いま、国際政治をどうとらえるか 
-九・一一事件後の世界を考える-

2002.02

*2002年1月5日に、全国民主主義教育研究会(全民研)の中間研修集会でお話ししたことのあらましです。意を尽くしたものにはなっていませんが、ご参考までに。

私は9月11日の事件が起こったからといって、国際社会が異質の世界になったとは考えておりません。むしろ私が考えていたことが再確認されたという気持ちが強いのです。事件が起こってからのブッシュ発言の中でも、もっとも重要な12月11日の演説、国連安保理決議一三六八を参考資料としてご覧ください。

 私は今回の事件を受けて、改めて「国際法は何なんだ」と考えなければならないと思います。私が理解する限りの多くの日本人が、国際法というのは確立された法規範で、国内法より次元が高い領域にあるとか、モラル性・倫理性が強いと過大評価しているのではないかと、と私は常日頃感じていました。しかし今回の事件以後の流れ、特にアメリカ・ブッシュ政権の現実の行動を見ますと、大国の実力行使の前には国際法規はいかに脆いものであるか、世界に事実をもって示したという面があります。

私としては、特に集団的自衛権という概念をどう考えるかを主題とした本の原稿にまとめたところで事件が起こりました。事件をうけてさらに内容の肉付けをして、2002年2月15に集英社新書として『集団的自衛権と日本国憲法』を出版します。そこでは集団的自衛権という国際法的概念を切り口にして、国際社会における法規範がどういう意味を持ちうるのか、又限界は何かということを大きなポイントの一つとして書いておりますので、関心のある方はそちらも参考にしていただきたいと思います。

【1】いま、国際政治をどうとらえるか

お話ししたい最初のポイントは、事件が起こった後、パワー・ポリティックス的思考があたりまえの世界では、どういう問題意識が表面化しているのか、という問題です。

なお、あらかじめことわっておきたいのは、日本のマスメディアが使っている「同時多発テロ」という言葉を私は意識的に使わないことにしていることです。私は「九・一一事件」と呼ぶことにしています。アメリカ、イギリスでも「同時多発テロ」的な表現はあまり使われていません。なぜか日本では、「テロ」という言葉が無造作に使われているところが、私は怖いと思います。テロリズムという言葉は、厳格な定義を踏まえた上でのみ使うべきだと考えます。私は、「テロリズム」という言葉にみられるように、日本語として使うときに特定の響きやニュアンスや意味合いが込められてしまう、そういう言葉を使うことには常に非常に慎重であるべきだと考えます。

一、九月一一日事件の後の国際政治における問題点

「九・一一事件」以後の国際政治では、いくつかの問題が浮上しています。

(一)ブッシュ政権のユニラテラリズム

一つは、ブッシュ政権の対外政策について、事件の前から国際的に懸念を持って特徴づけられていた「ユニラテラリズム」の問題です。この英語については、日本語としてまだ定訳ができていません。最近は「単独行動主義」という訳に収斂される傾向がありますが、私自身は「アメリカ中心主義」とか「一国主義」という言葉を充てています。

それはともかく、この「ユニラテラリズム」とは、アメリカの国際観、あるいはその国際観に基づく対外政策における一つの大きな新しい流れ、として位置づけることができます。平たく言ってしまうと、アメリカの利益を中心にものごとを判断し、アメリカの国益と考えるものに基づいて重要な対外政策を形作る、他の国々の利害は基本的に重視しない、というところに特徴を持っています。それは事件前に、京都議定書、CTBTの問題などに対するブッシュ政権の拒否の姿勢に露骨に現れていました。アメリカにとって利益にならないと思えば、前政権が合意した国際約束でも受けいれないのです。

事件が起こってから、アフガニスタンや事件を起こした容疑者に対し、アメリカ一国で戦争を行うわけにはいかないという現実的な必要性に直面して、ブッシュ政権は同盟国を募るという政策に訴えました。その時日本国内でも多くのメディアがそうであったように、欧米においてもアメリカのユニラテラリズムが基本的に修正されたという見方が広がりました。しかし、同盟国を募るという方針も、実はあくまでアメリカが戦争を遂行するうえで必要と考える限りにおいてであって、ユニラテラリズムの考え方は不動であることがはっきりしてきています。

