横原由起夫氏インタビュー

2010.05.08

*1972年から原水爆禁止広島県協議会(広島県原水禁)の常任理事、1986年から1996年までの10年間弱は同事務局長を務められた横原由紀夫氏に、約40年に及ぶ活動をふり返っていただくとともに、広島における核廃絶を含む平和運動の現状と課題について忌憚のないお話を伺いましたので、概要を紹介します。なお、横原氏の平和論・ヒロシマ論の全体像は、広島平和教育研究所『平和教育研究』年報VOL.30(2003年)により詳しく展開されていますので、是非一読をお薦めします(5月8日記)。

1.広島原水禁における活動

 私は1941年2月に鳥取で生まれた。同地で全国電気通信労働組合(全電通。いまのNTT)の役員として活動しているときに、全電通が全国的に展開することを決めた「被爆者支援一円カンパ運動」にかかわったのが、核廃絶問題に関心を持つきっかけとなった。1969年に、弁が立つという理由でか広島に呼ばれ、広島全電通書記長(後に委員長に)となるとともに原水爆禁止広島県協議会(広島県原水禁)の活動をも担うようになった。私が広島に行く気持ちになったのには、尊敬する森瀧市郎氏(1901年-1994年。被爆して右眼を失明。戦後は一貫して平和運動に従事。1966年-1970年の間、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)理事長)や宮崎安男氏(1929年-2007年。1974年から広島県原水禁第3代事務局長、代表委員、1996年から2004年まで原水禁国民会議副議長)の影響が大きかった。当初は、労働組合の仕事と原水禁の活動を掛け持ちでやっていたが、1986年に宮崎氏の依頼、「存在そのものが価値であったような人」である森瀧氏の影響もあり、広島で一生を過ごそうと決意して、全電通運動からは足を洗って広島県原水禁事務局長(専従)の役割を引き受けた。全電通委員長の仕事を続けていれば生活的にはずいぶんとゆとりがあったのだが、あえてその生活をなげうち、原水禁の活動を専従として選んだのはやはり使命感に燃えていたということが大きい。
 原水禁運動と政党の関係という点に関しては、原水禁運動が日米安保批判を行うことに関して反発を強めた自民党系と民社党系(当時)が1960年に脱退したのが最初だった。しかし決定的だったのはなんといっても、社会主義・ソ連の核実験を認めるか否かで、認めるとした共産党系とあらゆる核実験に反対するとした社会党(当時)・総評及びその他の人々の対立だった。社会主義国の核兵器は平和的であり、資本主義国(アメリカ)の核兵器は侵略的であると、政治的立場を持ちこみ思想的に選択を迫って運動を分裂させ、被爆者組織を分裂させた政党の責任は重い。
この対立・分裂は、二つの意味でその後の原水禁運動に深刻な影響を与えた。一つは、それまでの原水禁運動に重要な役割を果たしていた今堀誠二・広島大学教授など大学人・知識人が、党派対立に巻き込まれ、あるいは巻き込まれるのを避ける形で運動そのものから距離を置き始めたということだ。この事態は、その後の広島における平和運動とそれに関わる人々に大きな心理的負担となり、運動内部での対立要因となり、運動に関心を持つ市民、学者を遠ざける要因となった。大学人・知識人が運動とのかかわりを避けるという傾向はその後今日まで続いており、運動が沈滞する大きな原因となっていることは否定できないところだと思う。
もう一つは、社共両党の対立が労働運動にもストレートに持ちこまれ、労働運動が分裂したことだ。今日からふり返った場合、原水禁運動がいずれかの時点で分裂することは不可避だったとは思うが、政党が平和運動・労働運動に介入したこと自体は罪が重いといわざるを得ない。
こういう状況の中で、労働組合が平和運動にどう関わるべきかに関し、私は二つの方針で臨んだ。一つは、押し付けるのではなく、具体的な行動をみんなで求めていくということだ。もう一つは、資金力、行動力という点で現実に力を持っている労働組合が、自分たちの労働条件だけに関心を寄せるのではなく、社会的な問題に積極的にかかわっていくということだ。そういう方針に基づいて行った活動として、二つのことが印象に残っている。
