差別ではなく共生を

2007.01.13

在日朝鮮人被爆者連絡協議会会長、広島県朝鮮人被爆者協議会会長である李実根氏に、2006年12月にお話を伺った。李氏には、『プライド 共生への道』(汐文社 2006年7月)と題する自伝の著作があり、その波乱に満ちた人生は読むものの襟を正さずにはおかない。在日朝鮮人被爆者としての立場からなされた、朝鮮民主主義人民共和国(以下「共和国」)の核実験を含む核開発問題に関する見解、被爆国・日本、被爆地・広島に対する思い、強制連行された朝鮮人が建設に従事した高暮ダム追悼碑にまつわる経緯についての発言を紹介する。同氏には、上記著作のほか、『白いチョゴリの被爆者』(労働旬報社 1979年)、『アンニョンハシムニカ 李さん』(西日本印刷KK、1990年)の著作がある。

1.朝鮮の核開発問題

<核実験前後の自身の行動>

私は、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の向井高志副議長、福山眞劫事務局長等とともに、共和国の被爆者が日本に対してどのような要求を持っているかについて実態調査をする目的で10月4日に日本を出発して共和国を訪問する予定をし、3日に結団式をホテルでしていたときに、広島のマスコミから電話が入り、2、3日のうちに核実験をするようだという予告に接した。突然の情報でびっくりした。これに対し、向井副議長は、「それが事実ならば、私たちとしては、いかなる国の核実験にも反対という立場から、それを知った上でなお共和国を訪問することは困難だ。ひょっとしたら取りやめということになるかも知れない」と言っていたが、翌朝にはその最終結論を出していて、原水禁としては訪朝を延期させてもらう、ということだった。私としてはそれでも訪問するつもりで、在日本朝鮮人総聯合会(総連)の広島県本部委員長と一緒に関西国際空港に向かった。しかし、総連の委員長に電話がかかってきて、総連中央の意向として、この状況のもとで訪問しても話にならないだろうから行かない方がいいという結論が出たということを聞き、訪問を断念した。

<核実験に関する考え方>

私は、自分の立場上、共和国の核実験に関して二つの捉え方をしている。一つは、自分の政治的な理念、立場からいって、核兵器は絶対悪であるし、核実験は行ってはならないし、核兵器を持つことはできない、ということだ。私は、いかなる国による核実験、核兵器保有にも全面的に反対という立場を取ってきた。故金日成主席は、生前、厳しく核保有を禁じていた。輸入してはならなし、もちろん作っても、保有してもならない、と厳しく述べていたし、それを遺訓として必ず守るように金正日総書記に厳しく言ってきた。その遺訓が生きているにもかかわらず、共和国が10月9日(2006年)に核実験に踏み切ったことを聞いたときには、私は少なからぬショックを受けた。本当だろうかという疑いもまず持った。

しかしもう一つの捉え方ということになるのだが、核実験が本当であるとすると、余程深刻な状況になったのではないか、つまり、祖国存亡の危機に直面したのだろう、という思いがした。そして、今回の核実験はアメリカによる共和国に対する核包囲政策が頂点に達したことに対するやむを得ざる対抗措置だった、と思うと、アメリカの核包囲政策に対して改めて激しい怒りと憎しみが腹の底からわき上がってきた。結果というものは原因があって初めて出てくるのであって、鐘も撞かなければ音はしない。共和国が核実験をするという決断をし、実行したのは万やむを得ない事情があったから、と思う。

<メディアの報道姿勢と日本の政治情勢>

共和国の核実験を受けた私の発言については、10日または11日に各メディアで報道された。読売、朝日、毎日、中国の各新聞やNHK等の記者による取材も受け、私は以上の考え方を述べた。しかし、その報道内容は、共和国が核実験をしたことについて私がショックを受けた、遺憾なことであるという部分だけで、なぜ共和国が実験を行うことになったのかという原因についての私の考え方、理解については、十分に話したにもかかわらず、ほとんどの社が取り上げなかった。

その後の事態の動きについては、地元紙などは、私に関する特集を出すといって、カメラも含めた2時間余りの取材をしておきながら、結局何も出さなかった。そして、一般の読者の反応が高い女子高生やお年寄りへのインタビューを行い、女子高生の「北朝鮮をぶっつぶしてしまえばいい」とか、お年寄りの「北朝鮮なんてなければいい」とかの非常に挑戦的、煽動的な発言を記事にした。しかし、いくら共和国憎しといっても、そういう挑戦的、反共和国的な記事を出したことには、私としては怒りがこみ上げてきたし、もう取材には応じないぞ、という気持ちにもなった。この例に見られるように、共和国に対する悪質な報道姿勢がその後急速に広がっている。

