『広島に聞く 広島を聞く』あとがき

2011.01.16

*私は、広島平和研究所に勤めた6年間、研究所のニューズレター(年3回の定期刊行物)で、さまざまな分野で広島に深く関わってきた方々にインタビューをお願いし、シリーズで掲載してきました。今回、すべてのインタビューを一冊にまとめ、かもがわ出版から出版してもらうことができることになりました。また、その「後書き」を私自身が書くことになりました。以下は、その文章です。この文章を読んでくださる方が、一人でも多くこの本を読んでくださることを期待しています(1月16日記)。

 16回のインタビューに登場願った方々は、戦後の広島においてさまざまな足跡を残された人びとである。被爆者も非被爆者もいるが、そのことは登場願う上での判断材料ではなかった。広島においては被爆体験の継承ということが盛んにいわれ、被爆者の体験に関する記録は、もちろん決して十分だとはいえないのだろうが、それでもかなりの蓄積がある。しかし、私が広島に来て次第に気づかされたのは、広島の戦後史に関する当事者自身の手になる記録が少ないということであった。しかも、戦後日本における反核平和運動の中心地の一つである広島においては、後述するように、1960年代以後のいわゆる社共対立の影響がもっとも深刻な形で現れるという不幸に見舞われた。そのために、極端な言い方をすれば、本来一つであるべき歴史が二つ存在し、しかも双方が自らの歴史の正統性を主張するという状態が今日に至るまで続いている。
 さらに不幸なことは、そういう対立によって貴重なエネルギーが費消され、しかも、社共対立(それは広く、広島を置き去りにした政党エゴの産物としてきわめて否定的に受けとめられている。)に愛想を尽かした多くの被爆者や一般の人びとが反核平和運動から背を向けることになって、今や55年以上の時間があたら無駄に過ごされる結果になってしまったということである。その結果、「平和のメッカ」としての広島に対する広島の外におけるイメージ及び期待は今日もなお根強いものがある(ただしそれは、率直にいって外部が想像的に作り上げた「無い物ねだり」の嫌いなしとしない。)が、広島のうちにおける主体的な問題意識とエネルギーは著しく摩滅し、今やきわめて危機的な状況にある、というのが6年近く広島に滞在して観察した私の偽りのない実感である。
 戦後史の当事者であった方々、戦後の各時期を目撃した方々から広島の反核平和運動にかかわる証言を聞き取り、それを文字に残しておきたい、残しておかなければならないというのが、「広島に聞く 広島を聞く」というタイトルのもとでのインタビュー・シリーズを、広島平和研究書が定期的に発行している『HIROSHIMA NEWS RESEARCH』(略称「ニューズ・レター」)で私が開始した最大の動機であった。各号での紙幅が限られていること、一人一回という物理的制約があったこと(なるべく多くのテーマについて一人でも多くの方からお話を聞く必要があるという考慮が優先した。)、年3回の出版物で回数にもかぎりがあったこと等々により、中途半端な内容のものに終わってしまった嫌いがあることは残念であるが、断片的ではあるにせよ、全16回をまとめてみれば、広島の埋もれた重要な歴史の一端を掘り起こす手がかりになっているのではないかという手ごたえも感じている。もちろん、その評価は、読者の判断に委ねる以外にない。
 以下においては、私の学び知った広島の戦後史において、16人の方々とのインタビュー内容がどのような意味を持っているかについての私なりの理解を述べ、読者がこの本を読む上での参考を提供したい。