小泉政権は、いわゆるテロ対策特別措置法を強行成立させ、海外派兵したのですが、アメリカは今回の戦争はほぼ自国だけでやる方針を貫いています。むしろ他の国の協力はじゃまだと考え、アメリカの指揮系統に入ると一札を入れた国のみを駒として使うという露骨なやり方です。イギリス軍の参戦もそれが前提になっています。あまり雑多な要素がアメリカの作戦計画に入り込むとかえって戦争ができなくなる、といって排除している実情があり、フランスなどとは不協和音が出てきています。

このように、ブッシュ政権の本質は変わらず、という認識が国際的には再定着してきています。つまり、九月一一日事件はアメリカを何も変えなかった、ということが確認されるのです。したがって、アメリカのユニラテラリズムをこれからの国際政治においてどう位置づけるか、これとどう付き合っていくのかということが、大きな問題として浮かび上がってきています。

私は、アメリカのユニラテラリズムを許したら世の中は大変なことになる、という強い問題意識があります。ところが欧米とくにアングロサクソン系の国では、ブッシュ政権のユニラテラリズムはそう簡単に変わるものではないということを前提にして、これといかに共存するか、いかにコントロールするかという方向で問題を考えようという発想が強いのです。ところがアメリカ的発想が無批判にまかり通る日本では、そういう発想すら起こらない。それを批判する立場に立つと、そんな考え方はマイナーであるとして切り捨てる。

私たちにとっての教育的、実践的な課題は、たしかにいまのところマイナーである私たちの立場をいかに客観的に説得力あるものにするかであり、子どもや若者たちに、それが正しい道だと確信できるように教える、紹介することができるか、ということです。私たちが正しいのだ、とする主張だけでは通りません。私たちの価値基準でものごとを判断して、その考えを示すだけでは、そしてそれ以外の判断・考え方は間違っているというだけでは、子どもたちに説得力を持ちません。国際的に影響力があり、日本国内でも無条件に受けいれられている考え方を十分に咀嚼した上での、いわば免疫力を備えた判断、考え方を子どもたちに提供することが求められていると思います。

(二)九・一一事件とアメリカの軍事戦略

九・一一事件そのものからどういう教訓を汲みとるべきか、という点についても様々な動きが出ています。ブッシュ政権は、従来の考え方とは一線を画する「恐怖」を脅威とする新しい脅威論を事件の前から流し始めていました。今回の事件でその脅威論が正しいことが確認されたと、ここでもブッシュ政権は事件の前と後で一貫性がある、というところがポイントです。

二〇〇一年一二月一一日のブッシュ演説は、私たちとして重視しなければならない内容があります。従来のアメリカの軍事戦略において根底にあったのは「脅威立脚型」の思考でした。脅威の存在を具体的に特定した上で、その脅威に有効に対処するための軍事計画はいかにあるべきかと考えていくものです。それに対してブッシュ政権は、脅威立脚型に対して「能力立脚型」と自らの戦略の特徴を規定しています。特定の国家を脅威として考えるのではなく、アメリカの経済力・科学技術力をもってして実現しうる限りの軍事力を構築する。そうすればアメリカに危害を加えるいかなる恐怖にも対処できるという考え方です。