共和国と日本の間には国交がなく、はっきり言って敵対関係だから、以上の報道姿勢は、敵対国に対する態度としてあり得ないことではないという受け止め方もできる。しかし、歴史的な経緯から言って、日本と朝鮮半島とは、長く、深い関係にある。1984年に全斗煥が大統領として初めて訪日したとき、昭和天皇主催の晩餐会で、天皇が、両国は一衣帯水の関係にあり、古い時代から交流があり、とりわけ日本の国家形成の時代には、貴国人が渡来して日本に学問や技術を広めたという事実がある、という趣旨の発言をしたこともある。この発言からも分かるように、両国の間には古くから非常に深いつながりがあるにもかかわらず、その後豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮侵略、明治以後の侵略と36年間にわたる植民地支配が原因で、今もなお朝鮮に対する蔑視思想が根強く残っていて、その思想が共和国バッシングという形で出てきていると、私は受けとめている。

このような蔑視に基づく対朝鮮認識は、日本が第二次世界大戦に敗北した直後に、日本のそれまでの戦争はいったい何であったのかということを国民的に真摯に検討していたら、大きく変化していただろう。過去において日本が朝鮮に対して何をしたかを検証していたならば、両国の関係はもっとも親しいものになっていたはずだ。過去の検証をきちっと行っておれば、朝鮮に対する見方が大きく変わったのではないだろうか。ところが現実には、歴史に対する検証がないまま今日に至ってしまっている。検証がないから清算も行われない。ここに朝鮮蔑視の根本的な原因がある。吉田松陰のいわゆる征韓論ならぬ安倍政権による朝鮮征伐論、つまり、かつての中国に対する暴支膺懲論が今日にふさわしいように暴朝膺懲論という形の政策に変わってきている。安倍政権は、暴朝膺懲論によって激しく国民をあおり立て、全国民に朝鮮嫌悪感をもり立て、朝鮮をやっつけるという風潮を作り上げ、次の戦争に備えて準備に血眼になっているのではなかろうか。そういう今日的土台の上に、マスコミがとりわけ激しく朝鮮に対する憎しみをあおり立てることになっていると考える。つまり、マスコミを動員して日本国民の間に朝鮮を憎む気持ち、「北朝鮮脅威論」を煽ることによって、教育基本法「改正」、改憲をなし遂げ、いつでも戦争ができる国を再び作り上げ、あわよくばもう一度大東亜共栄圏ならぬアジアの盟主を目指す、という意図が露骨に出始めていると思われてならない。そのために防衛庁を防衛省にし、米軍の再編問題も積極的に受けとめてやろうとしている状況を見るとき、日本は本当に怖い。過去に学ぼうとしないから、今日再び過ちを繰り返すという動きが出て来ているのだろう。

<朝鮮人被爆者と拉致問題>

ここで日本の政治家や一般の国民に考えてほしいことがある。それは、朝鮮人が日本という異国で、しかも自ら戦争を始めたわけでもないのに、なぜ何万人という数で被爆しなければならなかったのか、ということだ。日本による朝鮮に対する植民地支配がなく、強制連行をはじめとして日本への渡航を余儀なくさせられるというような事情がなかったならば、広島、長崎で多くの朝鮮人が被爆することはなかっただろう。つまり、朝鮮人の被爆は、日本の朝鮮に対する侵略、植民地支配政策に起因しているということだ。そのことを多くの日本国民は理解していない。

