(1)「ナショナリズム」と「ウルトラ・ナショナリズム」とは何がどう違うのか?
*丸山「近代国家に共通するナショナリズムと『極端なる』それとはいかに区別されるのであろうか」(p.19)
(イ)「欧州近代国家=中性国家」:「真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(たとえば教会)ないしは個人の良心に委ね、国家主権の基礎をこうした内容的価値から離れた純粋に形式的な法機構のうえに置いている」(p.19)
←宗教改革・戦争による疲弊:「形式と内容、外部と内部、公的なものと私的なもの」とが区別され、「思想信仰道徳の問題は『私事』としてその主観的内面性が保証された」(p.20) (⇔Q1)
*Markovitzの解説したアメリカにおける国家の位置づけ
〇社会の安定およびデモクラシーの保障者としての憲法の限界(pp.44-45)
〇権力支配からの移行過程でデモクラシーが根を張るまでに直面する問題(pp.45-46)
〇新しい憲法上の取り決めを行う上でのカギとなる要素(pp.47-57)
〇社会と国家の関係(pp.57-64) (⇔Q2)
(ロ)日本:「明治以後の近代国家の形成過程において国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとしなかった。その結果、日本のナショナリズムは内容的価値の実体であることにどこまでも自己の支配根拠をおこうとした。…権威は権力と一体化した。…これに対して内面的世界の支配を主張する…勢力は存在しなかった。」(p.20)(⇔Q3)
→自由民権運動:「在朝者との抗争は、真理や正義の内容的価値を争ったのではなく、…もっぱら個人ないし国民の外部的活動の範囲と教会をめぐっての争いだった。およそ近代的人格の前提である道徳の内面化の問題は自由民権論者において如何に軽々に片づけられていたか」(pp.20-21)
「主体的自由の確立の途上において真っ先に対決されるべき『忠孝』観念が、(自由民権論者においては)最初からいとも簡単に考慮から除かれており、しかもそのことについて問題性も意識されていないのだ。」(p.21)(⇔Q4)
→「自由はついに良心に媒介されることなく、したがって国家権力は自らの形式的妥当性を意識するに至らなかった。」(p.21)(⇔Q5)
→教育勅語:「日本国家が倫理的実体として価値内容の独占的決定者であることの公然とした宣言であった」(同)
*明治思想界を貫流するキリスト教と国家教育との衝突問題:「それが片づいたかのように見えたのは、キリスト教の側で絶えずその対決を回避したからであった」(同)「日本には信仰の自由はそもそも存立の地盤がなかった」(pp.21-22)(⇔Q6)
*国家が…真善美の内容的価値を占有するところには、学問も芸術もそうした価値的実体への依存よりほかに存立し得ない。しかもその依存はけっして外部的依存ではなく、むしろ内面的なそれなのだ。国家のための芸術、国家のための学問という主張の意味は単に芸術なり学問なりの国家的実用性の要請ばかりではない。何が国家のためかという内容的な決定を…(天皇に忠勤義務をもつ)官吏が下す点にその核心がある」(P.22)(⇔Q7)
→「国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは本来一切存在しないことになる。我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だかってないのだ。…したがって、私的なものは、すなわち悪であるか、もしくは悪に近いものとして、なにほどかの後ろめたさを絶えず伴っていた。」(同)(⇔Q8)
→「私事の倫理性が自らの内部に存在せずして、国家的なものとの合一化に存在するという論理は、裏返しにすれば、国家的なものの内部へ私的な利害が無制限に侵入する結果となる」(p.23)(⇔Q9)
(ハ)今日の日本はウルトラ・ナショナリズムからどこまで解放されただろうか?
Q1:今日の日本という国家を全体としてみたとき、「中性的国家」といえるだろうか?
Q2:国家と社会の区別がどの程度まで主権者・国民と政官財によって認識されその行動基準として働いているだろうか?
Q3:「権威と権力の一体化」という構造は徹底的に壊されたといえるだろうか?
Q4:明治の自由民権運動の支配的精神と今日のデモクラシーに関する議論とのあいだにどれほどの質的変化が生まれたといえるだろうか?
Q5:「良心に媒介される自由」という人権の本質がどこまで深く認識されているといえるだろうか? 国家はそういうものとしての自由を本気で尊重する自覚があるだろうか?
Q6:今日における人間としての良心(キリスト者を含む)は、国家の行動をチェックするだけの強靱さを身につけるに至ったといえるだろうか?
Q7:「学問の自由」は「国家に奉仕する学問」への道に逆戻りしようとしていないだろうか?
Q8:「私的領域」について、私たちは体を張ってでも権力の侵入から守り抜く決意を持ち合わせているだろうか?
Q9:「公私混同」現象に対する私たちの意識は成熟したと言い切ることができるか?
(2)日本的国家と近代的国家とを分ける基準はどこにあるか? そのことはどういう結果を招くか?
