(1)「超国家主義の論理と心理」(A)と「軍国主義者の精神形態」(B)の関係
―Aは、軍国主義・日本という国家を特徴づけた要素を素材にして、いわばマクロ的視点から、日本の欧米諸国との異質性とその異質性から生まれる「病理現象」(「職務に対する誇り(の欠如)」「圧迫の国際的な移譲」「万邦各々そのところを得しめる特異な世界観」)を明らかにしようとした
―Bは、軍国主義・日本という国家の指導者の言動を材料にして、いわばミクロ的視点から、欧米諸国とは異質な日本という国家の異質性とその異質性から生まれる「病理現象」(「既成事実への屈服」と「権力への移譲」)がもたらされる原因を明らかにしようとしている
(2)AとBに共通する丸山の問題意識
―日本がいかに「普通の国家」ではないか、日本政治がいかにデモクラシーから遠い存在であるかを明らかにすることによって、日本および日本政治が生まれ変わるためには取り組まなければならない課題を明らかにすること
―この2つの論文を書いたときの丸山は意識していなかったかもしれないが、結局1946年および1949年に書かれたこの2つの論文で指摘された問題は、その後、丸山が一貫して問い続けた日本および日本政治の病理として存在しつづけることになる。
(3)今日に生きる私たちに対する問いかけ
―残念ながら、丸山がこの2つの論文で指摘した問題は、今日の日本政治そして私たち日本人の政治意識に対しても作用しつづけているのではないか。
―私たちの政治意識さらには意識のもちかたそのものに対する鋭い問いかけを行っているものとして受けとめることが求められているのではないか。
(1)丸山の基本的視点
(1)出発点
―東京裁判が「太平洋戦争…開戦の決断がいかに合理的な理解を超えた状況において下されたか」「驚くべき国際知識に欠けた権力者らによって…デスペレートな心境の下に決行された」(p.98)、「日本帝国の戦争体制における組織性の弱さ」「「指導勢力相互間の分裂と政情の不安定性」(p.99)という驚きとあきれ(⇔Q)
cf.「今日この時代においてこの少数の航空機をもってして全世界の征服に乗り出すということはドン・キホーテにあらずんば誰かよくこれを実行しうることでありましょうか」(ブルーエット弁護人)(p.99)
「自分はドイツが何を欲するやの点については明らかなる認識を有するも、日本の企図が奈辺にありやに関しては遺憾ながら明確なる知識を持ちかぬる次第にして、両国間の協力も…まず日本が果たして具体的に何を希望せらるるやを承知いたしたし」(日独軍事同盟締結2ヶ月前にリッペントロップ外相が佐藤・来栖大使に述べた発言)
Q:湾岸危機・戦争への「国際貢献」、PKOのための自衛隊海外派遣、ACSA、ガイドライン見直し合意、新ガイドライン、周辺事態法は「驚きとあきれ」とは無縁の状況で決められたか?
(2)丸山の問題意識
―「こうした日本政治の非合理性や盲目性を軽視したり抹殺したりすることではなくして、それをどこまでも生かしつつ、いかにして巨視的な、いわば歴史的理性のパースペクチヴに結合させるか」(p.100)(⇔Q)
←「日本帝国主義のたどった結末は、巨視的には一貫した歴史的必然性があった。しかし微視的な観察を下せば下すほど、それは非合理的決断の膨大な堆積としてあらわれてくる」(同)
「彼らはみな、何物か見えざる力に駆り立てられ、失敗の恐ろしさにわななきながら目をつぶって突き進んだ」「戦争を欲したにもかかわらず戦争を避けようとし、戦争を避けようとしたにもかかわらず戦争の道をあえて選んだのがことの実相であった」「政治権力のあらゆる非計画性と非組織性にもかかわらず、それはまぎれもなく戦争へと方向づけられていた」「そうした非計画性こそが『共同謀議』を推進せしめていった」「ここに日本の『体制』の最も深い病理が存する」(p.101)
<以上の文章の意味するところは、以下においておいおい明らかにされる>
Q:歴史をなぜ学ぶのか? 日本人の歴史感覚(「過去は水に流す」「死んだら仏」「靖国に祀る」etc.)をどう思うか?
(3)なぜ東京裁判関連の発言に着目するか?