一二月一一日のブッシュ演説では、脅威として明確に「恐怖(terror)」と定義しました。つまり、アメリカに恐怖心を起こさせるものは全て脅威とみなす考え方です。テロ、麻薬、大量破壊兵器など、アメリカの弱みを突くことによってアメリカに恐怖を与える可能性を持つものがすべて含まれます。内容的には、従来「非対称的脅威」とされていたものがおおむね含まれる感じです。そして、アメリカに対して恐怖をもたらすものに全面対決しうる軍事能力を構築していくとすることによって、能力立脚型戦略と結びつくというわけです。九月一一日事件を受けたブッシュ政権は、今まで手を抜いてきた部分にもこれからは手を抜かないという方針を打ち出しており、科学技術の粋を尽くした軍事能力を身につけることをまっしぐらに追求する構えです。もちろん、そのような野心的な方針が貫けるかどうかは、アメリカ経済の今後の動向に大きくかかっていますが、少なくともブッシュ政権はそういう構えです。

このような脅威認識及び軍事戦略は、私たちからするととても恐ろしい考え方です。世界最強の国家があらゆる問題に対して猜疑心をもって臨むというわけですから、相手にその気がなくても、アメリカが「恐怖」とみなしてしまえば、逃れるすべがない、ということになります。「恐怖」というのはあくまで主観的判断によるものですから、アメリカが主観的判断に基づいて行動することになれば、国際関係は不安定となることを運命づけられてしまうという深刻な意味合いがあります。

(三)九・一一事件があぶり出した国際政治経済における構造的問題

今回の事件をどのように受けとめるかについて、もっとも見事な表現を使ったと思うのは内橋克人です。彼は、「(事件は)これまでに国際政治経済にあった構造的問題をあぶり出した」と表現しました。今回の事件はアメリカの二重基準による対外政策が国際政治における構造的問題の根幹であることを客観的に明らかにした、という認識は国際的にも広がってきています。

事件を受けたイギリスのアメリカべったりの行動には疑問を持つ向きが多いのですが、イギリスの発想はアメリカの懐に飛び込むことによって、アメリカが暴走しないようにという意味合いも明らかにあったと思います。事件が一段落ついてきた段階で、イギリスのブラウン蔵相が、世界の貧困問題を解決することが重要だと主張し、かつてのマーシャルプランに見合うような五〇〇億ドルの投資を行うべきだという提言をしました。貧困問題が今回の事件の背景にあるという認識は、世界銀行の総裁やOECDの事務局長やWTOの閣僚会議においても、かなり広範に広まっています。ただしブラウン蔵相の提案は、アメリカに完全に無視されて、イギリスでもアメリカに対する大きな不満が噴き上がっています。

もう一つ国際的に注目されている構造的問題としては、アメリカの対外政策における二重基準の問題があります。今回の事件はアメリカのイスラエルに偏重した中東政策がアラブ諸国にしわ寄せをもたらしたことが原因になっている、という点について認識が広がっているのです。今回の事件でいえば、一九人の実行犯のうち一五人がサウジアラビア人であること、ビンラディンはサウジアラビア人であり、彼の右腕と言われる二人はエジプト人である、ということはじつに象徴的だと思います。

サウジアラビアとエジプトが今回の事件の大きな要素となっているのは偶然ではありません。イスラムの聖地でもあるサウジアラビアは産油国であり、アメリカは湾岸戦争以来サウジアラビアに基地を持っている。ビンラディンの反米の原点はそこにあることはよく知られています。そのサウジアラビアは専制君主国家です。自由民主主義を標榜するアメリカは、石油のためには腐敗しきった専制君主国家を擁立し、国内において人権・民主主義を徹底的に押さえ込むことを黙認している。それに対して絶望的な異議申し立てをするのがサウジアラビアのインテリたちであったという繋がりがでてきます。

エジプトもおおむね似た事情があります。その結果、アルカイダの二人の有力なエジプト人指導者はアフガニスタンでビンラディンと合流する、という経緯をたどっています。このように、今回の事件はアメリカの中東政策を抜きにしては語れないということははっきりしています。