一つは、1973年にフランスがムルロワ環礁で連続5回の核実験計画を発表したときに、これに抗議して行った座り込み(7月20日)だ。核実験のたびに抗議する座り込みはこの時以来のものだ(最初に慰霊碑の前で座り込みをしたのは森瀧市郎氏で、1962年4月にアメリカとソ連の核実験に抗議して17日間行ったもの)。こういう座り込みや街頭宣伝など、私たちは職場以外での人間関係を重視する活動を繰り広げたし、全電通時代には平和運動の波が広がったという実感をもっている。
もう一つは、1982年の「平和のためのヒロシマ行動」(3月21日)だ。1980年当時に米ソ間で欧州への中距離弾道弾(INF)配備の問題が起こり、欧州各地で反核運動が燃え上がったことがある。我々としてはこの運動に連帯する気持ちを込めて核兵器廃絶のための共同行動を起こそうということでこのヒロシマ行動を行ったのだが、19万人余の参加者を集めるという成功を収めた。この共同行動は、5月には大阪、10月には東京でも開催されるなど、トータルで100万人以上の参加者があった。
このような労働組合による平和運動への積極的かかわりの気運に急ブレーキをかけたのは1989年の連合結成だった。全電通出身の山岸章氏が連合の会長となり、労働組合は社会的な問題に積極的にかかわっていくべきだとする私は大いに論戦を挑んだのだが、結局その主張は退けられ、連合は平和運動へのかかわりに消極的な態度を取っていくようになった。私が広島県原水禁の専従になったのは使命感に燃えたからといったが、このような労働運動のあり方に対する強い批判の気持ちも働いていたと思う。余談だが、後日山岸氏は連合の組織論一辺倒のあり方を嘆き、「こういう労働組合を作ることを意図したのではない」と批判するようになった。彼は、私とは主義、主張は違うけれども、それなりの見識を持つ人物ではあった。
広島県原水禁の仕事に専心するようになってから私が力を入れた活動の一つが反核運動の国際化という課題だった。1985年(8月4日)に「国際被爆者フォーラム」を開催(森瀧氏が実行委員長)し、マーシャル諸島、オランダ、イギリス、カナダ、マレーシアなどの被爆者の参加を得た。その当時から世界のヒバクシャが手を結ぶ必要があるという議論が行われるようになったし、ヒバクシャという言葉が次第に日本国内でも定着するようになるきっかけもその中から生まれてきた。
そういう流れの中で1986年(8月7日)に長崎で18カ国・地域からの海外代表44名の参加を得て「核被害者フォーラム」が開催され、翌1987年(9月26日)にはニューヨークで第一回核被害者世界大会が開催された。私は、1990年に原水禁訪ソ団の一人として「核被害者国際会議」に出席するとともに、チェルノブイリとセミパラチンスクを訪れた。1991年には、中国新聞社が『世界のヒバクシャ』(講談社)を出版するということもあった。そして1992年(9月20日)にはベルリンで第二回核被害者世界大会を開催することができた。第二回世界大会では核被害者世界協会を結成しようという議論もされた。この組織の性格としては、この大会に参加したアメリカ人がspider’s networkと形容したことがピッタリと特徴を表していた。もし第三回世界大会が開催されていたならば、この世界協会を結成することができたのではないかと思う。しかし、各国の団体はNGO主体でもともと財政力はなく、加盟労働組合が減少した日本の原水禁の財政力では、結局協会成立までこぎ着けることができなかった。
この問題については、一つ余談を付け加えておきたい。1987年の第1回世界大会を開催するに当たって、私たちは日本被団協の参加を求めたのだが、参加を断られた。その理由は、「被爆者とは自分たちのことであって、世界のヒバクシャとの連帯ということは問題にならない」ということだった。ただし、日本被団協としての参加はなかったが、広島と長崎の被爆者は参加した。

