国連憲章と日本国憲法

2002.02.25

*この小文は、『クレスコ』という雑誌に載る予定になっています。日本国内における国連についての見方がその本質を見据えたものとなっていないために、国連の活動・行動に対して正確な判断と対応を取ることが妨げられています。私は、湾岸戦争の時から、私たちの国連認識を正確なものにする必要があることを力説してきました。最近伺った弁護士さんたちの集会で、いかに「国連信仰」が根強いかについて、改めて思い知らされました。そのとき考えたことを文章にしたのが本文です。(2002年2月25日記)

国連憲章は、人権と民主主義を勝ち取る国際的な歴史の結実と大国中心の権力政治の所産という矛盾した性格を持っています。憲章に基づく国連の活動は、この双方の性格を反映するものとなります。したがって私たちの国連に対する基本的態度のあり方は、前者をのばし、後者を抑える、というものでなければならないのです。

2001年の9.11事件以後、私は、以上の考え方を、集会などの機会があるたびに強調して申し上げることにしています。といいますのは、アメリカがアフガニスタンに報復戦争を行ったことに対し、日本のかなり多くの人が、国連がこの戦争を認めたために、厳しい批判をすることにためらいを覚えている雰囲気を感じるからです。

このためらいが生まれる背景には、長年にわたる「国連=正義の味方」とする受けとめ方(「国連信仰」)が働いています。しかし、アメリカの軍事行動に対して国連が毅然とした態度を取らなかったのは、大国中心の権力政治が国連としての意思決定を左右した結果なのです。私たちが国連の持つ矛盾した性格を正確に認識しているならば、国連の意思であっても、間違っていることは批判する、という結論にならなければおかしいはずです。

最近伺った集会でこの考え方を述べたところ、会場から批判がありました。国連憲章が積極的要素と消極的要素という矛盾した性格を持つことに関しては、日本国憲法についても同じ問題がある(平和民主憲法であるが、天皇条項を含んでいる)。しかし私たちは、日本国憲法を全体として支持することを活動の基本におく。それと同様に、国際問題に向かい合う際の基本は、全体としての国連憲章・国連活動を支持するべきではないのか、と。

国連憲章と日本国憲法がともに矛盾した内容を持っていることは、その方の指摘のとおりです。しかし、決定的な違いがあります。日本国憲法の消極的な要素(天皇制)はいわば歴史的な遺物であり、全体に占める地位・比重は小さいのです。これに対して国連憲章では、消極的な要素は国連活動の中心に位置しています。私たちが国連を全体として肯定するということは、国連を利用して大国が権力政治を行うことに対して、原則的かつ明確な批判を行うことをきわめて難しくすることになります。

私たちの判断・行動基準は、国内と国際とを問わず、常に人権(人間の尊厳)及び民主主義という座標軸に即したものである必要があるのではないでしょうか。

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