―「彼らの法廷における答弁の仕方(およびその他の状況に置ける発言の仕方)そのもののなかに、日本支配層の精神と行動様式があざやかに写し出されているので…それを手がかりにして(この精神と行動様式の)根本的特質(つまり病理現象としての「権力への屈服」と「権限の移譲」)を抽出しよう(とする試み)」(同)
―「抽出される諸原則は、…われわれにとってむしろ日常的な見聞に属する…。そうならばいよいよもって、われわれはそうした平凡な事柄がかくも巨大な結果を生みだしたことに対してつねに…強い警戒を忘れてはならないのである」(pp.101-102)(⇔Q)
Q:丸山が、私たち日本人にとって「日常的な見聞」「平凡な事柄」であるというとき、じつは‘支配層の「精神と行動様式」(「権力への屈服」と「権力の移譲」)が実は私たちの「精神と行動様式」でもある’ことを示唆しているのではないか? だからこそ、私たちは「つねに強い警戒を忘れてはならない」のではないか? しかし、たとえば周辺事態法通過後の国内の世論状況は何を意味しているだろうか?
(1)指導者の出身・経歴
―「最高学府や陸軍大学校を出た『秀才』であり、…日本帝国の最高地位を占めた顕官である」(⇔Q)
cf.ナチ指導者:「ノーマルな社会意識から排斥される『異常者』の集まりであり、いわば本来の無法者」
Q:近年明るみになった経済界および警察などにおける指導者・高官の「不祥事」は何を暗示しているだろうか?
(2)指導者の発言・行動類型
(イ)観念と行動におけるナチの指導者と軍国日本の指導者との「驚くべき乖離」(p.105)
―ヒトラー「戦争を開始し、戦争を遂行するにあたっては、正義などは問題ではなく、要は勝利にある」(同)
ヒムラー「1ロシア人、1チェコ人にどういう事態が起こったかということについては、余は寸毫の関心も持たない」(p.106)
―荒木貞夫「皇軍の精神は皇道を宣揚し国徳を布昭するにある。すなわち1つの弾丸にも皇道がこもっており、…皇道、国徳に反するものあらば、この弾丸…で注射する」(p.106)
(⇔Q)
Q:日本の政治を見るとき(さらにいえば私たちの日常的行動においても)、常に人の目を気にし、その人の目を気にすればこその自己正当化の論理をこじつけようとする意識が働いていないだろうか? たとえば、軍事的「国際貢献」論における「国際協力」に寄りかかる主張は? あるいは、自分がやりたくない、逃げたいときにどんな口実を設けるだろうか? ということは、軍国日本の指導者の心理の働きは、今日もなお生きていることを意味しないだろうか?
(ロ)「驚くべき乖離」における日本の指導者の発言・行動類型の「ずるさ」
―グルー大使「日本人の大多数は、本当に彼ら自身をだますことについて驚くべき能力を持っている。…日本人は必ずしも不真面目なのではない。このような義務(国際的な)が、日本人が自分の利益に背くと認めることになると、彼は自分に都合のいいようにそれを解釈し、彼の見解と心理状態からすれば彼はまったく正直にこんな解釈をするだけのことである。…このような心的状態(注:日本の指導者)は、如何に図々しくも自分が不当であることを知っているもの(注:ナチの指導者)よりよほど扱い難い。」(p.108)
―丸山「一方(ナチズムの指導者)は罪の意識に真っ向から挑戦することによってそれにうち勝とうとするのに対して、他方(日本の指導者)は自己の行動に絶えず倫理の霧吹きを吹きかけることによってそれを回避しようとする。」(同)
―丸山「(日本の指導者は)個々の具体的な殺戮行為のすみずみまで『皇道』を浸透させないと気がすまない。…自分でまき散らしたスローガンにいつしか引きこまれて、現実認識を曇らせてしまうのである」(p.112)
「支配権力はこうした道徳化によって国民を欺瞞し世界を欺瞞したのみでなく、なにより自分自身を欺瞞したのであった」(p.107)
「(ナチの戦犯に比べると)東京裁判の被告や多くの承認の答弁は一様にウナギのようにぬらくらし、霞のようにあいまいである」(p.113)
(⇔Q)
Q:うえの質問の続き。私たち(日本の政治も同じ)は、自分の行動を正当化する論理が他人によって見破られると、それを潔く認めるのではなく、ますます必死になって自分(日本の行為)を弁護する状況に直面しないだろうか?あるいは、見破った相手に対して「よくも恥をかかせてくれた」とか、「次の機会には仕返しをしてやる」などと思うことがないだろうか? 現在の日朝交渉で、植民地支配の責任を認めるのではなく、「拉致疑惑」「テポドン」を持ち出す神経はどう考えたらいいのだろう? 中国との関係もまたしかり。
(ハ)日本の指導者の言動がもたらす結果:「弱い精神」(p.110)・「矮小性」(p.112)
―(キーナン検察官)「彼ら(戦争指導者)が自己のついていた地位の権威、権力および責任を否定でき…なくなると、彼らは他に選ぶべき道は開かれていなかったと、平然と主張する」(p.112)
