かわさきおやこ劇場新春学習会でのお話(日時 : 2002年1月4日)

2002.01

*私は、9.11事件以来の国内外における物事に関する見方の混乱を見て、何が原因なのかについて考えました。そして、物事を判断する際の根本的座標軸あるいはモノサシが欠けていることが混乱を生み出してきた最大の原因があるということに改めて気づかされる思いがしました。根本的座標軸あるいはモノサシをもつということは、人間の尊厳を承認し、民主主義の実現を目指す、という普遍的価値に基づいて物事を判断し、行動する立場に立つということです。

かわさきおやこ劇場の取り組みは、日本母親大会と同じく、以上の立場にしっかりと立っており、私が日本の将来は決して暗いものではないことを確信させてくれるすばらしいものです。最初にお招きを受けてお話に伺って以来、もう3、4年になるでしょうか。2002年新春の青年たちの集会にお招きを受けたとき、私はためらわず、この普遍的価値に基づいて物事を判断し、その判断に基づいて行動することの大切さについてお話しすることにしました。

幸いなことに、私がお話ししたことを青年たちが記録として起こしてくれました。かなり長いし、私の舌足らずのため分かりにくいところもありますが、今こそ座標軸・モノサシをもつことの大切さを考えていただく材料として、掲載させていただきます。

(レジュメ)

「いま、私たちは何を、どう考える必要があるのでしょうか」

Ⅰ.いま、何をどう考える必要があるでしょうか

1.基本:「人間社会の歴史的歩みの一部」としてすべての出来事をとらえましょう

(1)いろいろな出来事を考える上での「物差し」を無理なく理解できます

①普遍的に承認された価値(人間の尊厳・デモクラシー)をあらゆる出来事を判断する際の「物差し」にすること

②普遍的な価値ということは、その内容が多くの「顔」を持つこと、その実現にあたって国々の歴史的な制約を無視するということではないこと

-たとえば「人権」の「顔」とは

-たとえば「デモクラシー」の「顔」とは

③普遍的として承認された価値以外の価値観を「物差し」にすることを慎むこと

-たとえば「反戦」

-たとえば「平和」

(2)さまざまな社会の「社会としての成熟度」をふまえて出来事を考え、および私たちの係わり方を心がけることが可能となります

① 「物差し」に基づいた基本的な判断

② さまざまな社会の「社会としての成熟度」をふまえた判断

③ (①②に基づいた)方向性に関する「可能性の束」

④ (③の「可能性の束」に関する)日本(日本社会)の係わり方

⑤ (④の「日本の係わり方」に関する)私たち一人ひとりの係わり方

2.応用(1):「9.11事件」を受けた国際的な出来事・問題について考えましょう

① 「テロリズム」 ⑥ アメリカ中心の国際経済システム

② アメリカ中心主義 ⑦ 文化・宗教

③ 国連 ⑧ 制度的・政策的「可能性の束」

④ 犯罪と戦争 ⑨ 日本の国際的位置

⑤ 自力救済(「自衛権」) ⑩ 日本・日本人の係わり方

3.応用(2):小泉政治について考えよう

① 小泉首相(保守政治)の考え方 ③ 親米路線・アジア軽視

② 「構造改革」 ④ 憲法・安全保障問題

Ⅱ.いま、とくに皆さんに考えていただきたいことがあります

1.国際的な出来事について、国際的に考えられはじめていることは何でしょうか

(1)「9.11事件」後の国際社会はどういうものになるのか?

① ブッシュ政権のアメリカ中心主義に関する不安と警戒

② 国際社会はアメリカ中心主義と共存できるのかという疑問

(2)「9.11事件」の教訓をどう受けとめるのか?

① ブッシュ政権の場合

 

② アメリカ以外(?):国際政治の構造的問題を「あぶり出したもの」(内橋克人)

 

-貧困問題に正面から取り組む必要性

-アメリカの対外政策における二重基準がもたらすもの

2.「9.11事件」とその後の事態から明らかになった問題

(1)イメージ・映像が私たちの正常な判断力を狂わせ、それが国際政治に重大な影響を及ぼすこと

(2)犯罪と戦争という異なる問題が超大国の思いのままに動かされる現実

① 「テロリズム」という「国際犯罪」に対する国際的司法の実情

② 国連安保理決議に表れた「国際社会」の現実

③ 「自衛権」の政治的本性

(3)超大国・アメリカが暴走するときに国際関係が直面する深刻な危機

① 確立されたはずの国際法・ルールの「無力さ」

② アメリカによる「正邪」「善悪」判断の独占

③ アメリカの判断の他国による悪用

④ 国際経済関係のいっそうの深刻化

⑤ 国際関係における暴力的要素(軍事力)の支配

3.小泉政治のこれ以上の暴走を許してしまったら、大変なことになること

(1) 本格的有事法は人権そのものを奪いあげるものです

(2) 「構造改革」は徹底した資本本位の国民に最大の犠牲をおしつけるものです

(3) 「戦争する国」への道を許したら、その最終責任は私たち自身が負うのです

(講演)

本日は、私が「こういうふうに考えるべきである」「このように判断すべきである」ということではなく、私自身が考えている中身をみなさんにも一緒に考えていただこうという趣旨でレジュメを用意いたしました。

今、何を考える必要があるか

まず最初の問題ですが、今、何をどう考える必要があるかということです。

みなさんの記憶の中にもはっきりあると思いますが、去年の9月11日の事件、いわゆる「同時多発テロ」と新聞報道ではよび表しております、そういう事件があって、「世の中がひっくり返ってしまった」「まったく新しい状況が起こり、物事もまったく新しく考えなければいけないのだ」というような主張、考え方が大っぴらに通っている状況があります。例えばこの事件が起こった後に、すぐにアメリカのブッシュ大統領、この方はかなり乱暴な方ですが、彼がこの事件に対してどう言ったかというと、「人類文明に対する挑戦」だと言ったのです。そして国連のアナン事務総長もやはり同じような表現でこの事件の意味を表しました。「人類文明に対する挑戦」と言いますと、私たちの人類文明というしっかりしたものがあって、それに対してあの事件を起こした人々が真っ向から挑戦してきたと聞こえます。そうすると白と黒、正と邪、善と悪という図式になってくるわけです。従ってブッシュ政権のアメリカがやることはすべて何でも正しく、そのアメリカのやることに対して矢面に立たされるのは当然の報いであるとしか受けとめられなくなっている状況がでているのです。本当にそういう単純な割り切り方でいいのかというのが、私のそもそもの発想です。

「現象と本質」、「原因と結果」

この問題を考えるにあたって、私たちは物事をふまえるうえでの根本的なモノサシを持つ必要があるのではないかと思います。しっかりしたモノサシがあれば、ブッシュが言った「人類文明に対する挑戦」ということが正しいのかどうかということについて判断できます。

そういうことを考えたとき、まず自分の、これまでの物事を見るときの自分自身の考え方を振り返ってみました。すぐに自分が物事を判断するときの基本的なモノサシが出てきました。

