「現代における人間と政治」から考える私たちの課題

1.ナチに翻弄された人間の心理の動き

*日本と比較して、ナチの支配に対する抵抗と障害(「政治・経済・教育・文化あらゆる領域におけるユダヤ人の占めていた地位と役割、マルクス主義的社会主義と労働運動の長い伝統と広範な社会的基礎、キリスト教か威徳に文化闘争の経験を持つカトリック教会勢力、根強いラントの割拠と地方的自主性の意識」(p.18))は、日本の軍国主義体制に対する抵抗と障害よりはるかに大きいものがあった。それにもかかわらずナチはドイツを支配した。そこで「どうしてもわき起こる疑問は、…多くの一般ドイツ国民はナチの12年の支配をどういう気持ちで過ごしてきたのか、その下で起こった度はずれた出来事をどう受けとめてきたのか、ということである」(p.17)

  今の日本に生きる私たちの視点からすれば、現に今日本に起こりつつある事態にいかなる態度で臨むことが必要になっているのか、という問題意識をもちながら、ナチの時代にドイツで起こったことを見つめ直すことでなければならないだろう。その場合、今日の日本社会が、ナチの時代のドイツよりも、権力に対する抵抗と障害という条件に恵まれているかどうかをも考慮に入れる必要がある。結論を早取りすれば、そのような抵抗と障害に私たちは決して恵まれているとはいえない状況がある。そうであるとするならばいっそう、保守政治権力が小出しで迫り来るこの攻勢に対して、私たちはどのように対抗することが必要なのか、どうしたらそのような抵抗が可能になるのか、ということをも考えなければならないだろう。

(1)ある言語学者の場合

「一つ一つの行為、一つ一つの事件は確かにその前の行為や事件よりも悪くなっている。しかし、それはほんのちょっと悪くなっただけなのです。そこで次の機会を待つということになる。何か大きなショッキングな出来事が起こるだろう。そうしたら、他の人々も自分と一緒になって何とかして抵抗するだろうというわけです。(ところが)戸外へ出ても、街でも、人々の集まりでもみんな幸福そうに見える。何の抗議も聞こえないし、何も見えない。…何十人、何百人、何千人という人が自分と一緒に立ち上がるというようなショッキングな事件は決してこない。(そうしてある日)気がついてみると、自分の住んでいる世界は…かって自分が生まれた世界とは似ても似つかぬものとなっている。…今や自分の住んでいるのは憎悪と恐怖の世界だ。しかも憎悪し恐怖する国民は、自分では憎悪し恐怖していることさえ知らないのです。誰も彼もが代わってゆく場合には誰も変わっていないのです。」(pp.20-21)

Q:今の日本で進行していることも、この言語学者が物語っているナチの時代と似ていないと言えるものがいるだろうか?

(2)ある宗教者の場合

「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。」(p.26)

Q:「憲法が改悪される(あるいは徴兵制)となったら私も反対しますよ」とか、「自分の身に降りかかってきたら立ち上がるだろう」とかの発言をよく聞くが、この牧師の発言を聞いてもなお確信をもって言えるだろうか?

2.ナチの迫害の対象だった人々には、ナチの社会はどのように映じたか

「それは…いたるところ憎悪と恐怖に満ち、猜疑と不信の嵐が吹きすさぶ荒涼とした世界である。…一人一人の全神経は、ある出来事、ある見聞、ある噂によって、そのたびごとに電流のような衝撃を受ける。日々の生活は緊張と不安の絶え間ない連続であり、…どのような密室の壁を通してでも不気味に光る目が自分の行動を、いや繊細な心の動きまでも凝視しているかのようである。これが、…自らを権力から狙われる立場においた人々に多少とも共通するイメージであり、…まさに右のような光景が『真実』だったのである。」(p.28)  

  「権力が一方で高い壁を築いて(彼らを)封じ込め、他方で(大衆を)内側に徐々に移動させ…るほど、…(彼らは)社会の片隅に実をすり寄せて凝集するようになり、それによって…大多数の国民との開きがますます大きくなり、孤立化が促進される。」(p.29)