―(丸山)「明確な目的意識によって手段をコントロールすることができず、手段としての武力行使がずるずるべったりに拡大して自己目的化していった(ことにより)、無計画性と指導力の欠如が顕著になった」(p.109)
「(開戦日にグルーを読んだ東郷外相の行動―p.110―について)間が悪い、ばつが悪いといった私人の間の気兼ねが、(日米を)代表する外相と大使との公式の、しかも最も重大な時期における会見の際に東郷を支配して、眼前にすでに勃発している明白な事態を直接に表現するのを憚らせたということだ」(p.111)(⇔Q)
Q:個人的なレベルでは最終的な開き直り、組織的・集団的には成り行き任せ、そして決断力を発揮する必要があるときに限って相手の気持ちを「思いやって」思い切ったことがいえずむしろ取り返しがつかなくなる。そういう事例を国家レベル、個人レベルで考えてみよう。
(ニ)「弱い精神」・「矮小性」が意味するもの:「体制そのものの退廃性の象徴」(p.115)
―丸山「支配層一般が今度の戦争において主体的責任意識に希薄だということは、恥知らずの狡猾とか浅ましい保身術とかいった個人道徳に帰すべくあまりに深い根深い原因をもっている。それはいわば個人の堕落の問題ではなくて、…『体制』そのもののデカダンスの象徴なのである。」(同)(⇔Q)
Q:国家的にいえば総無責任体制。では個人レベルでの主体的責任意識が希薄であるということは?
(3)「体制そのものの退廃性」
(イ)「既成事実への屈服」
(a)定義
―(「既成事実への屈服」の定義)「すでに『現実』が形成せられたということがそれを結局において是認する根拠となること」(p.116)
「『現実』というものは、常に作り出されつつあるものあるいは作り出されてゆくものと考えられないで、作り出されてしまったこと、いな、さらにハッキリ言えば、どこからか起こったと考えられていること」(pp.119-120);「現実は常に未来への主体的形成としてでなく、過去から流れてきた盲目的な必然性としてとらえられる」(p.120)
「『現実的に行動する』ということは、過去への繋縛のなかに生きているということ」(p.120)(⇔Q)
Q:「既成事実への屈服」とリアリズムとはどうちがうか?(下記(b)(c)をも考慮に入れて)
(b)「既成事実への屈服」とアメリカ的リアリズム
―(日本的「現実」とアメリカ的「現実」)「松岡(外相)は、‥歴史は急激に動く世界にあっては必ずしも制御することができない盲目的な勢力の作用に基づくことが大きいといった。私(グルー)は、この盲力が歴史上作用したことは認めるが、外交と政治の主な義務の一つはかかる力を健全な水路に導き入れることであり、近い将来、彼と私が日米関係の現状を、2人が正しい精神でそれに接近するという確信を持って探求するならば、彼が考えている盲力に有用な指揮を与えることに大いに貢献できると思うといった」(同)
(丸山コメント)「ここに主体性を喪失して盲目的な外力に引き回される日本軍国主義の『精神』と、目的―手段のバランスを不断に考慮するプラグマティックな『精神』とが見事な対照をもって語られていないだろうか」(同)
(c)「既成事実への屈服」とナチ的リアリズム
―(日本的「現実」とヒットラー的「現実」)「(ポーランド)問題の解決は勇気を必要とする。既成の情勢に自己を適応せしめることによって問題の解決を避けようとするごとき原則は許されない。むしろ情勢をして自己に適応せしむべきである」(同)
(丸山コメント)「これはまたグルーのいうのとは違った意味での、いわばマキャヴェリズム的主体性であり、ここにも政治的指導性の明確な表現がうかがわれる。…終始『客観的情勢』にひきずられ、行きがかりにとらわれてずるずるべったりに深みにはまっていった軍国日本の指導者とはとうてい同一に論じられない」(pp.120-121)
(d)「既成事実への屈服」は具体的にどういう形をとるか
―(被告発言)「われわれ日本人の行き方として、自分の意見は意見、議論は議論といたしまして、国策がいやしくも決定せられました以上、われわれはその国策にしたがって努力するというのがわれわれに課せられた従来の慣習であり、また尊重せらるる行き方であります」(p.119)(⇔Q)
Q:今日の日本社会において、このような考えが支配している状況を考えよう
=「自ら現実を作り出すのに寄与しながら、現実が作り出されると、今度は逆に周囲や大衆の世論に寄りかかろうとする態度」(p.117)(⇔Q)
Q:現実政治のなかから具体的事例を考えよう
=「重大国策に関して自己の信ずる意見に忠実であることではなくして、むしろそれを『私情』として殺して周囲に従う方を選び、またそれをモラルとするような『精神』」(p.118)(⇔Q)
Q:この面では戦後日本にどの程度の変化が起こっているだろうか?