まず、「どんな出来事、物事、大きな事件でも私たちの日常的な日々の生活の中の出来事にしても、すべて原因がある」ということです。どういうことでも、ある日突然に起こったとか、その前に何の原因も背景もないなどという出来事はあり得ません。もちろん生物学の「突然変異」という、子どもの遺伝子が親とは違ったものとして生まれて、子ども、孫たちに伝わるという現象はあります。しかし、人間社会に関する物事に関しては、どんな事にも原因となるものがあるのです。

日常生活で大切なことのなかに、友だち関係、人間関係があります。友だちとの関係、恋人との関係を考えますと、突然に好きになる、あるいは突然にその友だちが重要な存在になるということは、ある時点でそう思うようになっても、そう思うようになるには必ずその原因になることがあるはずです。知り合っていろいろな話をする、付き合う、会話をする。そういういろいろな経緯があって初めて、好きになる、恋をする、という感情が生まれてくるのです。そこには必ず、今の「好き」という気持ちを引き起こす原因があるのです。

自分の日々の出来事で特に重要だと思うことについては、みなさんも、どうしてそうなったのかと原因を考えることがあると思います。そうするとき、その手がかりを過去に求めることが出来るということは、みなさんにも思い当たることだと思うのです。国際社会の出来事でも同じです。国際社会だからある日突然何かが起こる、ということではありません。

 

例えば、9月11日の事件にしても、事件そのものについては私たちも予想できなかったし、商業用の旅客ジェット機をミサイルにして攻撃するというようなことも、確かにだれも予想できなかったことです。ビンラディンという人が考えたとすれば、それは彼の頭の中でかなりのイマジネーションが働いて、そういうものを凶器に使おうという発想になったかもしれない。

しかしそのことが重要な問題ではありません。ニューヨークの世界貿易センタービルを攻撃する、ワシントンのペンタゴンというアメリカの軍事力の神経中枢、あるいは脳細胞のかたまりともいうべきところを狙い撃ちするということについては、決して何の原因もないのに二つのポイントが攻撃されるということはあり得ない。何故そうなったかということを考えると、必ずその原因をたどることが出来ます。無理矢理探すのでなく、その事件の背景にあるものは何だろうと考えると、行き当たるものがあるということです。

 このように、人間社会のほとんどの出来事は、人間社会の歴史的歩みの一環としてとらえることが出来ます。従って、確かに今回の事件は現象的にみれば人類文明の成果に対する非常に野蛮な破壊攻撃であったと言えるかもしれませんが、それだけで問題をすべてわかったと割り切ってしまったならば、私はとんでもないことだろうと考えるのです。

人間生活でのすべての出来事、日常生活の出来事でも、国際社会の出来事もそうです。人間社会のいろいろな現象や考えを整理すると、大きく二つの重要なポイントが引き出されると思うのです。

社会の歴史的な歩み(成熟度)と人間の尊厳の承認

ひとつが、レジュメの(1)の、「いろいろな出来事を考える上でのモノサシ」であり、もう一つが(2)の「社会の成熟度」です。社会の成熟度を踏まえた上で出来事を考えると、私たちの関わり方を心がけることが出来るのです。

人間社会は歴史的に歩みを遂げてきています。「歴史的に」というと、難しいと思われるかもしれませんが、これは事実なのです。人間社会とは、人間が数百万年前にアフリカ大陸に最初に現れてから、数百万年の歴史を経て今現在、この地球上に60数億の人間がひしめき合っているような状況になったのです。これは数百万年という歴史を経た上でのことであり、こういうことを「歴史的な歩み」というのです。

ここで問題は、歴史的に数百万年かけて人間が今日に至っているこの歩みというものが、実際にどういうものなのかということです。このことをどう認識するかという問題は、じつは難しい内容が含まれています。

一般的には、歴史的な「進歩」という受けとめ方で物事を考える見方があります。数百万年前に現われた最初の人類と今の私たちを比べたら、たしかに雲泥の差があります。今の私たちは、最初の人類と比べれば、おそらく別の存在になっているといえるでしょう。私たちの頭の中の脳の働き、体の能力の働き、いろいろなことを考えても、およそ数百万年前の人間とは比べものにならない、そういう肉体的(脳を含む)な進化を遂げているといえるでしょう。

一人ひとりの人間が肉体的に進化してきただけでなく、そういう人間がつくる社会についても大きな変化がありました。「社会」というと、何となく難しく感じられるかもしれません。しかし、実はとても簡単なことです。みなさんが集われているおやこ劇場も、みなさん一人一人がメンバーとなって成立している社会です。別の言い方をすると、おやこ劇場に入っていない人たちは、おやこ劇場という社会のメンバーではないわけです。ですから社会というものは、ある共通の目的意識をお互いが意識しあっている人たちから成る人間の集団のこと、ということができます。

社会の非常に小さい単位でいうと、まず家族です。そういう小さな単位から、60数億の人間から成るこの地球上の国際社会という単位もあるということです。人間の社会は、人間の肉体的な進化、成長と同じように、歴史的に進化を遂げてきました。このことを、前に向かって進歩を遂げてきた、と受けとめることも不自然ではありません。

一つの例で考えます。大昔は奴隷制の社会がありました。その社会では、奴隷が働き、その労働の成果をピンハネする人たちが社会をつくるという状況がありました。しかし今日では、同じ人間なのに、一方が奴隷で一方が奴隷主というようなことは許されなくなっています。奴隷などということは絶対にあってはならない。人間は人間としてお互いに同じ価値がある。一方が奴隷を使う立場、一方は奴隷にされる立場にはならないという考え方が確立しています。しかし、そういう考え方は、決してはじめから当たり前だったわけではなく、数百万年の人間の歴史において、つい最近になって認められたことなのです。

このように、人間は人間であることにおいて互いに平等であるという考え方は、人間がこの世に現れたときから、皆がそのように考えていたわけではないのです。実は長い歴史の歩みの中で、人間の間に差別があってはならないと考えるようになったのです。それは、人間社会が質的に進歩をしてきたということです。そこが重要なことです。

進歩、発展という考え方について、一つだけお話ししておきたいことがあります。それは、私が「進歩」、「発展」という言葉を無造作に使えないでいることについてです。私の同僚の社会人類学の研究者が、カナダの原住民の人々を研究しています。その人々は、人間の歴史的な「進歩」という考え方を受け入れないというのです。物質的な文明、人権などの考え方そのものと無縁な人々が、地球上には現実に存在しているのです。

しかし、そういう人たちも人間であることに変わりはありません。彼らは、私たちの「進歩」という考え方、「前より良くなる」という考え方、「常に良くなっていく生き方がすばらしい」という考え方そのものを受け入れない。過去と現在、そして将来に渡ってずっと今の状況で生きていくことが自分たちの生き方なのだという考えの人たちが現実にいるのです。

私は、どちらがより人間らしいのかということを断定することは出来ません。私自身、彼らは間違っているという考えにはならないのです。ですから私はレジュメでは、「人間社会の歴史的な歩み」と言って、「歴史的な進歩」という言葉をあえて使いませんでした。

今日の国際社会の中で、カナダという国は、人権、人間の尊厳を大切にするもっとも先進的な国です。そのカナダは国をあげて、そういう人たちが自分たちの価値観を守って生きていくことが出来るように保障する政策を追求しようとしています。

