テロリズムと国際政治

2001.10

九月一一日に起こった事件は、世界を震撼させた。その原因は、多数の人々が犠牲になったということだけではないと思う。それにもまして、アメリカ経済の象徴(世界貿易センター・ビル)が跡形もなく崩壊する姿や、アメリカの世界に対する軍事覇権の中枢(ペンタゴン)が正面攻撃を受けるという、想像を超えたあまりにも衝撃的な映像がTVを通じてリアル・タイムで刻々と飛び込んできたことが大きく働いていることは間違いない。

今回の事件を軽く見てこういうのではない。世界各地では、報道されないだけで実は今回の事件と匹敵する、またはそれ以上の凄惨な事態が日常的に起こっている。情報化時代にその中心のアメリカで今回の事件が起こったことが、私たちを激しく揺さぶったという点を忘れるべきではないと思う。私たちは、TVの映像を通じたものにしか反応しない、ということであってはならない、ということをまずハッキリと確認したいのである。

アメリカのみならず多くの国々が、今回の事件を強く批判し、責任者を処罰するべきだ、という立場をとったのは当然だ。私も、犯人の責任は徹底的に追及しなければならない、と考える。しかし、すべてがアメリカの論理で進められていることを当然視する国内の風潮には強い疑問を感じている。アメリカの論理が納得のいくものであるならば問題はない。しかし私は、事件の容疑者を捕まえる(生死を問わない)ために手段を選ばないやり方には、まったく賛成できない。アメリカの論理に引きずられるままに暴走する小泉政権にいたっては、国を誤ると断ずるほかない。

ここでは、国際政治の観点に限って、私の問題意識のいくつかを明らかにしたい。

一 「テロリズム」をどう考えるか

今回の事件を批判する際、「テロという暴力は、いかなる理由によっても許されてはならない」といわれる。この議論は、一般論としては異論をさしはさむ余地はないように見える。しかし実は考えるべき重要な問題がある。

今や国際的に存在が公認されているパレスチナ解放機構(PLO)は、かつて米欧諸国から国際テロ組織と見なされ、徹底的な弾圧の対象として扱われた時代がある。ペルーでは、一九九六年末に武装グループが日本大使館を占拠したとき、フジモリ政権は彼らをテロリストと決めつけ、全員を射殺した。

ここでしっかりと確認しておかなければならないことがある。国際的に、テロリズムに関して確立した定義・基準があるわけではないということだ。国連のアナン事務総長も、一〇月一日の総会演説で、「もっとも困難な問題のいくつかは、テロリズムの定義にかかわるものだ」と述べている。

虐げられた人々が、ほかに手段がないまま、暴力で権力に立ち向かうとき、権力を握る側は、往々にして彼らをテロリストと決めつけ、彼らの暴力を「許されないもの」として弾圧する。その段階では、国際社会は国内問題として介入しない(内政不干渉原則)。結果的には、権力側がテロリストと断定したものは、国際的にもそう扱われる傾向が強い。PLOがそうだったし、ペルーのゲリラもそうだった。

しかし、この抵抗運動が権力側と対抗するだけの力を蓄え、一定の地域及び住民に対して実効的な支配を及ぼす勢力となるとき、国際社会はその存在を認め(交戦団体)、権力側に対しては、それを交渉相手として問題解決を図ることを求めることになるケースが多い。現在のPLOはまさにそのケースだ。

独裁的な権力が住民を無差別に殺戮するとき、国家テロリズムとして国際的に非難することがある。現実にたとえば、イスラエルがパレスチナ住民に対して行ってきた暴力は、アラブ諸国からは、国家テロリズムとして非難される。イスラエルは、パレスチナ側のテロ活動に対する自衛の行動、として正当化する。ここでは、双方が相手の行動をテロリズムとして非難しあう構図がある。

以上からまず強調したいことは、テロリズムという言葉は、これまでの国際政治の場においては、政治的に中立な意味合いで使われるものではなかった、ということだ。一方の立場に立つものからする他方の立場に立つものに対する非難、という意味合いが込められてきた。そうである限り、ある立場及びその責任者をテロリズム及びテロリストという言葉で性格づける際には、そのこと自体によってこれに対立する立場に立つことになる。

ただし理論的に考えれば、たとえばテロリズムを、「いかなる同情・理解するべき動機、背景の有無にかかわらず、絶対に許されてはならない無辜の市民を犠牲に巻き込む非人道的暴力」と定義することは可能である。その場合には、権力に抵抗するケースも、権力が行うケースもともに含まれることになる。私自身は、今回の事件をきっかけにして、この趣旨で国際的なコンセンサスができあがることが、もっとも望ましいことだと考える。