(イ)丸山の問題提起
―「精神的権威と政治的権力」の「一元的占有」の有無(cf.p.23)―:主権者が前もって存在している真理ないし正義を実現するのではない、という欧米近代国家においては当然とされたことが、軍国主義日本国家においては認められない。「国家の活動が国家を越えた道義的基準に服しないのは、主権者(である天皇)自らの内に絶対的価値が体現しているからだ」。したがって、「大義と国家活動とは常に同時存在」であり、正義は力、力は正義ということになり、自らの内に絶対的価値が体現している日本帝国は、本質的に悪をなしえないが故に、いかなる暴虐なふるまいも、いかなる背信的行動も許されるのだ。」(p.25)(⇔Q1)
→「こうした傾向がもっともよくあらわれるのは国際関係の場合である。(国際関係における行動は)もっぱらその実力性と駆け引きの巧拙から判断される。…倫理が権力化されると同時に、権力もまた絶えず倫理的なものによって中和されつつあらわれる。…政治的権力がその基礎を究極の倫理的実体に仰いでいるかぎり、政治のもつ悪魔的性格は、それとして率直に承認されない。…真理と正義にあくまで忠実な理想主義的な政治家が乏しく、…慎ましやかな内面性もなければ、むき出しの権力性もない。」(pp.25-26)(⇔Q2)
(⇒「軍国支配者の精神形態」)
→「支配者の日常的モラルを規定しているものが抽象的法意識でも内面的な罪の意識でも、民衆の公僕観念でもなく、具体的感覚的な天皇への親近感である結果は、そこに自己の利益を天皇のそれと同一化し、自己の反対者を直ちに天皇に対する侵害者と見なす傾向が自ずから胚胎する。藩閥政府の民権運動に対する憎悪ないし恐怖感は…今日まで一切の特権層のなかに脈々と流れている。」(pp.28-29)(⇔Q3)
(ロ)設問
Q1:小沢一郎「正義は力、力は正義」との間にどれだけの違いを見いだすか?
Q2:戦後日本の外交・安全保障政策はどこまで過去の遺産を清算したといえるだろうか
Q3:象徴天皇制になった日本において、丸山の指摘は過去のものとなったと言い切ることができるだろうか?
(1)「職務に対する誇り」
(イ)丸山の問題提起:「ヨコの社会的分業意識よりも、むしろタテの究極的価値への直属性の意識に基づく…日本の官庁機構を貫流するこのセクショナリズム」(pp.29-30)(⇔Q1)
→「全国家秩序が絶対的価値である天皇を中心にして連鎖的に構成され、上から下への支配の根拠が天皇からの距離に比例する、価値のいわば漸次的希薄化にあるところでは、独裁観念はかえって成長しにくい。なぜなら本来の独裁観念は自由な主体意識を前提としているのに、ここでは…一切の人間ないし社会集団は絶えず一方から規定されつつ他方を規定する関係に立っている。…意識としての独裁は必ず責任の自覚と結びつくはずである。ところがそうした自覚は軍部にも官僚にも欠けていた。」((pp.29-31)(⇔Q2)
(⇒「軍国支配者の精神形態」)
←「近代日本が封建社会から受け継いだもっとも大きな遺産の一つ(=「権力の偏重」)。(つまり)自由な主体的意識が存在せず、各人が行動の制約を自らの良心の内にもたないで、より上級のものの存在によって規定されているため、独裁観念に代わって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲していくことによって全体のバランスが維持されている体系」(pp.32-33)(⇔Q3)
→「近代日本は、封建社会の権力の偏重を、権威と権力の一体化によって整然と組織立てた。」(p.33)(⇔Q4)
(ロ)設問
Q1:タテ社会の直属性から日本社会はどこまで自由になったといえるか?
Q2:天皇に代わる中心的価値があるか?その答の如何にかかわらず、「責任の自覚」意識が乏しい日本社会の現実をどう考えたらいいだろうか?
Q3:戦後社会における「権力の偏重」構造の目強い働きを考えよう
Q4:敗戦後の日本はこの権力の偏重をどのように組み立て直したのか?
(2)「圧迫の移譲」原理の国際的延長:「(権力の偏重を整然と組織立てた明治以後の日本は)世界の舞台に登場するとともに、国際的に延長した」(同)(⇔Q1)
→維新直後からの征韓論・台湾派兵(同)(⇔Q2)
→「中国やフィリピンでの日本軍の暴虐なふるまい;直接の下手人は一般兵隊であったという痛ましい事実」(同)(⇔Q3)
Q1:戦後日本はこの「国際的延長」をどのような形でくり返してきたか?
Q2:戦後日本における征韓論・台湾派兵に相応するものは何か?
Q3:今日の日本人は過去をくり返すことはあり得ないか?
(3)「万邦各々そのところを得しめる」世界政策:「中心的実体からの距離が価値の基準になるという国内的論理を世界に向かって拡大する」ことにより、「日本によって各々の国が身分的秩序のうちに位置づけられる…世界平和」(p.35)(⇔Q1)
→「万国を等しく制約する国際法のごときは、天皇という絶対的中心対の存在する世界では存立の余地がないことになる」(同)(⇔Q2)
Q1:アメリカ的「国際共同体」構想との類似性と相違性を考える
Q2:私たちの法意識を改めて考え直してみよう