二、九・一一事件から学ぶ国際政治の問題点

(一)イメージと国際政治

イメージと国際政治という問題は、今回の事件ほどイメージ・映像によって国際政治全体の流れを大規模に狂わしたことはかってなかった、という意味で真剣に考える必要があります。誤解を招きかねない表現をあえて許していただくならば、数千人の犠牲者を出す事件というのは国際的に見れば決して希ではありません。それなのに、今回の事件で何故に私たちがあれほどのショックを受けたかといえば、刻々と映像を通じて事件の衝撃が我々の目の中に飛び込んできた。それが私たちの冷静な思考力を停止させた、といえます。そういう冷静さを欠いてしまった私たちを前にして、事件の翌日にブッシュが「単なるテロではない。戦争だ」と叫んだのです。犯罪と戦争は、国際的にまったく範疇を異にする問題です。ところがイメージに頭が支配されている私たちは、ブッシュの絶叫を抑えるどころではなく、完全に引きずられてしまったのです。

イメージとの関連で言えば、ルワンダやコソボやボスニアにおける大虐殺を我々は事実としては知っていますが、九月一一日の時のような生々しい反応をなぜ私たちが示せなかったのか、ということも反省を込めて考える必要があるのではないでしょうか。私たちが反応を示さなかった大きな要因の一つはやはり、刻々と生々しい映像が伝えられなかった、ということだと思います。逆に言えば、本来テレビのイメージによって、その後の国際政治の動きが決められてしまうのがおかしいのであって、テレビの映像に関わらず事件の重要性に即して私たちは判断し、態度決定を行うことができないところに大きな問題を感じています。

イメージ・映像と国際政治とのかかわりに関してさらに考えますと、アメリカという国は映像を利用することに長けた国であることを十分に考える必要があると思います。アフガニスタンの戦争についても、湾岸戦争や旧ユーゴに対する戦争の時と同じように、アメリカは完全に報道管制をしいている。残酷な映像は私たちの目に入らないようにしている。コンピュータ・ゲームまがいの映像だけが支配することにより、私たちは戦争の悲惨さを認識することを妨げられ、結果的にアメリカにしたたかに動かされているという問題を考えなければなりません。

(二)犯罪と戦争

犯罪と戦争という範疇を異にする問題が超大国・アメリカの恣意のままに動かされるという問題もまた、私たちが考えなければいけないポイントの一つです。戦後の国際社会で確立された「犯罪」は、そこにおける行為主体はおもに国家以外の個人・組織で、今回の事件で言えばビンラディンやアルカイダです。これに対して「戦争」というのは、国家ないし亜国家的主体による行為です。これまでは、犯罪と戦争は行為主体の違いによって基本的に区別されてきました。犯罪と戦争を分けるもう一つの明確な基準は、犯罪は刑法によって処罰する対象であり、戦争は、国際紛争を解決する最終的手段という位置づけです。

このように確立されるに至った国際社会の理解を、いとも簡単にうち砕いたのがブッシュの「戦争」発言でした。あの発言があったとたんに、国際的に確立していた基準がいとも簡単に押し流されてしまったのです。しかしアメリカは、したたかに戦争と犯罪を意識的に混同し、自分たちに必要なときはアフガニスタンに対する軍事行動を自衛権の行使だと正当化する。ところがビンラディンやアルカイダの戦士をどう処遇するかとなると、犯罪者として扱おうとするのです。国際法には戦争法という分野があり、戦争による捕虜は人格を尊重して扱わなければならないことになっています。それではだめだとして、彼らを犯罪者として扱うというのです。ブッシュ政権がやっていることは、国際関係のルールを無視する便宜主義です。そこを私たちは明確に汲み取らなければいけないのです。

テロリズムという問題は、第二次大戦後、国連及び先進国首脳会議の場で集中的に取り上げられてきました。国連でも先進国首脳会議でもアメリカは主要な役割を果たしてきており、テロリズムを国際犯罪として扱うという認識は、アメリカも含めて国際的に確立したことです。犯罪は司法的に処理する、ということなのです。