二 アメリカの反応・政策をどう見るか

ブッシュ大統領は、事件直後の最初の声明で、事件を「人間の本性の最悪な邪悪(のあらわれ)」とし、アメリカの方針として「テロリストと彼らをかくまうものを区別しない」という姿勢を早々と明らかにした(一一日。その延長として、二〇日には、ビン・ラディンをかくまっているアフガニスタンのタリバン政権に四項目の最後通牒を突きつけ、交渉による問題解決の可能性を早々と閉ざした)。

一二日には、事件を「自由と民主主義に対する攻撃」と規定し、「敵は、アメリカ人のみならず、自由を愛する世界中のすべての人々を攻撃した」と位置づけて、世界中の支持を呼びかけた。また二〇日には、「あらゆる国家は選択しなければならない。我々とともにあるか、それともテロリストとともにあるか、だ」とする発言も行っている。

一六日には、「政権は、テロリズムを世界から根絶するために必要なことをする」と述べた。しかしアフガニスタン攻撃後のアメリカの対アフガニスタン政策に関しては、「我々は国家建設には踏み込まない。我々は正義の実現に焦点を当てている」と述べた(二五日)。

以上のブッシュ発言に代表されるアメリカの政策には、いくつかの重大な問題がある。

まず、事件の本質を、アメリカが代表する善と「テロリズム」が代表する悪との対決、あるいは、自由と民主主義をめぐる戦い、と断定している点だ。あとで明らかにする(三参照)とおり、問題の根本にあるのは、自由と民主主義にどういう立場をとるかではなく、アメリカの対中東政策に対するアラブ・イスラム諸国の批判・不満である。問題の本質のすり替えがアメリカの国際的「十字軍」糾合への動因となっているだけに、問題は深刻だ。

他の国々に対し、アメリカとテロリズムのいずれかを選択せよ、という迫り方をするのも、明らかに問題のすり替えであり、問題解決を複雑にするだけだ。というのは、今回の事件を批判し、犯人を処罰するべきだという立場に立つことは、アメリカの好き放題にすることを認めることとはまったく別の次元の問題だからだ。アメリカの迫り方は、真の国際的取り組みの可能性を奪っている。

「テロリズム」対策として、アメリカが力任せにねじ伏せることしか考えないことは、問題の根本的解決を遠のけるのみだ。比喩的に言えば、求められるのは内科的治療であり、外科的手術ではない。真に求められているのは、アラブ・イスラム諸国がビン・ラディンの主張を受け付けない政治経済的条件を実現するために、国際社会が全力で取り組むことだ。実力行使に訴えるのは、第二,第三のビン・ラディンを生み出すだけである。

アフガニスタンに対する軍事力行使を行う意図をあからさまにしながら、その結果引き起こされる事態に対しては、「国家建設には踏み込まない」とする態度も、無責任を極める。タリバンと対立する北部同盟へのてこ入れや元国王の担ぎ出し工作などが伝えられているが、国民不在の合従連衡策であり、場当たり的なものにすぎない。

今後の国際社会を展望する上では、アメリカが「テロリズム」を根絶するまで戦いを続けると公言していることは、きわめて深刻である。ラムズフェルド国防長官にいたっては、「出口戦略など忘れてしまえ」と公言する始末だ。これは、アメリカ自らが戦略的に物事を考える冷静さを失っていることを示す。

最後に、ブッシュ政権の意図通りに物事が進むことは考えにくいが、そのことにも考えるべき問題がある。たとえば、このような好戦的な政策を、アメリカ国民がいつまで支持するかはなはだ疑問だ。今はまだ事件の直後であることも考慮する必要がある。事件が長引くに伴い、アメリカ世論の動向が変化する可能性は大きい。またアメリカの政策・方針に対する国際的支持がどこまで強固なものであるかについても、かなり疑問がある。

しかし、ブッシュ政権の目的のためには手段を選ばないやり方が失敗に終われば終わったで、その後遺症は深刻なものとなる危険が大きい。アフガニスタン、パキスタン、中央アジア諸国は、アメリカの都合次第に扱われているが、その帰結はどうなるか。アラブ・イスラム諸国の政情はどう動くか。テロリズムとされるものを生み出す土壌はますます広がることとなるのではないか。アメリカと欧州諸国との関係はどうなるか、等々。

以上から直ちに明らかなことは、アメリカの政策は絶対に支持しうるものではないということだ。アメリカの暴走を抑えるためにも、真の問題解決の道筋を示すことが必要なのだ。

三 事件の根本的解決の道筋は何か

それでは、今回の事件についてはどう対処するべきなのか。私は、二つの問題を分けて扱うことが必要である、と考える。

第一、事件の容疑者については、その責任を厳正に追及しなければならない。無辜の人々の生命を奪う行動は、いかなる根拠をもってしても正当化されてはならない。また、類似の事件が今後起こらない保証はない、という不安感は国際的に広がっている。事件及びその容疑者を放置することは許されない。

