渡辺力人・原爆症認定を求める集団訴訟を支援する県民会議事務局長インタビュー

2009.08.30

*原爆症認定集団訴訟を支援する広島県民会議の渡辺力人事務局長にこの訴訟の意義と残された課題について伺いました。広島平和研究所のニュース・レターでのインタビューですが、そこに掲載できる内容は字数的に制限がありますので、ここでは渡辺氏にチェックしていただいたより詳しい内容を紹介したいと思います(8月30日記)。

1.原爆症認定訴訟とその画期的意義

<原爆症認定訴訟までの経緯>

22年前の1987年、日本共産党の専従活動を引退してから、広島及び原爆へのこだわりから被爆者の組織を作る活動を始めた。被爆者の家庭を訪問し、被爆者と話をする中で、病気で寝ている人、生活に困っている人が多いことに改めて気づかされた。彼らは、体調不良で病院へ行っても原因不明と診断されて追い返されていた。そういうことから、被爆者の間には医者に対する不信感が積み重なっていた。たとえば観音原爆被害者の会の会員のうち、この10余年間に約40人が死亡しているが、その死因は主にガンだ。被爆者の病気は医学事典で簡単な答えが見つかるようなものではなかった。私も腑に落ちなかったのだが、約7年前に肥田舜太郎医師の話を聞く機会があり、内部被曝という説明を受けて、観音の人たちの状況を含め、被爆者の病気の原因に関してはじめて納得がいった。
この話を契機に、原爆症認定訴訟をやらなければいけないという思いを強くして、被爆者援護法の研究会に参加した。研究会の責任者は田村和之先生だった。その中で集団訴訟について議論をしたのだが、広島に二つある被爆者団体協議会(被団協)の一方だけが当事者という形では訴訟はできないということで、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の宮崎安男さんと私などが坪井直理事長と話を詰め、両被団協が一緒になって訴訟に取り組むための努力を行った。その際力になってくれたのが舟橋喜恵先生(広島大学名誉教授)と彼女が代表を務める原爆被害者相談員の会だった。また、東京からは弁護士や日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の幹部が広島に来て、集団訴訟をやるという気運づくりを手伝ってもらった。集団訴訟を支援する県民会議の事務局長に関しては、坪井理事長及び金子一士理事長に頼まれ、固辞していた私が結局事務局長を引き受けたのが6年半前の2003年正月頃のことだ。県民会議はその年の4月に正式に結成され、同年6月6日に原告団を結成、12日に広島地方裁判所に提訴した。