まず「Ⅰ 昭和天皇と日本(日本人)の戦争責任」に収めた三編について。私は、広島に来る前から、アジア大陸を軍事侵略・植民地支配し、挙げ句の果てに第二次世界大戦を引き起こしてアジア諸国に甚大な人的及び物的被害をあたえ(いわゆる15年戦争におけるアジア・太平洋地域の死者数は約2000万人を超えたとされている。)、早々と勝利の展望を失った後も少しでも有利な条件での停戦に持ちこみたいと悪あがきし、本土空爆によってほぼ全土を焦土化する羽目になってもまだ懲りず、ついには沖縄戦、広島と長崎に対する原爆投下を招く(15年戦争を通じた日本人の死亡者数は310万人を越えたとも言われる。)という史上に類をみない罪(私はあえて罪という。)を犯した昭和天皇を筆頭とする当時の戦争指導者の責任はきわめて重大であると考えている。私が広島に来て意外だったことは、広島では昭和天皇の戦争責任を厳しく問う声は決して多くないことだ。また、日本の戦争責任について正面から問う声も少ない。その原因を考えることはここでの目的ではないが、昭和天皇の戦争責任を問わない広島が原爆投下責任の問題についても概して曖昧なままできているのは故なしとしないと思われる。
そういう一般的風潮の中で、国民を無謀な侵略戦争に引きずり込んでおきながら、敗戦後反省もなく退位もしなかった昭和天皇そしてそれを許してきた日本という国家に対する中沢啓治氏(「ゲンは怒っている」)の怒りは、一切の妥協を許さないきびしいものである。また、戦争被害者に「受忍」を強いる立場に立つ国に対して、原爆小頭症というごく少数のカテゴリーに属する被爆者の救援獲得という問題に深く関わった秋信利彦氏(「きのこ会と原爆投下質問」)は、昭和天皇の記者会見において、天皇の原爆投下に関する思いを問わずにはいられなかったジャーナリストの気概と複雑な心境を記録に残した。李実根氏(「差別ではなく共生を」)は、日本の植民地支配がゆえに広島に来ることを余儀なくされて、さらに被爆という苛酷な運命に遭遇するという二重の不幸を体験した在日朝鮮人の立場から、より根源的に日本及び日本人の戦争責任意識の欠落を問い詰めている。
被爆国・日本が核兵器廃絶を目指す人類的課題に貢献し、その運動の先頭に立つためには、まずは自らの曖昧な戦争責任問題に関する意識を直視し、その中で原爆体験を加害及び被害の両面を踏まえた視点に基づいて位置づけることからはじめなければならないだろう。この作業は本来、敗戦直後から行われるべきものであった。しかし、私たちはそれを怠ったまま今日に至っている。私たちはこの現実をこれ以上避けて通るわけにはいかない。そして、きっぱりと核兵器に対する依存心理(核抑止論信奉)を清算し、日本政府の矛盾を極める核政策を徹底的に改めさせ、広島・長崎に対する原爆投下を正当化する上に成り立っているアメリカの核政策を正面から批判しつくす日本に生まれ変わらせるべく、私たちはまずは私たち自身を鍛え直すことが求められている。

「Ⅱ 占領下の広島における平和運動」には、大村英幸氏(「被爆・占領下の広島を語り残す」)の一編しか収められなかった。アメリカ占領軍の統治下の広島においては、原爆報道を取り締まるいわゆるプレス・コードの厳しい報道管制がしかれた時期を中心に、「空白の10年」(1945年8月から第1回原水爆禁止世界大会が開催された1955年8月までの期間を指す。)ともいわれることがある。また、当時の状況を知る人びとの多くは既に物故している。したがって、その時代に広島の反核平和運動の先頭に立った大村氏の証言はきわめて貴重である。その証言は、大衆を重視し、原爆反対に力を注いだ大村氏の原点密着の運動が当時の広島県の日本共産党指導部の入れるところとならなかったことを窺わせるもので、現場で大衆に密着して活動している個々の党員の地道な活動にもかかわらず、県党指導部主導の反核平和運動が県内で一貫して広がりを持ち得ない原因が、根深いところで今日まで変わらずに潜んでいる可能性を示唆させるものとなっている。

