きょうされん全国大会inひろしま

2008.10.06

10月4日及び5日と障害者のために活動するきょうされん(共同作業所の全国組織)の全国大会が広島で開かれました。私は、柄にもなく実行委員長を引き受けてこの日に臨んだのですが、当初の私の不安感を吹き飛ばすすばらしい大会でした。とくに当日までどうなることかと案じていた障害者を中心とする和太鼓の演奏と合唱によるオープニング・セレモニーの難関も難なくクリアし、すばらしい出来映えで開会式は予定時刻通りに進行し、無事に終了しました。実は開会式には広島県選出の国会議員が招待されており、選挙が近いということもあってか代理を含めると8人の出席していたのですが、私はその前から、もし時間の遅れなどが生じた場合には、障害者のことについて理解もしていない彼らが不快に思ったりすることになると、きょうされんにとって逆効果になるのではないかと思い、広島県実行委員会の責任者の人たちには何度も何度も定刻通りに開会式を進行することを確保するように言っていたのでした。あきれたのは、モーニングを着て出席した中川秀直議員が来賓挨拶のときに壇上で眠り込んでいたことです。「せっかく来てやったのに、話もさせない」ということでむくれたのかもしれませんが、あるいは障害者自立支援法の廃止を訴える来賓者の言葉に都合が悪くなって、狸寝入りしたのかもしれません。

開会式後の記念講演は、私が直接お願いして講演を快諾してもらった『はだしのゲン』の作者である中沢啓治さんによる「はだしのゲンと私」でした。私は、研究所のニュースレターのインタビューでお話を伺ったことがありましたが、原爆投下直後の惨状を生々しく語る中沢さんのお話しに、2600人以上の参加者(ちなみに、大会を支えるボランティアは2日間で700人以上)は静まりかえって聞き入っていました。

広島自身の特別企画として、4日の午後に障害者と女優の斉藤とも子さんによる詩の朗読「~伝えたい「私のねがい」 詩と歌にのせて~」、5日の午前は「はだしのゲン」のアニメ版の上映、午後は「障害と平和 ~ヒロシマは戦争と原爆を許さない~」というテーマでミニ・シンポジウムが行われました。斉藤さんにも、この大会への出演を私が直接お願いしたのですが、大変好評でした。

詩の朗読については、「音楽センターひろしま」の新江義雄さんのすばらしいアレンジ(全国の障害者から応募のあった百数十の候補から16本を選んで、主に斉藤さんが、幾本かについては作者自身が朗読しましたが、起伏をつけるために数曲の合唱番組を合間に縫い込み、広島の障害者と作業所の職員などからなる合唱団が歌い上げるという工夫もあり、会場全体が感動に包まれました)もあって、私も思わず涙がこみ上げてくる感動を何度も味わいました。障害者はすばらしい、です。またこの企画については、260人以上の聴衆が席を埋めたこともあって、大いに盛り上がりました。全体を録音したそうなので、CDに収めたものをできる限り多くの人たちに聴いてほしいと思います。

ミニ・シンポジウムの方は、市民の方にも開放した形で行ったのですが、あいにくの悪天候と、何よりも宣伝不足がたたって、参加者は100人を大きく下回ってしまいました。それでも、中沢さんが前日の講演の最後で少し触れた「日本は甘い」という指摘のところを、私の依頼に応じてさらに踏み込んで話した内容はすごくインパクトのあるものでした。つまり、昭和天皇の戦争責任がまったく問いただされないままで来た日本、戦犯容疑者だった岸信介が首相にまでなった日本は、世界にも例を見ないことだという強烈な指摘でした。私も、1947年に広島を「巡幸」した天皇を広島市民が熱烈に歓迎したこと、建物強制疎開にかり出されて被爆死した動員学徒たちについて、広島側からの強い要請に基づいて靖国神社に合祀されたこと等を指摘して、広島が本当に平和を訴えるつもりであるならば、襟を正して考えなければならないことがあるのではないか、ということを付け加えました。

