ABCCに立ち返る放影研

2009.09.09

9月8日に放射線影響研究所(放影研)の広島地元連絡協議会が開かれ、「米国アレルギー感染症研究所(NIAID)の研究助成に対する放影研の調査研究計画申請について」が「審議事項」として提出されました。出席者は、浅原利正(会長。広島大学学長)、碓井静照(広島県医師会会長)、神谷研二(広島大学原爆放射線医科学研究所所長)、川本一之(中国新聞社社長)、佐々木英夫(広島原爆障害対策協議会健康管理・増進センター所長)、坪井直(広島県原爆被害者団体協議会理事長)、スティーブン・リーパー(広島平和文化センター理事長)、石田照佳(広島市医師会副会長)、三宅吉彦(広島市副市長)そして私でした。
 すでに前にも書いたことですのでくわしくは省きますが、NIAIDは、アメリカの核テロ対策に関する研究を行う特別任務を賦与されている機関であり、その研究計画の一環として、被爆者に関する膨大な資料の蓄積を持っている放影研を指名して、「造血幹細胞と樹状細胞への加齢と放射線被ばくの影響」、「インフルエンザワクチン投与に対する免疫応答への加齢と放射線被ばくの影響」、「放射線被ばく者の免疫老化の総合的評価」、「胸腺の構造や機能に及ぼす加齢と放射線被ばくの影響」を研究することを持ちかけてきたものです。そのような研究計画に放影研が協力することの是非が問題の本質です。
 私は、「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ヒバクシャ」というヒロシマの原点から見て、このような計画に協力することは絶対に反対であると主張しました。それは、ヒロシマの自己否定・自殺行為であるとも主張しました。
 しかし、発言した他のすべての委員(棄権を表明した一人を除く)は、研究結果が被ばく者のためになるデータを生み出すものであるから(であれば)賛成という「結果オーライ」だけの意見を表明しました。そのような発言にたまりかねて私はさらに、①物事を判断するときには、目的・手段・結果という3要素を精査して総合的に判断すべきであるのに、皆さんの意見は目的・手段を故意に無視して結果だけを強調するものであり、そのような意見には落胆せざるを得ないこと、②例えてみるならば、本件は、広島平和研究所が「平和構築」という錦の御旗を立てた防衛相の研究計画を受け入れるようなもので、研究機関の自殺行為に等しいものであることを述べ、出席者の冷静かつヒロシマを大事にする判断を促そうと試みました。
 ところが、「被ばく者は自分の命のことにかかわる研究であれば、やってほしいと思っている」という趣旨の発言、また「もともと放影研にはアメリカのエネルギー省が出資しているわけで、きれいな体というわけではなく、本件だけに潔癖を求めるのはどうか」という趣旨の発言が続いて、そこで議論は集約されたということになって、「大筋了承」ということにされてしまいました。

 私は、この有様を見て、広島の放影研と一緒に行動している医療界は正に魑魅魍魎の集まりであり、グルになって悪事を働こうとしていると思わざるを得ませんでした。原爆症認定集団訴訟をまとめてこられた渡辺力人さんが「放射線影響研究所(放影研)、または厚生労働省(厚労省)が隠れ蓑にしている医療分科会に名を連ねている広島の科学者や医師は、一連の司法判断をどう受け止めているのだろうか」という発言をされていることは前回このコラムで紹介しましたが、その言葉が私の頭の中をぐるぐる回転していました。放影研と一緒に動く彼らは被ばく者の血を吸い尽くすダニだとすら思いました。

 被爆者の思いに関する発言は私にとっては本当に悲しいものでした。医学的な知見が増えるのであれば、目的・手段の是非には目をつぶるというわけですから、そのような発言に追い込む放影研をはじめとする広島医療界の動きはまさしく犯罪そのものです。

 放影研の悪事を「毒皿」式に是認する発言も、私には耳を疑うものでした。ABCCがどれほど被ばく者から蛇蝎の如く忌み嫌われた歴史を持っているか分かっているのか。今回の動きは放影研になってから営々として努力してきたイメージ回復への努力の積み重ねに対して「九仞の功を一簣に虧く」ものであることが分からないのか。そもそもエネルギー省とのかかわりでの存続そのものがおかしいことであって、被爆国・日本独自の研究機関にするべきだという問題意識がないのか。

 私は、広島市が核攻撃の可能性を織り込んだ国民保護計画を作成したときにも激しい憤りを覚えました。今回の放影研地元連絡協議会の行動に対しては、その時とまったく同じ憤りを覚えています。広島はますますヒロシマを自らの手で遠ざけようとしているのです。しかも恐ろしいのは、おそらくそのことを自覚すらしていないということです。この暗澹たる気持をどこかにぶつけずには到底腹の虫がおさまらないのですが、その標的すら見つかりません。