私がテロリズムという言葉に拘っている理由をお話しします。テロリズムについて国際的に統一された定義は確立されていません。テロリズムには、個人あるいは非国家主体による政治的な目的を持って恐怖を引き起こすことを意図した犯罪行為、という点については国際的な認識は確立しています。それなのに何故定義が確立しないかといえば、国家によるものもテロリズムに含めるべきではないか、という主張をめぐって国際的な認識が統一されていないという事情があります。たとえば、イスラエルによるパレスチナに対する軍事行動をテロリズムとして扱うべきだ、という主張の扱い方です。この点で議論が分かれるということで、テロリズムという定義が国際的に確立されていないのです。

結論から言いますと、私は行為主体を問わないとするべきだと考えています。もちろん、国家をどのように刑法で処罰するのかという問題が出てくるでしょう。しかし、東条英機、ナチズムの戦犯、旧ユーゴのミロシェビッチが国際法廷の対象になっているように、いろいろな対応がありうるはずです。私は、国家を聖域におく考え方にはうなずけないものがあります。国家もテロリズムという犯罪の対象に含めるということになれば、私もテロリズムという言葉を使うことにためらいはないと思います。ところが現実には、この点が曖昧にされ、国家以外の主体だけを糾弾し、アメリカの国家テロリズムとしかいえない行動を問題にしないということは国際政治において片手落ちになるのではないか、ということでこだわるのです。

ちなみに、この犯罪に対して国際社会がどう対応してきたかというと、一九八八年に起こったパンナム機爆破事件では、容疑者をかくまっていたリビアと被害を受けた関係各国が国連もはさんで一〇年以上にわたる交渉を経て、最終的に司法的解決をすることで合意したという貴重な先例があります。今回の事件の「解決」として武力行使の手段に訴えたことは許されてはならないということをしっかり確認したいと思います。

(三)国連安保理決議一三六八に集中的に現れた国際社会の現実

率直に言って、日本人の国連に対するイメージは完全に国連の実態を無視したものです。国連の実態とは関係なく国連イメージが一人歩きして、それに私たちは安住し、国連によって物事を解決すべきだと議論立てています。しかし、今回の事件をうけた国連の行動は、私たちが正確な国連認識を我がものにする必要を改めて強く示すものだったのではないでしょうか。

とくに安保理決議一三六八は、アメリカという超大国が傍若無人にふるまうときの国連の問題を端的に示すものでした。本来であれば犯罪として扱わなければならない問題を、アメリカが軍事力行使をすることにあらかじめOKサインを出したというのが、この一三六八号決議だったのです。ということは、安保理、安保理を中心とする国連、事務総長まで巻き込んで、犯罪と戦争を混同するというアメリカのプロットのアリバイづくりに協力したということなのです。このことから明らかなように、私たちが我がものにする必要がある国連観とは、国連憲章で確認された肯定すべき要素と、大国協調が実現すると国連は大国の意のままになるという、これまた憲章自体に含まれている本質をはっきり見てとることにあると思います。とくに米ソ冷戦が終わってアメリカが自己主張を始めると、そのアメリカに対して国連は抵抗することがむずかしい。そういうことを私たちはしっかりと見て、国連に対する見方を鍛える必要があると思うのです。

このような国連観を子供たちにも正確に伝える必要があります。子どもたちに国連をありのままに伝え、その国連と私たちはどう向き合うのかという話し方をしないと、子供たちがしっかりした判断力を養うことにつながりません。「国連は正しい存在であり、国連によって物事を解決するべきだ」ということだけで終わってしまうと、今回のように、「安保理決議がアメリカの行動を認めたのでしょう、だからアメリカの行動はいいのでしょう」と議論されたら、それまでです。国連安保理だってまちがいを起こす、まちがっている国連安保理の決議に従ういわれはないのだ、と議論できる子供たちであってほしいのです。

(四)自衛権にかかわる問題

もう一つは、法的概念である自衛権にかかわる問題です。

 

私たちは、自衛権というと、国際法上確立した概念であり、モラル的に良い悪いの判断はともかく、法的には、自衛権の行使であるかぎり軍事力行使に反対する根拠はない、と考えがちです。今回の事件でも、アメリカの行動は自衛権行使の範囲に属するのか、という形でしか議論できていません。しかし、今回の事件が示したのはもっと奥深いものがある、というのが私の実感です。