<訴訟の中で明らかになった被爆者の実態>

原告の方たちの実態はどれもひどかったが、ここでは三次の大江賀美子さんの事例を紹介する。大江さんたちは、原爆投下があってから13日目の1945年8月19日に広島に救護活動で入り、本川小学校で救護活動に従事した。そこでの苦労は大変なものだったが、救護活動が終わって三次に帰ってから、倦怠感がひどい、クシで引くと髪が多めに抜ける、下痢が続くというような症状に苦しめられた。そういう時期を何とか過ごして結婚したのだが、卵巣ガン、子宮ガン、大腸ガンなど多重ガンで繰り返し手術を受けることになった。大江さんには被爆二世の一人娘がいたが、その娘も広島大学の学生の時に甲状腺ガンで手術を受けた。大江さんは、原爆症認定訴訟に参加するかどうかを考える際、その娘に迷惑がかかることなども考慮し、大いに迷った。なぜならば、娘は結婚して二人の子どももいたし、娘の主人の勤めの関係なども気になったからだ。しかし、娘が「提訴すればいい」と言ってくれ、それが励みになり原告団に加わった。
舟橋喜恵先生の原爆被害者相談員の会の協力も得て、大江さんとともに三次から救護活動に参加した23人のみなさんの消息を調べるのに尽力してもらった。その結果、多くの人がガンで死んでいることが分かった(白血病で亡くなった亀井静香代議士の実姉も含まれている)。広島地方裁判所判決を引用すると、2005年12月31日時点での生存者は10名、死亡者は13名。生存率は43%で、これは平成16(2004年)年の簡易生命表による76歳女性の平均生存率83.7%と比べてはるかに低い数値だった。死没者の内訳は、白血病2名、卵巣ガン1名、肝臓ガン2名、胃ガン1名、膵臓ガン1名、腸捻転1名、くも膜下出血1名、心疾患2名、不明2名。しかも判決当時からさらに1人の方が白血病で亡くなっている。つまり、23人中14人の方が亡くなったという異常さだ。こういうことは、これまでの原爆症の認定基準では到底説明できない。
次の事例も紹介しておきたい。広島での裁判の原告は64人だが、今までに19人が亡くなっている。その一人として、生活保護の受給者で生活がままならない女性がいた。彼女は学校も行っていないから、原爆症認定の申請書を書くこと自体が大変だった。なんとか書いて市役所に提出したけれども、2年経って「疾病は原爆放射線によるものではない、放射線によって治癒能力が低下したものとは認められない」という文言だけの文書で却下通知が来た。失望した本人は何も食わずに2日間寝込んでしまった。それから気を取り直して、市役所に行って泣き泣き抗議した。市役所も往生して、私どもの相談所を紹介した。彼女には、「がんばろう、裁判に訴えるより救済手段はない、それをやろうじゃないか」と励ました。
本人は、小学校4年生の時に爆心から2.4キロの山根町で被爆。死線をさまよったが、何とか生きのびた。その後結婚して妊娠したが、姑が「被爆者はかたわができるから堕ろせ、生むな」と強要したので、泣く泣く堕ろした。それ以後妊娠はできなくなり、卵巣ガンになり、離縁されて、料理屋を渡り歩いて舞鶴まで行き、どうにも体が言うことを聞かないために広島に戻ってきて、生活保護をとって市営住宅に入ったという遍歴をたどった。
彼女は訴訟に参加した後に肝臓ガンで手術したが、それが再発して原爆病院で死んだ。本人はベッドで「裁判で白黒つけるまで絶対に死にはせん」と言っていた。死ぬ前の日にも私は病院に行って見舞ったけれど、彼女はそのときも裁判には行くと言っていた。でもだめだった。彼女の裁判は姪が継いだ。
裁判の闘いを6年以上続けてきた上での私の実感だが、こういう被爆者は実に多い。広島の町の隅々にたくさん居られるわけだ。そういう人たちの目線から核廃絶を訴え、核兵器を使用するのは絶対にいけないと言うのか。それとも、上からの目線で理屈を考えて言うのか。私はいつも、被爆者の目線にたった叫びの重さを感じている。