そういうことを考えますと、人間社会を歴史的な進歩という見方だけでとらえると、そういう人たちの存在理由を否定することになってしまいます。9.11事件に際して、人類文明に対する挑戦と断定したブッシュ大統領の発想には、異質な価値観をもつ存在を否定し、切り捨てる傲慢さを感じます。

みなさんも自分の周りを見たときに、自分の価値、自分が大切だということにまったく気がついていない人がいることを発見することがよくあると思います。あるいは、他の人が非常に大切だと思っていることを、自分から見ると、何故そんなにこだわっているのか、そんなに大切なものなのか、と思うこともあるでしょう。しかし、相手が大切に思っていることを否定し、相手の言うことをバカにする時、そう思う私たちの中には特定のモノサシがあるのです。ここで私たちが考えなければならないのは、そのモノサシが正しいかどうか、という問題です。

カナダの原住民の人たちが、進歩ということを受け入れないことをバカにし、傷つけることと、私たちが自分のモノサシに会わない人をバカにすることとは、本質においてまったくおなじ事なのです。

相手を否定することはそう簡単に出来ることではないということは、自分たちの生活に照らせばわかります。特にその人が自分にとって大切な人であればあるほど、その人がこだわれば、何故それにこだわるのだろうと、それを理解しようとする気持ちが起こると思います。それに対してバカにする自分が何かおかしいのではないかと、自分を反省するようになるでしょう。それとおなじ事が、人間のいろいろなグループの中でも、価値観の違いとして存在します。それが非常に大切なポイントです。

お互い人間として同じ価値があるのですが、考えることまで同じでなければならないとしたら、人間はつまらない。皆同じ事を考えていたら、何故人間は60億人もいるのか。これこそかえって気味が悪い、無意味のことのように思えるのです。60億の人たち皆が違った考え方を持っている。だからこそ人間はすばらしい、と私は思うのです。こう考えると、やはり進歩という考えを当然の前提にすることは、避けた方が良いと思います。

そのことを確認した上で申し上げるのですが、人間社会の歴史は、物事を判断する上での大切なモノサシとなるものを見出してきたことは間違いないと思います。それが「人間の尊厳」を承認することをあらゆる問題を考える上での基本に据えるということであり、その「人間の尊厳」を保障する「デモクラシー」という考え方であると思います。

「人間の尊厳」をあらゆる人間に保障する「デモクラシー」

「人間の尊厳」というといかにも難しいことのようですが、じつはそうではありません。学校でも習い、みなさんのお母さん、お父さんからも聞かされることだと思いますが、「人間の命ほど尊いものはない」という言葉はまさに「人間の尊厳」の大切さを表しているのです。人間には尊厳がある。だから、「人の命を奪ってはいけない」のです。あるいはこう考えてもいいのです。何故人の命を奪ってはいけないのでしょうか。それは、命というものは尊いからです。その「尊い」ということが、「尊厳」という言葉で表されるわけです。

ただし、「人間の尊厳」と言うとき、「どの人間も人間であるということで尊い」という考え方が、大昔から当たり前だったわけではありません。前にもいいましたように、奴隷制の社会、つまり奴隷を使っていた社会では、奴隷は人間ではなく馬、牛と同じ扱いを受けていたのです。人間の姿・形はしていましたが、人間として認められていませんでした。

日本で人間の尊厳が認められるようになったのは、つい最近のことです。1945年に戦争に負けるまでは、日本は実質的に身分制の社会でした。上に頂点として天皇、その下に有力な政治家、財界の人がいて、そういう人たちが支配していたのです。もちろん明治憲法のもとで身分制というものは廃止したといいますが、実際上はそういう考え方が強く残っていました。ですから、いわゆる「平民」と呼ばれる人たちは、こき使われる存在でした。もっと正確に言いますと、「天皇」というものは絶対であって、天皇の下にある私たちすべては、「国民」ではなく「臣民」だったのです。臣というのは家臣の臣、家来です。ということは、天皇の家来でしかなかった。ですから、「天皇のためには命を捧げなければならない」と言われれば、捧げなければならなかった。私たちの人間としての尊厳は、非常に大きく制限されていました。

しかし、それがおかしいという考え方、「何故あなたは天皇であることによって私より偉いのか」、もっと一般的には、「身分や位がある人が何故、身分や位がない人より偉いのか」ということを問題にするようになったのは、人間社会全体でもこの数百年のことなのです。身分によって人間の価値に差別をつけることがあってはいけないということがだんだんと意識され、身分制を廃止しようという動きが出てきました。その歴史を経て私たちは今、「人間として生まれたからには、人間として同じ価値を持っている」「同じ尊厳を持っている」という考え方を我がものにするようになったのです。

国際社会のレベルでいいますと、第二次世界大戦後初めて、人間の尊厳は皮膚の色、人種、性別などに関係なく認められるようになりました。このことは、ほんのこの数十年の成果、人間社会の歴史のつい最近の歩みとして達成されたことなのです。

「男女平等」も55年の歴史 たたかい取ってきた貴重な財産

おやこ劇場にも女性が数多く参加しておられますが、男女平等という考え方が日本で公式に認められたのは、1947年に今の憲法が出来てからです。男女が人間として同じ価値があるということが当たり前だという考えは、この数十年のことなのです。

みなさんの多くは、この十数才、二十数才でしょうから、みなさんが生まれ落ちたときから男女平等というのは当たり前とされてきたでしょう。しかし、今当たり前だからといって、昔から当たり前だ、ということではありません。そのことをしっかり意識することが非常に大事なことだと思うのです。そういうことが認められるに至ったということが、一般に「歴史的な進歩」という言葉で表されますし、人間社会の歴史的な成長、発展ということが出来るだろうと思います。

今日、「男と女は別物」「やはり女性は男性より劣っている」と言う人がいれば、私たちはそれこそ、その人をバカにすると思います。それは正しい判断だと思うのです。何故男性の方が上で、女性の方が下なのか。そんなことは、人間の尊厳ということを考えたときに、そもそも考慮に入れることがおかしいのです。男女の区別によって、人間の価値が一方が上で一方が下だということはあり得ない。そんなことを主張する人はどこかがおかしい、ということは間違いなく言えます。

ということは、人間の尊厳を承認するという考え方は、歴史的に生まれ、人類が勝ち取ってきた貴重な財産なのですけれども、それは今や後戻しされない。将来再び「男性の方がやはり上だ」という考え方はまず出てこないでしょうし、出てくるはずがない。「男女平等」という考え方は確立されたものであり、二度と動くことはない。これから数十億年人類の歴史が続いても、人間を性によって区別する、差別する考え方はもう通らないということは、間違いのないことだと思います。ということは、「人間の尊厳ということを認める考え方は、物事を判断するときの普遍的なモノサシであり、人間の尊厳を認めないという考え方はすべて誤りである」ということであります。

「デモクラシー・民主主義」をたたかい取ったのも戦後のこと

つぎに私たちは、人間の尊厳を尊重することを、頭の中でモノサシとして確立するだけでなく、現実の人間社会を営んでいく上でそれをしっかりと保障するためにはどうすればいいか、ということを考えなければなりません。日本の社会でも、建前の上では、男女平等だということを誰もが認めている。しかし現実には、皆さんが就職活動をし、就職をすることによって現実にぶちあたるように、この日本の社会というのは非常にすみずみまで、男女を差別することが当たり前のように行われている社会でもある。これはどう見たっておかしいわけです。