確かに拉致は万死に値する絶対悪の犯罪だ。しかし、そのことを言うのであれば、過去の植民地支配はそれ以上に大きな問題であるわけだから、日本としてはその清算をしなければならないのではないのか。日本が過去に朝鮮に対して犯した犯罪にふたをしたまま、拉致のみを強調するということでは、果たして問題の真の解決につながるだろうか。日本が拉致の問題を六者協議で持ち出すならば、日本だけが浮き上がってしまうだろう。今のようにいきり立っている日朝関係をいかに鎮めていくかを考えるとき、六者協議を一つのきっかけとして、まずは一番危険な核問題を平和的に解決しながら、同時に日朝関係を平和的に解決するために、拉致問題を含め、過去の清算を日朝の二国間協議において早急に解決するべきだと考える。それ以外に解決の方法はないだろう。六者協議が順調に進展すれば、米朝関係も好転し、米朝関係が順調に進展すれば、共和国は非核化すると言っており、私としてはそうなることを希望しているし、信じたいと思う。米朝関係は、1953年の休戦協定を平和条約に変えることによって、歯止めが掛かると思うし、米朝関係が好転すれば、日朝関係にも変化が生まれることを期待できよう。米朝、日朝関係が改善することによって、東北アジアの平和非核地帯の創設へと進んでほしいものだ。

2.日本の平和運動と戦争加害の問題

私は、1975年8月に、在日朝鮮人被爆者として初の被爆者団体である広島県朝鮮人被爆者協議会を立ちあげ、その時から一貫して反核平和運動、被爆者救済運動を行ってきた。その中で私が常々思っていることについて、いくつか述べておきたい。

<アメリカの原爆投下責任>

日本の平和運動は、反核平和を言い続けてきたが、アメリカが原爆を作り、日本に原爆を投下したのに、なぜその原爆投下の責任を追求しないのだろう。今回の朝鮮の場合を含め、各国の核実験に対しては抗議してきているのに、アメリカの原爆投下責任についてはなぜ論理的にきちっと追求しないのか。日本は敗戦国で悪かったのだから仕方ない、と受けとめているのか。それとも、敗戦後アメリカにお世話になったから言えない、ということなのか。結局、その責任を問いたださなかったことで、アメリカはいい気になり、核恫喝政策を続け、非核国を脅し続け、核による一極支配の状況にまで来ているのではないか。アメリカがそうなった原因を考えるとき、その責任の一端を日本の平和運動ひいては日本政府も負わなければならないのではないかと考える。

<加害責任問題が欠落した被害者意識>

日本は過去の100年余の間に、大きなものに限っても5つの戦争をしている。日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争そしてアジア・太平洋戦争だ。その5つの戦争のどれ一つとして、相手から挑発、攻撃されて日本がやむを得ず自衛のために受けて立った戦争はない。日本が外に対して仕掛け、しかも他国の領土で、他国の民を犠牲にして始めたものばかりだ。しかもそれらの戦争の性格とは、日清・日露戦争そしてアジア太平洋戦争は日本が奇襲をかけて始めたものであり、満州事変、日中戦争は日本陸軍の謀略によって起こした戦争だった。その戦争によって、アジアにおいて多くの犠牲者を生み出し、日本自身も、広島、長崎を含め、330万人以上の犠牲者を出した。そのことについて戦後なぜか、誰が、何のため、何時、何処で、何をしたかということについて、日本は一度も自己検証をしないまま、いま戦後61年に幕を下ろそうとしている。それは非常に残念なことであり、最大の課題として日本国民が知っておかなければならないことだ。

それに関連して、日本の近現代史は日本の教育の中でまったく教えられていない。平和教育においても戦争による被害者意識を強調しているけれども、「誰による」戦争だったかという主語の部分をことさらに曖昧にしている。

原爆につながる戦争を起こした日本に対しての犠牲者なのか。つまり、日本が戦争を起こしたためにアメリカは原爆を使ったのだから、日本に戦争責任があるというのか。それとも、アメリカが原爆を落としたから自分たちは被害を受けた、という受け止め方をしているのか。そうであるとすれば、なぜアメリカに原爆投下の責任を追求しないのか、という矛盾が出てくるはずだ。日本人の被害者意識においては、そういう肝心な点がまったく欠落している。

<朝鮮人被爆者に対する沈黙>

しかも、その被害者意識の中で「唯一の被爆者」論が展開されている。「唯一の被爆者」論は本当に正しいのだろうか。確かに唯一の被爆国であることは間違いない。核実験による被害国はほかにもあるけれども、原爆投下を受けたのは日本だけだからだ。しかしながら、「唯一の被爆者」と言うのはおかしい。沢山の朝鮮人といくらかの中国人、それに少数ではあったけれども、その他の国々の人たちも被爆している。日本人が「唯一の被爆者」論を展開すると、その他の国々の被爆者が疎外されてしまう。