2.広島の平和運動についての思い

 原水禁運動を長年にわたって行ってきたものとして、広島の運動に対してはさまざまな感慨や意見がある。

<普遍化を妨げる特殊意識・特権意識>

 核被害者世界大会に出席した際ヨーロッパの運動家から、現実の日本は準核兵器保有国であり、そうなっている日本を食い止められない日本の運動は弱いではないかと指摘された。また、タヒチ(ムルロワ環礁)の代表からは、日本が原爆を投下されたのは戦争中の出来事であり、平常時に核の被害を受けた我々の状況とは違う、という言葉を投げかけられた。南アフリカの活動家からも、日本は被害者だというが、実は核加害者でもあるということを認識しているのか、という問いかけも受けた記憶が鮮明に残っている。
 つまり、広島及び長崎に強いのは原爆被害という特殊体験にこだわる意識であって、その特殊体験を絶対化すると、「私の証言を聞きなさい」という感じの特権意識になってしまう。つまり、被爆を絶対化すると水戸黄門の印籠になってしまい、「被爆者でないものには分からない」ということになって、聞く相手側を押さえ込んでしまうことになる。それにあらがうようなことをすると、「他のところでやってくれ」という排除、排外の対象となる。
 しかし、広島と長崎に原爆が投下されたのは、加害と被害が交錯する戦争という、より大きな文脈の中においてだったわけであり、被爆体験を普遍化するためには戦争というより大きな脈絡の中で相対化し、それを通じて普遍化していかなければならないだろう。その点を早くから明確に意識して、加害と被害を総合的に捉える必要性を発言していたのが栗原貞子であり、松江澄だった。
 この問題が公に討論の俎上に上りだしたのは1994年~95年以後のことだった。しかし、その問題提起が被爆者の証言活動の内容をめぐって行われ、したがって「被爆者を追い詰める」と受け止められるということもあって、建設的な方向に議論が発展することが妨げられてしまった。こういう状況を打開する可能性としては、大学人・知識人及びメディアの役割が大きいと思う。だが、すでに述べたように広島の大学人・知識人は1960年代からの後遺症を引きずったままで多くを望めないし、地元メディアも特定の被爆者への取材で形を付けるマンネリ化の傾向を深めていて、これまた事態打開のエネルギーを持ち得ていない。

<活発な議論が行われなくなった広島>

 いまの広島には本当に侃々諤々と議論する雰囲気が失われているとつくづく思う。かつてはそうではなかった。私が労働組合の活動をしているとき(1970年代)でも、広島県原水禁の活動に専従するようになってから(1980年代)でも、私たちは議論の中で互いに切磋琢磨する雰囲気はあった。例えば、荒木市長時代や平岡市長時代には、毎年の平和宣言を起草する準備の段階で知識人や市民の意見を聴取するということも行われていた。荒木市長の時代には今堀誠二氏が起草作業に関与していたことを本人から聞いたことがある。また、平岡市長の時代には、広島県原水禁として平和宣言に盛り込むべき内容について正式に意見の提出を求められ、私たちもそれに応えていたということがある。戦争の加害に向き合わなければならないという意見を出し、その思想は平和宣言の中に反映されたことがある(1991年~1995年宣言)。広島市の平和宣言に広島の各界の英知を集め、反映させるというのは当然のことではないだろうか。残念ながら、いまそのような状況はなくなっている。
 また、広島県の原水爆被害者団体協議会(被団協)が分裂したのは大間違いだったし、罪である。本来一日も早く一緒になるべきだと思う。まして被爆者の高齢化が進み、平均年齢が75歳を超えたいま、残された時間はきわめて限られている。今後被爆者が全力を注ぐ必要があるのは被爆二世に運動を引き継ぐことであり、またそのための条件を整備することだと思う。問題は、被爆二世が今後の運動の中心にならなければならないことは間違いないとしても、その彼らが「何をするのか」という点が今のところまったく見えていないことだ。被爆二世にも「手帳をくれ」というような内容・程度の運動では、そっぽを向かれるのがオチである。残念ながら、議論がないという問題は被爆二世の間でも顕著であり、このままで行けば、被爆者の運動が立ち枯れになってしまうことを真剣に憂えている。

