「外務省問題」を考える

2002.03

*この小文は、『法と民主主義』という雑誌からのお誘いに応じて、書いたものです。かつて外務省に身を置いてことがあるものとして、無関心ではいられないものです。しかし私は、日本外交を厳しく批判する立場に立っていますが、外務省そのものに対する批判は行わないことを旨としてきました。これまでにもマスコミから様々な取材を受けましたが、お断りするか、記事にはしない約束でお話しするかでした。

そういうなかで、『法と民主主義』誌は、「外務省問題」とされる問題の本質は何だろうか、という根本的疑問に基づいて、外務省に身を置いたことがあり、保守政治に批判的な立場を取る私がどういう見解を持っているかについて書いてほしいという申し出だったのです。この問題意識こそ、私が国民的に考える必要があるとかねがね思ってきたことでした。紙幅が限られていたので、全面的なものではありませんが、みなさまにも参考にしていただけたら、と思い、掲載することにします(2002年2月28日記)。

まず、いわゆる外務省問題の中身を整理する。発端は機密費流用問題。この問題をきっかけに明らかにされることになった、ほぼ全省的規模で行われていた裏金づくり。そういう外務省を徹底的に改革すると意気込んだ田中前外相との確執。アフガニスタン復興国際会議へのNGOの参加拒否問題との関わりで浮上した族議員との癒着。このように、いくつかの性質を異にする問題が「外務省問題」として一括されている。問題ごとに考え直す。

第一、金銭にかかわる問題。公金(税金)を私物化することは許されない。全省的に裏金づくりが行われていたことは、公務員として備えるべき基本的倫理観の欠落をうかがわせるもので、事態は深刻だ。もっと深刻なことがある。ことは今始まったことではないし、外務省に限られたことでもないということだ。公金の私物化を当たり前とする感覚(公私混同)は、中央、地方を問わず、官僚機構を含めた権力機構に巣くっている。

金銭感覚の麻痺そして倫理観の欠如は、日本政治に古くからはびこる官尊民卑という体質から出てくる。日本の政治制度は敗戦で形の上では民主的に改められたが、過去の負の遺産を清算することが妨げられたために、制度を動かす保守勢力(政治家、官僚)の官尊民卑の精神構造は温存されてしまった。「仏作って魂入れず」だったのだ。金銭にかかわる外務省の問題の根っこはそこにある。

ちなみに、アフガニスタン復興会議へのNGO出席拒否問題は、官尊民卑の今ひとつの現れでもあった。欧米では、国際問題への取り組みについて、国家がすることが適当な領域と非国家組織がすることが適当な領域とがあり、それぞれが分担する(「棲み分け」)という意識が当たり前になっている。ところが外務省では、官尊民卑の体質によって、この棲み分け意識が健全に成長することが今なお妨げられているのだ。

第二、外務省改革。率直に言って、田中前外相は外務省の何を「改革」しようとしたのか、私には最後まで分からずじまいだった。外務省改革論議が金銭にかかわる問題を軸に行われてきた経緯に即して考えれば、田中氏が力を入れた人事はまったく答えになっていない。いったんできあがった組織の体質というものは、トップの幾人かの首のすげ替えで根本的に改められるほど簡単な問題ではない。

改革されるべきは金銭感覚の麻痺を生み出す仕組みそのものである。金銭感覚の麻痺が官僚機構全体をむしばんでいることを考えれば、対象としては、外務省だけではなく、官僚機構全体を視野に納めたものでなければならない。そういう明確な問題意識、不退転の決意の裏付けのない表面的な「改革」(つまり組織いじり)は、問題の本質を覆いかくす点で、むしろ有害ですらある。

第三、外務省と族議員の癒着。官僚と政治家(族議員)の癒着という問題は、保守政治のもとで、他官庁では古くからあるもので、何ら目新しいことではない。新しいのは、これまで利権問題とは縁が薄かった外務省が他の省庁の仲間入りした点にある。なぜそうなったのか。

実感を込めていうと、私が外務省にいた頃に接した自民党の政治家には、外交問題を私利私欲に利用することを自戒する見識があった。台湾ロビーとしていろいろ噂があった政治家でも、理を尽くせば、目先の利益で動かされることを拒否する矜持があった。

新聞報道しか判断材料がないが、問題の鈴木宗男議員に関しては、かつての保守政治家にはあった見識・矜持のひとかけらも感じることができない。つまり、他の省庁にたかる族議員と同じ感覚しか持ち合わせていない。そのために、他の省庁では日常茶飯事の癒着・腐敗を外務省に持ち込んだのだろう。国内政治基盤のない外務省は、同氏の「政治力」への依存を深め、悪循環が構造化した。

外交を族議員の裁量に委ねることがあってはならない。しかしここでも改めて確認すべきことは、この問題は外務省だけのことではないということだ。問題の本質は、保守政治の昔ながらの公私混同、政治を食い物にすることを何とも思わない腐敗体質、要するに保守政治における政官財の癒着構造にある。

以上、「外務省問題」とされるものを三つに分類し、個別に検討した。その結果、どの問題にも共通するより構造的・根本的な問題があることが明らかになった。

「外務省問題」のすべてに共通するのは、それらが反国民・反民主を本質とする保守政治の病理・所産である、ということだ。「外務省問題」が私たちに客観的に問いかけているのは、主権者である私たち国民が保守政治の支配をこれ以上許すことがあっていいのか、という問題だ。この点の認識が国民的に共有されない限り、「外務省問題」は「トカゲのしっぽ切り」で終わってしまい、保守勢力が政治を食い物にする状況を根本的に正すことにつなげることはできない。

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