男女が人間として同じ尊厳を持っているならば、どうしてその男女がこの社会の中の色々なところで差別されなければいけないのか。それを認めて良いのかといえば、それは認めてはいけないはずなのです。認められないはずです。

もし皆さんがそれを仕方がないと思う気持ちがあるとする。それは、現実は厳しいというあきらめであって、それが良い悪いとか、価値として認められるということではあり得ない。皆さんがもっと強い気持ちを持ったならば、そういう差別を行っている会社あるいは社会、地域と、たたかおうという気持ちが起きてくると思うのです。

あらゆる差別のない社会を実現する、そういう社会を実現するために努力するということを考えるときに出てきた一つの考え方が「デモクラシー」、日本語では「民主主義」といっていますが、そういうものではないかと思います。

実は日本で言えば、このデモクラシー・民主主義が私たちのものになってきたのはやはり戦後のことです。戦前は民主主義というものは天皇制とは相容れないものであるということで、私たちから奪われていたのです。デモクラシーも、人間の尊厳という考え方と同じように、人間社会の歴史の中でたたかいを通して勝ち取られてきたものなのです。

民主主義ということの一番基本的な意味は何かという点につきましては、「民主」という漢字が意味を表しています。「民主」というのは「民 <たみ> が主 <あるじ> 」ということです。 「民が主」ということは、「人間が主人公である」ということです。その根本にあるのは、さきほど言いましたように、「人間の尊厳」を承認するということです。すべての人間は、人間として同じ価値を持っている。そういう人々が主人公になる、こういう考え方です。

こういう考え方が本当に行き渡れば、例えば、会社における男女差別などということは起こってはならないことですし、あったとしたら廃止しなければならないことだ、ということは直ちに理解されるはずです。みなさんのおやこ劇場は民主的に運営されているからそういうことはないと思うのですが、仮にそういう男女を差別するような社会があれば、そこはやはり直さなければいけない。

ですからこの民主主義・デモクラシーという考え方も、歴史的に私たちが勝ち取ってきた価値であり、今や普遍的に確立している。この民主主義・デモクラシーを鼻であしらう、何だこんなものと言ったら、そういうことを言う人がペケなのです。それだけの説得力があるものであるということなのです。このことをしっかりわきまえてください。

「人間の尊厳・デモクラシー」を、判断のモノサシにすること

以上からお分かりいただけると思うのですが、普遍的に承認された価値、人間社会の歴史的な歩みを通じて、どんな人も受け入れざるをえない価値とは、「人間の尊厳」ということであり、それを保障することを可能にする民主主義・デモクラシーという考え方であります。

逆に言うと、人間社会のあらゆる出来事について考えるとき、まずその出来事が正しいことなのか間違っていることなのかということを考える場合に、これは人間の尊厳を認め、受け入れた上での出来事なのか、あるいは人間の尊厳に反した出来事なのかという判断ができます。政治的、経済的な問題、文化的な問題であれば、民が主、人間が主人公という考え方に則した出来事なのか、あるいはその考え方に反した出来事なのかということで判断するのです。

具体的に申し上げると、例えば9月11日の事件を犯した人たちの行動については、人間の尊厳を尊重するものであったのか、あるいは人間の尊厳を無視する、あるいは否定するものだったのか。これが、9月11日の事件を判断する際の「根本的な基準」だと思うのです。ブッシュ大統領が言ったような「人類文明に対する挑戦」というような問題とは根本的に違うのです。

くどいようですが、まず私たちが考えなければならないのは、これは人間の尊厳というものを尊重した行為だったのか、あるいは人間の尊厳というものを無視し、あるいは否定する行為だったのかということです。それが私は物事を判断する根本だと思うのです。その点で、テロリズムという言葉で表される今回の事件は「人間の尊厳」を否定する行為でした。したがって私は、事件を起こした容疑者といわれる人たちの行動を肯定することは絶対に出来ない。人間の尊厳というものを尊重する限りは、ああいう行動は起こせなかったはずである。そういう意味で、私はブッシュに味方するということではなくて、私たちが持つべき人間社会の歴史的な歩みから出てきた「人間の尊厳を尊重するという普遍的な価値というモノサシ」に基づいて判断すれば、これは絶対許すことがあってはならない行為だと言わなければならない、ということです。

アメリカの戦争は「人間の尊厳」から許せない行動

他方で、レジュメ2-②にアメリカ中心主義と書きましたけれど、ブッシュ大統領以下のアメリカが、この事件に対してとった行動についてはどうかについても、同じモノサシで考えなければなりません。よく日本国内の世論調査で出てくる反応ですけれども、「あれだけのことをやられたんだから、アメリカがああいう行動に出るのはやむを得ない、理解できる」と感じる人が、国民の過半数を占めている。アメリカの行動はやむを得ない、アメリカの気持ちは理解できる、と考えると、そのアメリカに対して日本が何らかの形で協力するのは当然だ、やむを得ない、という考え方も出てくる。やはりそういう考え方を受け入れる人が、今日でもなお、国民の過半数を占めている状況があります。

これは、私は非常におかしいと思うのです。9月11日の事件という行為は、本当に人間の尊厳というものを尊重する、それを普遍的価値として認める立場からは絶対に認める事ができない。ということがでてくることと同じように、「それに対する反撃としての行動はなんでもあり」という結論にはならないということなのです。「反撃」とされる中身についても、「人間の尊厳を尊重する」というモノサシに照らして、「このモノサシに合う行動でなければ許すことは出来ない」ということでなければならないと思います。

具体的に言えば、アメリカはアフガニスタンに対して戦争を起こしました。この戦争は多くの犠牲者を生むことが最初からわかっていました。実際にアメリカは戦争を起こす前から十分に予想していたことですが、数千人のアフガニスタンの無辜の市民が殺されたのです。

こんな比較はしたくもないですが、アメリカは自分の行動を正当化するために、ある時点まではニューヨークでは5千人近くの人が殺された、それにくらべてアメリカの攻撃によって殺された人はその数に達していないと言って、自らの行動を正当化したことがあるのです。もう今の時点ではその数さえ上まわってきたために、アメリカは聞くに耐えないようなそういう自分を正当化する議論はさすがにしなくなってきましたが、そもそも人間尊厳という問題を数の問題にすり替えること自体、そもそも許されることではありません。

アメリカが圧倒的な力を使って攻撃をすれば、アフガニスタンの何の罪もない人が数千人の規模で、あるいは万に達するかもしれない規模で殺されるということははっきりしていました。殺されないまでも、数百万の人がアメリカの攻撃を恐れて難民としてパキスタンやイランの国境に逃げていくだろうということも、事前から十分に予想されていたことです。現に百万人規模でそういう難民が生まれた、と言われています。しかも、非常に厳しい状況の中で難民として国境に逃げることができた人は、実はアフガニスタンの中のお金持ちだともいわれます。変な言い方ですけれども、逃げるためのお金を払う余力があったから、“難民になれた”のです。お金のない人たちは、アメリカの攻撃にさらされながらジッと運命に耐えるしかなかったのです。

