山代巴と「ジュノーの会」

2008.10.16

私が2008年2月10日に「広島」欄で書いた「山代巴展」について、昨日(10月15日)一通の封書をいただきました。私が、その文章の中で「広島では山代や栗原(貞子)の思想が受け継がれているようには、少なくとも今の私には思えないことです」と書いたことに対して、「少なくとも、広島に山代巴の「方法」が全く受け継がれていない、というわけではありません」との甲斐等という方からのご指摘でした。

甲斐さんが同封してくださった数々の資料はとても興味深いものでした。それらの資料を読み解くと、昭和30年代に農村女性の自立という課題に重心を移した山代巴と行動を共にしていた女性たちと甲斐さんが出会って、「備後路・山代巴を読む会」が1983年10月9日に第1回の集いを持ち、それから毎月1回、十年間にわたって集いを積み重ねられたそうです(山代巴自身もしばしば参加した)。会報も105号まで出されたとあります。

この会を前身としてできたのが甲斐等さんが代表を務めておられる「ジュノーの会」でした。それは、1986年4月26日午前1時23分に起こったチェルノブイリ原発事故を受けて、1989年9月に正式に発足しました。両者の関係については、甲斐さんは次のように記しておられます。チェルノブイリ事故の日を「迎えた頃にはすでに、中井正一の戦後文化運動に直接関わりを持った人々、第一回原水爆禁止世界大会に向けての署名活動に関わった人々、被爆者として被爆後の日々を誠実に生きてきた人、山代さんの長年月にわたる友人として家族同様の関係を維持している人々……等々多彩な顔ぶれの中で、世界のヒバクシャの問題について真面目に話し合える土壌が出来ていたのであった。つまり、私たちは、中井正一、山代巴の戦後文化運動の流れの延長上で、チェルノブイリという事態を迎えることになったのである。」そして「事故後約一年の模索期間を経て私はこういう仲間たちの中で、1987年6月12日発行の「山代巴を読む会ニュース」第31号に「人類は皆ヒバクシャ」と題した一文を発表し、チェルノブイリに関わる運動を展開して行くことに踏み切ったのであった」とあります。

ちなみジュノーとは、「広島への原爆投下の報を聴くや直ちに広島救援のための活動を開始し、1945年9月8日、15トンもの医薬品を携えて広島に入り、被爆者・医療従事者を励ますとともに自らも治療活動を行い、数万人の被爆者の命を救ってくれました」(会報の紹介による)という人物です。中国新聞社編『年表 ヒロシマ40年の記録』の9月8日の項によれば、「米原子爆弾災害調査団、広島入り ファーレル准将ほか12人、万国赤十字社ジュノー博士も同行」とあります。「ジュノーの会」は、「ヒロシマの恩人=ジュノーさんに対する感謝の気持ちを共にするヒロシマの人々によって作られた市民団体」で、「ジュノーさんにしてもらったように、との思いを込めて、世界のヒバクシャの即時救援を目指していますが、今は「ヒロシマの医療をチェルノブイリへ、チェルノブイリの子どもたちをヒロシマへ」運動に力を入れています」(やはり会報による)。

会報を読ませていただいて、「山代さんの「方法」があったからこそ広島とチェルノブイリの被災者をつなぐことができた、ということは『山代巴を読む会ニュース』と『ジュノーさんのように』が証人になってくれると思います」「ジュノーの会のチェルノブイリ支援運動がきっかけとなって、広島の海外ヒバクシャに対する姿勢も少なからず変わった」という甲斐さんのご指摘に重みを感じました。私は、「ジュノーの会」の存在自体について無知のまま、冒頭のようなことを書いたことについて、甲斐さんに深くお詫び申し上げます。

同時に、甲斐さんも私へのお手紙の中でご指摘のように、「チェルノブイリに山代巴や川手健の姿を求めたジュノーの会の行き方は、被災者側に立ってチェルノブイリに接しようとした数少ない試みだったようです」し、「チェルノブイリ被災者の実情に寄り添おうという明確な意図を持ったグループ自体が、世界的に極めて稀な存在であったようですし、現在なお極めて例外的な存在であるようです」というように、広島、日本さらには世界を俯瞰してみた場合に、山代巴や川手健の「方法」が人類的に我がものとされていない厳しい現実があることについて、私たちは目を背けてはならないと思った次第です。