広島への「挑発的」問題提起

2011.05.13

*3月12日に広島でお話しする機会があったのですが、主催者がテープ起こしをしたものの冒頭発言の部分を紹介します(5月13日記)。

6年間広島にいる間に、思ったことを正直に発言して、最後にまた、挑発的問題提起を行うことになった。「挑発的」というのは私が言い出したことではない。第2部の司会をしてくださる舟橋喜恵先生からいただいた課題だ。舟橋先生は、なるべく活発な意見交換が行われるために、自らが体験した具体的なケースを示しながら、広島はどうしてヒロシマたりえていないのか、どうすれば広島はヒロシマたりうるのかということについて、会場のみなさんが何か発言しなければ腹の虫がおさまらないという気持ちがかきたてられるような、最大限に挑発的、刺激的な問題提起を行うようにと課題を下さった。舟橋先生の弟子を勝手に自認している私としては先生の厳命に逆らうわけにいかないということで、皆さんの気持ちの平安さをかき乱すことに全力を尽くそうと思う。

●広島、長崎、沖縄の連帯を

長崎から山田拓民さんたちが来てくださるはずだったが、(東日本大震災によるJRダイヤの混乱で)来ていただけず残念だ。勝手に宣伝すると、今年の5月27日(金)から5回、広島平和研究所が市民講座をする。「広島で長崎を考える」というタイトルで、土山秀夫さんたちも来る予定だ。広島、長崎、沖縄という、日本における最大の平和発信拠点であるべきこの三つが一緒にならないと、この国を変える力が出てこないのではないかと思っている。そういう意味でも、広島だけに閉じこもるのではなく長崎、沖縄と連携しながら、これからの平和のために取り組んでいくことが必要ではないか。ぜひ長崎のことも自分の問題として考えてくださるようにお願いしたい。
 長崎と広島の交流は1970年、ヒロシマ会議が開かれた時に長崎の秋月辰一郎さん、鎌田定夫さんが参加され、これが一つの大きなきっかけになったことを鎌田先生自身が書いている。75年に広島・長崎被爆30年座談会が開かれ、その果実として「広島・長崎30年の証言」という上下2冊の本が75年と76年に出された。編集は主に長崎側が行ったということだ。81年には長崎証言の会のような活動を広島でもやろうということで連携についての検討会が開かれ、81年12月5日に広島証言の会が庄野直美先生を代表として発足した。82年から87年にかけて季刊「広島長崎の証言」が刊行されたという歴史がある。  しかしその後、20年以上にわたって長い交流の断絶というか途絶状況があるということは否めない事実だ。私たちとしては非核三原則に関する広島、長崎の共同声明を昨年行ったことをきっかけに長崎との交流を始めようということになり、きょう山田さんが来るというのもその延長線上にあった。今後、長崎と広島、そして沖縄の交流を意識的に深めるようお願いしたい。
 本論に入る。広島はなぜヒロシマたりえていないのか、というテーマだが、レジュメに書いたように、ここは安芸門徒の土地柄だとか、安芸の人間はお上に弱いとか、広島における昔ながらの保守的土壌であるとか、明治以降、広島は軍都として中央直轄だったとか、そういう類の歴史的決定論に入り込むと出口がなくなってしまう。それではあまりにも残念なので、そういう議論は抜きにして考えたい。