<司法判決の重要な意義>

 科学者は、事実が自分の今までの理論と違った場合には「なぜか」と悪戦苦闘して、新たにその事実の法則性を見いだす。そこに科学の進歩がある。それに対し、「分からないからだめだ」というのは、昼間には星が見えないから星がないというのと同じだ。だから本当の科学者というのは、事実から学ぶのが基本であるはずだ。
原爆症認定訴訟に関する裁判の判決は全部そういう立場に立っている。一つは科学の到達点、未到達点を前提にした上で、原告(被爆者)の被爆前の状態、被爆の状況、被爆後の健康状態、生活状態、それらを総合的に勘案して、通常人が「これは被爆のせいだ」と認めるものは高度の蓋然性としてこれは被爆によるものだと認めるべきだ、という判決になっている。「現在の科学が到達していない分野についてまで、原告にそれを科学的に証明しろと言うのは不可能を強いることだ」とまで立ち入った判決もある。そういう科学的視点が19の司法判断のすべてに貫かれている。これは非常に大きな成果だ。日本の司法も捨てたものではない。
一連の司法判断のもう一つ重要な意義は、内部被曝、残留放射線による被曝という要素を正当に認めていることだ。国は従来から、被爆者の被爆地点における被曝線量を画一的に計算し、当該被曝線量が人体影響を与えうる量に達しているか否かで原爆症の認定を行ってきたが、この被曝線量計算の基となる基準がDS86とかDS02という放射線量推定方式だ。しかし、DS86もDS02も内部被曝や残留放射線被曝を計算に入れていない。一連の判決では、DS86やDS02を機械的に適用するのは間違いだという明快な判断をしている。つまり、内部被曝、残留放射線の問題が全部の判決のなかで指摘されたことは、これまでアメリカやそれに従う日本政府がだまし続けてきたことの皮をむいたということであり、そこを突破したということは誇ることができる。
科学者の考え方も、6年間の裁判を通じて、裁判を起こす前よりはかなりの発展が見られる。たとえば、鎌田七男先生は立派だ。先生は、「初期放射線の2倍もある残留放射線の影響の研究を怠ってきたのは、私も含めて科学者の怠慢であった」と述べている。ああいう方こそ本当の科学者だと思う。
ところが、放射線影響研究所(放影研)、または厚生労働省(厚労省)が隠れ蓑にしている医療分科会に名を連ねている広島の科学者や医師は、一連の司法判断をどう受け止めているのだろうか。私は、深い疑念を抱かざるを得ない。
人類の健康と福祉の増進に貢献するという放影研が、今まで被爆者の実態と乖離した原爆症の認定基準に対して、何一つ異論を唱えることなく、むしろ逆に内部被曝や放射線降下物による原爆被害を無視する「科学的」根拠として被爆者調査のデータを提供してきたことをどう考えるのか。19の地方裁判所や高等裁判所のすべての司法判断での指摘を、放影研はどう受け止めているのか。もしも放影研が「被爆者のために」というなら、今まで回避してきた内部被曝や放射性降下物の被害の解明に今からでも全力で取り組むべきではないのか。それはまた広島の科学者ということで厚労省の被爆者医療分科会に名を連ねている人々にも言えることではないだろうか。もしそれをしないなら、「今、広島・長崎の原爆症で苦しんでいる者は一人もいない。死ぬべき者はみな死んだ」と原爆投下の翌月、世界に宣言したファーレルの公式声明と被爆者をモルモットにしたABCCを、今も放影研と一部の「科学者」が引き継いでいるというそしりは免れない。放影研や広島の科学者の良識を期待したい。加害者であるアメリカやそれに従う日本政府に迎合して科学者の魂を売るのではなく、真理にのみ忠実な科学者の誇りと権威を持ち、被爆者の実態に目を向けてもらいたい。
被曝64年目の8月6日を迎えた広島で、日本被団協代表と麻生首相は、「原爆症認定集団訴訟の終結に関する基本方針に係わる確認書」に調印を交わした。これによって6年余にわたった集団訴訟は、いくつかの問題の解決を残しつつも一応の終結を向かえようとしている。確認書の要旨は、①一審判決で勝訴した原告については控訴せず、または控訴を取り下げて認定する、②一審で係争中の原告はその判決を待つ、③議員立法で基金を設け、原告に係わる問題の解決のために活用する、④厚生労働大臣と被団協、原告団、弁護団は、定期協議の場を設け、今後訴訟の場で争う必要のないよう定期協議の場を通じて解決を図る、⑤原告団はこれをもって集団訴訟を終結させる、となっている。したがって、他県の係争中の原告の支援、未認定原告の救済、8000人に及ぶ原爆症認定申請者の未審査の即時解決、すべての司法判断で断罪された医療分科会の謝罪と分科会と審査基準の民主的改革など幾多の課題が山積している。
ちなみに、全国の原告306名中、245名が認定され、15名が敗訴(救済対象)、46名が地裁で係争中となっている。広島では64名の原告中62名が認定され、2名が敗訴となっている。とくに厚労省が控訴を取り下げたため、全国ではじめて広島で国家賠償を認めたことの意義は大きい。
広島は被爆地であり、県民の多くは身内に被爆者を抱え、如何に政府の認定基準が被爆実態と乖離しているかは誰でも知っている。県内の全自治体議会が政府に訴訟の早期解決と認定基準の改善を求める意見書をあげたのも広島県だけである。またこの訴訟で県内のすべての政党や宗派などが集団訴訟を支援したのも被爆地広島ならではのことである。この闘いによって多くの被爆者が救済され、核兵器廃絶の闘いに貢献したことは忘れてはならない。