しかも運命に耐えるだけですむなら、まだ救いはあったかもしれないのですが、アフガニスタンはこの三年来大旱魃で、食料がものすごく不足しています。ところが、この戦争によって救援物資がアフガニスタンに届けられなくなりました。そして今もう冬になって本当に深刻な状況になっているのですが、毎日何百人という数で幼子たちが死んでいると報道される状況もあります。

そういうことを考えたら、アメリカの軍事行動というのは、初めから、「人間の尊厳を尊重する」という視点からいって、絶対許してはならなかったのです。アメリカは、戦争ではなく他の方法で、この犯罪を犯した人々を処罰することを考えるべきであったし、今も即刻戦争という手段をやめて、人間の尊厳という基準に照らして、正しい方法を選択すべきだという考え方に戻るべきなのです。

私は頭の体操として皆さんにお話ししているのではありません。皆さん自身、人間としてのプライド、尊厳というものが、他の人によって全面的に否定されるということを想像してみたら耐えられるかということです。耐えられるはずがないだろうし、「私は耐えられる」と言う人は、恐らく自分の人間としての価値、存在の意味をわかっていない人だろうと思います。皆さんが自分のことを大切に思えば思うほど、自分を傷つけられる、あるいは否定されるということは、絶対に認められないことであるという気持ちはますます強くなるだろうし、私はそれは非常に大切なことだと思うのです。そうでなくてはいけないと思うのです。そういうことを考えない人があまりに多い今の日本社会の現実を、私は非常に恐ろしいことだと思います。

かわさきおやこ劇場はすばらしい社会、外でたたかう力を みなさんがかわさきおやこ劇場という社会をつくっていることは、本当に素晴らしいことだと、私は思っています。皆さんは、この社会に入っているから、空気のように感じていて、その価値をあまり感じていないかもしれません。しかし、今の日本の社会の中で、ここ、おやこ劇場は、私は数年つきあわせていただいていますけれども、本当にまれな組織・まれな社会です。これだけ人間というものを大事にしようとしている、そういうことを自分たちの劇場の活動の基本にすえている、こういうことをやっている活動は、今の日本ではそんなに多くないのです。ですから皆さんは非常に恵まれています。

でも、「恵まれているからよかったね」ではすませてほしくないのです。恵まれてはいるけれども、しかし皆さん、ひとたび一歩おやこ劇場をでたら、全然別の社会が待ちうけているではないですか。そういう社会において皆さんは、おやこ劇場におけるように自分の価値を全面的に認められているかといえば、そうではないでしょう。おそらく「違う」と思う人が多いと思います。そういう時に皆さんは、「人間社会の現実だ」といって諦めようとしているのかもしれない。しかしこれは諦めてはいけないのです。おかしいのです。それは、その社会の方がおかしい。かわさきおやこ劇場が本来当たり前なのです。当たり前にならなければいけないのです。それが当たり前でない今の日本の社会がおかしい。そのことを、皆さん、本当に考えてほしいと願います。

正直に言って、皆さんは正しいけれども、現実としては少数派でしょう。おやこ劇場というのは、一億数千万人の日本社会の中では、本当に見えるか見えないかの存在かもしれない。しかしそれは非常に価値があることなのです。それに誇りを持つべきだし、みなさんの中で実現している「人間の尊厳を尊重する」という考え方を、皆さんが同時に属している他の社会でも同じように実現していくのだと、負けないぞと、皆さんが思うようにならなければいけないと思うのです。そして、「負けないぞ」と思う気持ちを支えるのが、以上に申し上げた、普遍的に承認された価値を、皆さんが自分の判断・行動のモノサシにすることなのです。

普遍的価値をモノサシにできれば、皆さんは自分の身の回りのことについて正確に判断する目を持つことができるし、国際社会の出来事を判断する正しい目を持つことにもなる。このモノサシはものすごい力を持っています。どんな出来事を判断することもできるようになるのです。これが私が申し上げたい最大のことです。

「人間の尊厳」と「人権」は 完全に同じではない

「人間の尊厳」という言い方よりも、皆さんは「人権」という言葉のほうが馴染みがあると思います。「人権は尊重しなければならない」、「人間としての権利、これは当たり前である」ということは、常に耳にします。問題は、「人間の尊厳」と「人権」は同じことかということです。大まかには同じことだと思っていいのですが、完全にイコールではないだろうと私は思います。

例えば、先ほどのカナダのインディアンの人たちは、人権という考え方は持っていない。しかし、人間は人間であることにおいて大切な存在であるという意識はきちんと持っているそうです。

人間の権利とか義務とかいう考え方は、欧米的な社会での、人間の尊厳を実現するたたかいの中で、それをなんとか権力に認めさせるためには「権利」という形をとる方が保障しやすいということで生まれてきた考え方なのです。ですから、必ずしも権利という考え方でしか人間の尊厳というものが表せないということでもない、ということなのです。

憲法に97条という規定があります。これを読みますと、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の成果である」とあります。この「自由獲得」ということが人間の尊厳を承認させる、そういうたたかいの歴史であり、その成果ということになります。そこでいう「自由」とは、「人間の尊厳」といいかえても良いと思います。つまり憲法は、きちんと人類の歴史の成果であることを踏まえているのです。その成果を制度として、あるいは今日的に保障するものが「基本的人権」という考え方なのだと言っているのです。

そしてこれらの権利が確立したものになるまでには、過去幾多の試練に耐えてきています。人間の尊厳を認めないとする考え方は非常に強くありましたし、支配者による抵抗も永きにわたってあったのです。憲法は、そのことを「幾多の試練に耐え」という言葉で表しているのです。

このことからも、私が申し上げていることは、決して私の独りよがりの見方ではないことが分かっていただけるでしょう。私は非常にあたりまえのことを言っているだけなのだということを、憲法97条は確認してくれているのです。

ところで、「人権は何よりも尊い」と言われますが、今日でも私たち個人のレベルを取りますと、むしろ死ぬ危険を冒してでも守るべきもっと尊いものが自分にある、と考えることがあると思うのです。「生命より尊いものはない」という考え方もあるし、「生命よりもなお尊いものが自分にある」という人がいても、私たちは驚かないと思います。このことをどう考えればいいのでしょうか。

「そのことのためには死んでも良い」という人がいる場合、その人にとっては「人権」よりも尊いものがあるのです。なぜならば、死ぬということは自らの人権を否定するわけですから、それよりも尊いものがあるということは、個人のレベルではありうるということを示唆しています。それは、自分にとって「人権」というものを犠牲にしても守るべきもの、それが自分という人間としての尊厳・存在を証明するものなのです。

私自身、自分にとって自分の生命よりも尊いものがあるのかと、日常の中で考えることがあります。実は、数年前になりますが、私がまだ新聞やテレビ等の場で発言する機会があった頃は、「これ以上発言を続けるなら命を奪うぞ」等の脅迫にさらされたことがあります。そういう脅迫を経験しながら、私は考えたのですが、やはり私は生きていたいと。しかし、そういう暴力によって私が、それが怖くて、そういう人たちに耳障りな発言をひかえるとか、もっとやわらかいこと、彼らにとって害にならないことを言う、そういうことになった場合に、「私は一体何なのだ」と考えざるを得ませんでした。