「Ⅲ 広島の原水爆禁止運動」には三編を収めることができた。日本の原水爆禁止運動は、1954年の第5福竜丸事件を契機に急速に全国を覆い尽くす国民規模の大運動となり、広島で早くから地道に、しかし広がりを欠いた中で闘われていた核兵器廃絶運動と結びついて1955年の第1回原水爆禁止世界大会へと結実した。しかし、1950年代後半の日米安保改定問題への対応をめぐってまず自民党、民社党が袂を分かち、ついで1961年にソ連の核実験再開を契機としたいわゆる「いかなる国」問題、さらに1963年に米ソ英主導の部分的核実験停止条約(「部分核停」。その政治的軍事的意味は中国の核武装をどう見るかという点にあった。)問題をめぐって社会党・総評と共産党の対立が決定的となって、原水禁運動は基本的に政党別に系列化される歴史をたどることになって、今日に至っている。
北西允氏(「原水禁第9回世界大会を回顧する」)は、社共対立で分裂した1963年の世界大会の渦中にいた当事者として知り得た貴重な体験・記憶を記録に残している。この大会は、第1回大会を除けば、唯一広島が中心的役割を担い、ヒロシマの反核平和思想を日本の反核平和思想として確立するための客観的な機会を提供したが、広島県原水協自身の内部分裂という主体的原因もあってその機会は生かされることなく終わった。横原由紀夫氏(「広島原水禁活動40年をふり返る」)は、1972年から1996年までの間、原水爆禁止広島県協議会(広島県原水禁)で活動した自らの体験をふり返るとともに、原爆体験の加害と被害の両面を総合的に捉える視点を欠く広島の特殊意識・特権意識、活発な議論が行われなくなった広島、被爆者運動に寄りかかった平和運動という広島の反核平和運動の問題点を、自戒を込めて鋭く指摘している。また佐藤光雄氏(「広島の平和運動と原水禁世界大会」(仮題))は、広島及び東京の双方で運動にかかわってきた体験と第1回世界大会からすべての世界大会に参加してきた貴重な経験をもとに、日本の反核平和運動のあり方について重厚な提言を行っている。日本の反核平和運動が統一を回復し、その主体的力量を格段に強める上で、この三編の文章が大きな示唆を与えることを、私としては期待して止まない

「Ⅳ 被爆者と原水爆被害者団体協議会」には四編の文章を収める。被爆者救援は、原水爆禁止第1回世界大会が明確に定めた、核兵器廃絶と並ぶ原水禁運動の車の両輪である。「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(略称「被爆者援護法」)が存在するにもかかわらず、というよりこの法律そのものが当初から重大な欠陥商品であるために、多くの被爆者は、国の冷酷を極める認定行政によって原爆症の認定を受けることができないままでうち捨てられてきた。原爆症認定訴訟は、この現実を打開するべく全国規模で起こされたものであるが、渡辺力人氏(「原爆症認定訴訟の画期的意義と残された問題」)は、広島県における訴訟を束ねる県民会議事務局長として、全面的な勝訴を勝ち取った判決の意義と残された問題点を明確に明らかにしている。また鎌田七男氏(「被爆者は私の教育者」)は、長年にわたる広島大学原爆放射線医科学研究所(原医研)での17,655例の被爆者の染色体に関するデータに基づき、放射線による染色体異常の研究を行って「入市被曝」の存在を実証し、上記原爆症認定訴訟の勝訴判決を導くことに重要な貢献を行った衝撃的な経緯を分かりやすく説明している。この二編の文章は正に、放射線が及ぼす人体への影響を日米両政府がなりふり構わず過小評価し、核兵器の残虐性、反人道性を覆い隠してきた歴史を全面的に書き換える画期的意味を持っている。
1964年に原水禁運動が組織的に分裂したとき、広島県における原爆被害者団体協議会(被団協)も二つの組織に分かれ(組織の名称は同一)、今日に至っている。坪井直氏(「被団協50年-回顧と展望」)及び金子一士氏(「もう一つの被団協」)は、それぞれの被団協の理事長としての立場・認識を述べている。私の素朴な実感としては、両被団協が分かれて存在することには、過去の経緯はともかくとして、今日的な必然性はないと言わざるを得ない。上記の原爆症認定訴訟に際しても、両組織が一緒になって行動したことが勝訴を導く重要な原因となったことは間違いないところだろう。広島の反核平和運動がその求心力を回復し、全国でも最大数の被爆者が住む広島のリーダーシップを発揮するためにも、私としては、両被団協が過去の行きがかりを脇に置いて一日も早く統一することを願ってやまない。

