが、ここに掲載しておきます。(2002年6月23日記)

 私はサッカー観戦が好きである。特にワールドカップには目が釘付けになるし、いい試合ともなるとテレビに目が奪われて仕事にならない。まして今回のように日韓共同主催となって、日本チームがベスト16まで進出するという大躍進をやってのけてくれたのだから、私の興奮度も増すばかりだ。

ところが、そんな私の気持ちを極端に損ない、恐怖感すら抱かされる場面が日本戦に限って頻繁に現れる。いうまでもない。試合に先立って演奏される「国家」としての君が代の大合唱と、多くのサポーターが無邪気に振り回す日の丸や顔に塗りつける日の丸のフェイス・ペインティングだ。

私は決して国歌や国旗の廃止論者ではない。戦争に敗北した後に、たとえばドイツがそうであったように、新生民主国家・日本にふさわしい国歌や国旗を作っていたのであれば、私の気持ちも素直にそうした国歌や国旗を受け入れていただろうと思うのだ。

ところが、そうしたけじめを一切ぬきにして、君が代と日の丸が再び国歌及び国旗として、本来であれば政治とは無関係であるべきサッカーの大舞台に正に君臨する。そして圧倒的に多くの人々がそのことをあたかも当然のことのように受け入れ、熱狂のるつぼのなかにとけ込んでいる姿を見ると、私は正直言って恐怖感に襲われるのである。

何故に多くの人々は、これほどまでに君が代と日の丸に対して受容度が高いのであろうか。君が代・日の丸が侵略戦争に果たした役割を誰もが気にもとめなくなった、ということなのだろうが、それでいいのだろうか。

私は長い間日中関係にかかわる仕事をした体験を持つものとして、中国人が日本の軍国主義の象徴である君が代と日の丸に対して複雑な感情を持っていることを知っている。もちろん彼らも大人だから、日常的に君が代と日の丸に対して嫌悪感を示すことはしない。

しかし日本人が君が代と日の丸に対するこだわりを捨てれば捨てるほど、そして無邪気に(?)君が代を高唱し、日の丸を掲げ、フェイス・ペインティングをすればするほど、過去の遺産に対する不感症の日本人に対する中国人のわだかまりもまた高まっているのではないかと、厳粛な気持ちにならざるを得ないのだ。

今更何をぼやいているのか、という冷ややかなまなざしが注がれることだろう。しかし、私はなおいいたい。過去の遺産に完全なフリーな状態でサッカーを楽しみたいのだ、と。

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