=「日本の最高権力の掌握者たちがじつは彼らの下僚のロボットであり、その下僚はまた出先の軍部やこれと結んだ右翼浪人やごろつきに引き回されて、こうした匿名の勢力のつくった『既成事実』に喘ぎあえぎ追随して行かざるを得なかったゆえんの心理的根拠」(p.121)(⇔Q)
Q:日本の右翼の活動を無視できるか?自由主義史観の勢いについて考えよう。
=「こうして柳条湖や芦溝橋の1発は止めどなく拡大して行き、『無法者』の陰謀は次々とヒエラルキーの上級者によって既成事実として追認されて最高国策にまで上昇していった」(p.122)(⇔Q)
Q:今日的事例は?
=「このような論理は‥ヒエラルキーに漸次転嫁されて下降する。…そうして最後は国民がおさまらないからということになる。…軍部はしばしば右翼や報道機関を使って‥排外主義や狂熱的天皇主義をあおりながら、かくして燃え広がった『世論』によって逆に拘束され、事態をずるずると危機にまで推し進めて行かざるを得なかった」(p.123)
=「『下克上』的現象」(p.124)(⇔Q)
Q:自衛隊法の「改正」における制服組の圧力とは?
(e)下克上と抑圧移譲(「超国家主義の論理と心理」)の関係
―「下克上は抑圧移譲の楯の半面であり、抑圧移譲の病理現象である。…下克上とは畢竟匿名の無責任な力の非合理的爆発であり、それは下からの力が公然と組織化されない社会(注:反民主的社会)においてのみ起こる。…うえからの権威によって統治されている社会は、統治者が矮小化した場合には、むしろ兢々として部下の、あるいは他の被治層の動向に神経を使い、…(そ)の意向に実質的に引きずられる結果となるのである。抑圧移譲原理の行われている世界ではヒエラルキーの最下位に位置する民衆の不満はもはや移譲すべき場所がないから必然的に外に向けられる。非民主主義国家の民衆が狂熱的な排外主義の虜になりやすいゆえんである。日常の生活的不満までが挙げて排外主義と戦争待望の気分のなかに注ぎ込まれる。…日本において軍内部の下克上的傾向、これと結びついた無法者の跳梁が軍縮問題と満州問題という国際的な契機から激化していったことは偶然ではない」(pp.124-125)(⇔Q)
Q:このくだりはどのように理解すればいいか
(ロ)「権限への逃避」:「訴追されている事項が管制上の形式的権限の範囲には属さないということ」(p.127)
(a)責任逃れ
―(軍務局の役割を述べた武藤局長の発言)「陸軍大臣は閣議で実行した時効を実行せねばなりません。これがためには政治的事務機関が必要であります。軍務局はまさしくこの政治的事務を担当する機関であります。軍務局のなすのは、この政治的事務でありまして、政治自体ではないのです」(p.132)
(丸山コメント)「これが武藤の軍務局長としてのめざましい政治的活躍の正当化の根拠である。彼の仕事は政治的事務なるが故に政治に容喙しうるのであり、政治的事務なるが故に政治的責任を解除されたのであった」(⇔Q)
Q:この丸山のコメントの妙はどこにあるか?
(b)消極的権限争い
―「旧内閣制がいかに政治の一元化を妨げたか」(p.133)(⇔Q)
Q:今日の内閣制によって問題は解決されたといえるだろうか?
―「それぞれ縦に天皇の権威と連なることによって、各自の『権限』の絶対化に転嫁し、ここに権限相互の間に果てしのない葛藤が繰り広げられる。官僚には一貫した立場やイデオロギーはないし、また専門官吏として持つことを許されない。…挙国一致と一億一心が狂熱的に怒号されるに比例して、舞台裏での支配権力間の分裂は激化していった。…このような政治力の多元性を最後的に統合すべき地位に立っている天皇は、疑似立憲制が末期的様相を呈するほど立憲君主の『権限』を固く守って、終戦の土壇場までほとんど主体的に『聖断』を下さなかった。かくして日本帝国は崩壊のその日まで内部的暗闘に悩み抜く運命を持った」(p.136)(⇔Q)
Q:戦前の天皇制に関する丸山のこの評価でとどまっていいか? 戦後の象徴性天皇制のもとにおける消極的権限争いはどういう形をとっているか?