●広島で驚いたことの数々

 舟橋先生の「自らの体験を踏まえて」という話を受けて、私はこの6年間、広島でどんな体験をしたのかということで、私自身のホームページに書いた文章を眺め直したところ材料として使えるなと思うものがいくつかあったので、それをレジュメに載せた。私自身が体験したいくつかの事例で最初のものは2005年である。被爆60年にあたるその年に、私は広島に来た。その時、中国新聞の「被爆者・若者アンケート」を見た。何にショックを受けたかというと、原爆投下の是非について「戦争中でやむを得なかった」などと容認、受忍する回答が被爆の18・9%、約5人に1人いたことだ。日本の安全保障を米国の核兵器に頼る核の傘をめぐっては、被爆者で「必要」と考える人が23・5%、「必要ない」が24・6%とほぼ拮抗していた。4人に1人の被爆者が核の傘は必要だと答えたという事実を、私は広島に来て3か月ぐらいのとき、知った。
 被爆者が核の傘を肯定するなどということは、当時の私にはとても考えられないことだった。4人に1人が「必要だ」というということはもう大変なショックだった。さらに、共同通信による日米世論調査の結果が中国新聞に報じられた。広島、長崎に対する原爆投下は必要だったと見る人は多数だったが、将来の核兵器の使用については69%の米国人が「正当化されない」と答えた。これはいい意味での驚きで、非常に力づけられた。私たちの働きかけが米国人の意識を変える鍵を握るなと、そういう感触を得た。  2番目が原爆ドームの世界遺産登録推薦書である。原爆ドームを世界遺産に推薦する文書で、国、すなわち当時の文化庁が、原爆ドームについて「究極的核廃絶を伝え続ける人類共通の平和記念碑」と書いていた。非常にショックを受けた。「究極的核廃絶」とは、私が外務省にいた78年の第1回の国連軍縮総会の際に、日本政府が、いわゆる非核三原則と米国の核の傘に頼る政策、この二つの矛盾をつなぎ合わせる為に編み出した言葉だった。つまり無限の彼方に核廃絶を押しやるという意味で究極的という言葉を使った。その言葉が原爆ドームの世界遺産登録に当たって推薦の文書に忍びこまされていた。実は今日来ていただいた平岡敬さんの市長時代のことで、一度お尋ねしたことがあるが平岡さんは知らなかった。おそらく市長に相談もしないで市役所の人間がたいした問題意識もなく結構ですよと言ったのだろう。それが私には大きなショックだった。要するに「究極的核廃絶」という政府の欺瞞に満ちた政策を受け入れることに何ら違和感を持たないでいる広島に、非常に疑問を感じた。このように、被爆者の核兵器に対する感覚や考え方、あるいは原爆ドームの受け入れ方、そういうものを通じて、そこに示されている広島の平和意識とは何なのか、疑問を持たざるを得なかった。
 要するに私の考えていた広島と現実の広島との間には非常に大きなギャップがあった。そういうことを最初の1年で問題意識として強く持たざるを得なかった。こういうときに広島平和研究所のニューズレターで「広島を聞く」という連載インタビューを始め、第1回に舟橋先生に登場していただいた。そのときに私はそういう疑問を持っていたものだから、お尋ねしたことがある。舟橋先生は「広島は非常に疲れている」ということをおっしゃった。私にとっては雲をつかむような言葉だったが、私が抱いた違和感と重なるものを感じて、その後5年間の広島生活は端的に言えば「広島は非常に疲れている」とはどういうことなのかということを考える日々でもあった。
3つ目としてあげたいのは、岩国市長選(08年2月10日投開票)に対する広島の無関心だ。広島からわずか30㌔南西にある在日米軍岩国基地について広島がどうしてこんなに無関心でいられるのだろうか。もし広島が強い問題意識を持っていたら、米軍基地移設反対派候補が敗北することはあり得なかったと思う。広島の無関心が基地容認派候補を当選させる大きな力になったのではないか。 そしてあろうことか、この年の6月8日付中国新聞では腰を抜かすほどびっくりした。1面トップで「艦載機受け入れ65%」という大見出しの記事が躍った。65%の人が厚木基地の艦載機受け入れを是としている、そんなことあり得るはずがないではないかというのが私の気持ちだった。数字の内訳をみると、「空母艦載機部隊が厚木基地から岩国に移転することをどう考えますか」という設問に対して「賛成する」が5・8%、「必ずしも賛成できないが、条件付きで容認する」25・2%、「反対だが、現在の状況を考えればやむを得ない」34・0%。この3つを合わせたのが65%。これがどうして「艦載機受け入れ」になるのか。どういう神経を持ってこのような説明にするのか。率直に言って中国新聞に対する不信感を決定的にした。こういうことを書いているようではダメだと思った。 さらに私はショックを受け続けることになる。07年から08年にかけて広島市が国民保護計画を策定した。信じられないことだが、ほとんど市民的関心を引き起こさなかった。国民保護計画というのは、核攻撃に対してどのように市民を誘導して避難させるかとか、攻撃があった場合にどういう対処をするかということが中身の一部としてある。そもそも国民保護計画はなぜ作られるのか。米国が朝鮮半島、あるいは台湾海峡で戦争を発動するということだ。それに対して米軍基地が密集している日本列島が総力を挙げて協力する、その時の国民動員計画だ。国民保護計画というのは、私も官僚をやっていたので知っているが、政府一流の言葉のごまかしだ。「動員」を「保護」と言い換えることによって国民の感性を眠らせる。事実は、米国が中国、北朝鮮に戦争を仕掛けなければ中国、北朝鮮が日本に反撃するはずがない。戦争をさせなければ保護計画も動員計画も必要ない。そこに問題の根本がある。