<被爆者運動と平和運動>

 また、これまでの広島における平和運動では、被爆者に対して、戦争・核についてすべてを担うように求める傾向があった。つまり、平和運動の側としては、被爆者を前面に出しておけばよい、という安易な姿勢があった。しかし、被爆者の運動は明らかに平和運動の一部であって、すべてではない。平和運動を担う側においても初期の段階では明確に、「被爆者の運動は平和運動の一部」という両者の関係を認識した上で被爆者の運動を前面に押し出していたのだが、時間を経るに従いいつの間にか平和運動と被爆者の運動との関係性を踏まえるという肝心な点が忘れ去られ、被爆者に平和運動の役割のすべてを負わせるということになってしまった。
 そのことが生み出した重大な問題点として、広島の平和運動が戦争という問題に対して掘り下げた議論を十分にしないまま、原爆被害のアピールしかせず、「ヒロシマの心、思想」を深める議論を生み出さなかったという結果を招いたということがある。そもそも、日本の戦争責任、戦後補償問題、アジアとの関係といった原爆投下と分かちがたく結びついている問題は、広島ではある時期まではタブー視され、議論すること自体が妨げられる雰囲気が支配していた。1990年代の半ばから議論の俎上に上り出すようにはなったが、その契機は被爆者の証言活動の内容をめぐって提起されるという経緯もあったため、被爆者の心情をおもんばかるあまり議論が深まることはないまま今日に至ってしまっている。こうして今日においても、広島では「戦争の加害と被害」の問題が、ともすると対立的に扱われて、戦争という問題を正面から取り上げて議論を深めるという根本問題が素通りされている。
 広島における平和運動の停滞及び分裂の今ひとつの原因として、初期の原水禁運動が政党の介入、政治的意見の相違で分裂に至ったということの重大な後遺症という要因がある。特に自分の立場からいえば、社会主義国の核兵器は平和的であり、資本主義国(アメリカ)の核兵器は侵略的であるというイデオロギー・政治的立場を持ち込み、関係者一人一人に思想的に選択を迫って運動を分裂させた政党の責任は重いということを指摘せざるを得ない。この事態がその後の広島における平和運動とそれにかかわる人々に大きな心理的な負担を課し、平和運動に関心を持ちながらも、「どちらの派に属するかというレッテルを貼られたくない」という気持の市民、学者・知識人を運動そのものから遠ざける要因となったことは否定できないだろう。

<マスコミの功罪>

 広島のマスコミは、原爆・被爆者問題、被爆者の発言・行動については大きく取り上げるし、そのことは被爆者の運動の担い手からすれば大いに歓迎すべきことであり、励ましになっている。しかし、広島のマスコミの報道姿勢を見ていると、パターン化し、特定の人に偏った取材と報道が目立ち、マンネリ化しているといわざるを得ない。マスコミによって「ザ・ヒバクシャ」のようにシンボル化されると、運動内部や被爆者の間ではやっかみやねたみの感情が生まれることになるし、事実「マスコミに取り上げられることが目的で登場しているのではないか」という偏見の類も生まれてきている。
 著名な人になりたいという人間心理の微妙な動き、弱さは、人間誰しもが持ってはいる。しかし、平和運動というものは、一人の著名な人や偉大な人の働きでなり立つものではなく、汗を流して地道に努力を積み重ねている人々、縁の下の力持ちになってくれている人々が存在するからはじめてなり立つものであることを忘れてはならない。また、広島における平和報道を担う人々にも、常に問題意識を研ぎ澄まし、広島の平和運動に論争の種をまくぐらいの心構えを持ってほしい。