私が戦後30年目の1975年に在日朝鮮人被爆者の組織を作った当時は、日本人の間で「唯一の被爆者」論が盛んで、在日朝鮮人被爆者の存在感は薄く、私は自分たちのことを「谷間の被爆者」と呼んだ。1977年8月に広島で開催された「NGO被爆問題国際シンポジウム」で、罪のない朝鮮人被爆者の実情を初めて訴え、内外に大きな反響を呼び起こした。それを契機に「唯一の被爆者」論が自らの問題に気づいてくれればよかったのだが、いまだに「唯一の被爆者」論が展開されているので、今日なお日本人との連帯はまだ十分とは言い難い。この問題は早急に是正されなければならない。この問題の根っこには朝鮮人、中国人に対する差別があると言わざるを得ない。

1976年に広島市が国連に対して提出したとされている被爆者対策概要に関する報告では、1945年末までの原爆による死者数として14万±1万人という数字が示された。その数字には、一般市民、軍人、外国人約5000人が含まれているのだが、なぜか朝鮮人・韓国人の数字は含まれていない。広島で被爆した朝鮮人・韓国人は約43000人で、私たちの調査によれば、25000人ないし30000人が死亡したと見られる。私は、公式の場で何度も主張してきたが、その点について放置され、訂正もされないまま、今日に至っているのはなぜだろうか。

<韓国人被爆者慰霊碑>

韓国人被爆者慰霊碑にかかわる歴史的いきさつとしては、韓国人の老人の方たちが、このまま何もせずに死ねば犬死になるから、せめて慰霊碑を建てようということだった。当時の総連系の組織は祖国統一問題に関心が集中しており、原爆とか平和運動に対する関心は低く、被爆者の問題にも目を向けようとしなかった(私が1975年に朝鮮人被爆者の組織を立ちあげたときも、組織の上部からしかられた。「何をぼけたことをいっているのか。今、どんな時期だと思っているのか。すべての力を結集して統一に邁進しようというときに、ほかのところに力量を割いて組織などを作らなくてもいい。統一すれば被爆者の問題も自ずと解決される」と言われた。こうして総連の上層部とトラブルになり、そのことで私は総連の専従を辞め、以後被爆者運動一筋に生きてきた)。しかし韓国系の被爆者が慰霊碑問題に一生懸命に取り組み、当時の広島市長は、平和公園の中に碑を建てることに好意的だった。ところがその後、準備活動、カンパ活動をしているうちに2、3年が過ぎている間に市の方が態度を変え、これ以上碑を建てると公園が墓場になるとして、平和公園内に建てることを拒否したため、1970年4月10日に本川橋のたもとに建てざるを得なかった(この場所が選ばれたのは、当時の第5師団陸軍教育司令部に配属されていた李王朝出身である李偶中佐が出勤途中に相生橋で被爆し、流されて引き上げられた場所であったからだ。韓国人の年寄りの間では李王家に畏敬の念を持つ者が多かったことに由来している)。その後、広島を訪れた平和学習の生徒たちが韓国人、朝鮮人が数多く被爆したことを知り、なぜ慰霊碑がないのかということで探し始め、平和公園の外に慰霊碑があることを知ったのがきっかけで、「どうして」ということになった。当時韓国系の人たちは平和運動をやっていなかったから、語り部もいなかった。そこで、私のところに質問が寄せられることになって、私が以上の事情を話すことになった。その時に私が作った言葉だけれども、「98歩の差別」ということを話した。つまり、本川橋を私の歩幅で渡ると98歩になる。100歩に2歩足りない98歩の差別によって平和公園の中に入れてもらえないのだ、ということを話した。小中高校生たちは、私のその言葉を捉えて、広島市に対して慰霊碑を平和公園の中に移すべきだという運動を起こし、1999年の小渕首相のときにようやく現在の場所に移された(ちなみに、この慰霊碑に線香を手向けたのは、歴代首相の中で小渕氏一人だけだ)。以上の経緯を振り返って思うのだが、朝鮮人被爆者の問題に対する取り組みを改善するべく、市そのものに改善すべき課題があると常々考えている。問題を一つ一つ解決することによって、広島市民と共和国、韓国との関係もよくなるのではないだろうか。平和教育の中でもそういうことを取り上げていくことによって、相互理解が深まるだろう。私の自伝でもある『プライド』のテーマは、「共生への道」としたサブタイトルにもあるように、違ったもの同士が偏見なく共生できないかという問題意識に立っている。違いを認め合い、乗りこえ、痛みを分かち合うことによって、共生が実現するのではないだろうか。