●米国に戦争させないことが第一

ところが皆さんが日ごろ聞いているのは、北朝鮮が攻めてきたらどうする、中国が攻めてきたらどうする、ということ。そこから議論が始まる。攻めてこられたらかなわんわなと。その時には米国に守ってもらわないとしょうがない、そのためにいろいろ準備するのもしかたがないなと、こういう発想だ。それがそもそもの間違いだ。要するに米国に戦争をさせなければいい。戦争をさせない一番確実な保証は何か。日本が基地を提供しなければいい。それだけのことだ。中国と北朝鮮が先手をとって日本を攻めてくるはずがない。私は、当然そういう意識が広島にあると思いこんで広島にやってきた。ところがまったくそうではなかった。
百歩下がって国民保護計画が必要だという場合があるかもしれないとしても、その中に核攻撃自体を含めるというのはどういうことなのか。確かに広島市は葉佐井博巳先生を座長にして、核攻撃というものに対して、そもそもどういう事態が起こるのか検討した。そして、核攻撃があったら手の打ちようがないという結論になった。それにもかかわらず広島市は国民保護計画を作り、核攻撃があった場合どうするかということまで丁寧に書き込んでいる。
蟷螂の斧だが、私はどうしても我慢できず一市民として市に質問状を提出した。市の担当者が説明に来たが、結局なんの波風も起きないまま広島市の国民保護計画は成立した。いつ核攻撃が起こっても、皆さんはそれに対して文句を言わなかったんだから、いちゃもんをつける立場にはないということになる。
ビキニの集会で静岡に行ったとき、長崎からきた人に言われた。「おかげさまで、長崎市の国民保護計画から、核攻撃にかかわる事態を盛り込ませないことができました」という話だった。
私は、広島に比べればこだわりがうかがえるな、ということでお聞きした。けれども、長崎の対応にも、保護計画とはそもそもどういうものか、という問題意識はない。長崎の人たちに考えてほしかったのは、先に述べたような理由で、この国民保護計画自体を作らせてしまったら意味ないそれで終わりだ、ということ。中国、北朝鮮との戦争は必ず核がらみになる。だから、長崎市の国民保護計画に核攻撃の記述を入れなかったからといって、何の答にもなっていない。そういう点について今日は、長崎の山田拓民さんにお答えいただけたらと思っていた。残念だ。

