広島県被爆者団体協議会理事長:坪井直氏インタビュー

2006.09.20

先般、広島県被爆者団体協議会理事長の坪井直氏にインタビューする機会がありました。以下は、そのまとめです。

1.被団協の歩みと活動

2006年は、広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)、次いで日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成されて50周年になる。被団協における活動は、一貫して被爆者援護法と核兵器廃絶の2本立てだった。

広島県被団協の理事長は、自分が4代目ということになる。初代は森瀧市郎氏で、92歳で亡くなる1994年まで38年間理事長を務めた。食うや食わずの貧しい被爆者が一般的であり、被爆者援護を求める声が強かった中で、森瀧氏は、核廃絶を重視し、外国との交流に力を入れる人だった。

第2代理事長には、県被団協の事務局長を永年務めていた伊藤サカヱ氏(女性)が就任し、2000年に88歳で死去するまで6年間その職にあった。日本被団協の代表委員も務めた。第3代理事長には藤川一人氏が就任したが、4年たった2004年に辞任し、後任として私(坪井)が理事長になった(日本被団協代表委員も兼務)。

県被団協の活動として私が重視するのは、常に被爆者が考えていることを念頭に置きつつ活動しなければならない、ということだ。「坪井が言うんだからやろう」という庶民的、日本人的感覚の被爆者を大切にしている。

最初に取り組んだのが2002年から1年ぐらいかけた色紙運動だった。その目的は、被爆者たちが関心を持って物事に取り組むことを促すことにあり、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にお願いしてその色紙を祈念館に永久保存し、さらにデータベース化するということまで約束していただき、それまでバラバラだった被爆者の気持ちに求心力が出て、気持ちがいっそう通じ合えた。

2006年からは3年計画で、「原爆投下後の空白10年間を追う被爆者によるアンケート」活動を開始した。被団協ができたのは被爆後11年目であり、その間の10年間は被爆者にとって空白の期間だ。アンケート用紙に記したとおり、「被爆後の10年間における貴重な真実の生きざまは、被爆者の原点」という認識に立って、「その記録を残し、後世の方々への…(略)…道標」とすることを目指している。

初年度の今年のアンケートは、日常生活上の不安、結婚上の障害、性格の変化、周囲とのかかわり、教育制度と学力不足の不安、被爆者の会がなかった時代の相談、被爆者救済の責任、空白の10年間で失ったもの・得たものなど、20項目からなっており、病気で伏せている被爆者でも代筆で答えられるよう、該当する箇所に丸印を付ければ済むという形にしている。2年目には、回答者を選んで記述式でのアンケートを行い、3年目には冊子をまとめる予定だ。冊子の出版には、被爆者援護法による慰霊事業として、費用の70〜80%を国の助成金に頼ることにする。

色紙活動にせよ、アンケート調査にせよ、重要なことは被爆者の心をつかむことであり、活動の基本方針は励まし合う気持ちを持って事に臨むということだ。被団協は運動体であり、私自身が運動家であると自認している。虐げられた人々に対する思いやり、気遣いにおいては人後に落ちないという自負があり、そういう気持ち、精神が活動の支えになっているから、逆境でも落ち込むということは少ない。

政治・政党との関係に関しては、不偏不党ということであり、例えば陳情をするときには、すべての政党に対して等しく行う。確かに、物事は政治が動かなければ変わらない、と思うこともある。しかし現実問題として、県被団協の54の支部の中には、支部長・会長が自民党議員の後援会長や新社会党員であることもあるし、市議会議員であるケースもある。そういう組織をまとめていくためには、政治・政党との関係には慎重にならざるを得ない。

2.広島・ヒロシマの思想について

「広島」なのか、「ヒロシマ」が適当なのか、という問題に関しては、「ヒロシマ」が適当だと思う。確かに、原爆が落ちるまで、地理的な意味、軍都として呼ぶときなど、「広島」でいい場合もあるが、未来志向で考えるときはやはり「ヒロシマ」だろう。私を支えているのは未来である。だから、総じていえば、「ヒロシマの思想」がふさわしいと思う。