そういうときに私が本当に考えたのは、自分がそういうことで話さなくなったら、「私は生きていて何の意味があるのだろうか」ということでした。そこには私の人間としての尊厳がかかっていたのです。私は人間としての尊厳を全うする上で、人権の次元で物事を考えるだけではすまない、大切なことが自分にはある、と考えるしかなかったのです。

そういう意味では、「人間の尊厳」というのは、「人権」というものよりももっと重いものだと考えることがあります。ですから、人間の尊厳と人権というのは必ずしも常に同じものではないようだ、ということを感じておいて下さい。

民主主義は、「考え方」「制度」「運動」の三つの要素から成り立つ

民主主義についてもお話ししておきたいことがあります。

皆さんが学校で習ったことを思い出してみても、私が大学で学生と話したりしていても、ほとんどの人が民主主義とは「多数決」のことだと言います。多数決で決まったら民主主義だ、と思っているのです。これは間違いではないのですが、多数決は色々な顔を持った民主主義の本当に一つの面しか表していないのです。

確かに、物事が議論をしてもどうしても決まらないとき、物理的に時間がないときに、やむを得ない措置として多数決という制度が働きます。それは、百人中百人ではないけれども、そのうちの、より多数の人が賛成したということで、より多くの人間の尊厳・意志を尊重した決定になっている、ということなのです。

しかし、それはあくまで便宜的なものでしかありません。もし時間の制約がないのなら、いくらでも議論をすれば良いのです。そこにおいては多数決の必要は起こらないのです。ですから多数決という制度が設けられたのは、専ら必要に迫られてということです。その便法が、日本ではあたかも民主主義のすべてであるかのように描かれているのは、非常に恐ろしいことだと考えます。

では、「デモクラシー」という「普遍的に承認された価値」とはどのようなものかと言いますと、以下のことだけは皆さんにしっかり踏まえておいてほしい、と思います。これも私が頭で決めていたというのではなくて、少なくとも民主主義を自らの手で勝ち取った歴史を持っている欧米諸国では当り前のこととして、少なくとも原則として位置付けられているものとして、三つの要素があります。

それは、「考え方・理念」としての民主主義、二番目は「制度」としての民主主義、三番目が「運動」としての民主主義、ということです。「理念・制度・運動」、この三つの要素から民主主義は成り立っているのです。

「考え方」=国民が主(あるじ)、主権が国民に存する

「考え方,理念」というのは何かというと、先ほどから言っているように、民主、「民(たみ)が主(あるじ)」ということです。日本国憲法の前文にあるように、主権が国民に存することです。そのことが考え方として最も重要なことです。人間の尊厳を尊重することが当たり前であれば、「民主」は当然出てくる。“天は、人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず”という福沢諭吉が言った言葉を学校で習ったかもしれませんが、このことなのです。ですから、考え方としての民主主義は、今日ではもはや非常に当たり前のことであります。

「制度」は民主主義を実現するためにあるが、国によって違うこと

「制度」としての民主主義とはどういうものかといいますと、人間が主人公であるということを保障する、そういう仕組みを持たなければならない、ということです。

例えば日本でいうと、これも憲法で習ったと思うのですが、憲法の41条では「国会は、国権の最高機関である」といっている。そして、その国会の構成は「全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」というかたちになっている。これを「間接民主制」という。ようするに、私たち国民一人ひとりが直接政治に参加し決定するということは、一億三千万人の人が全部動くということで、物理的に不可能である。したがって、全国民を代表する国会議員が国会を構成して、その国会が国家の権力の最高機関であることによって、私たちは国家の主人公であることを「制度」として実現するということになるのです。これを議会制民主主義ということもあります。

しかし制度としての民主主義についていいますと、このような日本のような仕組みが唯一のものというわけではありません。例えばアメリカでは大統領制をとっている。いま問題なのは、レジュメの②で申しあげたかったことですが、デモクラシーの「顔」ということです。いまアメリカが「これが民主主義だ、デモクラシーだ」という制度しか受け入れてはいけないような雰囲気がある。例えば、アメリカは社会主義の中国でおこなわれている政治の制度を、あれは民主主義ではない、と言っています。しかし、中国自身は自分たちの制度は民主主義だと言っているのです。中国の制度はアメリカ的な制度ではない。詳しいことは申し上げる時間がないのですが、実は制度としての民主主義はいろいろな「顔」がありうるのです。

 みなさんに理解していただきたいのは、制度の面では色々な国が色々な制度で対応しているということです。それぞれの国は、自分たちの制度が、自分たちの国において人間が政治の主人公として行動することを実現するうえで、もっともふさわしい制度だと考えている。それをアメリカが、アメリカの制度という独自の物差しではかったら、他の国の制度は自分たちの物差しとあわない。メートル法をやっているアメリカはいいが、他の国が尺貫法だとか違う制度をとっているから、それは民主主義ではないとするのは、非常に乱暴なことです。この問題は、本当はもう少し詳しく話さないと理解しにくいかもしれませんが、そういう問題があるということを考えてみてください。

自分自身が「運動」しなければ、民主主義は崩れる

もう一つ重要なのは「運動」という要素です。これは先ほど私が申し上げたように、みなさんがこのおやこ劇場で自分で行動して、自分で動いて、自分たちのおやこ劇場をもっと活き活きとさせる、という問題です。「運動」としてみなさんが自分で動いて、このおやこ劇場をもっと民主的なものにしていく。人間の尊厳を大切なものにもっとしていく。そういうふうにみなさんが常日頃動く、働く、働きかける。もっと民主的な組織、民主的な社会にするべくみなさんが働きかけていく。こういうことを不断にしないと、民主主義は必ず崩れますし、もっと言えば逆の方向にすすみます。それが今一番はっきりしているのが日本の民主主義の現状なのです。

今の日本は民主主義だと言います。小泉さんは二言目には日本は民主国家だと言います。この前の9月11日の事件の時に、ブッシュが人類文明に対する挑戦だと怒鳴ったとたんに、小泉さんはもう一言加えて人類文明と民主主義に対する挑戦だと言ったのです。私は、そこまで言うかと思ったのですが、彼は何が民主主義であるかわかっていないのに言っているのです。といいますのは、今この日本は小泉純一郎という人間によって、民主主義から最も遠い方向に押しやられようとしているからです。彼はすべてを密室で決めています。彼は70数パーセントの国民のへんてこな支持があるということだけで、それだけを頼りにしているわけです。国会だって、彼にとっては道具に過ぎないのです。こういうときに、もし私たちが本当に日々この日本という社会をもっと民主的な社会、もっと私たちが主人公であるそういう国、社会にしたいという意識を持ち、そのために働きかけを続けているならば、私は、小泉純一郎氏は明日にでも首相を辞めざるを得なくなるだろうと思います。

逆に言うと、私たちがデモクラシー、民主主義というものについて日々実践していないから、あるいは眠りこんでいるから、運動していないからこそ、彼はあれだけ威張りくさって、ふんぞり返っていられる。彼がふんぞり返っているということは、いかに私たちが運動として民主主義を実践していないか、私たちが権力の暴走をチェックするための努力をいかにしていないかを表明しているようなものなのです。

民主主義において、「多数決」というのは制度としてのほんの一部です。しかも、便法としてあるにすぎないのです。これを民主主義の中身であるとみなさんの頭の中で理解してしまうなら、小泉純一郎が国会で多数を取れば、これが民主主義になってしまう。そうではないのです。そんな単純な理解で民主主義というものを考えないでいただきたいと思います。