また、私はかねがね、多くの被爆者が障害者(肉体的のみならず、中沢正夫医師の研究で明らかにされたように、PTSDの精神障害にも見舞われている。また、原爆小頭症の人たちは知的障害者でもある)であるにもかかわらず、被爆者であるという意識の方が強くて、自分が障害者であるという意識を持っていないということが気になっていたのですが、その点についても問題提起をしてみました。

実は、きょうされんの大会実行委員会の中での問題意識としては、被爆者は当然自分たちの「仲間」という意識が強いのですが、私は、以上の問題意識があって、このシンポに出席をお願いする相手を探すことでずいぶん苦労していたのです。結局、長崎平和研究所の鎌田信子さん、『自分史つうしん ヒバクシャ』を編集・発行している栗原淑江さん、さらには広島大学名誉教授の舟橋喜恵先生をお煩わせして、国鉄勤務をしていて18歳の時に被爆した久保浦寛人さんに無理をお願いしたのでした。久保浦さんも「何が話せるかな?」と当惑していたのですが、私が「冒頭発言はご自由にお話ください」とお願いしてやっと引き受けていただいたという経緯もありました。

しかし、「様子を知りたいから」というお気持ちで大会の開会式に来てくださり、私と話している中で、被爆してから20年ぐらいは「被爆者ということでずいぶん差別されたんだよ」ということを漏らし、斉藤さんたちの詩の朗読の企画も聴いて共感を持ったという久保浦さんは、私の上記の問いかけに正面から答えてくれました。その内容は、18歳という青春まっただ中で被爆し、ガラスの破片で左眼を失明したこと(障害を負ったこと)で、生きる希望を失い、自殺も考えたことがある。しかし、年老いた父親がいたので踏みとどまったこと、その父親と話している中で、父親にさとされて生きる意欲を取り戻した、というものでした。その話から理解されたことは、久保浦さんが明確に自分の障害について意識し、煩悶した時代があったということでした。

原爆小頭症の人たちを始め多くの被爆者と接している斉藤さんからも、私の問題意識を共有する立場からの発言がありました。つまり、障害者に対する法律や制度を利用するという意識が多くの被爆者から窺うことができないことがしばしばあった、というものです。障害者と被爆者との間に存在している垣根を取り払うために自覚的な取り組みを行う必要がある、ということを確認できたと思います。

ちなみに、このミニ・シンポについては毎日の記者が取材に来ていて、6日付の朝刊で簡にして要を得た報道をしていました。私が実行委員長をしていることを広告で知って興味を抱いた彼の先輩記者が、10月2日付の紙面で記事にしてくれていたのですが、そのフォローという意味もあったのかもしれません。

大会実行委員長というのはお飾りで、大した実質的なことをすることを求められる立場ではなかったのですが、広島の特別企画については、最初の立案からミニ・シンポの司会役までいろいろかかわったこともあり、やはり、二つの企画が無事終了したことでほっとしました。約2年間かかわってきたのですが、気がゆるんだせいか、軽い風邪気味になってしまいました。

とはいえ、きょうされんの人たちと中身の濃い交流ができたことは、私にとっても非常によい体験となりましたし、大きな財産になりました。いつの間にかミクのセイフティ・ネットを立ち上げるという課題が私の頭の中をしめるようになったのも、きょうされんに結集する作業所などの存在、そしてそこで献身的に働く多くの実に人間味豊かな人々を身近に知ることになったことが大きく働いていると思います。今の平和研の仕事を終えた後も、まだまだ「即引退」というわけにはいかない、という気持ちです。どのようなセイフティ・ネットを考える必要があるかについても、きょうされんの専門家の知恵・ノウハウを吸収して考える必要があることは明らかです。

大会の数日前に私を取材し、ミクとかかわらせて10月2日に報道(NHK広島)した記者が、今日(6日)そのDVDを持ってきてくれましたが、彼女にミクのセイフティ・ネットの話をしたら、具体化するときには取材したいと言ってくれました。私としても、きょうされんのエキスパティーズはもちろんのこととして、メディアの協力も得なければなかなか具体化できる話ではないので、そういう申し出に接することについてもとても力強く思いました。「まだまだやるぞ」と気持ちを引き締めております。