「国際テロリズム」:日本は道を誤ってはいけない

2001.10.31

*この短文は、ある雑誌に載せたものです。字数1400という厳しい制約のもとで書いたものですので、重要な憲法問題にまで踏み込めませんでしたが、私たちの基本認識のあり方、その認識に基づく場合の日本の正しい対処のあり方についての基本的な考え方をまとめている、とは思います。

じつは、多くの集会に伺うなかで、「あんなにひどい目にあったのだから、アメリカが戦争に訴えるのはやむを得ないのではないか」、「国際テロは人ごとではないから、日本も応分の(実は、こういう「応分の」式のあいまいな考え方がくせ者なのですが)協力をするのは当然ではないか」という受け止め方が結構多いことに気づかされました。皆さんの頭のどこかに、あるいは、皆さんのまわりの人たちのなかにも、こういう受け止め方があるのではないでしょうか? この短文は、そういう受け止め方の人たちを念頭に書いたものでもあります。これまでのコラムで書いたことと重複している部分もありますが、参考にしていただけたら、と思います。(2001年10月31日記)

<アメリカの理屈には無理がある>

アメリカのブッシュ政権は、9月11日におこったいわゆる同時多発テロ事件に文字どおり逆上し、これを戦争と見なし、10月8日にはアフガニスタンに対する戦争に乗り出した。冷静に考えれば、どう見てもおかしい。

国際テロリズムとされる事件は今回がはじめではない。そして国際社会は、この種事件を国際犯罪とし、そういうものとして扱うことで一致している。事件の規模が従来とは桁外れであること、リアルタイムで衝撃的映像が飛び込み、世界を動転させたことはたしかだ。しかししっかり弁えなければならないことは、それらは、犯罪としての事件の本質を変えるものではない、ということだ。ブッシュ政権は重大な誤診を下してしまったのだ。

アフガニスタンに対する武力行使も、どう見ても正当化されない。アメリカは、テロの容疑者も、その容疑者をかくまうものも同罪、という理屈だ。しかし、アメリカは証拠を握っているというが、その証拠を示すことをかたくなに拒否する。これは通らない。

どんな犯罪においても(国の内外を問わない)、確固とした証拠も示さないで容疑者を拘束することは許されない。ましてや、容疑者も、容疑者をかくまうものも同罪と決めつけ、生死を問わずやっつけるというアメリカのやり方は、まさにやくざの論理である。誤診による致命的に誤った手術、ともいえる。

<アメリカ流ではテロ撲滅はできない>

報復はさらなる報復を招くだけだ。犯罪としての厳正な法と正義の実現を追求してのみ、誰もが納得のいく公正な解決をもたらすことができるし、事件の再発を防ぐことにつながる。たとえ不幸にしてふたたび類似の事件がおこるとしても、国際社会として厳正に対応することが可能となるのだ(じつは、1988年のパンナム機爆破事件に関して、国際社会はすでに貴重な先例を生みだしている)。

犯罪の再発を防止することを考えるとき、その犯罪を生む土壌・原因を見極め、これに対処することが求められる。今回の事件を生みだした根本原因・土壌については、アメリカの二重基準の中東政策と、アメリカが進めてきた市場経済原理に基づく国際経済政策が大きいことは、しだいに認識されつつある。

<日本には何が求められているか>

小泉政権は、アメリカの理屈を鵜呑みにし、アメリカの軍事行動を全面的に支持する道を突っ走っている(いわゆるテロ対策特別措置法と自衛隊の海外派兵)。そのことは、憲法上重大な問題があるが、ここでは深入りしない。

アメリカが逆上し、我を忘れて見境ない行動に走っているとき、真の友人としてなすべきは、一緒になって逆上して暴走することではないはずだ。平和大国・日本がなすべきは、なによりもまず、アメリカに理を尽くし、誤診の非を認めさせ、その手術の手を止めさせ、正しい診断に基づく療法に切り替えさせることだ。つまり、犯罪を犯罪として処理する道にアメリカを戻すことだ。

同時に日本は、犯罪を生みだした根本原因・土壌を除去することに、率先して取り組むべきだ。具体的には、アメリカの中東政策そして市場原理一本槍の国際経済政策を改めさせることだ。その気になりさえすれば、平和大国・日本には、アメリカに反省を促すことができるのだ。ことは、ひとえに平和大国を担う私たち主権者の自覚にかかっている。

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