最後の「Ⅴ ヒロシマと平和」には五編のインタビューを収めている。丸屋博氏(「詩人・御庄博実と医師・丸屋博」)は、入市被曝体験、詩人・峠三吉との邂逅を一つのきっかけとする詩作活動、岩国出身者としての反戦思想という背年期の原体験に基づき、医師としてまた詩人として、人間の命に真摯に向き合ってきた経歴を語っている。特に、韓国人被爆者・李順基(い・すんぎ)に寄せる思いの深さ、イラクの劣化ウラン被害者に寄せる医師としてのまなざしは、ともすれば殻に閉じこもりがちな原体験主義の広島の硬直したあり方に対する客観的な批判提起となっていると、私は感じている。父親が被爆者であった那須正幹氏(「児童文学作家の目線における広島」)は、同学年生で、中学1年生のときに被爆が原因の白血病で亡くなった佐々木禎子と級友たちの心の交流を語るとともに、被爆者一人ひとりの体験記では捉えきれない原爆投下の全体像を示すことを意図した『絵で読む 広島の原爆』を著した動機を語っている。
山下三郎氏(「前・廿日市市長 平和と岩国を語る」)は、被爆したが命を与えられたものとして、平和への取り組みに使命と義務を感じ、廿日市市長として、日本非核宣言自治体協議会の結成と運営、岩国基地米軍移転問題反対など、行政の立場から積極的に平和問題に取り組んできた力強い生き方を語っている。日米軍事同盟を礼賛し、日本国憲法の改定を公然と主張する保守政治家があふれる今日、山下氏のような良質な保守政治家の矜持こそがますます求められているものだと確信する。平岡敬氏(「言行一致こそヒロシマの心」)は、「原爆報道の中国新聞」としての名声を確立させた担い手の一人、韓国人被爆者の存在と窮状を日本国内に知らしめる重要な役割を果たした一人、そして広島市長として毎年の平和宣言を通じてヒロシマの平和思想を発信することに心を砕いた人物である。平岡氏の説く「日本の加害責任-在韓被爆者問題からの視点」、「日本の核を巡る状況-問われる広島の発信力」、「ヒロシマの心-言行一致の姿勢」は、ヒロシマの平和思想の欠くべからざる要素を鋭く指摘している。
舟橋喜惠氏(「広島は疲れている」)は、私が行ったインタビュー・シリーズに最初に登場していただいた方だが、その舟橋氏の発言は、広島滞在1年目が終わろうとしていた私が広島に対して抱きはじめていた違和感(期待し、予想していた広島と現実の広島との間に横たわるギャップに対する戸惑い)に関して、それが決して私の思い込みによるものではないこと、この違和感にこだわって広島を半ば批判的に見続けていくことがヒロシマの平和思想を私なりに我がものにする上でのカギであること、について私に確信を植え付けてくれたものとして、私は本当に幸運な広島でのスタートを切ることができたと思っている。「広島は非常に疲れている」という舟橋氏の言葉を、私はその後何度私自身の実感としてかみしめたことか。しかし、広島に疲れたまま終わってもらったのではヒロシマの平和思想は生まれ得ず、したがってまた、広島を不可分の要素とする、世界に届けるべき普遍性を備えた日本の平和思想の確立もあり得ない。

広島には自らにむち打って奮起してもらいたい。普遍性をもつヒロシマの平和思想をなんとしてでも我がものにしてもらいたい。そして日本発の普遍性をもつ平和思想の担い手となって欲しい。そして、そういう営みに対して、この本に収めた16編の文章が刺激と材料を提供することを期待して止まない。