「本格的有事法制」を今国会にあげる暴走

普遍的な価値としての民主主義とは、もっともっと中身が深く、もっともっと私たちにとって意味があります。そして、私たちがいったんその本質をつかまえて、それをもっと日々の生活の場面で実現していこうと運動していくようになれば、本当にもっと内容の深いものだと理解するようになるのです。

デモクラシーにしても、先ほど述べた人権にしても、基に戻ればものすごい歴史的な積み重ねを経て、私たちの先輩たちが勝ち取ってきたものである。だからこそ価値があるのです。

しかし、私たちが常に、毎日不断に意識し、さらにそれをより良いもの、より新しいものにしていく決意を持っていないと、権力の方はパクッと食いついてきて、それを私たちから奪ってしまうのです。それが、いま日本において起こりつつあることです。

もう一つ「人権」にかかわる問題を申しますと、今度の国会で小泉政権は「本格的有事法制」を成立させようと公然と言いはじめています。その中身は私たちの人権を奪い上げる法律なのです。どういうことを彼は考えているかといいますと、「強制疎開」ということをはっきりと言い出しているのです。強制疎開といえば、軍国主義の時代に学童の疎開ということを映画やテレビで御覧になった方もいると思います。要するに都会がアメリカの空爆を受ける、したがって子どもたちは、アメリカの空爆にさらされないような田舎の方に集団で疎開させられたのです。それが自分の意志ではなく、強制疎開、強制なのです。あるいは、強制調達あるいは国家の命令があれば家を空け渡すとか、そういうことがずっと行われたわけです。

今度の法律ではそういうことをも盛り込むと言い出している。なぜかといいますと、とても生々しいことを彼らは考えているのです。今、彼らが一番考えていることは、アメリカが近隣諸国、中国や北朝鮮に戦争を仕掛けることです。この前も不審船を銃撃して沈没させ、10数人が全員死亡という事件がありました。みなさんは、日本の行動は当然のことと思っているかもしれませんが、あれだってまかり間違えると、日中戦争の発端となった盧溝橋事件と同じことになりかねないことなのです。この事件では、盧溝橋という中国のある橋を境にして日中両軍が交戦をはじめたのです。そのときの日本は、中国軍が先に発砲してきたから日本軍が応戦したといい、それを口実にして中国に対する全面的な侵略戦争をはじめたのです。どちらが先に発砲したかは大きな問題ではない。日本は何らかの口実をつけて侵略をしようとしていた。だから、盧溝橋事件を口実にして、中国に対する侵略戦争を始めたのです。それが問題の本質です。

これと同じようなことが、今度の不審船撃沈事件でも起こり得ることを意味しているのです。というのも、2年前の事件のときは、不審船は逃げきった。何もしないで逃げた。ところが、今度の事件のときは、沈没させられた不審船は、何か故障があったらしい。故障があって高速が出せなかったらしい。新聞報道でもそのように報道されています。しかも、それを攻撃する前からわかっていたというのです、日本側は。逃げられないのに威嚇射撃をしたのです。向こう側は撃ってこないのに。これはハッキリしているのです。ですから、明らかに今回の事件は、日本側が先手をうっている。しかも、不審船は日本の領海の中にいなかった。威嚇射撃を行ってもいいと法律で規定されているのは、領海の中においてだけです。今回の場合は、どう見ても日本の過剰な行動だったのです。

私が何を言いたいかといいますと、もし、あれが北朝鮮の船だったとすると、日本側の不当な行動に対し、北朝鮮は自衛権として自分たちが正当に反撃する権利を主張し、日本に対して反撃の戦争を始めたとしても、文句を言えないことになるのです。国際法的に見ると、そういうことになるのです。今回の事件は、日本が原因をつくって戦争が始まることもあるということを示したのです。

ではなぜ「強制疎開」という話が出てくるのでしょうか。北朝鮮は日本に対し正面から反撃するような軍事力はありません。だから、彼らができることはせいぜいゲリラ部隊を送り込み、日本を撹乱させること、日本の弱みをつかまえてそこに攻撃の手を向けることです。その点も、小泉さんたちはわかっています。彼らが一番恐れていることは、北朝鮮のゲリラが原子力発電所を攻撃することなのです。原子力発電所を攻撃されたら、日本は核攻撃を受けるのとまったく変わりがなくなるのです。もっとひどいかもしれません。チェルノブイリのことを考えると、後々まで後遺症が残るわけですから。広島、長崎原爆の場合は、驚くべき早さで広島、長崎の町は復興しましたが、チェルノブイリではいまだにあの原発はくすぶりつづけている。ですから、放射能は漏れつづけているのです。そういう意味では、原発攻撃の方がたちが悪い、ともいえます。このようなことをされたら、日本では原発が日本海側に40数カ所密集していますから、九州、中国、近畿、中部、東北、北海道、こういうところを攻撃されたら、日本は全滅です。そういうことまで考えて、原発の付近の住民を強制疎開させ、他のところに移り住ませ、自衛隊が、原発が攻撃されないように守るということなのです。

自分で戦争の原因をつくり、反撃されることを考えて、国民を強制疎開させることによって、自分たちは戦争をする。これが今度の国会であがろうとしている「安全保障基本法」の中心的な中身なのです。本当に私たちは、容易ならざる事態に突入しようとしています。そういうところに小泉政治は、私たちを持っていこうとしている。今のままですと、成立してしまう危険性は大きいといわざるを得ません。なぜならば、私たちは先ほど申し上げたモノサシを持つに至っていないからです。もし私たちが本当に人権、民主主義という強力なモノササシを自分たちの行動基準に持っているならば、こんなことを許すはずがないのです。私たちはそういう所まで追い込まれている。そういうことをみなさんに考えていただきたいのです。

普遍的な価値は多くの「顔」を持つ

レジュメの②、③のところを参考までに聞いてください。普遍的な価値と言うのは、その内容が多くの顔を持つこと、その国々の歴史的な制約を無視するということではないという点です。

これはどういうことかといいますと、人権、民主主義は普遍的な価値ですが、世界を見回しますと、私たちが自分のものにしている人権の中身は、内容的に豊富なものである。これは、歴史的にひとつひとつつくられてきたものであるということが一つ。歴史の蓄積がなかったら、これだけ豊富な内容のものにはならなかったでしょう。そのことを、人権は多くの「顔」をもつというのです。その多くの「顔」ということは歴史を抜きにして理解できません。

しかし、これを水平に見てみると、世界の国々で欧米先進国と言われる国々もあれば、アフリカの国々、あるいはアフガニスタンのように生きることもままならない国もある。あるいは宗教上の理由で今日でもなお、男性と女性を差別して当然だと考える方をとっている国もある。

こうした時に私たちは、私たちが勝ち取ったものが今や普遍的なものだとして、あらゆる国に対して、歴史的発展段階や今の状況を無視して、押しつけるということには慎重でなければならないということを考えてほしいのです。例えばアフガニスタンですが、みなさんもよくテレビで御覧になったことがあると思いますが、女性はすっぽりとブルカという布をかぶっています。それはおかしいと、人権活動家や欧米の女性解放の人たちはかなり大きな声で批判している。しかし、カナダのインディアンの人たちが進歩という考え方を受け入れないように、アフガニスタンの多くの女性の人も、ブルカという衣装を自分の体の一部として受け止めている現実があるのです。そうした時に、その意識が間違っていると言ったら、冒頭に申し上げたように、私たちの価値観を彼女たちに押しつけていることに他ならないことになります。