「ヒロシマの思想」の重要な内容である「ノー・モア・ヒロシマ」、すなわち核廃絶か核兵器廃絶かに関していえば、個人的には核廃絶の必要性を考えている。すなわち、原子力発電は安全だというが、チェルノブイリでも明らかなように、完全防護はできないし、原爆よりも長期にわたる影響が続くことを考えれば、原爆よりさらに危険な面がある。しかし、組織体の被団協としては、原発(原子力の平和利用)について肯定的な立場をとる平和団体との友好関係も考慮し、核兵器廃絶に絞って主張している。

同じく「ヒロシマの思想」の重要な内容である「ノー・モア・ウォー」、すなわち平和憲法、特に第9条に関していえば、個人的には、第9条は世界の憲法と思っているし、現在の改憲への動きにはらわたが煮えくりかえっている。さまざまな護憲の運動にも、被爆者・坪井直としてかかわっている。しかし、被団協としては、先ほども述べたように、政治にはかかわらないという原則が働くことになる。

「ヒロシマの思想」といえば、どうしてもナガサキとの関係が問題になる。かつては、「怒りのヒロシマ」「祈りのナガサキ」と言われ、ヒロシマは行動的、積極的であり、アメリカを目の敵にし、許さない、憎いという感情もあった。それに比べてナガサキは耐え、許すという面が確かにあったと思う。

しかし、このように対比できる状況があったのはせいぜい1980年代までだ。今日ではヒロシマとナガサキを区別する意味はなくなっている。むしろナガサキは、被爆2世問題に真剣に取り組むとか、韓国に出かけて在韓被爆者との交流を進めるとか、問題によってはヒロシマよりも積極的に活動している。

「ヒロシマの思想」を世界に対してどのように訴えるかという課題に関しては、3つの柱を考えている。一つは、連続して大量に訴える、ということ。何周年の際に断続的に、ということではなく、次から次への「訴えの波及効果」により世論を涵養(かんよう)することが重要だ。そのためには、青年海外協力隊のように、国が助成金を出すぐらいに踏み込んでもらいたい。

第2の柱は、メディア・情報手段を駆使すること。DVD、写真集など、視覚に迫るものを大量に持っていくことだ。現物に勝るものはない。そして第3の柱は、土壌・雰囲気・世論作り。核兵器の恐ろしさ、悲惨さが伝わっておらず、思想的にカラカラな地域は、世界中になお数多い。そういう地域に対する働きかけを強める。そうすれば、核兵器廃絶の国際世論が急速に高まることが期待できる。

3.広島・日本に対する考察

保守王国・広島の状況に対しては、どう働きかけてもよくならない。なぜそうなのかは私にもよく分からないし、一貫して私自身に対する問いかけでもある。

いろいろな説明はできる。戦国時代から安芸の国は日和見的だった。温暖で地震も少ないという風土的な事情から、冒険的でなく、進取の気性もないともいわれる。また、軍都ということで、お上が鉄道も敷いてくれ、日清、日露戦争をはじめ、戦争で勝って「広島は良いところ」ということになってしまった事情も考えられる。原爆投下を受けて、広島が変わりかけたことは、革新系の国会議員が出たことにも見られるが、それもいつの間にか元に戻ってしまった。

日本の右傾化の流れに関しては、日本では「右」はすぐに暴力、テロに結びつくところが問題だ。「文句を言わせない」「問答無用」の風潮が強まることを心配せざるを得ない。

日本全体を健全な方向に引き戻すためには、全国民的に教養を高めることが重要で、時間はかかるが、国民的教養を高めるには教育の力しかないと思う。したがって、教育を国家の意図するようなややもすれば狭く、限られた方向に持っていこうとする動きに対しては、私たちが反対していかなければならない。この問題は、被爆者だからという次元の問題ではなく、国民的な課題として考える必要がある。