日本の新聞報道

2002.02

*2002年2月11日の集会において、会場から日本のマスコミが真実を報道しないことに対する疑問が2人の方から提起されました。まさに異口同音で、日本の危険な政治情勢について私がお話しする内容のことを「マスコミが国民に報道しないのはなぜか」というものでした。また、3月5日に伺った集会でも、「日本のマスコミは国民に対して事実関係を報道しているのだろうか。報道していないとすれば、私たちはどのようにしたら正確な情報を得ることができるのだろうか」という質問に接しました。強いマスコミ不信の気持ちと正確な情報をどうすれば入手できるかという不安は、多くの集会に伺うときに決まってと言っていいほどに会場から提起されるものです。私もこの問題については常々考えることがあるので、この機会に私の考えを整理しておきたいと思います。

 なおここでは、マスコミの中の新聞に限定します。テレビ報道は、特集番組のごく一部を除けば、有害なものの方が多いというのが実感です。私が伺う集会でも、最近のNHKのニュース番組への強烈な不満、批判をしばしば耳にします。特に9.11事件以後の報道は、私も「アメリカという大本営発表」と形容する恐るべきものに堕していると思います。従って、ここでは新聞報道に限定して考えます。

1.新聞は市民にしっかりした情報を提供しているか

私は、外務省を離れてからすでに14年になります。私の情報源は、新聞を含めたいわゆる公開情報だけです。もちろん、新聞だけに頼るのでは不十分です。しかし、新聞記事を通じてその基になっている原資料を見つけるというメリットもあわせますと、新聞も貴重な情報源であることには変わりはありません。

ちなみに外務省を離れてからのこの14年間、秘密情報に接しられないことで内外情勢を判断することに行き詰まった記憶はありません。また、内外情勢について致命的な判断ミスを犯した覚えもありません。

私は、一部の新聞をのぞけば、そしてこれまでに関して言えば、新聞社が意図的に事実関係を市民から隠す(市民に提供しない)という操作を行ってきたとは思いません。一面トップの扱いをするか、忙しい多くの国民がほとんど目を通さない二面以下で取り上げるかどうかはともかくとして、私が定期購読している朝日新聞、日経新聞、沖縄タイムスはだいたい同じ内容の事実関係を紙面に載せてきた、と思います。したがって、私たちが新聞は事実を伝えていないと批判すれば、新聞社は「とんでもない、よく読んでくれ」と反論するでしょう。

しかし、紙面の隅々まで読むのは、私のような商売柄(?)のごくごく一部の人間に限られるでしょう。しかも私のような立場のものは、新聞の紙面構成に従って、そして新聞の報道内容に即して物事を判断するのではありません。私にとっての新聞の位置づけは、事実関係をつかまえる上での手段ということです。新聞に載った識者の意見や記者の判断も参考にはしますが、それらによって自分の判断に代えるという安易なことはしません。正直言って、それほど安心できる分析、意見にはあまりお目にかかりません。

ということは、多くの市民にとっては「新聞は本当のことを伝えていない」という印象をぬぐえないことになるのです。そして、多くの人のそういう印象は正しいのです。なぜならば、新聞は事実そのものはなんらかの形で伝えているかもしれないけれども、今日の日本が直面している危険な状況というもっとも重要なポイントを読者が実感するように伝えることはしていないからです。

時折受ける記者の取材を通じて、私は現場の個々の記者が問題意識をまったく持っていないということではないと感じています。しかし正直に言って、私が外務省の事務官をしていた頃に接した記者と比べても、サラリーマン化した記者が多くなっているという印象も強いです。私が外務省の課長をしていたときにもすでに、彼らに「ご用聞きのような取材ではなく、自分の足で取材したものを持った上で、私が隠していることを話さざるを得ないようにしなければだめだよ」いった覚えがあります。政治家、官僚から「もらった」内容をそのまま記事にするということですから、どうしても政府・与党に都合のいいような形で報道されることになるのです。

それにもましてもっとも重大な問題は、新聞社がジャーナリズムの本来の存在理由を自覚し、その自覚に基づいて行動する意識が欠けているところにあると思います。「報道の自由」は、欧米におけるジャーナリズムが権力との戦いを通じてようやく勝ち取ったものです。権力は必ず腐敗する。人民主権を確立するためには、権力を常に監視する主権者である人民が正しい判断をできるようにしなければならない。ジャーナリズムは、人民が正しい判断ができる情報を提供することに最大の存在理由があるのです。また同時に、情報にもっとも接しやすいジャーナリズムは、権力の腐敗・横暴を常に批判しなければなりません。正確な情報提供と権力批判、この二つこそが「報道の自由」の存在理由なのです。

ところが日本のジャーナリズムは、権力との戦いを通じて「報道の自由」を勝ち取った歴史がありません。したがって、権力が牙をむきだして襲いかかるとき(戦前)、日本のジャーナリズムはすぐに頭を垂れてしまいました。権力が甘い汁(様々な懇談会、諮問委員会、審議会等々)で誘うとき、「内部から批判する」といいわけをして体制側にくっつくのです(戦後)。ここに日本のジャーナリズムの最大の問題があります。

結論として申しますと、新聞は事実を隠すところまで堕落しているというわけではないけれども、真実をありのままに読者に伝える責任は果たそうとしていない、ということではないでしょうか。

2.どうしたら正しい情報を我がものにできるか

学問に王道がないように、正しい情報を我がものにする上でも簡単で便利な方法というものはありません。新聞を最大の情報源とする以外にない多くの人々は、では救いはないのでしょうか。

私は、いくつかの方法があるといいたいです。

新聞そのものについていいますと、自分の関心テーマ(たとえば有事法制)について切り抜きしてファイルを作ることです。

私は、朝日、日経、沖縄タイムス、赤旗、インタナショナル・ヘラルド・トリビュン、人民日報については毎日目を通し、テーマごとにファイルを作っています。時間のかかる作業で、1日の2時間近くを費やすこともあります。大学の世界に入ってからずっと続けています。

日常的に忙しい人々にとって、私がやっているようなことをするのは、とうてい時間がなくて無理でしょう。しかし、新聞は定期購読している人が多いと思います。その新聞だけでもいいのです。しかも有事法制なら有事法制、もう少し大きくして安全保障問題なら安全保障問題、というテーマで、関係する記事は切り抜き、ファイルを作ってください。この作業を3ヶ月も続けていますと、記者の分析部分(つまり政府・与党から流される情報操作の部分)をぬきにした事実関係の流れを読みとることができるようになります。こうなればしめたもので、自らの判断が下せるようになると思います。1紙だけ、特定のテーマだけでしたら、それほど時間はかからないはずです。

さらに1歩を進めたい方には、新聞記事で引用・紹介されている元の資料にあたることを是非おすすめします。近年のインターネットの普及・一般化により、元の資料へのアクセスは格段に容易になりました。国の内外を問わずです。

そうした努力と併せて、たとえば(僭越ではありますが)私のホーム・ページとか私が書いたものを参考にしていただけたら、と思います。

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