つまり私たちは、その国の歩みにそった人権の実現の仕方があることを理解するべきである、と考えます。普遍的な価値としての人権を擁護する点では、私たちは一歩も譲ることはできません。しかし、その人権の実現の仕方については、国々によって、地域によって、実現される人権の中身、顔というのは、その国の歩みの程度によって違いがあっても、それは私たちが受け入れていかなければならないということを申し上げたいのです。

同じことがデモクラシー、民主主義でも言えるわけであります。これも先ほど申しましたように、人間が主人公であるという考え方は譲ることはできない。天皇が主人公だなどという考え方は、絶対に二度と受け入れられない。あるいは身分制をもう一度導入して差別を当然とする社会をつくろうとすることを、私たちは絶対受け入れることはできない。しかし、その考え方に立った上で、その考えを実現する上ではどういう制度が一番適しているのか、考え方を実現するのに一番ふさわしいのはどういうことかについては、いろいろな可能性があるのです。今世界中でいろんな試みがされていて、これだという制度は実はまだ、というよりもこれからも出てこないであろうと思います。それぞれの国の歴史とか伝統とか文化とか、いろいろな要素が入るから、そういうものをポイントとしてそれぞれの国で自分たちに最もふさわしい制度を実現するのが当たり前ですし、それこそが人間の多様性を承認することにもつながると思います。ですから、制度としての民主主義は多くの顔を持つ、ということです。

運動としての民主主義も多くの顔を持つことを承認する必要があります。どういう働きかけを社会に対してするかということについては、国によって違いがでてくるのは当たり前です。文化も違えば、歴史も違い、伝統も違うわけですから。街頭に繰り出す。メディアが発達していれば、そのメディアをフルに活用するという方法をとる。例えば、最近で言えば、私が精一杯力を入れているインターネットでホームページを開設すること。これも立派な運動としてのデモクラシーである。しかし、インターネットというものがまだ入りこんでいない国が、むしろ圧倒的に多い。そういう所ではインターネットという運動はありえないわけです。こういう所ではどのような運動がありうるかというと、その国々によって違う。だから、運動としての民主主義は多くの顔を持つ。唯一のものは有り得ないということを私たちは理解してかかる必要があるのです。

具体的にいうと、先ほど言いかけましたが、アメリカは、中国は民主主義国家ではないという。しかし、中国には13億の民がいます。そして、みなさん機会があれば、発展している北京や上海だけでなく、内陸に行っていただきたい。内陸に行くと良くわかります。本当に発展していないのです。経済的にも社会的にも。ものすごい多種多様な発展段階の違いからなっている国なのです。こういうところで日本的な意味の制度としての民主主義を行おうとしても無理なわけです。そういう状況にそくして中国は自らの模索を行っている。ということを理解すべきだと思います。

民主主義も多くの「顔」がある。制度、運動としては多くの顔があり得るのだということを理解すれば、私たちは、社会主義だから民主主義ではないというような、一方的な決めつけは有り得ないということもわかってくるはずです。

「反戦平和」をどう考えるのか

もう一つ、レジュメのⅠ-1-(1)-③に触れておきたいのです。みなさんカチンとくるかもしれませんが、普遍的に承認されていること以外の価値観をモノサシにすることは、慎重でありたいと思います。その点をなぜみなさんにお話しするかといいますと、戦後の日本では、「反戦平和」というと、これできまりという感じがあるからです。「戦争」というと絶対悪、「平和」は絶対善であると受け止める雰囲気がある。

実は、私たちが戦争は悪だと考える時に思い浮かべるのは、日本が行った戦争、あるいはアメリカがアフガニスタンに対して行った戦争なのです。これらが悪であることは間違いありません。なぜかといいますと、人間の尊厳を尊重するというモノサシにてらして、到底肯定できるものではないからです。日本の侵略戦争について言えば、民主主義という基準からいっても肯定できるものではない。アメリカがアフガニスタンに対し行った戦争も、民主主義とはおよそ相容れないものであります。

しかし、日本に侵略された中国が日本に対して行った抵抗戦争、ベトナムがアメリカに対し抵抗して行った戦争は悪なのかという問題も考える必要があります。結論を言いますと、中国が日本の侵略に対して行った戦争は、人権、デモクラシーという基準に照らして考えれば、肯定するほかありません。同じようにベトナムがアメリカに対し行った戦争も、人権、民主主義という基準に照らして言うと、正しい戦争だったと言うしかないと思います。中国が日本の侵略のなすがままにされていたら、中国の人々は永久に解放されることがなかったでしょう。そして、中国の人が国家の主人公になる機会も永久に奪われつづけたでしょう。なぜなら、日本は、中国人を日本人より劣る民族として扱おうとしていたからです。同じことがベトナムについても言えます。

ですから、実は「戦争は悪だ」ということを人権、民主主義のモノサシでもう一度はかってみると、すべての戦争は悪だとは言うわけにはいけない、という結論になるのです。もちろん将来的には、すべての国において人権、民主主義が実現されるようになった段階で、戦争、はどの国においても実現されている人権、民主主義を否定するものとして、悪と断定することができる時がくるかもしれません。

しかし、冒頭に言いましたように、人間社会の歴史的歩みというのは、いきなり100%理想的な段階に達するということはありえません。残念ではありますが、不平等は将来も長きにわたって存在しつづけると思います。あるいは人権、民主主義を犯そうとする行動に出る国、勢力が出てくると思います。そうした場合に、人権、民主主義を侵される立場に立つ側が、人権、民主主義を守ろうとしてやむを得ず戦う戦争がありうるということです。そうした場合の戦争は悪だとは言うわけにはいかないと思う。私はそういうことを今考えつつあります。

同じように「平和」について。戦争の反対が平和だと考えると、戦争について絶対悪がありえないということは、平和についても絶対善だとは言えないと考えられます。例えば、日本が戦後平和であったのはアメリカと仲良くしてきたからだという人がいます。こういう考え方の人が日本には多い。平和を何よりも尊いという人の中には、今の日本があるのはアメリカのおかげだと考える人が多い。そのアメリカは、世界において欲しいままに戦争を行っているのです。ということは、私たちは、平和をつまみ食いしているにすぎないのです。

日本は戦後戦争したことがない、平和だった、というのは事実においても誤りだと思います。アメリカは現実に日本の基地を使って戦争をしているわけですから、私たちは十分戦争をしている国、戦争をしてきた国なのです。

このように、平和の問題についても普遍的価値の二つのモノサシで考え直す必要があります。ようするに、反戦平和、戦争反対、戦争=悪、平和=善という価値観をモノサシにして物事を考えると、やはり物事の本質を見誤ることになる危険性があるということです。今回の例で言えば、アメリカの報復戦争をするのはやむを得ないと思う私たちは、もうすでにそこにおいて人権、民主主義というモノサシをはずしてしまっているということです。

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