<仕事の達成感>

 1955年のラッセル・アインシュタイン宣言は、「たとえロンドンやニューヨークやモスクワのすべての市民が絶滅したとしても2、3世紀の間には世界は打撃から回復するかもしれない。しかしながら今や私たちは、特にビキニの実験以来、核爆弾は想像されていたよりもはるかに広い地域にわたって徐々に破壊力を広げることができることを知っている」と指摘したが、この指摘は非常に正しい。この指摘どおりのことが、日本においては原爆によって現実に進行している。今も被爆者は殺され続けている。このことを暴くということが核兵器をなくす運動では非常に大切ではないか。ということで、私も82歳だが、意地っ張りに仕事を続けてきたということだ。6年間の裁判の闘いで一つ扉は開けたと思う。これは大きい。戦後60年間ごまかされてきた巨悪を日本という被爆国の司法がぴしっと釘を刺したわけだから、これは大きい。ある意味では、私の幕を閉じるにあたっての最後の仕事で、まあ一つお手伝いができたと思っている。

2.訴訟でなお解決していない問題

<被爆者手帳受領者以外にもたくさんいる被爆者>

今でも広島で原爆症認定申請を出した人は4000人ぐらいいて、未審査の人が5000人近くいるけれども、本気で調べれば、被爆者はもっともっと多いはずだ。たとえば観音の被爆者の会の会員が今4,50名だが、それにつながりがある人だけでも、私は今年11名の認定申請を手伝った。そういう人たちの多くは、自分ではややこしい認定申請を書けない。しかも多くの場合、認定申請を書くのを手伝ってあげる人もいない。
被爆者健康手帳をもらうだけでも、事情も知らない多くの人は、「被爆者はいいね。病気しても病院代は要らないのだから」という冷たい言葉を投げかける。だから被爆者は、自分が被爆者であることを孫にも隠している。そういう人たちが病気を隠してひっそり家にいるわけだ。そういう人たちを掘り起こし、原爆症認定を申請するように働きかけるのが私たちの仕事なのだが、圧倒的に手が足りない。だから私の実感として、被爆者の数は、被爆者健康手帳をもらっている人の数よりまだまだはるかに多い。2008年度に原爆症認定基準が若干緩和されて以来、年末までに認定されたのは2969件(導入前の2007年度実績が128件)。しかしこれは氷山の一角だ。そもそも被爆者の数として全国紙などで報じるのは被爆者健康手帳をもらっている人の数だが、私はそのたびに「冗談ではない。被爆した人はもっと広範囲にいる」と抗議している。司法判決の以上の重要な意義を認めると同時に、これらの判決によってまだ解決されていない問題についても考えておかなければならない。

<入市していない救護被爆者の問題>

まず、すでに触れた救護被爆者の問題だ。救護に当たって被爆したのに、広島、長崎に入市していなかったというだけで認定から外されている多くの人々がいる。たしかに一連の判決によって入市被爆については範囲が広がった。ところが、広島に入っていなくて被爆者救護に当たり、その後ガンになった人たちは積極認定に入っていない。しかも彼らは訴訟の原告にも加わってはいない。
原爆が炸裂した後、広島市内から15万人もの人々が郊外に逃れたという。被爆者は東西の河川・海岸沿い、鉄道線路沿いに逃げて行った。そして力尽きてどんどん道ばたで死んでいった。当時、若い男はみな兵隊にとられているなかで村に残っていた女性と子どもとお年寄りがこういう人たちの救護にあたった。その人たちはみな残留放射線を浴び、放射性微粒子を体内に取り入れている。広島にも来ないで、それぞれの地で救護活動をやっていて死んだ人も多い。
正確に言えば、救護被爆の関係では、長崎の病院の看護婦でずっと救護に従事した女性が、近畿の原告団に加わったケースが全国で唯一だが、彼女の訴えは却下された。彼女の場合、判決ではそういう人たちが残留放射線で影響を受けるということは認めている。しかし、本人に脱毛とか下痢とかの後障害がなかったとして、訴えそのものについては却下された。彼女のような事例は今後の闘いに引き継がれるということになる。
今後の問題として、入市していない救護被爆者について裁判で闘うとしたら広島しかないだろう。なぜならば、他の地域では3号被爆、救護被爆ということで被爆者健康手帳を持っている人は一部しかいないが、広島では群れをなして存在するからだ。
なお一連の判決は、現在の科学的知見に基づき、内部被曝が非常に危険なものだということを認めた。たしかに原爆症認定までは勝ち取ることができなかった。しかし、救護被爆者に対する被爆者健康手帳交付に当たって採用されてきた救護被爆の定義というものは、親の背に背負われていた者には交付、親のまわりをちょろちょろしていたものはだめとか、10人以上を救護した者には交付、10人以上ということが証明できなければ却下、というように極めてばかばかしい非科学的なものだったが、そういうばかばかしい要件については裁判で全部取っ払われることになった。そういう点でも、残留放射線、内部被曝ということを正面から認めた判決だった。