Q:今の日本ではやはりオウムのケースや在日朝鮮人のケースを考えないわけにはいかないだろう。

3.ナチ支配下の大衆の心境はどうだったか:「現代の人間に対する普遍的挑戦」(p.31)

大衆の「多数は、(上からの宣伝に)行動的に適応したが、それは自分の安全のためにそうしたのであり、…大衆は大衆なりの日々の生活と生活感覚を保持した。そうであればこそ、(ナチ反対者からの)声が彼らの耳に届いたとしても、…いたずらにことを好むかのような違和感を生んだのである。」(p.31)

Q:皆さんはどういう「生活と生活感覚」をもっていると考えるか?じっくり考えてみよう。

4.私たちに対する問いかけ

(1)権力に対抗することの難しさ

1.で見たように、すべてが少しずつ変わっていくときには誰も変わっていないとするならば、抵抗すべき最初の決断も、歴史的連鎖の結末の予想も、はじめから「外側」に身を置かないかぎり非常に困難だ、ということになる。しかも、はじめから外側にあるもの(権力から排除・圧迫されるもの)は、まさに外側にあることによって、内側にいる圧倒的多数の人間の実感とは異なるものになるほかない(p.26)。ここには、「正統の世界(すなわち内側)の住人のイメージと、…外側にいる人々との鋭い分裂、両者の言語不通という問題」(p.30)がある。

Q:皆さんは、「言語不通」の問題をどうしたら解決できると思うか? また、そのために努力しようという気持ちを持ち合わせているか? オウム(北朝鮮)を具体例として考えてみよう。

(2)「正しい政治性」と権力にのみこまれる可能性

(私たちの多くは)「正統・異端のそれぞれの中心部ではなく、むしろ…かなり広い中間領域の住人である。どの社会でも(私たちの多くは)こうした領域に住んでいる。…こうした領域に住むことの意味を積極的に自覚し、(高い壁の)構築に対して積極的に抗議する(私たちは)、…権力の意図から見れば、むしろはじめからの異端よりは危険な存在と見なされる。…そうして(私たちの)あいまいな意味がこの時はじめて問われる。もし…あらゆる通信に開放的であるだけにとどまるならば、もっとも強力な電波で送られる通信が彼のイメージの形成に決定的な影響をもつかもしれない。…その際、…無意識的に自己に好ましい通信を選択していながら、自分は公平に判断していると信じているかもしれない。このようにして権力の弾圧の恐怖なしにでも彼は中心部に移動していく。」(pp.40-41)

Q:皆さんは「異端よりは危険な存在と見なされる」覚悟をもっているか? 「公平に判断していると信じ」ながら、じつは「権力の弾圧の恐怖なしにでも中心部に移動していく」自分の可能性を見ないか?

(3)権力に対抗するために:「常識」ではなく「正しい政治性」を我がものにしよう!!

「境界に住むことの意味は、内側の住人と実感を分かちあいながら、しかも不断に外との交流を保ち、内側のイメージの自己累積による固定化を絶えず積極的に突き崩すことにある。…それは、現代における政治的判断を、当面する事柄に対する私たちの日々の新たな選択と決断の問題とする代わりに…常識に…ゆだねるような懶惰な思考に対する懐疑である。…それは、あらゆる体制、あらゆる組織は辺境から中心部への、反対通信によるフィードバックがなければ腐敗するという信条である。」(p.43)

「(私たちの)困難な…現代的課題は、…まるごとのコミットとまるごとの無責任のはざまに立ちながら、内側を通じて内側をこえる展望をめざすところにしか存在しない。そうしてそれは、…およそいかなる信条に立ち、そのために闘うにせよ、知性(すなわち「正しい政治性」)を持ってそれに奉仕するということである。なぜなら知性(「正しい政治性」)の機能とは、つまるところ、他者をあくまで他者としながら、しかも他者をその他在において理解することをおいてはあり得ないからである。」(p.44)

Q:この二つの文章は何をいおうとしているのか、分かるだろうか?