山代巴展

2008.02.10

原爆小頭症の人たちの「きのこ会」の生みの親である作家・山代巴(1912年-2004年)の「山代巴展」が福山市のふくやま文学館で開催中だったので訪れました(2月10日)。文学には疎い私は、広島に来るまで山代の存在すら知りませんでした。その存在を知ったのは「きのこ会」を通じてであり、その存在が気になりだしたのは、「きのこ会」の結成につながった「IN UTERO」を収めた『あの世界の片隅で』(1965年 岩波新書)を編集した山代の序文を読んでからでした。正直に言って、私は、彼女が書いたものでは『原爆に生きて』(径書房)を読んだに過ぎません。しかし、この本はずっしりと重みを持って私の中に確かな位置を占めたと感じています。そういう中で、原民喜を研究している若い方が山代巴展について案内してくださり、山代巴文学研究所(三次市三良坂町)の方からもご紹介をいただいたので、出かけたのでした。

展示は、私の予想を超えた充実したもので、私が『原爆に生きて』から受けたずっしりした重みのゆえんを心から納得できました。それとともに、ますます山代の思想について知りたいと思う気持ちが深まりました。幸い、文学館では山代関係の書籍も販売しており、佐々木暁美『秋の蝶を生きる 山代巴・平和への模索』と小坂裕子『山代巴』を見つけたので買い求めてきました。

私が山代について現在の段階でもっとも関心があるのは、被爆者とのかかわり方です。更にいえば、1960年に自殺した川出健等とともに山代が進めようとした「方法」についてです。その「方法」とは何かについて、山代は「一つの補足」の中で説明しています。ごくかいつまんでいえば、共産党員であった山代や川出などは、1950年代初期に、広島市の行政において完全に無視されていた被爆者の声を引き出すことによって平和運動の構築を目指していたのです。しかし、彼らの「方法」は、原水爆禁止運動の高揚と権威主義の下で、当時の広島の党指導者によって否定され、夭折してしまったのです。そして、一時的に高揚した原水禁運動は、保守勢力の離脱、社共対立によって多くの被爆者の感情と乖離してしまう結果になったと思われます。もし、山代、川出などの「方法」が尊重・貫徹されていたのであれば、今日の広島の状況はまったく違ったものになっていたのではないか、広島における圧倒的な保守土壌にも風穴が空いていたのではないか、というのが私の仮説的理解なのです。

山代巴展は、そういう私の問題意識に直接答え・ヒントを与えるものではありませんでした。しかし、山代の「方法」は、原爆問題においても、農村問題においても一貫していました。山代の「方法」から学ぶべきことは多いのではないかと思います。

残念でならないのは、私が広島とのかかわりで注目する思想をはぐくんでいた山代巴は2004年、栗原貞子は2005年に、私が広島に来る前に亡くなっていることです。そして、広島では山代や栗原の思想が受け継がれているようには、少なくとも今の私には思えないことです。文字を通じてしか彼女たちの思想的歩みを追体験できないというのは、何とも歯がゆいことです。もっとも根本的に責めなければならないのは、広島に来るまで彼女たちの存在すら意識しなかった私自身の問題意識の貧しさなのですが。