「民衆的視点」と「国民的視点」

2002.01.23

*この小文は、全国教職員組合が編集している『クレスコ』という雑誌に書いたものです。「民衆的視点」だけではなく、「国民的視点」をも養う必要があることは、教員、生徒だけではなく、国民すべてにとっての課題ではないかと思うので、紹介します。

 

2002年1月に全国教職員組合(全教)主催の教研(注:申し訳ありません。正式名称を失念しました)の社会科分科会にはじめて共同研究者として参加しました。現場の先生の教育実践報告を聞いて、教育における反動攻勢が強まる中で、負けずに子供たちと真摯に向かい合う先生がたくさんいることを確認できたことは、なによりもの励ましでした。

そういう中で、一つだけ気になったことがあります。社会科教育における「民衆的視点」の重要性を強調される何人かの先生の発言に接したときのことです。

私も、国家・権力に屈しない立場としての民衆的視点を子供たちが養うことの重要性を強く認識しているつもりです。とくに“お上には弱い”傾向が今日なお強い日本では、民衆的視点を持つことは不可欠です。しかし、先生たちの発言を聞いていて、「民衆的視点」が国家不信・権力不信の代名詞になっているのではないか、という印象を受けました。

私は、保守政治が支配するいまの日本(国家)・権力に対してはなんらの愛着もなく、1日も早く引導を渡さなければならないと確信します。しかし同時に、私たちが1日も早く政治の主人公となって、日本(国家)・権力を私たちのために働く存在にさせなければならないとも確信します。つまり、「国家・権力は絶対悪」として位置づけるものではない、と思うのです。要は、だれが担い手なのかによって、国家・権力の性格は変わるはずです。私はこれを「国民的視点」といいます。

民衆的視点だけでは、戦争の被害者だったという点だけが強調され、日本国家が犯した侵略戦争の責任を日本国民である私たちが主体的に受けとめる国民的視点が妨げられることも、分科会の意見交換を通じて浮かび上がったと感じています。また、国際社会は国家を主要な構成員として成り立っており、国際関係の圧倒的に多くの部分は、これからも国家を主体にして営まれるでしょう。私たちは、国家を通じて国際社会にかかわるという国民的視点をも自分のものにすることが求められます。私は、子供たちに必要不可欠なのは、民衆的視点とともに国民的視点をもしっかりもつことではないか、と発言しました。

いま、保守政治は古くさい国家主義を私たちに押しつけようとしています。この攻撃に立ち向かい、多くの国民の共感を私たちの主張に引きつけるためにも、私たちが新たな国家観、権力観を提起すべきであるし、子供たちにもそういう目を養ってもらうように努力する必要があると痛感しています。

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