自衛権はアメリカにとって隠れ蓑にすぎない。自分の行動を国際社会に受けいれやすくするための便宜として利用しているにすぎない。彼らの行動を無理やり自衛権という法概念に押し込める構えをとっただけである。しかし本質を見れば、およそ自衛権という概念からかけ離れてしまっている。アメリカははるかに危険な領域に踏み込んでいるということを掴まないといけない。さらにいえば、自衛権という法的概念を使って批判できるところは批判しなければいけないけれども、そこだけに留まっていると、アメリカの行動はそれなりに理解はできるという心情論に対しては説得力に欠ける、ということなのです。

今回の事件の場合、事件の根源にあるのはアメリカの対外政策そのものである。つまり、貧富の拡大を生みだした対外経済政策であり、中東に対する二重基準の政策である。アメリカがその政策を反省し改めなければ、問題の根本的な解決にはつながらない。軍事力行使に訴えることは、そういう根本的な問題の存在を覆い隠すだけで、ますます問題を深刻化するものだ。そういう議論をしなければ、問題を矮小化することになりかねないと思います。子どもや若者たちと向き合うときに、法的に許されないという問題も議論しなければならないことは勿論ですが、しかし、そこで終わったら問題の全体像を掴んだことにならない。全体像を子どもたちに示す努力をしなければならない、と思うのです。

(五)超大国・アメリカの位置づけ

今回の事件では、国連憲章で確立された国際関係の大原則である国家主権の尊重・内政不干渉・武力行使・問題の平和的解決、こういうルールが突き崩されました。そのことに対して国際的にも、日本国内においても危機感がないこと自体が危機だと思います。アメリカは、アルカイダの組織がソマリアやイェメンにもあるといって、これらの国に対する軍事力行使に着手している、と伝えられています。アメリカは、テロリズムについて異常な拡大定義をしています。「テロリストをかくまうもの・養うものもテロリストだ」と。さらには、「大量殺戮兵器を開発するものも責任をとらなければならない」と言い出す始末です。アメリカは、そういうとうてい許されない主張に基づいて、国際法の諸原則を公然と無視する行動に走った、ということこそが、私たちがもっとも深刻に考えなければならない問題であるはずです。

この拡大定義が極めて異常なものだということは、国内の問題にひきかえて考えればわかります。つまり、「殺人犯をかくまうものも殺人犯だ」というのに等しいのです。ビンラディンはテロリストだからテロリストとして扱う、ということまでは議論として成り立ちます。しかし、ビンラディンをかくまったオマルもテロリストとして扱う、とするブッシュの主張は、本質的にばかげています。ところがそれがまかり通る。これでは、国際社会はとんでもないことになります。現にインド・パキスタン関係の不安定化、イスラエルによるパレスチナに対する無茶苦茶な軍事行動を、私たちは目撃しています。イスラエルやインドの指導者が自らの行動を正当化する根拠は、アメリカの言う「テロリストをかくまうものもテロリストだ」ということなのです。インドの場合、カシミールの分離独立運動をしている連中はテロリストであり、そのテロリストを支援するムシャラフ政権はタリバン政権とどこが違うのか、という理屈です。イスラエルも同じで、ハマスを取り締まらないで庇護しているのはPLOだ。だからPLOもテロリストだと主張しているのです。こうなると「なんでもあり」の世界です。

今回の事件が起きる前までの状況では、カシミールの分離独立運動におけるテロリスト的な行動は非難されるべきだが、カシミールの分離独立運動そのものは民族自決という正当な範疇の問題であるというのが、国際的に確立した認識でした。パレスチナ解放機構についても、一九九三年のイスラエルとのオスロ合意によって、イスラエルも含めて正統な政権として国際的な認知を得たわけです。ところが、ブッシュが「テロリストをかくまうものもテロリストだ」と放言したとたんに、これまで確立された国際基準が覆されるということになってしまいました。本当に危険な事態です。