●栗原貞子の5冊の本

 さらに、広島はもうだめだ、と私が思ったのは、次のような問題があったからだ。最後の例としてあげたい。放影研が米国に協力する問題だ。
 2009年に放影研が、米国アレルギー感染症研究所が進める計画に協力することを地元連絡協議会に諮った。私は、宛て職でこの協議会のメンバーに名前を連ねていた。4月28日と9月8日の2回の協議に参加した。
 この研究は、対「核テロ」戦争対策の一環で、広島の被爆者の献体を米国が利用しようというものだ。広島の医師会の協力を得て、その研究に加担しようという提案だった。協議会には、広島大学の浅原学長、県医師会の碓井会長、広大原医研の神谷所長、中国新聞の川本社長、それに広島市の三宅副市長らが参加していた。
 私は、放影研がこの研究に協力するのは絶対反対の立場で、孤軍奮闘した。「こんなことをやると、広島がヒロシマでなくなる」と主張した。しかし、多勢に無勢。ほとんどの人が同意し、協力することが決まった。私はこの問題については、「こんなことがあっていいのか」とはらわたが煮えくりかえる思いでいる。「ABCCに立ち返る放影研」というタイトルのコラムでは、「放影研に同意する広島県医師会は魑魅魍魎の集まりだ」「放影研と一緒に動く彼らは被爆者の血を吸い尽くすダニだ」と書かざるを得なかった。広島市が国民保護計画を策定しようとした時に感じた激しい怒りをこの問題でも感じた。「広島は自らヒロシマを遠ざけようとしている。恐ろしいのは、そのことを自覚すらしていないことだ」と、私は書いた。
 以上、いくつかの例を挙げたように、私は2005年に広島に赴任して以来ずっと、「いったい、これは何なんだ」「広島よ、どこにヒロシマがあるのか」という思いを抱き続けざるを得なかった。この6年間を振り返ってみて、やっぱり自分は怒るべくして怒ってきたんだ、ということを今再確認している。
 時間の制約もあるので、あとは、レジメに書いていることを若干説明したい。
 私が疑問を感じる広島は、決して今日明日でそうなったのではない。60年間の蓄積が今の広島をつくっている。そのことを栗原貞子の5冊の本によって学んだ。
 敗戦直後から日本が独立を回復するころまでの10年間は、「空白の10年間」といわれる。なぜ空白だったのか、何が空白だったのか。それは、資料としてお配りした。この年表に書いてあるような問題があったからだ。
 占領下においても、被爆者のことや平和運動をなんとかしようとした人はいた。今福山に住んでいる大村英幸さんもその一人だ。彼は当時の平和運動、被爆者運動の生き証人だ。そういう運動は確かにあった。しかし、圧倒的な少数派であったことも事実である。
 被爆者の人たちが、その存在を世に自己主張したのは、1955年の第1回原水爆禁止世界大会の場においてだ。それまでは、被爆者を片隅に追いやり、よそものの主導で復興してきた広島だった。そこには、被爆者とその原爆体験を中心にすえなかった広島があった。

●広島の運動は63年で終わった

 独立回復後の広島にも、大きな問題がある。運動の担い手の問題だ。要するに、広島における平和運動は、1963年の原水禁世界大会で、ほぼ活動が終わった。もちろんその後、1968年に被爆教師の会が結成されたり、60年代から70年代に中国新聞の原爆報道が花開いたりした。しかし、平和運動、反核運動の広島は、1960年代前半で終わった。
 一方で、長崎はどうか。1955年、詩人の山田かんが「ナガサキの記録運動」の必要性を訴えたことをきっかけに、医師で作家の秋月辰一郎、学者の鎌田定男らによる地道な組織化の努力もあって、1969年くらいから被爆者の証言活動が始まっていく。
長崎では、既存の組織、運動とは別に市民主体の、目覚めた個人たちによる活動が続いていく。これがもとになって、本島等市長が平和宣言の起草委員会にそういう人たちを招き入れた。選挙で本島氏を破った伊藤一長市長は当初「平和だけが長崎ではない」と言いながらも、その後の学習を経て、「やっぱり平和は大事だ」「金は出すが口は出さない」ということで、あの「地球市民集会ナガサキ」が始まった。「怒りの広島、祈りの長崎」と今でも言うが、実は、その状況は60年代前半で終わっている。
「祈りの」と言われた長崎は、くしくもそのころから、営々とした活動を持続させてきた。率直に言って長崎は今、はるかに広島の先を歩んでいる。私がつくった年表を見ていただければ、そのことが分かるはずだ。
 最後に、平和行政の在り方について話したい。これは最近のことなので、みなさんの記憶にも新しいはずだ。結論を言うと、広島には、市長中心の平和行政はあったが、そこに市民参加はなかった。それでは、本当のヒロシマの主張などはできるはずがない。
 さらに、深い疑問を感じてきた例をあげる。秋葉市政と被爆7団体の関係のあり方だ。市長と7団体、それに市政記者クラブを加えた懇親会が定期的に開かれている。私も立場上、出席したけど、これは異常だと思った。市政と被爆者団体と記者とが、一種のなれ合いの関係になっている。
 そして、平和運動の分裂の問題である。この深刻な後遺症を何とかしなくてはならない。それなくしては、ヒロシマの主張は注目を集めない。支持を得ることはできない。過去の行きがかりにこだわらず、広島がヒロシマたりえるためにどうしたらいいのか、という視点で、この問題を考えていただきたい。