責任の追及は、国際的に公正であることを期すものでなければならない。容疑者の法的責任を追及するための国際法や国際的司法手続きは確立していない。しかし、間違っても、アメリカの恨みを晴らすためだけの復讐であってはならない。この点では、一九八八年のパンナム機爆破事件に関する国際的取り組みを、先例として重視するべきだろう。

今回の事件及びその犯人をテロリズム及びテロリストとして扱うことについては、どう考えるべきか。結論的には、私が納得する定義(一の末尾参照)を前提にする限りにおいて、テロリズム及びテロリストとして扱うべきである。ただし、この定義を前提にするときは、アメリカがアフガニスタンの無辜の市民を犠牲に巻き込む軍事行動をとることに対しても、国家によるテロリズムとして反対しなければならない。

第二、事件の背景を徹底的に検証し、このような事件が再発しないことを確保する国際的な取り組みを行わなければならない。問題の原因は根深く、個別の個人、組織を取り締まれば解決するほど簡単なものではない。

この点については、さらに考えるべきことがある。ここでは、アメリカが容疑者と特定するビン・ラディンについて考える。ただし、第一次資料がないので、以下は、多くの報道に基づく判断であることを、あらかじめ断っておかなければならない。

ビン・ラディンの目標が、従来のいわゆるアラブ・テロリズムとされるものとは異質のものであることはほぼ間違いないようだ。ビン・ラディンは、イスラムの聖地があるサウジ・アラビアに駐留するアメリカ軍を追い出し、ひいてはアメリカの中近東さらには世界支配を挫折に追い込む国際的な聖戦(ジハード)を行うことを目標にしている、とされる。

また、ビン・ラディンが九八年に結成した「十字軍とユダヤの打倒のための国際イスラム戦線」には、エジプトの政権の打倒を目指していたジハード団などが加わっている。また、アフガニスタンでの訓練には、アラブ以外のイスラム諸国からも参加者がいることを見ても、長期的には、イスラムの影響が強い国々での影響力拡大ひいてはこれら国々の親米ないし腐敗した政権を打倒し、自らによる政治支配を展望していることも考えられる。

つまり、従来のテロリズムとされるものの多くがいわば一国単位で行動してきたのに対し、ビン・ラディンは、基本的に国境をこえ、とりわけ現在の国際秩序を牛耳るアメリカを標的にするという特徴をもっている。さらにいえば、ビン・ラディンは、多くの国々におけるイスラム教徒が関係する紛争にもかかわっているとされるが、その真偽は別にして、従来の国家単位の運動を巻き込みながら、自らの世界観に基づいて国際秩序の変革の実現を目指しているとも考えられる。アメリカがビン・ラディンを激しく敵視するのは、是非は別として、それだけの理由がある。

問題は、ビン・ラディンの行動はともかくとして、その認識と思想がまったく現実を無視した、したがっていっさいの支持基盤をもたないものかどうか、ということだ。

アラブ・イスラム諸国からの反応を伝える報道は、国内ではきわめて限られている。しかし、事件後の様々な新聞報道と国連総会における各国代表の発言に基づいて判断すれば、アラブ諸国の多くさらにはイスラム諸国の民衆の多くが、アメリカのイスラエル偏重の中東政策に問題の根幹があるという認識で一致していることを見いだすことはむずかしいことではない。そして、イスラム諸国の多くの民衆(その多くは貧困層に重なる)が、ビン・ラディンに対するアメリカの報復の動きに強く反発していることも事実のようだ。

アメリカの中東政策は、確かに重大な問題を抱えている。イスラエルを偏重してアラブ・ナショナリズムを無視する政策は、中東紛争の根本原因である。また、人権・民主主義を標榜しながら、アラブ・イスラム諸国の専制・独裁政権を支える二重基準の政策は、これら諸国の民衆の怒りを蓄積してきた。アメリカに対する敵意・反感は、決して根拠がないものではない。ちなみに、今回の事件に関して、アラブ・イスラム諸国の親米的な政権の多くの対応が曖昧であるのは、民衆の怒りが自らに向けられることを恐れ、避けようとしてのことであることは明白である。

このように、ビン・ラディンの思想は、アラブ・イスラムの世界では異端でもなんでもない。ビン・ラディンをテロリスト、彼の思想をテロリズム、として割り切って扱うアメリカに対して無批判な国内の一般的な風潮に、私が強い違和感を覚えるのは、問題の根本原因を認識し、その解決に取り組む可能性が奪われると考えるからなのだ。

アメリカの中東政策さらには自国本位の二重基準の政策にこそ、今回の事件を生み出した根本的な原因があることを認識することが求められている。事件の再発を防ぐもっとも重要な取り組みは、この原因を取り除くことに向けられなければならない。アメリカを含めた国際社会の認識がこの点で一致して初めて、真の国際の平和と安定を展望する道筋が開けてくるだろう。

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