<放射性降下物による被爆者の問題>

一連の判決が扱っていない、今後取り組まなければならない被爆者のもう一つの問題としては、黒い雨、すすなどの放射性降下物によって被爆した人々の問題がある。また、黒い雨が降っていなくても、先に述べたように放射能を帯びた降下物があった地域もある。ところが、そういった放射線降下物による原爆症認定はまだ認められていない。また、放射線降下物による被害を訴えて訴訟に加わった人もいない。たしかに黒い雨地域ということで、健康管理手当支給条件の11の疾病があった場合は被爆者健康手帳に切り替えられるなど、部分的には認められているけれども、認められている地域が非常に狭い。黒い雨が大量に降った地域だけに絞り込んでいるのが現状だ。実際はもっと広い。放射性降下物の地域は、爆心から40キロ以上広がっている。
本年4月に「黒い雨」の会総会に出席して話を聞く機会があったが、原爆投下当時、加計(現安芸太田町)にベニヤ板が空から飛んできたそうだ。また、県庁の署名や中島国民学校の名前が入った原稿用紙とか書類とかがあそこにはたくさん降っている。地域的には島根県の県境の方にまで広がっていると思う。このように、放射線降下物の被害、つまりそれに起因する内部被曝の被害というのは、今の3倍、4倍となる可能性がある。たしかに放射線の影響は個人差があるから、一概に言えないけれども、内部被曝した場合には50,60年経った場合、染色体の異常を来してとつぜん発病するということがある。それを現在の認定基準では無視している。 今後の裁判で放射性降下物による被曝の問題を取り上げるという動きはまだない。この裁判をするとなると、まだもう一度大汗をかく覚悟がないと前に進まないだろう。たしかに、加計で行われた黒い雨の総会では、いよいよ私たちも裁判を起こさなければいけないという意見は出た。しかしその場では「検討する」という結論で終わっている。

<被爆二世の問題>

 私の聞いたところでは、被爆二世で病気になった人は多く、二世問題というのは大きい問題だと思っている。今度の裁判で法廷に立ったある男性に、弁護士が「裁判長にお願いしたいことがあったら、お願いしたらどうですか」と水を向けたことがあった。すると本人は泣き出して、「私はどうなってもいい。私の子どもは白血病です。裁判長、二世問題を考えてください。これは最後のお願いです」と話した。たしかに私どもの被爆者相談所に来るのはとくに困った人が多いということはあるが、それにしてもしょっちゅう二世問題の大きさを感じる。
二世、三世の人たちは非常に微妙な立場にある。一方では真実が知りたい。しかし実際に「影響あり」となると、自分たちはどういうことになるのかという問題に直面せざるを得ないことになる。私もこの問題には強い関心がある。物理学者の沢田昭二名誉教授が講演したときに、会場から「被爆二世の遺伝はあるのですか、ないのですか。」という質問が出た。沢田先生は、「動物実験では100%影響がある。しかし、人間は高等動物で、死産とか、流産とかでコントロールできるので一概に言えない」と答えた。
私たちとしては、今二世の会の組織作りに力を入れ始めている。具体的には、二世の健康手帳を広島市で発行しないかと市側に働きかけている。もしも二世に影響があるということになってそのときに慌てても仕方あるまい、まず二世手帳を持つことで被爆二世の自覚を培っていこう、そういうところから始めようということだ。