アメリカという超大国が自己主張しはじめると誰も鈴をつけられない、という事態に直面しつつある。この危険性は、歴史の先例に鑑みればわかります。暴走しようとする独裁者、ナポレオンにしろヒットラーにしろ、そういう存在が出現した場合、それをくい止めようとする国際的な連合ができ、バランス・オブ・パワーという復元力が働いて、国際関係は正常な状態に戻ってきました。ところが今は、そういう力が働く余地が失われつつある。アメリカの一人勝ちの世界になってきているという中で、国家の大小、強弱、貧富の違いにかかわらず、独立国家であるかぎり対等平等という原則そのものが根本的に覆されかねない状況がでてきています。

三、国際政治の最大の不安要因としてアメリカをとらえる視点をもつ今日的必要性

今後の国際政治を考える上で、アメリカについて根本的に考えなおす必要があります。

その前提として、アメリカの対外政策の基底を流れる考え方を理解する必要があると思います。第一次大戦、第二次大戦以前は孤立主義という形で現れていました。第二次大戦後は国際主義が主流になる。クリントンからブッシュになって、ユニラテラリズム(アメリカ中心主義)という形になってきたという流れです。孤立主義、国際主義、アメリカ中心主義は全く違った思想的な流れではなく、根は同じだと私は思っています。アメリカの対外政策の根底には常に、普遍的価値の担い手という選良意識・使命感と、露骨にアメリカの利益を追求するという国益重視、という二つの要素が働いているからです。この二つの要素がアメリカをとりまく時代時代の国際環境に適応すると、孤立主義(アメリカが弱小国家であった時代)、国際主義(アメリカが超大国になった時代)、ユニラテラリズム(ライバルのソ連もいなくなって、唯一の超大国となった時代)として自己主張するという構図です。

孤立主義の時は、選良意識・使命感はありますが、アメリカはまだ弱いわけですから、選良意識だけに基づいて暴走すると欧州列強から叩きつぶされる。アメリカという国家の存続自体が危うくなる。したがって、アメリカ大陸の独立を確保して、普遍的価値の担い手としての存続をはかるということになる。モンロー主義というのは、欧州大陸の出来事には干渉しない。その見返りに欧州列強もアメリカ大陸の出来事に干渉しないでくれという内容でしたが、しだいに後の要素だけが強調されるようになって、孤立主義といわれるようになったのです。孤立主義というのは、アメリカが弱小国家であったということを反映した、しかし選良意識をしたたかに生き残らせる戦略でした。そのことが同時にアメリカ国家の生存を確保するという国益重視にも結びついていたのです。

ところがアメリカは第一次、第二次大戦を経て世界最強国家になった。アメリカの国際政治学者が「トルーマン主義は第二次大戦後のモンロー主義である」と形容したことがあります。アメリカが世界最強になった段階では、選良意識・使命感をおおっぴらに国際社会に伝道していくことができます。それが国際主義ということになります。しかしその時代は同時に米ソ対立という国際環境の中にありました。同盟国や友好国の支持を確保するためには、これら諸国の立場にも配慮しないわけにはいきません。

ところが、ライバルだったソ連が解体してからは、他の国々の立場に配慮する必要が薄れてくる。国際主義の段階では、自分たちのやることに対する反応を意識するという自己規制が働いていたが、その意識すら抜けてしまったのがアメリカ中心主義で、だから危険なのです。それがブッシュ政権のもっとも危険な様相であろうと思います。アメリカ以外の国家からすれば、国際主義までのアメリカとは何とか意思疎通ができる余地がありましたが、今やその余地もなくなってきているのです。このアメリカをいかに軌道修正させるか。生まれ変わらせるか。それが、これからの国際政治における最大最重要な課題であると考えます。

【2】いま、国際政治をどう教えるか(私のめざしてきたことの再確認)