ちなみに、現在の碑は韓国系の被爆者によって建てられたものであり、統一碑を作るか、それとも二つの碑を作るかという考え方がある。前者の場合は、現在の碑をどうするか、という難しい問題に直面する。朝鮮の習慣では、現在の碑をなくすとすれば穴を掘って埋めて、その上に新しい碑を建てるということになるのだが、埋めるということには韓国系の人々の気持ちが許さない。では別々に碑を建てるかということになるが、それは朝鮮半島の分断を固定化することにもなるし、建てた後誰が管理するかという問題も考えなければならなくなる。ということで、今のままで行こうという結論に落ち着いている。毎年8月5日に碑前祭が行われ、私も、今年はやむを得ない事情があって欠席したが、例年出席することにしている。

3.高暮ダム追悼碑

高暮ダム追悼碑建設は、私が歩んできた在日半世紀の活動の中で、「共生への第一歩」として位置づけられる出来事だ。枕崎台風で犠牲になった人たちを掘り起こした詩人の深川宗俊氏と一緒に、被爆者問題だけでなく、広島の史実を掘り起こそうということから、彼が高暮ダムに沢山の朝鮮人が強制連行で犠牲になったらしい、という話を持ち込んできて、一緒に行ってみたのがきっかけだった。三次に県北史を調べている藤村耕市氏がいて、彼に案内してもらって現地に出かけた。高暮ダムは、広島県庄原市高野町を流れる神野瀬川上流に、1940年に始まった電力不足解消を目指した工事だが、強制連行された2000人の朝鮮人労働者が労働を強いられ、堰堤に生き埋めになったものを含め、かなりの人数が犠牲になった。その史実を放置せず、事実を世に知らしめることを目的にしてパンフレットを作ったのだが、ダムには多くの霊が眠っていることを考え、1993年に「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑建設運動」をスタートさせた。広島県高校生ゼミナールのメンバーによる街頭募金活動をはじめ、地元や広島市内からの募金もあって目標額約500万円が集まり、共和国から入ってきていた碑石を手に入れ、三次で碑名などを刻み、1995年7月に盛大な除幕式を行った。

以後毎年7月又は8月に碑前祭を行っており、地元の人たちが自発的に来て供花、焼香をしてくれている。碑前祭に際しては、庄原市議の田中五郎氏が先頭に立って、まわりの草木を刈ってくれている。碑前祭には、朝鮮女性同盟の人や、平和ゼミナールという組織の呼びかけに応え、全国から日本の高校生(今年は30人前後)と広島の朝鮮人高校生の代表が参加し、地元の人々と行動を共にし、碑前で平和の誓いを読み上げ、その後は「憩いの村」に集まって、持ち寄った食事を一緒にして交流することになっている。

追悼碑が建っている場所についても次のような話がある。その土地は元々中国電力の所有地だった。そこに碑を建てるということで交渉したのだが、中国電力側は、過去の非を認めることになるという理由で拒否した。そこで、その土地を高野町に提供することはどうか、高野町が土地を提供し、碑を建てることになった場合には干渉しないか、と交渉したところ、土地提供の用意あり、碑建立にも干渉しないとの回答を得た。そして、当時の高野町長だった田中五郎氏などは、積極的に追悼碑建設に協力することを応じてくれた。このような地元の積極的・好意的姿勢は、建設当時の歴史を知っているから蔑視、差別感情がないことによるものだ。去年(2005年)に一部の地元の代表が挨拶の中で拉致問題を言い出したが、それは悪い意味でではなく、「拉致をあげつらうものは、このダムに来て2000人もの朝鮮人が強制連行されてきた史実を見てみろ」という趣旨だった。過去を知れば、共生は十分可能だということを証明している。マスコミも、今年は、広島テレビのカメラマンが三次出身だったこともあるが、取材し、テレビで放映した。しかし、もっと広げなければならないと考えている。

(浅井注:強制連行された朝鮮人の犠牲者を追悼する市民の自発的な運動としては、舞鶴市市民の手で1978年8月に建立・除幕式が行われ、それ以後毎年慰霊祭が行われている浮島丸殉難者追悼の碑のケースがあるが、高暮ダム追悼碑のケースは、私の知る限り、全国で2番目である。)