放影研60年:被害救済を根本理念に

2007.11.06

*10月17日に中国新聞に載った発言です。正直言って、私が発言したことが忠実に再現されておらず、取材した記者自身の見方によって相当に脚色された感じがありますが、私の基本的考えと違うわけではないので、そのまま載せることにしました(11月6日記)。

  ー原爆を投下した米国が設けた原爆障害調査委員会(ABCC)が形を変え、60年続いてきた意味をどう考えますか。

米国に人体実験の意図があったかどうかは別にして、人の上に原爆を落とし、人体がいかなる影響を受けるか研究してきたのは事実。核兵器を手放さない立場の米原子力委員会(AEC、現在の米エネルギー省)にとって放影研の価値は高かった。

ー共同研究する日本政府のかかわり方をどう見ますか。

日本政府も米国の責任を追及せずに核の傘に身を寄せ、対米協力として研究を続けた。近年は、閣僚から核武装発言も出るようになり、放影研にその意図はないにせよ、政府が放影研を存続させる理由に「日本も積極的に核政策にかかわる」という危険な意図が新たに付け加わった、と言われても不思議ではない。

ー放影研は今後どうあるべきでしょうか。

「核被害をこうむって苦しんできた人類をどう救うのか」という命題に取り組むよう、放影研の根本理念を変えなければ広島、長崎にとっての存在理由はない。「つぶしてしまうべきだ」との議論も出てくるかもしれないが、被爆者の健康不安を考えると、それでいいとは思わない。原発や医療事故など現代に生きるわれわれも、いつ被曝するか分からない時代だ。立脚点を変えさえすれば、蓄積されたデータも役に立つ。

ー地元に具体的な要望があっても、外交の壁は厚く、移転問題はなかなか実現しません。

被爆地の市民は、本当は前身のABCCや放影研に「うさんくささ」を感じているにもかかわらず、真っ向から異議申し立てをせず、60年間、許してきた面もある。そのままではまずい。「核被害者を救う」というふうに哲学を変えてもらうためにも市民が声を上げる必要がある。この際、米エネルギー省ときっぱり手を切って、独自にやっていくべきだ。

ー私たちは放影研にどうかかわるべきでしょうか。

例えば、厚生労働省は被爆者援護に後ろ向きできたが、人間的感覚がある大臣が問題に気が付けば原爆症認定基準の見直しのように動き出す可能性はある。同じように市民も政治も「放影研は大きな業績を上げているから、いまさら存在意義を問うても仕方がない」という立場で将来像を考えるのではなく、「人間の視点」という根本に立ち返らなくてはならない。
まず、世界のヒバクシャへの視点、戦争被害に対する人権回復を根底に置くべきだ。それを問い直すのは世論であり、被爆地はその先頭に立つ責任がある。60年の節目である今はそのチャンスだ。逃がしてはならない。