最近ある青年たちの学習会で話しをしたときに強く感じたことですが、今回の事件の評価として、「テロリズムは悪だ。許されてはならない。」というだけで話が終わってしまいます。その結果、アメリカの軍事行動については、国内の世論調査を見ても、過半数の人がアメリカの行動を支持し、日本がアメリカと行動を共にすることを支持する流れがある。そこで私たちがとくに子どもたちと接するとき考えなければならないのは、「テロリズムは悪いこと」といいきるだけでいいのか、という問題です。なぜ悪いのか。なぜ悪いと判断すべきなのか。「テロリズムは犯罪だ」というだけで本当にすべてのことを言い尽くしたことになるのか。なぜテロリズムは生み出されたのか。なぜアラブの人は絶望的な異議申し立てをするのか。もっと奥深いところまで私たちは考え、子供たちにも考えてもらうようにしなければいけないのではないかと思います。

こういう問題を根本的に考え、判断する上では、私は、しっかりした座標軸を持つ必要があると痛感しています。テロリズムという犯罪行為は断固として罰しなければならない。しかし、テロリズムという絶望的な異議申し立てが繰り返し起こるのはどこに原因があるのか、という根本問題を考えるとき、どうしても座標軸がしっかりしていなければならない、と考えるのです。

私は人類の進歩を信じる立場に立っています。人類の歴史の中で承認され、確立した価値、つまり普遍的価値こそが、私たちが物事を判断するに当たっての座標軸であると考えます。それは、人間の尊厳をなにものにも勝るものとして承認することであり、人間の尊厳を政治的に実現するデモクラシーです。この二つの価値は、第二次大戦までの人類の歴史を通じてようやく国際的に確立されました。たしかに歴史的な所産ではありますが、この二つの価値はいまや普遍的に承認されていますし、普遍的価値としての位置が将来にわたって揺らぐことはないでしょう。それが座標軸です。

今回の事件に即していいますと、テロリズムを断固批判し、否定しなければならないのは、それが人間の尊厳を踏みにじる行為であるからです。しかし、テロリズムの根本の土壌としては、人間の尊厳を踏みにじり、デモクラシーを無視するアメリカの対中東政策があります。私たちは、座標軸をしっかりすえることによってはじめて、アメリカをも批判する明確な視点を持つことになるのです。このように、物事を考え、判断する上での座標軸を設定しなかったら、子どもたちに何事も伝えることはできません。子供たちは、私たちが確固とした座標軸に基づく語りかけをすることを必要としているはずです。

私は、大学の学生たちに接していて、彼らが日本の政治的無関心層、特定支持政党なしの層と似ているところがあることに気づくときがあります。つまり、自分自身は明確な意見を持っているわけではない。しかし、他の人の主張がもっている弱さ、ごまかしを見抜く力は直感的に持っている。私は、皆さんが接しておられる子供たちは、そういう政治的無関心層の予備軍としての位置づけが必要ではないか、と思います。つまり、子供たちは、私たちの考え、発言にごまかし、不徹底があれば、直感的に見破るしたたかさを身につけているのではないでしょうか。「戦争反対」を教え込まれれば、そのときはそれですますけれども、実際に戦争が起こったら、「それが現実だから」となってしまう。

私は一〇数年大学で学生たちと話してきて、学生たちが示す建前論と本音論とを平然と区別してなにも自己矛盾を感じない姿勢に接して、ほんとうに深刻に考え込まされています。彼らは、本質的な問題であればあるほど、曖昧な理解ですましている。曖昧な方が逃げ場を見つけやすいから、彼らには都合がいいのです。しかし、そのようなことを放置するわけにはいかないと思います。今回の事件は、座標軸を持つことの重要性を改めて確認させるものでした。私は、この十数年来、普遍的価値を根底にすえるという座標軸をもち、その座標軸に基づいて話しかけるということを心がけてきたつもりですが、この事件を経てそういう努力はますます重要であるという思いを深めましたし、学生たちにももっと鮮明に座標軸を持つことの必要性を語りかけていこうと考えています。

RSS